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城012 松代城(1) 真田勝鬨太鼓 (長野県・百名城26番、平城)

2016-01-23 23:40:43 | 訪城記
こんにちわ、くまドンです。

 新年のあいさつ以来となりますが、今回は、真田関連の城として、長野県・長野市松代町の松代城(まつしろじょう)の話になります。
 松代城は、戦国時代の頃は海津城(かいづじょう)と呼ばれて、「甲斐の虎」と呼ばれる武田信玄(たけだしんげん)と「越後の龍」と呼ばれる上杉謙信(うえすぎけんしn)の間で数回の行われた「川中島の戦い」の戦場となった場所にあります。海津城は武田方の要(かなめ)の城でした。
 松代城には、初めて訪問したのは随分と昔でしたが、家族旅行で「川中島の戦い」や松代の歴史に関する所を見てまわりました。家族旅行だったのでブログに載せる写真を撮影していませんでした。その時は、松代城の本丸は改修工事中だったので、工事中の本丸と水を抜いた空掘(からぼり)を見て帰る事になりました・・・・(汗)

 数年前に松代の近くに来た時に、2度目の松代城訪問をした時の写真が、下の写真です。前回の工事中の城と違い、きれいに整備された城門や石垣、掘を見る事ができました。

 江戸時代は、真田・松代藩・13万石の居城です。城の見学していると、ちょうど、当日は「真田十万石まつり(毎年10月頃)」の日だったのですが、この日のメインは道の駅スタンプラリー中だった上に、当日の宿がゴンドラの上にある為、時刻の制約があり、見ている時間がありませんでした。
 (このときは、「くまどん」は、真田陣太鼓のことすら知らなかったのですが・・・・)

 翌年、以前のブログに書いてある様に上田城訪問する時に真田陣太鼓の演奏があるので、上田城行ってみると・・・・
 演奏プログラム開始の大きな爆音と煙の中から真田陣太鼓の人達と一緒に現れたのが、この人達です。

 幟(のぼり)に「真田勝鬨太鼓」と書いてありますが、江戸時代から続く松代の伝統芸能です。
 まさか・・・・翌年、隣の上田城に行って、松代の「真田勝鬨太鼓」を見るとは思っていませんでした・・・・・・!!!


 「真田勝鬨太鼓」の由来(ゆらい)は、遠く800年以上前の鎌倉時代にまで遡る(さかのぼる)らしく、鎌倉幕府・初代将軍の源頼朝(みなもとのよりとも)の御家人(ごけにん)で、「弓馬四天王」の一人として名が高かった海野幸氏(うんのゆきうじ)の源平の戦いの活躍が元になっているそうです。
 海野氏は、信濃(現在の長野県)東部を中心に勢力を持っており、この海野氏から真田家に伝わり、現在に続いているそうです。



(1)信濃松代藩の初代藩主は真田信之(さなだのぶゆき、信幸)で、真田昌幸(さなだまさゆき)の長男になります。
 真田昌幸は、武田家の上州(現在の群馬県)や信濃東部方面を担当する武将で、当時は、岩櫃城(いわびつじょう)の城主でした。武田家の時代には、真田信之は真田家の長男ということで、武田家の人質として過ごします。



(2)戦国時代の荒波は、真田家にも襲いかかります。天正10年(西暦1582年)に武田家が織田信長(おだのぶなが)によって滅ぼされると、真田家の周辺は、大きな領地を持つ戦国大名(織田、上杉、北条)に囲まれる状態になりました。真田家は、いずれかの勢力につくことで家を存続させる必要に迫られます。ここで、織田家に従属したのですが、なんと!わずか3カ月で織田信長が本能寺の変(ほんのうじのへん)で横死してしまいます。

 驚いた事に、真田信之と前田慶次(まえだけいじ、前田利益)とは懇意(こんい)の仲だったそうです!
 この時、前田慶次(利益)は織田軍の滝川勢の先方となっており、信長の死も前田慶次(利益)から聞かされたという話です。その時、真田信之は大将として軍勢を率いて進んでいたが、敵か味方かも不明な真田軍を相手に信長の死を明かした豪放(ごうほう)な慶次(利益)の態度に感心し、軍勢を引き上げたそうです。
 (この話は、真田信之の人柄の一側面を見る事ができるような気がします。

 再び、徳川・上杉・北条の3勢力による混乱の時代に戻り、真田家は生き残りの為に知略をつくして奮戦・勢力を拡大することになります。こうした中、天正11年には、千曲川方面の守りとして、上田城を築いています。

 力強い演奏と激しい動きで、迫力はありますが、撮影もブレ気味です。


(3)真田信之は、真田家の武士の長男として、十分有能だったようです。
 知略家として有名な父・昌幸や「真田十勇士」の話となった弟・真田幸村(信繁)に比べて、今一つ影が薄いイメージですが、この時代でも、父・昌幸と共に多くの戦いに参加して奮戦います。
 真田家と徳川家の戦いとなった第一次・上田城合戦(天正13年、真田・約2000×徳川・約7000)でも、父・昌幸が上田城を守り、徳川軍を城の二ノ丸まで引き込んで撃退したタイミングに合わせて、後方の戸石城(といしじょう)からも側面攻撃で混乱させるなど、優秀な戦いぶりを発揮しています。
 真田信之は沈着冷静な武将のイメージがありますが、戦の時には総大将でも常に先陣を切って進む勇猛さも持ち合わせていたようです。
 (総大将としては失格のような気がします。小勢力の大将だから、味方を鼓舞しなければならないのは分かりますが、よく毎回無事だったものだと思います・・・・)


