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名所江戸百景027 第99景 浅草金龍山 浅草寺の夜景

2013-04-29 09:25:53 | 名所江戸百景
 こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、浅草寺(せんそうじ)の夜景です。


 一応、GW期間中の浅草寺のイベントをお知らせします。

「大絵馬寺宝展 庭園拝観」
 伝法院(でんぼういん、浅草寺の本坊)にある小堀遠州の作と伝えられる回遊式庭園です。
 普段は一般には公開されていません。
 東日本大震災義援金を集める為に、2013年も期間限定で公開しています。
   時期:2013年3月21日(木)~5月7日(火)、入場時間:10時~16時、入場料300円
 2011年に国の名勝に指定されました。

 「名所江戸百景013 第90景 猿わか町よるの景」の続きにもなりますが、藤やツツジの開花が早く、そのままになっていました。

 下の絵は、名所江戸百景「第99景 浅草金龍山」です。

 絵の手前は「雷門(かみなりもん)」です。大きい提灯(ちょうちん)は、「志ん橋」(しんばし)と書かれていました。
 奥に見えるのが浅草寺の宝蔵門(左、ほうぞうもん)と五重塔(右)です。
 雪が深々と降り積もる中、仲見世(なかみせ)を通る参拝客の往来が描かれています。
 現在の写真撮影なら、考えられますが、江戸時代において、名所江戸百景が売り絵だった事を考えると、手前の門と提灯のカットは、とても大胆なカットです。
 (ある意味、浅草寺に行った人しか分からない、または、浅草寺に行って、初めてこの絵が分かるという感じです。)

 広重の絵から、江戸時代の幕末の浅草寺と現在の浅草寺との違いを上げます。
 まず、「心ん橋」と書かれている提灯は、現在は本堂に置かれています。


 次に、浅草寺の五重塔は絵では宝蔵門の右にありますが、現在は宝蔵門(仁王門)のすぐ左にあります。


【宝蔵門】
 門の両側に金剛力士(仁王像)が置かれていることから、以前は「仁王門」と呼ばれていました。
 現在の宝蔵門は、昭和39年に、戦前の「鉄鋼王」と呼ばれた大谷 米太郎(おおたに よねたろう)という人が寄進して造られました。
 「小船町」と書かれた大提灯は、江戸時代に現在の中央区の日本橋小舟町の魚河岸(うおがし)商人の信徒らが提灯を奉納したのがきっかけで始まり、同町で代々受け継がれています。
 現在の提灯は、日本橋小舟町の有志が町内の個人や商店、企業約190件の寄付を集めて造ったそうです。

最後に、手前の雷門にかかっている提灯は、「雷門」と書かれています。
 広重の絵と同じ様に写真を撮ると下の写真を切り取ったのようになりますが、

 夜は仲見世は見えますが、宝蔵門は暗くて、よく見えません。
 現在は、浅草と言えば、「雷門」は代名詞ですので、名所江戸百景の現代版「くまドン版」でも、この雷門付近の写真を「浅草金龍山」に対応する景に加えたいと思っています。

【雷門】
 右側に風神、左側に雷神が配されており、正式名称は、風雷神門(ふうらいじんもん)。
 浅草寺が飛鳥時代創建と言われる東京最古の寺である為、山門の歴史も古く、最初の山門は、平安時代頃に造られたとされています。
 何回か、火災で焼失・再建されていますが、広重が名所江戸百景を描いた時は絵にあるように、雷門に「志ん橋」文字が書かれた大提灯が吊られていました。
 その後、江戸時代の14代徳川家茂(いえもち)の時に、門が火災で焼失した後、100年間程、この山門はありませんでした。
 現在の雷門と「雷門」と書かれた大提灯は、昭和35年に松下電器産業(現在のパナソニック)の創設者、松下幸之助が病気回復祈願のお礼として寄進したものです。
 「雷門」と書かれた提灯の下を見ると、「松下電器」と書いてあります。
 提灯は痛みも激しく、浅草寺の大提灯は、10年以上経つと新調されているようです。(提灯全体か?部分的か?は不明ですが・・・)


