gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

名所江戸百景280 第94景 真間の紅葉手古那の社継はし 元佐倉道と小岩市川の渡し

2016-09-29 19:30:49 | 名所江戸百景
こんにちわ。「くまドン」です。

 前回までの話の流れの中で、江戸時代の中川(なかがわ)にあった「逆井の渡し(さかさいのわたし)」と「平井の渡し(ひらいのわたし)」について話をしましてきました。今回は、「逆井の渡し」から先に続いていく元佐倉道(もとさくらみち)の先にある「小岩・市川の渡し」について、話を進めてみます。
 まず、下の絵は、広重の名所江戸百景「第67景 逆井のわたし」(夏景)です。

 「逆井の渡し」は、江戸から東にある千葉県の佐倉城(さくらじょう)へと続く元佐倉街道の渡し場でした。現在は旧千葉街道と呼ばれてます。「元」がついているのは、前回の話にできてきた水戸街道の「新宿の渡し」から分岐して、佐倉城(さくらじょう)まで続く道を、江戸幕府が公認の佐倉街道としていたためです。佐倉街道は小岩(こいわ)で元佐倉街道と合流しています。

 下は、江戸川区にあった元佐倉道の説明板の地図です。小さいと地図の文字が見えないので切り取りました。

 江戸時代の元佐倉街道は、現在の江東区内において、東西に流れる竪川(たてかわ、現在の首都高速7号線の下)の北岸につづく道路でした。
 逆井の渡しを渡ると、元佐倉街道は東から北東に向きを緩やかに変えて行きます。現在の江戸川区内でも荒川放水路西側の小松川地区は、首都高速7号線沿いに元佐倉街道が続いていたようです。
 江戸時代に成田山新勝寺(なりたさんしんしょうじ、成田不動)へ向かう成田参詣が盛んになると、江戸の町から逆井の渡しまで、舟で行くことができ、旅行の距離もショートカット(短縮)できる為、この元佐倉街道のルートに多くの人が行き交う時代となりました。

 次に説明板全体を表示します。


 前回も載せました明治時代・後半頃の地図を、再度載せます。(北が上です)
 地図の下にある緑の○印が「逆井の渡し」のあった所です。明治時代になると、逆井橋が架けられます。

 「佐倉道」は、地図の街道沿いに書かれているように「千葉街道」と名前を変えています。逆井橋の西側(江東区側)が竪川(たてかわ)沿いの東西(横水平)に街道筋があるのに対して、逆井橋の東側(江戸川区側)は右上(北東)向きを変えて、小岩(こいわ)方面に向かいます。

 昔の佐倉道は、荒川放水路の開削(かいさく)により分断されていますが、現在でも江戸川区役所の北側にある交差点から北東方向の小岩の市川橋方向へ続く道が「旧千葉街道」と呼ばれています。逆に西側へ荒川放水路へと続く道は「五分一街道」と呼ばれ、江戸時代の佐倉道の名残が所々に見る事が出来ます。
 下の写真は、佐倉道に江戸時代から架っていたされる五分一橋(ごぶいちばし)の跡です。現在では川が埋め立てられ、橋そのものがなく、昭和に造られた鉄橋のコンクリート柱の史跡を残すのみですが。

 たまたま、祭りの撮影の移動中に偶然見つけた「小松川・五分一町会」の山車(だし)です。この地の大正時代の地名が残る山車です。(現在のこの場所の町名は「松島」です。)


 佐倉道は、江戸川区内を北東へ進み、江戸川の「小岩市川の渡し」の手前で南東に向きを変えます。
 下の絵は、江戸時代の「江戸名所図会(えどめいしょずえ、地誌紀行図鑑)に描かれた「小岩市川の渡し」を風景を小岩方面から、江戸川(江戸時代の利根川)を超えて市川方面を俯瞰(ふかん、上から下を見下ろす)した絵です。
 真中に大きな利根川(現在の江戸川)の流れが大きく流れています。手前に小岩の関所があり、右の対岸に「市川宿」と書かれています。

