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城010 阿尾城 (富山県、山城) 前田慶次の城

2015-06-14 23:15:06 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、富山県・氷見市(ひみし)の阿尾城(あおじょう)です。前田慶次(まえだけいじ、前田利益)のゆかりの城として知られている城です。「くまドン」が、たまたまテレビを見ていたら、前田慶次の米沢(よねざわ)での晩年を描いた「かぶき者 慶次」(NHK木曜時代劇)という番組をやっていました。昔は、マンガの「花の慶次」を見ていましたので、懐かしくも思いました。普段は流行を追わないマイペースの「くまドン」ですが、「かぶき者 慶次」の最終回が今週の6月18日のようで、それではということで、阿尾城の訪城記をつくることにしました。
 訪城日は平成24年4月下旬ごろです。

 阿尾城は富山湾の海に突き出した白い岩肌の断崖(だんがい)に造られた海城です。
(絵画調)


 「花の慶次 -雲のかなたに-」 作画は原 哲夫(はら てつお)、隆 慶一郎(りゅう けいいちろう)の歴史小説「一夢庵風流記」(いちむあんふうりゅうき)が原作で、週刊少年ジャンプで平成2年~平成5年(西暦1990年~1993年)に連載したマンガですが、こちらの阿尾城は、実際に前田慶次が城代(じょうだい、城の管理者)として治めたことのある城です。

 下の写真は、阿尾城の地図(MAP)です。小さいですが、標高は20m~40mもあり、本丸・二ノ丸・三の丸もある海城です。

ただし、現在の地形は、神社付近の地形が変わり、当時の地形とは異なるようです。
 下の写真は、阿尾城の二ノ丸付近と、氷見(ひみ)の海岸線沿いの街並みが見えます。


 三の丸付近には、榊葉乎布(さかきばおふ)神社があります。創建年は不明ですが、奈良時代の歌人・大伴家持(おおとものやかもち)が越中(えっちゅう、現在の富山県)国守として赴任した際に、勧請(かんじょう)したのが始まりと伝えられています。
 この付近には、大伴家持が景観の美しさを表現した歌がいくつも詠まれています。
 石の歌碑には、大友家持が阿尾の浦に行った日に作った歌一首が刻まれています。

 英遠(あを)の浦に 寄する白波 いや増しに 立ちしき寄せ来く 東風(あゆ)をいたみかも (大友家持)

 (訳文) 阿尾の浦にうち寄せる白波は、いよいよひどく、ひっきりなし立ってしきりに寄せて来る。
      これはやはり東風(あゆ)が強く吹くためだろうか。

(1)戦国時代は阿尾城の城主は、この土地の領主である菊池一族でした。上杉謙信(うえすぎけんしん)が越中に侵攻してくると、菊池氏は上杉家に従いました。

 本丸に向かう途中に白峰神社の石段があります。


(2)次に、謙信の死後、上杉家の跡目を巡る内乱に乗じて、織田信長(おだのぶなが)が越中に侵攻してくると、織田家に従う事になります。この時の越中方面の担当者である佐々成政(さっさなりまさ)の配下となります。

 阿尾城の神社は、透明なガラス(?)で覆われています。


(3)さらに、本能寺の変(ほんのうじのへん)で信長が死去すると、羽柴秀吉(はしばひでよし、豊臣秀吉)に従った前田利家(まえだとしいえ、加賀と能登が領地)と佐々成政(越中が領地)が対立することになります。

 遊歩道を歩いて行くと、本丸に到着です。本丸には櫓(やぐら)があり、富山湾を見下ろす見張り台で、富山側(佐々軍領地)と能登側(前田軍領地)と間の海上交通を抑える要所だったわけです。現在の本丸には展望台があります。


(4)当然、阿尾城は、能登(のと)と越中の境界に当たる為、戦略上の要所(最前線)となります。
 阿尾城主・菊池武勝(たけかつ)は前田家の誘いに応じて、佐々家から前田家に寝返ることにします。
 安土桃山時代の天正13年4月に、前田家の軍勢数千人が阿尾城に向かい、菊池武勝が城門を開き、前田家の軍勢を迎えるという事態になります。当然、戦闘も無く、無事に軍勢は場内に入ったのですが、この時軍勢の中の前田慶次は、前田利家のいる第五陣にいたようです。先陣は、村井長頼(むらいながより)だったそうです。
 佐々成政は、菊池武勝の裏切りを知り、阿尾城に攻め込もうとしますが、すでに前田家の数千の軍勢が入場していた為、無理攻めをせずに富山城に帰ります。