 五重塔が宝蔵門のすぐ横にあるので、宝蔵門の裏側から五重塔を入れて撮影しました。



 浅草の商店街にも、街灯がつき始めました。この商店街は夜間しまっている店が多いのですが、シャッターに書かれている絵も写真になります。


 夕暮れの中、五重塔がライトアップされました。月を入れて撮影。

 手前の「奥山風景」の文字が見えます。

【浅草の奥山】
 江戸時代において、浅草寺西北部は「奥山」と呼ばれ、盛り場となっていて、大道芸人や見世物小屋で賑わっていました。「奥山」の言葉は、お寺(山)の奥の方にあるという意味ではないかと考えられています。
 明治以降は、浅草寺西側に賑わいの中心は移り、興業(大衆娯楽)や映画の町として栄えました。現在は、「新奥山」として整備されています。

 本堂のライトアップされています。「志ん橋」の文字が名所江戸百景と同程度見えています。


【志ん橋の大提灯】
 この「志ん橋」と書かれた大提灯は、江戸時代は、現在の港区にある新橋(しんばし)の信徒から奉納されて、雷門に吊られていました。
 現在の本堂にある大提灯も新橋地区の方々からの奉納(ほうのう)提灯です。
 平成になってから、名所江戸百景と同じデザインの文字を入れた大提灯に新調されたそうです。

 こちらは、本堂の東側にある二天門(にてんもん、重要文化財)です。


【二天門】
 江戸時代、2代徳川秀忠(ひでただ)の頃に建築された門で、浅草寺において、焼失を免れた貴重な建築物です。
 門の左右にある二天(持国天、増長天)は上野の寛永寺(かんえいじ)墓地にある厳有院(4代家綱)霊廟から移されたものです。
 この門が造られた時は、浅草寺境内においても東照宮(とうしょうぐう)が置かれていて、その入口に置かれた随身門だったそうです。随身(ずいじん、ずいしん)とは、日本の神道では、神を守る者として安置される随身姿の像を指します。
 何故か、3代家光の寛永年間に焼失して再建されていません???
 徳川幕府の時代に、東照宮(初代家康を祭る)の放置する事が認められていたとは・・・・・・・

 月が西の空に高く登っていたので、本堂の屋根を入れて撮影してみました。


 さらに、大提灯を大きく入れて撮影


 本堂と五重塔、宝蔵門を全て入れてみました。この時間帯は撮影が楽しいです。
 昨年2012年4月頃は、月と金星と木星が一列に並んでいるのが見れるのが話題になっていましたが、この日はその数日後で、月は左にずれていました。真ん中上の明るい星が、金星です。その真下にある小さな星が木星です。(金星と、下の木の先端との間の、ちょうど中間のあたりです。)
 この時まで、木星が肉眼で見れるとは思っていませんでした。(明るい金星と違い、他の星の中に混ざってどれだか分からなかっただけなのですが・・・・・)


 最後に帰り際に、宝蔵門の小舟町の大提灯を入れて、本堂を下に入れてみました。


 名所江戸百景で浅草寺を取り上げているのは、2景のみですが、浅草はイベントが多いので、逆に選択に苦労します。

 今回はこれで終了です。ありがとうございました。
 休みの間に作成した分は、これが最後になり、以後はペースダウンですが、GW中になるべく多く更新できるようにします。
 次回は、また、別の場所になります。


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<速報>名所江戸百景 第65景 亀戸天神境内 和船でスカイツリーへ

2013-04-28 08:30:46 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 午後に暇になりましたので、また、亀戸天神の藤の花を見に行ったみました。
 行く途中の天神橋に旗が立っていて、面白いイベントをやっていました。


 亀戸天神橋からスカイツリーまでの和船運航
  平成25年 4/27(土)、4/28(日)
  10:00~15:00まで受付
  つまり、残りの日は4/28(日)のみです。 

 亀戸天神の藤まつり開催期間の情報も記載します。
    平成25年4月20日(土)~5月6日(月)開催
    ライトアップは、日没から22:00までの予定
 開花状況は毎日変わりますので、
 亀戸天神のホームページでご確認ください。

 4月27日の開花状況は、
    早咲きの棚は散りかけていますが、
    遅咲きは満開状態ですので、
    まだ撮影可能
です。
 今回の写真は、平成25年4月27日(土)に撮影したものです。




 天神橋から、スカイツリーまで往復で40分程度です。今回は時間が無いので、乗船できませんでした。
 正面の横十間川を進み、北十間川をスカイツリー真下まで和船で漕いで行きます。


 以前の「くまんドン」のプログ「名所江戸百景011」で、横十間川親水公園にある和船が、一時乗船体験休止になっている旨をお書きしましたが、こちらの方に転用しているみたいです。


 今回、和船は5隻交代で回しながら運航しているそうです。手前がスカイツリーに向かう和船。奥が戻ってきた和船です。中間にいる多人数で漕いでいるカヌーは、競技の練習中でしょうか?