 絵の右上には「市川渡口(わたしば) 根本橋 利根川」と書かれています。
 さらに名所図絵には、「根本橋」の説明が書かれていますので、抜粋します。
 「市河(いちかわ)の渡し口より総寧寺(そうねいじ)に行く間の川に架す。この地を根本村(ねもとむら)といふより、号とする。橋下(きょうか)を流るるは、真間(まま)の入り江の旧跡より発するところの水流なり。」
 絵の真中に文字がはっきり読めないのですが、根本橋があります。その左側の人家に「根本村」の表記があります。そして、橋の下を流れて、利根川に合流する川の流れが、現在の真間川(ままがわ)です。根本村を通過した脇道は坂上で二つに分かれ、一つは、絵の左奥にある「国府台(こうのだい)へと続き、もう一つの道は、絵の真間川源流の上にある「真間山」の文字が見える小高い場所へと続きます。真間山は、弘法寺(ぐほうじ)のある所です。

 下の地図の街道には、右の江戸川の川岸に「小岩の関所」が描かれていて、対岸に「市川」「真間」などの地名が見えます。

 左の中川には、水戸街道の「新宿の渡し」があり、途中で上に折れて、松戸方面に向かいます。

 下は明治後半頃の地図です。紫色の○印が「小岩・市川の渡し」付近であることが分かります。

 「小岩・市川の渡し」の左に「千葉街道」の文字が見え、その先の交差点で、「千葉街道」は左下(南西)に折れ、「佐倉街道」が上(北)に分岐しています。地図には、市川橋(旧・江戸川橋)がありませんが、明治38年(西暦1905年)には、渡し場の近くに木造ですが、江戸川に初めての木橋(江戸川橋)が架けられています。現在の市川橋は、当時の橋より、少し南(下)にあります。小岩停車場(現在のJR小岩駅)が明治32年開業ですが、亀戸停車場(現在のJR亀戸駅、明治37年開業)も地図上にありますので、この地図の作成年代が、おおよそ見当がつくかと思います。

 下の写真は、市川市のアイリンクタウンいちかわ(I-linkタウンいちかわ)の展望室から見た「小岩市川の渡し」の眺めです。対岸が、江戸川区・葛飾区方面です。名所江戸百景「くまドン版」の撮影をしていた頃の写真ですが、この日は遠くの関東の山並みも良く見える日でした。

 江戸川を渡る橋が3つありますが、左からJR総武線(そうぶせん)、市川橋(国道14号)、京成電鉄(けいせいでんてつ)です。真中の市川橋と右の京成電鉄の橋の中間付近に「小岩の関所跡」とありますので、「小岩市川の渡し」の位置が大体分かるかと思います。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第94景 真間の紅葉手古那の社継はし」(秋景)です。

 絵を見ると、あまり、きれいな紅葉ではありませんが、元々は赤い紅葉が描かれていたそうです。色の原料が酸化して、黒く変色したのが原因だそうです。

 11月頃の写真ですが、現在の「真間の継ぎ橋」の史跡です。


 「アイリンクタウンいちかわ」からの眺める現代の「真間の紅葉手古那の社継はし」の風景です。

 地平線には、双耳峰(そうじほう、山の頂上が二つ並んでいる形状の山)の特徴を持つ筑波山(つくばさん、標高877m)も見えますが、広重の絵と比べてみると、左右逆に見えたりもします。
 正面のこんもりとした森の所が、弘法寺(真間山)です。伝説の「真間の継橋」は、その手前にあります。
 その場所を、さらに拡大していみます。

 写真の右側に緑色の屋根の手児奈霊神堂(てこなれいじんどう)が見えます。

 弘法寺のイチョウ(銀杏)の黄葉も入れておきます。


 今回も時間がなくなりました。次回は、「平井の渡し」から続く行徳街道(ぎょうとくかいどう)の先にある「今井の渡し」です。このブログを9月中に作りたかったのですが、残念ながら間に合いそうもありません・・(汗)

(1)「小岩市川の渡し」の付近の市川市の以前のブログは以下の通りです。
 「名所江戸百景112 第94景 真間の紅葉手古那の社継はし 真間の紅葉と手古那伝説」
 「名所江戸百景110 第95景 鴻の台とね川風景(1) 国府台と朝の富士山」
 「名所江戸百景111 第95景 鴻の台とね川風景(2) 国府台と朝の富士山」
(2)「逆井の渡し」の以前のブログは以下の通りです。
 「名所江戸百景277 第67景 逆井のわたし 平井諏訪神社と旧中川」
 「名所江戸百景078 第67景 逆井のわたし 白サギ(4) 献灯」

