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城012 松代城(1) 真田勝鬨太鼓 (長野県・百名城26番、平城)

2016-01-23 23:40:43 | 訪城記
こんにちわ、くまドンです。

 新年のあいさつ以来となりますが、今回は、真田関連の城として、長野県・長野市松代町の松代城(まつしろじょう)の話になります。
 松代城は、戦国時代の頃は海津城(かいづじょう)と呼ばれて、「甲斐の虎」と呼ばれる武田信玄(たけだしんげん)と「越後の龍」と呼ばれる上杉謙信(うえすぎけんしn)の間で数回の行われた「川中島の戦い」の戦場となった場所にあります。海津城は武田方の要(かなめ)の城でした。
 松代城には、初めて訪問したのは随分と昔でしたが、家族旅行で「川中島の戦い」や松代の歴史に関する所を見てまわりました。家族旅行だったのでブログに載せる写真を撮影していませんでした。その時は、松代城の本丸は改修工事中だったので、工事中の本丸と水を抜いた空掘(からぼり)を見て帰る事になりました・・・・(汗)

 数年前に松代の近くに来た時に、2度目の松代城訪問をした時の写真が、下の写真です。前回の工事中の城と違い、きれいに整備された城門や石垣、掘を見る事ができました。

 江戸時代は、真田・松代藩・13万石の居城です。城の見学していると、ちょうど、当日は「真田十万石まつり(毎年10月頃)」の日だったのですが、この日のメインは道の駅スタンプラリー中だった上に、当日の宿がゴンドラの上にある為、時刻の制約があり、見ている時間がありませんでした。
 (このときは、「くまどん」は、真田陣太鼓のことすら知らなかったのですが・・・・)

 翌年、以前のブログに書いてある様に上田城訪問する時に真田陣太鼓の演奏があるので、上田城行ってみると・・・・
 演奏プログラム開始の大きな爆音と煙の中から真田陣太鼓の人達と一緒に現れたのが、この人達です。

 幟(のぼり)に「真田勝鬨太鼓」と書いてありますが、江戸時代から続く松代の伝統芸能です。
 まさか・・・・翌年、隣の上田城に行って、松代の「真田勝鬨太鼓」を見るとは思っていませんでした・・・・・・!!!


 「真田勝鬨太鼓」の由来(ゆらい)は、遠く800年以上前の鎌倉時代にまで遡る(さかのぼる)らしく、鎌倉幕府・初代将軍の源頼朝(みなもとのよりとも)の御家人(ごけにん)で、「弓馬四天王」の一人として名が高かった海野幸氏(うんのゆきうじ)の源平の戦いの活躍が元になっているそうです。
 海野氏は、信濃(現在の長野県)東部を中心に勢力を持っており、この海野氏から真田家に伝わり、現在に続いているそうです。



(1)信濃松代藩の初代藩主は真田信之(さなだのぶゆき、信幸)で、真田昌幸(さなだまさゆき)の長男になります。
 真田昌幸は、武田家の上州(現在の群馬県)や信濃東部方面を担当する武将で、当時は、岩櫃城(いわびつじょう)の城主でした。武田家の時代には、真田信之は真田家の長男ということで、武田家の人質として過ごします。



(2)戦国時代の荒波は、真田家にも襲いかかります。天正10年(西暦1582年)に武田家が織田信長(おだのぶなが)によって滅ぼされると、真田家の周辺は、大きな領地を持つ戦国大名(織田、上杉、北条)に囲まれる状態になりました。真田家は、いずれかの勢力につくことで家を存続させる必要に迫られます。ここで、織田家に従属したのですが、なんと!わずか3カ月で織田信長が本能寺の変(ほんのうじのへん)で横死してしまいます。

 驚いた事に、真田信之と前田慶次(まえだけいじ、前田利益)とは懇意(こんい)の仲だったそうです!
 この時、前田慶次(利益)は織田軍の滝川勢の先方となっており、信長の死も前田慶次(利益)から聞かされたという話です。その時、真田信之は大将として軍勢を率いて進んでいたが、敵か味方かも不明な真田軍を相手に信長の死を明かした豪放(ごうほう)な慶次(利益)の態度に感心し、軍勢を引き上げたそうです。
 (この話は、真田信之の人柄の一側面を見る事ができるような気がします。