 逆に言えば、いつその命を落とすか分からない戦乱の時代で、負ける事無く、生きて帰ってくれば家族も嬉しいのは、源平の時代も戦国時代も変わらないのでしょうね・・・・


(4)次男の真田幸村(信繁)は、第一次上田城合戦では上杉家の人質として海津城(松代城)送られていました。父・昌幸が上杉家の援軍を頼む為に、幸村(信繁)はさらに上杉家の本拠地・春日山城へ移動となります。
 その後の同じ天正13年に、昌幸は、なんと、上杉家の家臣から豊臣秀吉(とよとみひでよし)の家臣に鞍替えしてしまいます・・・・。
 幸村(信繁)は上杉家から隙を見て抜けだし、豊臣秀吉のいる大阪城で、また人質となります。
 上杉家の当主・上杉景勝(うえすぎかげかつ)は怒りましたが、景勝は豊臣秀吉に臣従していますので、あきらめざるをえませんでした。



(5)天正17年になると、豊臣秀吉の裁定により、徳川家康(とくがわいえやす)との和睦が成立すると、真田家は徳川氏の与力大名(この時代では、秀吉から徳川家に加勢するように付けられた武将を意味する)となります。
 長男・真田信幸の合戦で活躍が高く評価され、家康は「徳川四天王」の本多忠勝(ほんだただかつ)の娘・小松姫(こまつひめ)を養女にして結婚させます。
 この過程で、父・昌幸は上田城主として、豊臣家に仕え、長男・信之は沼田城主として徳川家に仕える形となります。この事が、長男・信之と次男・幸村(信繁)との将来の運命を分ける事になります。



(6)そして、慶長5年(西暦1600年)天下分け目の決戦となった関ヶ原の戦いにおいて、
 長男・信之が徳川方(東軍)、父・昌幸と次男・幸村(信繁、妻が西軍・大谷吉継の娘)は石田三成(西軍)方と分かれて戦う事になります。
 ここで、父・昌幸が守る上田城を、通過した徳川軍(大将は徳川秀忠)が攻撃することとなります。ここに第二次・上田城合戦が始まります。まず、徳川軍は次男・幸村(信繁)の守る支城の戸石城(といしじょう)を攻める事になりますが、攻め手は前回の守り手だった長男・信之です。結局、真田同士の争いを避け、兄・信之に城を明け渡して、弟・幸村(信繁)は上田城に撤退します。
 次男・幸村の本名は信繁(のぶしげ)ですが、この名前は、兄・武田信玄を補佐し、海津城(松代城)の近くで行われた川中島の合戦で戦死した弟の武田信繁の名にあやかったと説があるように、兄・信之を助ける結果となりました。



(7)関ヶ原の戦いは東軍の勝利と終わり、長男・信之や義父・本多忠勝から家康への嘆願により、なんとか父・昌幸と弟・幸村は死罪を許され、九度山への幽閉となりました。
 大阪の夏の陣も終わり、徳川の世となったことを見た家康は安心するかのように永眠(死亡)します。
 2代将軍・秀忠の元和8年(西暦1622年)に、長男・信之は上田藩9万5000石から松代藩13万石に加増移封されます。(信之自身は相当不満だったらしいです)
 長男・信之の生涯の前半は、父・昌幸を助けて、戦に奮戦しました。そして、人生の後半は、真田家を守る為に、徳川家家臣として忍従の姿勢を貫きました。
 次男・幸村(信繁)はの生涯の前半は、真田家の為の人質人生で武人として戦にでることもできませんでした。そして、人生最後の戦となる大阪夏の陣で、華々しい「真田日本一の兵」という言葉を残し、戦国時代の「あだ花」のようにその命を散らしていきました。
 この兄弟の人生の対比は、戦国という荒波の時代に生まれ、天下人の覇権争いを経て、安定の江戸時代が始まるまで時代を生きた武人の表と裏の関係を見ているのかもしれません・・・・・・




(1)真田関連で過去に作成したブログは以下の通りでうす。(クリックすると、そのブログに飛びます)
 「城011 上田城・真田陣太鼓(1) (長野県・百名城27番、平城)」
 「城011 上田城・真田陣太鼓(2) (長野県・百名城27番、平城)」
 「城011 上田城・真田陣太鼓(3) (長野県・百名城27番、平城)」
 「城011 上田城・真田陣太鼓(4) (長野県・百名城27番、平城)」
 「城012 松代城(1) 真田勝鬨太鼓 (長野県・百名城26番、平城)」 今回のブログです。

(2)前田慶次の城は、以下のブログです。
 「城010 阿尾城 (富山県、山城) 前田慶次の城」

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 仕事も忙しかったのですが、以下の問題が気になって、真田の城の続きが遅くなりました。
 新年のあいさつのブログを作った後の休みの日に、真田の城のブログを作る前に、気晴らしで久しぶりに葛西臨海公園に野鳥を見に行ってみたら、あれだけいたスズガモの大群がほとんどいませんでした。
 ブログを書こうと思いましたが、昨年からろくでもない政治を散々魅せられてきましたが、新年から行政に対する怒りで思うようにブログが進みませんでした(努!!!)。脱線ですが、今年も消費税増税反対・そのた諸々です。
 新年早々のお城ブログで政治の話をするのは、ここまでは、先に進まないので、松代城のブログを先に作る事にしました。いずれにしても、作るペースは今後も遅そうです。

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