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 日本プログ村に参加しています。良ければ、「江戸時代」と「風景写真」のどちらかを「ポチッ」応援お願いします。
(両方押しても、1日1回分ですから不要です。携帯からは無効ですので、不要です。)
にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村 (設定はINポイント順です)


名所江戸百景279 第93景 にい宿のわたし 蛇行する中川の流れと歴史

2016-09-26 20:00:59 | 名所江戸百景
こんにちわ。「くまドン」です。

 前回は、旧中川沿いにある「逆井の渡し」から北十間川(きたじっけんがわ)までの間にある江東区・墨田区の神社について話しましたので、北十間川から、中川(なかがわ)の流れに話を移していきます。

 下の写真は、雪の日にスカイツリーから東の方を撮影した写真です。名所江戸百景の最後に使う予定でしたが、いつまで続くか?「くまドン」本人にも分かりませんので、使用する事にしました。
(絵画調)

 スカイツリーは北十間川(きたじっけんがわ)の川岸にあります。北十間川は江戸時代に元の地形を利用して造られた運河ですから、写真のようにスカイツリーの真下(西)から上(東)に直線的に掘られています。
 北十間川の曲がり具合から判断して、一番手前の橋が、前回の話にでてきた福神橋です。右側に江東区の亀戸香取神社(かめいどかとりじんじゃ)が、左側に墨田区の吾嬬神社(あづまじんじゃ)のある所です。
 横十間川の行きつく先に、旧中川が横(北南)に蛇行して流れています。
 その向こうに、洪水対策として大正・昭和の時代になって開削された荒川放水路(あらかわほうすいろ)と中川放水路が並行して流れています。遠くには千葉県の東京湾の海岸線が見えます。

 下の地図は、前回も使用しました江東区の親水公園にあった室町時代の江東区周辺の推定地図(北が上)です。
 この地図の下部に見える亀島(現在の江東区・亀戸)や柳島(現在の墨田区・業平~錦糸)の地名から分かるように当時の海岸線は、上のスカイツリーから見た風景にある北十間川より左(北)側にあったことが分かります。河口部には、小村江(現在の小村井)や下平井の文字が見えます。

(1)豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原征伐後に、徳川家康(とくがわいえやす)が関東(関八州)に移封になった頃は、地図の真中を蛇行(だこう=曲がりくねって)して流れる中川(なかがわ)が、利根川(とねがわ)・荒川(あらかわ)の水を集めて流れる大河の本流となっていました。現在の江戸川区・墨田区・江東区の3区境界付近が、その河口付近になっていました。
 当時の利根川や荒川は、関東平野の低地部を網の目のように蛇行して流れ、氾濫する度(たび)に、川の流路を変えていきます。さらに、その流路は、現在の隅田川や江戸川にも流れ込んでいたと言われています。関東低地部全体が氾濫原(はんらんげん)ですから、農耕に適している土地ではありませんでした。

 下の写真は、北十間川と旧中川の合流部で、江東区・亀戸(南西側)から撮影しました。江戸川区・墨田区・江東区の3区境界付になります。左が北十間川で、右奥から流れる旧中川に合流しています。当時はこの付近が、江戸時代初期の頃までは、利根川・荒川の河口部だったわけです。

 利根川と荒川の流れを合わせた水量は相当な量ですから、その本流の河口部であるこの周辺の当時は、相当に大きな川幅のある大河となります。今よりも大きな川幅で大量の水が正面の中川上流から流れていたことになります。

 上の写真を超望遠でズームすると、棒杭の所にカワウ(川鵜)が羽を休め、シラサギ(白鷺)がエサを狙っています。
(絵画調)