 再び、徳川・上杉・北条の3勢力による混乱の時代に戻り、真田家は生き残りの為に知略をつくして奮戦・勢力を拡大することになります。こうした中、天正11年には、千曲川方面の守りとして、上田城を築いています。

 力強い演奏と激しい動きで、迫力はありますが、撮影もブレ気味です。


(3)真田信之は、真田家の武士の長男として、十分有能だったようです。
 知略家として有名な父・昌幸や「真田十勇士」の話となった弟・真田幸村(信繁)に比べて、今一つ影が薄いイメージですが、この時代でも、父・昌幸と共に多くの戦いに参加して奮戦います。
 真田家と徳川家の戦いとなった第一次・上田城合戦(天正13年、真田・約2000×徳川・約7000)でも、父・昌幸が上田城を守り、徳川軍を城の二ノ丸まで引き込んで撃退したタイミングに合わせて、後方の戸石城(といしじょう)からも側面攻撃で混乱させるなど、優秀な戦いぶりを発揮しています。
 真田信之は沈着冷静な武将のイメージがありますが、戦の時には総大将でも常に先陣を切って進む勇猛さも持ち合わせていたようです。
 (総大将としては失格のような気がします。小勢力の大将だから、味方を鼓舞しなければならないのは分かりますが、よく毎回無事だったものだと思います・・・・)


 逆に言えば、いつその命を落とすか分からない戦乱の時代で、負ける事無く、生きて帰ってくれば家族も嬉しいのは、源平の時代も戦国時代も変わらないのでしょうね・・・・


(4)次男の真田幸村(信繁)は、第一次上田城合戦では上杉家の人質として海津城(松代城)送られていました。父・昌幸が上杉家の援軍を頼む為に、幸村(信繁)はさらに上杉家の本拠地・春日山城へ移動となります。
 その後の同じ天正13年に、昌幸は、なんと、上杉家の家臣から豊臣秀吉(とよとみひでよし)の家臣に鞍替えしてしまいます・・・・。
 幸村(信繁)は上杉家から隙を見て抜けだし、豊臣秀吉のいる大阪城で、また人質となります。
 上杉家の当主・上杉景勝(うえすぎかげかつ)は怒りましたが、景勝は豊臣秀吉に臣従していますので、あきらめざるをえませんでした。



(5)天正17年になると、豊臣秀吉の裁定により、徳川家康(とくがわいえやす)との和睦が成立すると、真田家は徳川氏の与力大名(この時代では、秀吉から徳川家に加勢するように付けられた武将を意味する)となります。
 長男・真田信幸の合戦で活躍が高く評価され、家康は「徳川四天王」の本多忠勝(ほんだただかつ)の娘・小松姫(こまつひめ)を養女にして結婚させます。
 この過程で、父・昌幸は上田城主として、豊臣家に仕え、長男・信之は沼田城主として徳川家に仕える形となります。この事が、長男・信之と次男・幸村(信繁)との将来の運命を分ける事になります。



(6)そして、慶長5年(西暦1600年)天下分け目の決戦となった関ヶ原の戦いにおいて、
 長男・信之が徳川方(東軍)、父・昌幸と次男・幸村(信繁、妻が西軍・大谷吉継の娘)は石田三成(西軍)方と分かれて戦う事になります。
 ここで、父・昌幸が守る上田城を、通過した徳川軍(大将は徳川秀忠)が攻撃することとなります。ここに第二次・上田城合戦が始まります。まず、徳川軍は次男・幸村(信繁)の守る支城の戸石城(といしじょう)を攻める事になりますが、攻め手は前回の守り手だった長男・信之です。結局、真田同士の争いを避け、兄・信之に城を明け渡して、弟・幸村(信繁)は上田城に撤退します。
 次男・幸村の本名は信繁(のぶしげ)ですが、この名前は、兄・武田信玄を補佐し、海津城(松代城)の近くで行われた川中島の合戦で戦死した弟の武田信繁の名にあやかったと説があるように、兄・信之を助ける結果となりました。