 さて、亀戸天神に向かうと、観光客で一杯でした。途中にある船橋屋本店も大行列でした。
 今回は、撮影時間に限りがありましたので、かなり撮影は荒いです。
 観光バスも数台、駐車エリアに停車しています。今まで混雑する時は避けていたので、初めて見る光景です。
 今年も、太鼓橋の左に船橋屋(ふなばしや)の白藤が奉納されていました。今年は暖かいのか、花の数が多いです。


 太鼓橋の右にも、奉納された白藤がありました。


 早咲き棚の方は、散っているかと思いましたら、結構咲いているのが残っていました。


 早咲き棚は、散り始めている花もありますので、なるべく状態の良い花を前に持ってきて撮影しました。


 中橋の藤は、去年より長く伸びていました。撮影者も一杯です。こちらも、散りかけている花がありますので、前景の花の選択を考える必要があります。


 この遅咲きの棚は、ちょうど見頃でした。


 最後に、昼食を食べていなかったので、今回は、屋台の店で食べることにしました。
 「焼ラーメン」という見たことが無い食べ物がありました。博多(はかた)屋台名物・豚骨と書いてありましたので、一つ食べてみました。焼きそばの食べるような感じで、そばだけがラーメンの「つるつる」という食感でした。

 店の人が、おまけして一杯入れてくれました。トッピングも大量に入れてくれました。通常の2倍分ぐらいあるような量です。プラスチックのケースが開いた状態で、あふれそうでした。(写真撮影しておけばよかった)
 全て、美味しく食べさせていただきました。ごちそうさまでした。


 今回はこれで終了です。ありがとうございました。
 次回は、また、別の場所になります。


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名所江戸百景026 第16景 千駄木団子坂花屋敷 根津神社のつつじ(3)

2013-04-27 09:25:57 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今週の初めに、根津神社(ねづじんじゃ)のツツジの見てきました。


 根津神社の文京つつじまつり開催期間の情報です。
    平成25年4月6日~5月6日開催
  つつじ苑(入園時間9:00~17:30)
   4月27日(土)  なぎなた奉納稽古(1時・舞殿前、文京区なぎなた連盟)
   4/28日(日)、29日(祝)、5/3~5/5(祝) 根津権現太鼓(12時・境内)
   GW中は、その他の催し物もあります。

 昨日、平成25年4月26日(金)の根津神社の開花状況を見ると、
  「現在、数の多い大輪の遅咲きが満開です。」
 となっています。GW中はイベントもありますので、良いかもしれません。
 (情報の変更される場合もありますので、事前に根津神社のホームページでご確認ください。)


 「くまドン」が今週の初めに行った時は、早咲きが見頃のピークを過ぎて、遅咲きがまだ早いという状態でした。
 去年と同じようなツツジの咲き具合となりましたが、去年に比べて10日程早いようです。
 (早咲きが、しおれていなかった分だけ、去年より状態が良かったのです。)
 今回の撮影時間は、昼間です。晴れの碑は、日の当っている花と日陰の花の明暗比が激しく、露出合わせに苦労しました。光線状態を考慮して、撮影してください。


 一度、「名所江戸百景015」で「くまドン版」の景を確定したのですが、やはり、人がいない写真は江戸百景らしく無いので、休暇日の時間が空いた時に、下の写真を取り直してきました。
 この写真は、北西向きに撮影していますので、午前中の方が順光になり、撮影し易いです。
 相変わらず、根津神社の定番のような写真ですが、ここに居る人すべてが写真撮影しているような場所で、他の人が撮影していない写真を撮ることは、現代では不可能と思います。
 この写真を名所江戸百景「第16景 千駄木団子坂花屋敷」に対応する「くまドン版」の景(再確定)とさせていただきます。
 (このプログは名所江戸百景の現代版「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)