 阿尾城の北側を流れる阿尾川の桜並木も満開でした。前田慶次のいた時代には、桜の代表種であるソメイヨシノ(江戸時代の品種)はありませんでしたが、前田軍が阿尾城に向かう途中の山中には山桜が咲いている事もあったのでしょう。
(絵画調)


(5)前田利家は阿尾城から軍勢を金沢(かなざわ)に引き上げることになり、阿尾城の城代(城の管理者)として、前田慶次(利家の義理の甥)に任せることになります。前田慶次ゆかりの城の誕生です!
 同時に阿尾城の兵力は前田軍と元城主の菊池軍を合わせて合計約2000人に減ります。

 本丸から北側の眺めです。ここから北の能登半島の海岸線は、現代と違い道路はありませんので、海路を除けば、山越えの道となります。


(6)天正13年6月になると、佐々成政は好機と見たのか、神保(じんぼう)軍約5000人で阿尾城を攻めさせます。
 ここに、阿尾城の合戦が始まるのですが、なんと、前田軍の2倍以上も多い神保軍と野戦で迎撃することになります。
 阿尾城は断崖で堅城そうですが、2000人で守るには不利だったのか、兵量に問題でもあったのでしょうか?
 もっとも、守備する武将は、前田慶次を始めとして、片山延高、高畠定良など前田家の猛者(もさ)ばかりで、数に勝る軍勢相手におとなしく護城して援軍を待っているようなメンバーでもなさそうです・・・・
 元城主の菊池軍の方も佐々家を裏切っていますから、戦となれば負けるわけにはいかず必死です。
 戦闘の前半は双方一進一退の大激戦になります。しかし、徐々に数に勝る神保軍が有利になってきた所で、前線の巡視に来た前田軍の村井長頼(この人も前田家の猛者)の300の兵が加勢した所で形成が逆転し、神保勢が負けて後退するという結果になりました。
 加勢した人数を含めても、2倍以上の兵力に勝利した結果になります。阿尾城・城代としての前田慶次の勇名は上がったことでしょう。
 この戦から5年後の天正18年、養父・前田利久(まえだとしひさ)も亡くなり、前田家との縁を切るかように前田慶次は前田家を出奔して、京へと向かうことになります。

 前田慶次については、不明な所が多く、その奇抜な行動から多くの人の想像を生み出し、伝説や逸話にもつながっていきます。
 もっとも、織田信長や前田利家も、若い時は十分な傾奇者(かぶきもの、異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者)でしたが・・・・

 そして、現在もテレビドラマの「かぶき者 慶次」でも、新たな前田慶次のイメージが作られようとしています。
 前田慶次の晩年の話ですから、俳優が藤竜也(ふじたつや、73歳)、天徳和尚が伊武雅刀(いぶまさとう、66歳)というもの凄い渋い対決と、20代俳優のラブコメの組み合わせという展開に、「くまどん」は・・・・・・(黙秘)です。
 脚本は、大河ドラマ「天地人(主人公は直江兼続(なおえかねつぐ)」担当の小松江里子(こまつえりこ)さんです。
 でも、藩主・上杉景勝(うえすぎかげかつ)も、直江兼続も出番はなさそうですね。この二人を出したら、あっさり家中の問題は終わりですしね。

 今回は、これで終了とさせていただきます。

 5月頃から東京オリンピックの新国立競技場のムダ使いについて書こうかと思っていたのですが、元々「くまドン旅日記」は、好きな写真撮影でブログを作るのが目的でしたから、あまり政治の話は作る気が湧きませんでした。
 (それでも、国民の税金の使い方や増税に腹を立てて、何回か脱線もしていましたが・・・)
 今回、前田慶次のゆかりの城にしたのも、もやもやした気持ちを吹き飛ばしたかったのです。

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