(7)関ヶ原の戦いは東軍の勝利と終わり、長男・信之や義父・本多忠勝から家康への嘆願により、なんとか父・昌幸と弟・幸村は死罪を許され、九度山への幽閉となりました。
 大阪の夏の陣も終わり、徳川の世となったことを見た家康は安心するかのように永眠(死亡)します。
 2代将軍・秀忠の元和8年(西暦1622年)に、長男・信之は上田藩9万5000石から松代藩13万石に加増移封されます。(信之自身は相当不満だったらしいです)
 長男・信之の生涯の前半は、父・昌幸を助けて、戦に奮戦しました。そして、人生の後半は、真田家を守る為に、徳川家家臣として忍従の姿勢を貫きました。
 次男・幸村(信繁)はの生涯の前半は、真田家の為の人質人生で武人として戦にでることもできませんでした。そして、人生最後の戦となる大阪夏の陣で、華々しい「真田日本一の兵」という言葉を残し、戦国時代の「あだ花」のようにその命を散らしていきました。
 この兄弟の人生の対比は、戦国という荒波の時代に生まれ、天下人の覇権争いを経て、安定の江戸時代が始まるまで時代を生きた武人の表と裏の関係を見ているのかもしれません・・・・・・




(1)真田関連で過去に作成したブログは以下の通りでうす。(クリックすると、そのブログに飛びます)
 「城011 上田城・真田陣太鼓(1) (長野県・百名城27番、平城)」
 「城011 上田城・真田陣太鼓(2) (長野県・百名城27番、平城)」
 「城011 上田城・真田陣太鼓(3) (長野県・百名城27番、平城)」
 「城011 上田城・真田陣太鼓(4) (長野県・百名城27番、平城)」
 「城012 松代城(1) 真田勝鬨太鼓 (長野県・百名城26番、平城)」 今回のブログです。

(2)前田慶次の城は、以下のブログです。
 「城010 阿尾城 (富山県、山城) 前田慶次の城」

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 仕事も忙しかったのですが、以下の問題が気になって、真田の城の続きが遅くなりました。
 新年のあいさつのブログを作った後の休みの日に、真田の城のブログを作る前に、気晴らしで久しぶりに葛西臨海公園に野鳥を見に行ってみたら、あれだけいたスズガモの大群がほとんどいませんでした。
 ブログを書こうと思いましたが、昨年からろくでもない政治を散々魅せられてきましたが、新年から行政に対する怒りで思うようにブログが進みませんでした(努!!!)。脱線ですが、今年も消費税増税反対・そのた諸々です。
 新年早々のお城ブログで政治の話をするのは、ここまでは、先に進まないので、松代城のブログを先に作る事にしました。いずれにしても、作るペースは今後も遅そうです。

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城011 上田城・真田陣太鼓(4) (長野県・百名城27番、平城)

2015-11-24 00:20:33 | 訪城記
こんにちわ、くまドンです。

 今回で長野県・上田市(うえだし)の上田城(うえだじょう)は最後となりますが、枚数が少ないので、上田城の写真を追加で並べておきます。
 下の写真は上田城の西櫓です。

 真田十勇士(さなだじゅうゆうし)の猿飛佐助(さるとびさすけ)や霧隠才蔵(きりがくれさいぞう)などの幟(のぼり)もはためいていました。
 櫓門の窓から見下ろすと、真田陣太鼓の準備をしていました。