 下の絵は名所江戸百景「第16景 千駄木団子坂花屋敷」です。
 「名所江戸百景014」で説明しましたので、省略させていただきます。


 このプログを作成していた当日は、根津神社のホームページに遅咲きが満開と書いてありましたが、ここにある写真とは、別の景色が撮影できるのでしょう。


 天気予報で、本日、場所によっては、雹(ひょう)が降る可能性を取り上げていましたが、GWが終わるまで奇麗に咲いていて欲しいものです。


 「名所江戸百景014」にありました根津神社の楼門(ろうもん=二階建ての門、重要文化財)です。


 「名所江戸百景015」で根津神社で説明した稲荷神社の一つ、「乙女稲荷神社」です。


 同じく、もう一つの駒込稲荷神社(徳川綱重(5代綱吉の兄)の邸内社)です。前回は左の狐でしたので、今回は右の狐を入れました。

 なお、神社の後ろに並んでいる屋台で、お好み焼きを食べましたが、「くまドン」はトッピングをかけ過ぎまして、センスを疑われそうなので写真は非掲載です。

 前回、団子坂の写真を撮り忘れていたので、載せておきます。
 「団子坂下」交差点から「団子坂上」を見た写真です。根津神社は、現在の位置に移転する前は、「団子坂上」付近にあったそうです。


 「団子坂上」の交差点を左に曲がると、「藪下通り」(やぶしたとおり)と呼ばれる道があります。
 根津神社裏門から駒込方面に通ずる自然にできた脇道だそうです。
 明治時代は、森鴎外(もりおうがい)の散歩道で、小説にも登場しました。


 その途中に、広重の名所江戸百景を意識しているかどうかは分かりませんが、下の写真のような階段がありました。
 上の道の写真は、階段を登って左側です。右側は「団子坂上」交差点。


 また、根津神社の話になってしまいましたが、去年の写真が今一つだったとのと、GWのイベントがありましたので、入れさせていただきました。

 今回はこれで終了です。ありがとうございました。
 次回は、また、別の場所になります。


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名所江戸百景025 第107景 深川州崎十万坪 空からの風景

2013-04-26 12:30:47 | 名所江戸百景
 こんにちわ、「くまドン」です。

 前回までの深川に行った時に、ここは時間が無くて飛ばしたので、別の日になります。

 下の絵は、名所江戸百景「第107景 深川州崎十万坪」です。

 この絵は「くまドン」が好きな絵の一枚です。なによりも、はるか上空から見下ろす鷲(ワシ)の精密な絵が見事です。
 そして、雪が積った葦原(あしはら)や木場(きば)の白さと、遠くに見える筑波山が夜空に浮かぶ姿が、単純化された線で見事に描かれています。
 江戸時代では、鳥の目でしか捉えることができなかった、この情景を想像だけで描けたということに驚きます。
 絵の下部の陸地が深川洲崎(ふかがわすさき)と呼ばれる場所です。
 この深川洲崎には弁天様が祭られていて、潮干狩りができ、房総半島から芝浦までの東京湾全体を見渡せる江戸時代の観光名所となっていました。
 何故か広重の絵には弁天が描かれておらず、白い雪が降り積った葦原と海岸線だけが描かれています。


 前回の深川でもお見せしました江戸後期の地図を深川付近だけ拡大してみました。
 左の上下に流れている川が「隅田川」、新大橋や永代橋も表記されています。

 海岸線真ん中にあるやや出っ張った辺りが深川洲崎です。この辺です↑↑↑
 北側(上)は木場のあった所です。現在の木場公園より大きく広がっています。その左は深川の町です。右の赤丸は、現在の江東区役所の位置です。

 この深川洲崎は、現在の江東区東陽町(とうようちょう)1丁目付近にあったそうです。

 下の写真は、現在の洲崎神社(弁天社)の写真です。厳島(いつくしま)神社の分霊を祭ってあるそうです。
 当初、弁天社は江戸城内の紅葉山(西ノ丸)に置かれていましたが、5代綱吉(つなよし)の生母が崇拝していたことから、元禄時代に、現在の地に移されたそうです。