 この付近は野鳥が生息し易いように離れ小島やワンドがありますので、野鳥撮影者の多い所です。

(2)関東移封後の徳川家康は、領内整備(農地拡大=国力増加)の為に、利根川・荒川の治水を家臣の伊奈忠次(いなただつぐ)に命じ、3代にわたって、河川の付け替え・開削により、利根川の東遷(利根川を江戸川・現在の銚子(ちょうし)方面へ流す)、荒川の西遷(荒川を入間川・隅田川方面に流す)を完成させます。
 この河川改修工事により、利根川と荒川の間にある埼玉・東京東部の広大な低地部は、洪水の危険性が減少し、新田の開発進んでいくことになります。
 利根川(現在の江戸川)と荒川(現在の隅田川)の間に流れる川となったので、中川と呼ばれるようになりました。
 伊奈一族の治水(ちすい)対策は、不連続堤により洪水の勢いを弱め、低地に遊水させることにより、洪水の被害を減少させる「関東流(伊奈流)」と呼ばれます。

 野鳥のいた墨田区・立花側に移動して、旧中川の下流部を眺めた風景です。手前の緑の橋が江東新橋です。

 上の写真を撮影していると、川岸の草むらからコサギがいました。

 しばらく見ていると、距離があった為か、人を恐れず、草むらから歩いてでてきました。後から写真を見てみると、足全体が黄色です・・・・???

 色々調べてみると、今年生まれて、巣立ちしたばかりのコサギの幼鳥のようです。幼鳥の頃は足全体が黄色ですが、成鳥になるに従って、足の指だけが黄色で、その他の足の部分は黒にそうです。地元で育ったのか?ほとんど人がいても無頓着(むとんちゃく=気にしない)です。
 一応、もう少し下流側にいたコサギの成鳥の写真です。見ての通り、足の指のみ黄色です。


 下の写真は、墨田区・立花六丁目付近で撮影した山車(だし)です。昔の地名である「吾嬬・葛西川町会」の文字が見えます。立花白髭神社は昔の吾嬬地区・葛西川の鎮守社(ちんじゅしゃ=土地を守る神の社)でした。
(絵画調)


(3)利根川・荒川の河川改修により、洪水の氾濫原から解放され、農地の広がった中川流域一帯ですが、それでも洪水の多い土地でした。江戸幕府・8代将軍・徳川吉宗の時代になると、中川の洪水対策の為、河川の大改修が行われます。
 吉宗の時代は、「紀州流」と呼ばれる治水方法で、連続堤を直線的に引いて、農地を増やす方法ですが、
 中川下流部の工事に関しては、川幅を広げるのが主な目的で、その際に点在していた池や沼を利用した為、「九十九曲り」と呼ばれる屈曲の激しい川となったそうです。
 冷静に考えてみれば、中川下流部は、潮の干満の影響を受け、海水が逆流する領域であり、中川の水は農業用水に向きません。上流からの農業用水で堤防内側の水を確保でき、地域の小河川から下流側の中川や新川(しんかわ)に放流していた現状に合わせた柔軟な治水対策がおこなわれたと考えます。
 下の明治時代の地図を見ると、中川の屈曲部の河川敷を広く取り、かなり内側に堤防が造られています。

 前々回に載せました明治時代・後半頃の地図を、再度載せます。(北が上です)
 真中を上下(北南)に蛇行して流れるのが、当時の中川の流れです。荒川放水路開削前ですので、現在の旧中川まで流れが続いています。真ん中の左側から中川に合流しているのが、北十間川です。
 「平井の渡し」のあった青い○印の左上に「葛西川」の文字(黄色の線)が見えます。この地区は、現在の墨田区・立花(たちばな)地区に当たります。

 赤い■印が当時の鉄道の駅ですが、真中付近に「平井停車場(現在の平井駅から少し東側付近、明治32年開業)」、左下に「亀戸(かめいど)停車場(現在の亀戸駅、明治37年開業)」、亀戸駅の上(北)側に東武鉄道(とうぶてつどう)と赤い■印の天神停車場(明治37年開業、現在の小村井駅の西側にあった)から、現在の位置との対比が可能と思います。

 前々回話したように黄色の線の部分に明治時代の地名が見えます。
 中川の左岸沿いには、墨田区の「上木下川」、「下木下川」(現在の東墨田)、「葛西川(現在の立花)」、江東区の亀戸と続きます。中川の右岸沿いには、現在の葛飾区と江戸川区にあたる「奥戸」、「上平井」、「中平井」、「下平井」、「逆井」と続き、その右側には「上小松」、「下小松」、「西小松川」の地名が続きます。