 真田陣太鼓の風景も入れておきます。。





 上の写真が上田城の「次回予告」で使用した写真ですが、下の写真がその続きの写真です。

 真田六文銭の後に続いて、先頭を歩いてきたのが上田市長です。5年前の写真ですが、調べてみたら、今も現・上田市長です。同時に月日の流れも感じますが・・・

 5年前の撮影で最後まで演奏を見ていたら、上田市長が「真田幸村を大河ドラマにしよう!」と言葉と共に、その場にいた全員が「おー!」と気勢を上げるのに付き合う事になりましたが、ついに来年・平成28年から真田幸村が主役の「真田丸」が始まることになりました。上田市長や上田市の皆様も大喜びのことでしょう。

 お城周りをしていると、「○○○○を大河ドラマに!」という署名を頼まれることが多かったですが、中には「大河ドラマさえあれば大丈夫だ!」と思い込んでいるような人もいて、「それよりも普段の努力の方が大事なのでは・・・」と思い、冷たいようですが、署名とかは協力しないようにしています。
 というわけで、「真田幸村を大河ドラマにしよう!」で気勢を上げるのは、あまり気が進まなかったのです。
 (真田幸村は人気のある武将だったので、そのうち、いつかは大河ドラマになるとは思ってはいましたが)

 「くまドン」も昔は真田十勇士関連のマンガを見たりしていましたから、当然、真田幸村も好きな武将の一人であり、元々、かなり人気が高い武将ですから、問題は無いかもしれませんが、
 来年は大河ドラマの年ですから、多くの人が訪れることでしょう。大河ドラマの効果も放送の年が最大で、3年程度で消えて行くと聞くこともあります。ある意味、観光需要の先食いと考えることができます。
 上田市長や市民の方々も、「勝って兜の緒(かぶとのお)を締めよ」の言葉通り、一時的なブームで観光客増加が発生しても、それに気を緩めることなく、健全な市政と財政運営で、上田市民の生活をしっかりと守って欲しいと思います。

 最後に、先陣切って演奏していた子供達の真田陣太鼓の写真を終わります。


 もう一つ、真田陣太鼓の演奏があったのですが、これは、また別の城の話で載せる事にします。


 真田関連で過去に作成したブログは以下の通りでうす。(クリックすると、そのブログに飛びます)
 「城011 上田城・真田陣太鼓(1) (長野県・百名城27番、平城)」
 「城011 上田城・真田陣太鼓(2) (長野県・百名城27番、平城)」
 「城011 上田城・真田陣太鼓(3) (長野県・百名城27番、平城)」
 「城011 上田城・真田陣太鼓(4) (長野県・百名城27番、平城)」 今回のブログです。

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 やっと、ブログ作成の時間ができて、上田城の最終回ができました。
 11月中に真田関連の城を終わらせたかったのですが、思うようにブログ作成が進みませんでした。
 12月は新国立競技場のコンペもありますので、次回から、また脱線します。
 真田関連の城の話の続きは正月にさせていただきます。
 (大河ドラマ「真田丸」が始まってしまいますが・・・・)

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城011 上田城・真田陣太鼓(3) (長野県・百名城27番、平城)

2015-11-14 09:30:52 | 訪城記
こんにちわ、くまドンです。

 今回は、長野県・上田市(うえだし)の上田城(うえだじょう)を訪城した時の話の続きです。
 下の写真は、上田城の二ノ丸の風景です。

 江戸時代の2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の元和8年(西暦1622年)に、徳川方に味方した真田信之(さなだのぶゆき)は、上田藩9万5千石から松代藩13万石に加増・移封されます。(領地は上州・沼田領3万5千石を含みます)
 続いて、東にある小諸藩(こもろはん)5万石の藩主だった仙石忠政(せんごくただまさ)が上田藩・6万石に加増・移封されてきます。関ヶ原の戦いの後で、櫓(やぐら)などの建造物も壊され、濠(ほり)も全て埋め立てられていた状態でしたが、仙石忠政が亡くなる寛永5年(西暦1628年)までに、上田城の大改修を行い、真田時代の濠を再度掘り直し、櫓も7基も建造したそうです。忠政の死後は上田城の改修は行われなくなりましたので、現在の櫓や濠は、仙石家時代に再建されたものだそうです。
 その後、仙石家は、但馬(たじま)・出石藩(いずしはん)に移封となり、徳川一族の藤井松平家(ふじいまつだいらけ)が治める藩になります。この藤井松平家は、徳川家康の4代前の松平長親(まつだいらながちか)を同じ祖先とする親類筋にあたるそうです。