 埋め立てが進んだとは言え、東京湾に出るまですぐ近くです。石柱に船宿の名前が刻まれています。


 下の写真の右にも「名人竿忠之碑」という文字があり、釣り竿に関する碑で、海との関連を感じさせます。
 これとは、別の雰囲気を感じさせる碑が左にあります。「津波警告の碑」です。

 11代家斉(いえなり)頃の寛政3年(1791年)に、この付近一帯に台風による高潮(たかしお)が発生して、周辺の人家を襲い、多数の死者が発生する大災害が発生していました。
 (江戸時代は高潮も「津浪」(つなみ)と書かれることがあるので、混乱します。)
 これに対して、幕府は津浪に備えて、深川洲崎一帯の土地を買い上げ、人家の建築を禁止しました。

 この名所江戸百景「深川州崎十万坪」の絵は怖く、恐ろしい絵でもあります。(汗)
 ワシの視線の先に画面下部の海に浮かんでいるのは、江戸時代の棺桶(かんおけ)ではないかと話もあり、怪談(かいだん)の舞台にもなるような寂しい所でもあったのです。
 (これを考えると絵を楽しめないので、考えないようにしていますが・・・・)

 さらに、広重が名所江戸百景を描き始める安政3年(1856年)の2年前に、安政東海地震(あんせいとうかいじしん、1854年12月)がありました。
 この時も、古文書には東京湾でも「三四尺水位上り」(約1m~1.2m程度の海面上昇(津波))があったそうです。
 当然、深川洲崎付近にも海水が浸入してきたのでしょう・・・・・・・・?
 その意味では、広重を含め、江戸の人達にとり、この津波の碑は他人ごとでは無かったのでしょう。


 しかし、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」では、明るく、楽しく行きたいと思います。
 現代において、「深川州崎十万坪」と同じように大空から見下ろせる場所は無いかと探しました。

 この写真は、江戸川区の都営新宿線 船堀(ふなぼり)駅前にあるタワーホール船堀の展望台から見た風景です。
 北西方向を望んだ景色です。左にスカイツリーが見えます。正面を流れるのが、荒川放水路(左)と中川放水路(右)です。

 二つの放水路の間には、首都高速の中央環状線が走っています。荒川を横切る手前の橋は、首都高速7号線の荒川大橋です。その奥に、小松川橋、JR総武線(そうぶせん)、平井大橋と続きます。
 ここの夜景はとてもきれいです。(絵画調)


 目を南西に移すと、春先ですので、透明度が低くはっきりしませんが、富士山と東京タワーが見えています。同時に「深川州崎十万坪」のあった深川方面を望んでいます。
 秋から冬にかけてと違い、春には富士山は余り見えません。しかし、雨で大気のゴミが流され、翌日に晴れた空が広がった日に、高い所に上ると、午前中に富士山が見える時があります。GWの晴れた日に高い所に登るのも良いかもしれません。風で富士山だけ雲がかかる場合があるので、あくまで、その時の運次第ですが・・・・・・・・・

 考えてみれば、広重の名所江戸百景では、富士山は多く描かれていますが、「くまドン版」ではこれが初登場でした。
 富士山が分かり難いので、絵画調も入れておきます。


 さらに、南に目を転じると、荒川の河口や東京湾が見えます。

 カメラを望遠にして、右側の鉄塔付近をズームすると、こちらは、江東区の東京ゲートブリッジ(恐竜橋、2012年完成)です。近くにある風力発電の風車もあります。
 その先は、現在の東京都のごみ処分場(埋め立て地)です。2016年には「海の森公園」の一部が開園予定です。