 比較用に前回も使用した江戸時代の古地図の中川沿いの地図を載せます。 江戸時代の地図ですから、位置関係が大雑把です。右が北になります。真ん中を右→左(北→南)に流れるのが中川(現在の旧中川と中川)です。左端に「逆井(さかさい)」の文字があり、逆井の渡しがあった所です。

 この地図では、「下平井」は「平井」と書かれており、燈明寺(とうみょうじ、平井聖天)の文字が書かれています。
 対岸には、「小村井(おむらい)」の地名が書かれています。現在も交差点や香取神社に「小村井」の文字が使用されています。「木下川」には、木下川薬師(きねがわやくし)も描かれています。

(4)江戸時代から明治時代に変わっても、荒川の洪水は4年に一度の割合で頻発(ひんぱつ)し、明治43年(西暦1910年)の大洪水をきっかけに、荒川放水路が計画され、翌・明治44年に着手され、大正13年(西暦1924年)に上流から下流まで通水に成功します。関連工事を含め、昭和5年に荒川放水路は完成しました。
 荒川放水路は、中川と上流にある綾瀬川(あやせがわ)の流路を分断する事になるので、荒川放水路に並行して、綾瀬川放水路をを流し、中川との合流点から両河川を合わせて、中川放水路として、下流部の河口まで流すことになりました。この結果、平井・小松川領域を流れていた中川は「旧中川」として、独立した河川になります。

 先頭のスカイツリーからの写真を左に向けて、旧中川の最上流部(中川と荒川放水路との交差部)に目を向けてみます。中間に左右(北→南)に並行して流れる荒川放水路と中川放水路に分断されなから、左奥に蛇行する中川が続いて行きます。
(絵画調)


 上の写真では遠いので、望遠で切り取った荒川放水路の向こうに続く蛇行する中川の流れです。

 中川の右(南)岸は、葛飾区の西新小岩と東新小岩(明治時代の上平井)、奥戸と続きます。
 中川の左(北)岸は、葛飾区の東四つ木、東立石、立石と続きます。昔から立石と呼ばれてた地区ですが、東四つ木の荒川放水路・綾瀬川(あやせがわ)放水路の付近は、放水路開削により移転となった浄光寺(じょうこうじ、木下川薬師)など、上木下川(かみきねがわ)地区の地名が多く残る場所です。なお、時代が変わると、「木下川(きねがわ)」→「木根川(きねがわ)」と地名が変わっていきます。

 現代の中川と荒川放水路の交差が、はっきり見える地形図です。上の明治時代の地図と比較すると、荒川放水路による地形の分断が良く分かるかと思います。
 「国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データ(図名等)を使用しました。」


(5)昭和13年(西暦1938年)の東京東部の洪水被害を教訓から、中川流域の治水が見直されることになりましたが、戦争により一時中断となります。昭和22年(西暦1947年)のカスリーン台風による大洪水により、中川の河川改修が行われましたが、下流部では新中川の開削がおこなわれ、多数の人家の立ち退きという問題を抱えながら、昭和24年(西暦1949年)~昭和38年(西暦1963年)の大工事の末に新中川の7.9kmもある放水路は完成しました。
 新中川の分流点より上流部では、河川を湾曲を緩やかにする流路変更などが行われましたが、分流点の下流側の中川屈曲部は現在まで、その地形を残す事になりました。

 下の写真は、洪水対策として造られた新中川(しんなかがわ)が中川から分岐する地点を、スカイツリーから眺めた風景です。写真中央が分岐点になり、左側に見える白い高砂橋(たかさごばし)から中川が流れてきています。
 この分岐点から上流部は、明治以降の河川改修もあり、河川の蛇行も緩やか(ゆるやか)に流れています。

 新しくできた新中川は、そのまま直線的に南(右)に流れ、江戸川区・今井水門(いまいすいもん)近くで、旧江戸川に合流します。そして、元からの中川の流れは緑の青砥橋(あおとばし)の方向に大きく流れの向きを変え、大きく蛇行をしながら今も流れを残しています。
 奥に見える雪に覆われた白い場所は、江戸川の土手と千葉県側に続く農地です。下総台地の崖(がけ)付近は緑地が多く残っています。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第93景 にい宿のわたし」です。

 広重の絵に描かれた「にい宿の渡し」は水戸街道にある渡し場であり、上の写真の新中川分岐点より、1.5km程上流にありました。現在の水戸街道(国道6号線)の中川大橋の少し上流(湾曲部)付近です。東岸には現在でも新宿(にいじゅく)という地名が残っています。