 上田城の二ノ丸・東側にある外堀です。現在は樹齢100年を超えるケヤキ並木がある遊歩道となっています。

 昭和2年に真田方面行きの電車の線路(上田温泉電軌(株)北東線)が外掘の中に敷設されて、写真右奥の橋の下には、公会堂下駅(公園前駅)があったそうです。(昭和47年廃線)

 幕末(江戸時代末期)の上田藩は、最後の藩主である松平忠礼(まつだいらただなり)が10歳で上田藩を相続したため、藩内抗争で混乱していたそうです。藩主となった安政6年(西暦1859年)から10年間の間に時代は激動し、
 慶応3年10月に大政奉還(たいせいほうかん)、12月に徳川慶喜(よしのぶ)が征夷大将軍職辞職(=徳川幕府の終わり)、
 慶応4年(明治元年、西暦1868年)になると、戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まり、1月に鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)で幕府軍が官軍に敗北。徳川慶喜に戻る。3月に官軍側の西郷隆盛(さいごうたかもり)と幕府の勝海舟(かつかいしゅう)との会談により、江戸無血開城と進んでいきます。
 その後、上田藩は明治新政府側に恭順して、北越戦争(長岡藩)、会津戦争(奥羽越列藩同盟)に出兵します。
 下の石碑は、上田城の本丸にある「戊辰役上田藩従軍記念碑」です。

 明治4年になると、廃藩置県(はいはんちけん)により、上田藩の歴史は幕を閉じます。

 上田城の二ノ丸・北側にある「招魂社」です。戊辰戦争以後の戦死者を祀るための神社(大正12年設立)です。


 仙石氏の時代に、櫓(やぐら)が7つと櫓門が2つ造られましたが、江戸時代に本丸に天守は造られませんでした。(真田時代は不明)
 下の写真は上田城の南櫓から櫓門(平成6年復元)と北櫓を眺めた風景です。

 明治6年に上田城の土地・建物を旧藩士に払い下げになったそうですが、買い手が見つからず、最後はたたき売り状態となり、南櫓と北櫓は一基6円で売却されて、遊郭(ゆうかく)として移築されていきました・・・・
 南櫓と北路の2基の櫓は、昭和16年に転売されそうになった所を、市民運動により、翌年、1,800円で買い戻されて、昭和24年に現在の位置に移築復元されました。

【昔の1円の価値】
 正確な所は不明ですが、調べてみた所、
 明治時代初め頃の1円は、現在の1万円~2万円程にあたるそうです。
 昭和16年頃の1円でも、現在の5千円程の価値があるそうです。
 その他に、消費者物価等の統計資料(図録)では、明治6年を100とすると、昭和16年で693になりますので、この間に1円の価値は1/7程度になっています。
 (この当時は、円の通貨単位の下に銭(せん、1円=100銭)と通貨単位がありました。)

 下の写真は櫓門(平成6年復元)内部の柱と屋根です。


 3基の現存する櫓の中で、唯一解体されずに残った西櫓は、江戸時代からの材木・生糸商人であった丸山平八郎直養(なおよし)が本丸の土地と共に買い取っています。
 明治も10年以上過ぎると、時代も落ち着いてきたのか、上田旧藩士から上田藩主の松平氏を祀る「松平(しょうへい)神社」が建てようとする動きがでてきます。

 息子の丸山平八郎直義(なおよし)の時代に、明治12年に本丸の土地が、明治22年に西櫓が、最後の藩主・松平忠礼に無償で返還されました。そして、上田城公園の原型となっていきます。
 上の写真の神社正面の建物が拝殿(はいでん)のようです。「真田井戸」のある神社の裏に回ると、本殿(ほんでん、神霊を宿した神体を安置する社殿)があります。