 左側をズームすると、江戸川区の葛西臨海公園の大観覧車と、東京湾に浮かぶ東京湾横断道路(東京湾アクアライン)の風の塔(川崎人工島)が見えます。

 さらに東に目を向けると、画面奥に東京湾が見え、房総半島が見えます。

 逆光なので、分かり難いのですが、千葉県浦安市(うらやすし)にある東京ディズニーランドの施設と、海の向こうに房総半島が見えます。


 北方面は筑波山が見えるのですが、春の透明度では、はっきりしないので今回は割愛させていただきます。

【タワーホール船堀】
 平成11年(1999年)に完成した江戸川区の施設。高さ115mの展望室がある。
 周辺に高い建物が無い為、360°のパノラマが楽しめる。夜景では、かなり有名なスポットです。
 撮影する時の問題点は、三脚の使用不可と、夜間でも室内がかなり明るい為、ガラスの反射除去に苦労すること。
  展望エレベーター運行時間:9:00~21:30(天候により運行停止する場合もあり)
  (変更等がありますので、運行情報の詳細は、インターネットなどにおいて、事前確認お願いします。)
 同時に他の東京23区の展望施設同様に、色々な意味で話のネタになっている施設です。

 この場所で、名所江戸百景「第107景 深川州崎十万坪」に対応する「くまドン版」の景を撮ってみたいと思っています。できれば、広重のように高所からの見下ろしの雰囲気がある写真にしたいと思っています。さすがに、広重の絵の様に飛んでいるワシを入れるのは無理でしょうが・・・・・・(笑)

 広重を始めとする江戸時代の風景画では、俯瞰(上から下への見下ろし)は基本的な構図でした。
 名所江戸百景の現代版である「くまドン版」でも、このような高所からの撮影を積極的に取り入れていきます。 

 今回はこれで終了です。ありがとうございました。
 次回は、また、別の場所になります。


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名所江戸百景024 第69景 深川三十三間堂 深川(4)

2013-04-25 12:30:01 | 名所江戸百景
 こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、深川(ふかがわ)の富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)の続きです。

【勧進相撲】
 江戸初期の勧進相撲(かんじんずもう)は、神社仏閣の再建・造営費用を獲得する為に開かれていました。
 初期は戦国時代の風潮が強くて問題が多い為、禁止令が出てることもありました。徐々に解禁されていき、
 5代綱吉(つなよし)頃になると、富岡八幡で、春秋2場所の勧進相撲が始まり、100年間続きました。

 下は、富岡八幡宮の右奥にある横綱力士碑(よこづなりきしひ、明治33年完成)です。

 歴代の横綱の名前が記録されています。横に50連勝以上の力士の名前が刻まれた碑もあります。(ごく最近の力士も刻まれているので、ご存じの力士も多いかと思います。)

 下は、大関力士碑(おおぜきりきしひ)と、その左側にあるのが巨人力士身長碑です。
 巨人力士身長碑は、江戸時代からの長身力士12名の名前と身長が記録されています。
 最高は、江戸時代の生月鯨太左衛門(いきつき げいたざえもん)で、なんと、7尺6寸(227cm)、169kg!!!。
 日本人でも、こんな人がいたのですか!!! しかも、江戸時代に!!!

 でも、巨体お披露目の土俵入りが多く、6年間12場所の幕内通算成績は3勝2敗115休・・・・・・・・・・・。
 しかし、人気はあったそうです。逸話がともかく多い人です。

 こちらは、同じく、富岡八幡宮の大関力士碑の右脇にある巨人力士手形・足形碑です。


 下の写真は富岡八幡宮の東(右)側にある八幡堀遊歩道にかかる八幡橋(はちまんばし、重要文化財、明治11年架橋)です。
 日本最古の鉄橋です。元は現在の中央区宝町の楓川に架橋されていた弾正橋(だんじょうばし)であり、「旧弾正橋」とも呼ばれます。色々な意味で歴史的価値の高い橋です。(絵画調)

 道路の真ん中にいるのは黒猫です。こうして見ると、絵画調は、フィルタ変換の際に輪郭をはっきりさせる為に、その周囲を白抜きにしているのがわかります。この特徴が、場合によって有効に働いたり、悪影響を与えたりするのですが、それは、また興味深いことです。いつかプログにて、また、お話します。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第69景 深川三十三間堂」(夏景)です。

 位置的には、八幡橋のある付近から東の木場(きば)方面を俯瞰(上から下を見下ろす)的に眺めた構図です。
 三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)の線を水平や垂直にして画面に収めるような説明的な構図にせず、あえて、ラインを斜めにして、画面の枠に収まらず、両側を外に出したのは、現代の写真撮影でも見られる手法です。
 後方の平久川は木場の近くにある川ですので、木材が多く浮かんでいます。