 今回も時間がなくなりましたので、続きは次回とさせていただきます。

(1)北十間川沿いの以前のブログは以下の通りです。
 「名所江戸百景001 スカイツリーの真下から」
 「名所江戸百景083 第32景 柳しま スカイツリーの夕景」
 「名所江戸百景269 第66景 五百羅漢さゞゐ堂 亀戸香取神社神幸大祭」
 「名所江戸百景102 第31景 吾嬬の森連理の梓 シャンパンツリー(逆さツリー)」
 「名所江戸百景278 第31景 吾嬬の森連理の梓 亀戸浅間神社と亀戸水神」
(2)平井周辺の以前のブログは以下の通りです。
 「名所江戸百景276 平井諏訪神社の例大祭」
 「名所江戸百景277 第67景 逆井のわたし 平井諏訪神社と旧中川」
 今年・平成28年の例大祭は、雨で残念でした。翌週の9/25(日)は天気が良く、駅まで、歌自慢を開いているのを見て、少しほっとしました。
 「名所江戸百景090 平井諏訪神社の大祭(9/14~9/16)」
 「名所江戸百景049 第67景 逆井のわたし 旧中川の白サギ(1)」
(3)浄光寺(木下川薬師)については、以下のブログです。
 「名所江戸百景051 第70景 中川口 勝海舟と西郷隆盛」
(4)にい宿の渡しの時の話は以下のブログです。(「くまドン版」では、江戸川沿いの柴又・矢切の渡しに移しました)
 「名所江戸百景030 第93景 にい宿のわたし 矢切の渡し」
 「名所江戸百景031 第93景 にい宿のわたし 柴又帝釈天」
(5)地域が少し異なりますが、先週・平成28年9月16日の少年ジャンプ42号発売で、マンガの「こちら葛飾区亀有公園前派出所」が連載40周年を迎え、コミック200巻(発行巻数が多い単一マンガシリーズでギネス世界記録)になったのきっかけに連載終了となりました。両津勘吉(りょうつ かんきち=両さん)の銅像が載っているは以下の(1)のブログです。
 「名所江戸百景074 第33景 四ツ木通用水引ふね(1) 曳舟川親水公園」
 「名所江戸百景075 第33景 四ツ木通用水引ふね(2) 葛西用水」
 作者の秋元治(あきもと おさむ)氏は、「あの不真面目でいい加減な両さんが40年間休まず勤務したので、この辺で有給休暇を与え、休ませてあげようと思います」とコメントしていました。
 「くまドン」が子供の頃から読んでいたマンガが、また一つ終わっていく事に、過ぎて行った時代の流れを感じずにいられませんでした・・・・・
 しかし、最終回は、週刊ジャンプとコミックと200巻を同時発売し、途中までは同じて、オチの展開が週刊誌と単行本とでは異なるという構成になっており、マンガの中で「両方買わせるいやらしい商法」と自虐ネタになっていました。
 コミック200巻は、本屋で登場人物辞典付きで1冊900円という値段でしたので、大丈夫か?・・・と不安を感じましたが、一週間後には3冊ともに売り切りていたようです。
 インターネット上では偽物の最終回の話が出回ったり、最終回の載っている少年ジャンプをオークションで高値で転売しているような話も聞いたりです。商魂たくましいと言うか、何と言うか・・・・・(汗)

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 日本プログ村に参加しています。良ければ、「江戸時代」と「風景写真」のどちらかを「ポチッ」応援お願いします。
(両方押しても、1日1回分ですから不要です。携帯からは無効ですので、不要です。)
にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村 (設定はINポイント順です)


名所江戸百景278 第31景 吾嬬の森連理の梓 亀戸浅間神社と亀戸水神

2016-09-24 16:25:02 | 名所江戸百景
こんにちわ。「くまドン」です。

 前回は、江戸川区・平井(ひらい)の諏訪神社(すわじんじゃ)例大祭(れいたいさい)から始まって、中川沿いにある「平井の渡し」と「逆井の渡し」について話をしました。今回は、ついでに逆井の渡しの近くにある亀戸浅間神社(せんげんじんじゃ)を久しぶりに訪れた所から話を進めます。
 下の写真は、江東区・亀戸(かめいど)にある浅間神社です。