 昭和28年になると、真田、仙石、松平の歴代上田城主を合祀するようになり、「上田神社」と名称が変わります。
 さらに、「真田十勇士(さなだじゅうゆうし)」などの話が人気となり、昭和38年には、ついには名前が「真田神社」となってしまいます・・・・・(汗)
 上田城の有名な大きな真田六文銭(六連銭)の兜(かぶと)です。


 最後は真田の兜と同じ赤色の紅葉の写真です。


 真田関連で過去に作成したブログは以下の通りでうす。(クリックすると、そのブログに飛びます)
 「城011 上田城・真田陣太鼓(1) (長野県・百名城27番、平城)」
 「城011 上田城・真田陣太鼓(2) (長野県・百名城27番、平城)」
 「城011 上田城・真田陣太鼓(3) (長野県・百名城27番、平城)」 今回のブログです。

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 次で上田城の話は最後になります。

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城011 上田城・真田陣太鼓(2) (長野県・百名城27番、平城)

2015-11-07 00:00:50 | 訪城記
こんにちわ、くまドンです。

 今回は、長野県・上田市(うえだし)の上田城(うえだじょう)を訪城した時の話の続きです。
 上田城は、安土桃山時代の天正11年(西暦1853年)に、甲斐武田氏の旧臣である真田昌幸(さなだ まさゆき)が築城したのが始まりです。
 下の地図は上田城の案内図です。現在の公園は、上田城の本丸と二ノ丸の部分が残っています。

 上田市内の真中には、東西に千曲川(ちくまがわ)が流れています。千曲川は長野県側の呼び名で、新潟県に入ると、信濃川(しなのがわ)と名前を変えます。信濃川と言えば、日本で一番長い川で、その流域面積は日本で3番目です。上田市内は、千曲川の流れによってできた河岸段丘が何段もあります。
 真田昌幸は、この地の河岸段丘の地形に利用して、千曲川の分流である尼ヶ淵の河岸段丘を利用して、上田城の南の守りとしました。
 下の写真で言えば、手前の広場が千曲川の分流である尼ヶ淵、現在の石垣のある所が、河岸段丘のあった所となりますでしょうか。真田時代の上田城は石垣は無く、関ヶ原の戦いの後に上田城主となった仙石忠政(せんごくただまさ)の時代の石垣だそうです。

 石垣の上に見えるのは西櫓です。真田昌幸の時代にも櫓(やぐら)があったそうですが、関ヶ原の戦い後に上田城の建造物はすべて壊し、濠(ほり)も埋めてしまいましたので、当時の建造物は何も残っていないそうです。
 下の写真は、本丸から千曲川の分流である尼ヶ淵を見下ろした現在の景色です。

 現代の千曲川は堤防により仕切られ、町並みが続いていますが、江戸時代の頃は、眼下に千曲川の分流である尼ヶ淵の水が流れ、その先には千曲川の広い河川敷が広がっていた分けです。

 下の写真は上田城の二ノ丸・北虎口(こぐち)ですが、その外側に外濠(そとぼり)がありました。

 さらに、その先には城の北から西に流れて、千曲川に合流する矢出沢川が濠の役目をする守りとなっていました。
 この為、南・西・北の守りは堅く、上田城を攻めた徳川軍も東側から攻撃を行っていますが、守る側も東側にある蛭沢川や湿地帯を利用して防御を工夫してあり、結果的には、二度も数に勝る徳川軍の攻撃に対して、守りきる事に成功しています。

 真田昌幸の長男・真田信之(さなだのぶゆき)は徳川方(東軍)に味方した為、3万石加増で真田家の領地を引き継ぐ事になりましたが、上田城は廃城となり、真田信之は、三の丸跡地に居館に住む事になります。
 その後、豊臣方(西軍)だった父・真田昌幸の助命を嘆願し、義父の本多忠勝(ほんだただかつ、徳川四天王)の働きかけもあり、昌幸らは助命され紀伊九度山へ流罪となります。