 先人のプログによると、広重は、同じ深川の地において、「深川八幡山ひらき」で静的な風景画を、「深川三十三間堂」で動的な風景を描き分けたとありました。「くまドン」も、この深川の地で「深川三十三間堂」に対応する動的な景を撮影したいと思いました。この話は、また別の時期にとさせていただきます。

【深川三十三間堂】
 江戸時代に、京都の有名な三十三間堂で、通し矢が流行しました。
 徳川幕府は武家政権ですから、鉄砲の時代とはいえ、古式からの弓芸は重んじます。
 3代家光(いえみつ)の寛永年間に、浅草に京都の三十三間堂を模した「江戸三十三間堂」が造られます。
 5代綱吉(つなよし)の元禄年間に火事で焼失しましたが、同じ元禄年間に、深川の富岡八幡宮の東側に再建されました。
 明治5年に廃止されて、現在は道路際に跡地の石柱が立つのみです。

 この辺の紹介していると終わらないので、次に行きます。
 門前仲町(もんぜんなかちょう)の交差点を北へ清澄通り沿いに進み、仙台堀川(せんだいほりかわ)を渡ると、左手に清澄公園(きよすみこうえん)があります。東半分は清澄庭園です。


【清澄庭園】
 開園時間9:00~17:00、年末・年始休、入園料:一般150円、年間パスポートあり、各種割引あり
  (変更もありますので、詳細はインターネットで事前に、お調べください。)
 この場所は、江戸時代の5代綱吉の元禄時代は、豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があった場所と言われています。
 8代吉宗(よしむね)の享保の頃になると、下総関宿藩(せきやどはん)の藩主下屋敷となり、庭園の元が造られたと推定されているそうです。当然のことですが、広重の時代では、藩主の庭を描くことができません。
 明治になると、三菱財閥の岩崎家が買い取り、接待・社員用の庭園の造成を行い、回遊式築山林泉庭園として完成しました。
 大正12年の関東大震災では、大被害を被ったものの、結果的には近隣住民の避難場所となり、多くの人命が助かったそうです。その後、岩崎家からの寄贈(東半分)と東京都の買取り(西半分)により、東京都管理の公園となっています。

 清澄庭園は、中心に広い池があり、池越しにスカイツリーが望めます。ツツジやサツキの植えられた「ツツジ山」があり、桜は「サトザクラ」と呼ばれる遅咲きの品種があるので、4月中旬ごろの他の桜が散った時に楽しむことができます。(今年2013年はもう終わっていますが・・・)


 当日は、天気が曇りで、庭園撮影には向かず、清澄庭園をあきらめ、近くの深川江戸資料館に行った所、ここも休館日でした。
 そこで、すぐ隣にある霊巌寺(れいがんじ)に行きました。


【霊巌寺】
 この寺も、江戸時代3代家光の寛永年間に、永代橋の西側にある現在の日本橋新川にあった霊巌島を、埋め立てた所に作られました。4代家綱の時の明暦の大火(めいれきのたいか)で焼失してしまい、幕府の防火対策により現在地に移転しました。


 ここは、11代家斉(いえなり)の時代に行われた寛政の改革(かんせいのかいかく)で有名な松平 定信(まつだいら さだのぶ、8代吉宗の孫、白河藩3代藩主)の墓があります。


【深川の名物】
 深川めしは、アサリのすまし汁を米飯にかけたものです。前回、深川丼(ふかがわどん)の話をしましたが、炊き込みご飯タイプもあり、どちらも「深川めし」と呼ばれています。 (店ごとにバリエーションがあり、一言では説明できません。)
 深川江戸資料館が休館日だったので、前の店に入りました。下の写真が、そこの深川めしです。お値段は少し高めですが、醤油味の上品な味わいでした。多くの芸能人の方も来たことがあるらしく、色紙が一杯ありました。
 かなり有名な店だったみたいです。店の年配のご夫婦は、気さくな人でした。

 味噌味もあるのですが、昨年は百景撮影に忙殺され、深川江戸資料館に行っている暇がありませんでした。


 今回はこれで終了です。ありがとうございました。
 今後は百景の選択で、元の名所江戸百景の既成の枠を外していくことが増えてきます。


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