 その後、真田信之は上田藩から松代藩(まつしろはん、現在の長野県・長野市松代町)に移封となり、代わりに仙石忠政(せんごくただまさ)が上田藩主となり、上田城の再建が行われます。
 上田城の有名な「真田石」と呼ばれる大きな石垣(直径3m)です。

 石垣は「打込み接ぎ(うちこみはぎ)」と言われる積み方です。石垣の表面に出る石の角や面を削り、なるべく平たくして、石同士の接合面に隙間を減らして積み上げる方法です。隙間には小さな石が埋められています。
 関ヶ原の戦い以降に盛んに用いられた手法です。

 下の写真は、本丸を囲む内濠です。一度埋められた濠も、仙石忠政の時代に再度掘り返して利用されています。


 下の写真は、本丸土塁(どるい)の鬼門(きもん、北東の方向)除けとして、北東隅を内側に切り込んだ隅欠(すみかき)です。仙石時代は隅欠の両脇に隅櫓が2基建てられていました。



【上田城けやき並木紅葉まつり】
期間: 平成27年10月31日(土)~11月8日(日) 上田城のけやき並木がライトアップ(紅葉の状態で変更あり)
 11/7(土)・8(日)は「甲冑試着体験(無料、子ども甲冑あり)」と乗馬体験(有料)があるようですけど、
 天気予報は、11/7(土)は曇り、11/8(日)は雨ですね・・・・・

 後方見えるのは、上田城・本丸の西櫓です。明治時代になって、本丸の他の櫓は民間に解体・売却されてしまいましたが、何故かこの西櫓のみ売却されずに残った現存櫓です。

 真田関連で過去に作成したブログは以下の通りでうす。(クリックすると、そのブログに飛びます)
 「城011 上田城・真田陣太鼓(1) (長野県・百名城27番、平城)」
 「城011 上田城・真田陣太鼓(2) (長野県・百名城27番、平城)」 今回のブログです。
 「城011 上田城・真田陣太鼓(3) (長野県・百名城27番、平城)」

 お城周りは、遠い所が多いので、GWや夏休などの長期休暇の時にまとめて回っていた為、イベントのある時に訪城したのは、上田城だけです。
 元々、名所江戸百景の現代版の作品(ブログ)を作る為に、イベントに合わせて撮影に行っていたので、ブログ作る時についでに、イベントの紹介をしていただけです。なんとなく、イベント紹介ブログと勘違いされている可能性もあるかもしれませんが、今後は、特にイベントに関係なく、自由にブログを作成して行く事になるかと思います。

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 なかなか、思うようにブログを作成できずに焦りました。次も上田城の続きです。

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城011 上田城・真田陣太鼓(1) (長野県・百名城27番、平城)

2015-10-29 12:25:03 | 訪城記
こんにちわ、くまドンです。

 今回は、長野県・上田市(うえだし)の上田城(うえだじょう)を訪城した時の写真です。上田城は、安土桃山時代の天正11年(西暦1853年)に、甲斐武田氏の旧臣である真田昌幸(さなだ まさゆき)が築城したのが始まりです。
 あれから5年の月日が流れ、来年・平成28年の大河ドラマは「真田丸」となりましたので、真田幸村(さなだ ゆきむら、昌幸の次男)が主役です。

 ブログ作成の時間が無いので、いきなり真田陣太鼓の写真を並べ置きです。
 まずは、若手の演奏から









 続いて、大人の真田陣太鼓です。




【上田城けやき並木紅葉まつり】
期間: 平成27年10月31日(土)~11月8日(日) 上田城のけやき並木がライトアップ(紅葉の状態で変更あり)

 「信州上田真田太鼓サミット」は11月3日(火・祝日) 13:00~15:30の予定です。
 土日や祝日は「甲冑試着体験」もあります。


今回はこれで終わりとさせていただきます。

 次回も、上田城の続きです。「くまドン」も、なかなかブログを作成している時間が無いので、楽に作れる後半の真田陣太鼓の部分だけ切り出した結果となりました。順番が逆になりますが、次回が上田城の前半部分です。

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