 以前、「名所江戸百景080 第67景 逆井のわたし 亀戸浅間神社の祭」でも話しましたが、浅間神社は、富士山信仰の神社です。今回は、祭りの時期ではないので、静かでした。
(絵画調)

 江戸時代の旅行として、同じ亀戸地区にある亀戸天神に江戸の町から参拝に行く時には、舟で逆井の渡しまで行き、浅間神社から水神社などの途中の風景を楽しみながら、亀戸天神に参拝するのが当時の旅行ルートだったようです。

 浅間神社には江戸時代の道標(どうひょう、みちしるべ=当時の交通標識)があります。

 隣にあった説明板です。

 上の地図の真中にある「水神社」にあたるのが、下の写真の亀戸水神(かめいどすいじん)です。

 亀戸水神の創建は古く、正確な年代は不明ですが、室町幕府12代将軍・足利義晴(あしかが よしはる)の享禄年間頃と考えられているようです。

 下の地図は、江東区の親水公園にあった室町時代の江東区周辺の推定地図ですが、地図の下部に「亀島」「亀井戸」(現在の亀戸)の文字があり、「水神」の文字が見えます。

 江戸時代の初期までは、地図の真中を蛇行(だこう=曲がりくねって)して流れる中川(なかがわ)が、利根川(とねがわ)・荒川(あらかわ)の水を集めて流れる大河となっていました。現在の江戸川区・墨田区・江東区の3区境界付近が、その河口付近になっていました。
 当時は水害の多い地域でしたので、洪水の被害が無いように水神を祀ったのは、自然な流れといえるでしょう。

 地図の「亀島」の左に「柳島(やなぎしま)」の島がありますが、現在の北十間川(きたじっけんがわ)の南側にあたる墨田区・業平(なりひら)・横川(よこかわ)・太平(たいへい)・錦糸(きんし)地区にあたります。
 江戸時代に横十間川(よこじっけんがわ)を開削した時に、柳島の東側が切り離され、現在の江東区・亀戸地区の一部になっています。この歴史の流れから、亀戸三丁目にある亀戸天祖神社が旧柳島地区の鎮守社(ちんじゅしゃ=土地を守護する神を祀る神社)となっています。
 下の絵は、広重の名所江戸百景「第31景 吾嬬の森連理の梓」(春景)です。

 上の写真では、福神橋から、北東側(右後方)にある吾妻神社(あづまじんじゃ 吾嬬権現社)の方向を見た絵です。
 下は江戸時代の亀戸・柳島付近の地図です。右が北になります。左下に(亀戸)の文字が見えます。真ん中右側に赤みがかった○があり「天神」の文字がありますが、亀戸天神(天満宮)です。吾嬬神社は、亀戸天神(右下)の北東側にある北十間川の北(右)側になります。この地図が描かれた当時は福神橋はありませんでした。現在の墨田区の小村井(おむらい)の文字の左上に神社の鳥居(とりい)マークがあります。

 左下に「逆井」の文字がありますが、「逆井の渡し」のあった所で、地図を横に流れるのが、下(東)から現在の旧中川、横十間川、大横川(おおよこがわ)となります。地図の左(南)端を流れるのが竪川(たてかわ、首都高速7号線の下)、地図の右上(北西)から北十間川が流れています。その他にも現在では埋められて無くなってしまった川も、地図のあちらこちらに見られますね。

 今回も時間がなくなりましたので、続きは次回とさせていただきます。

(1)亀戸浅間神社の以前のブログは以下の通りです。
 「名所江戸百景080 第67景 逆井のわたし 亀戸浅間神社の祭」
 「名所江戸百景140 第67景 逆井のわたし 初詣(平成26年)」
(2)福神橋付近にある亀戸香取神社と吾嬬神社(あづまじんじゃ)の話は、
 「名所江戸百景269 第66景 五百羅漢さゞゐ堂 亀戸香取神社神幸大祭」
 「名所江戸百景102 第31景 吾嬬の森連理の梓 シャンパンツリー(逆さツリー)」
(3)諏訪神社の例大祭の以前のブログは以下の通りです。
 「名所江戸百景276 平井諏訪神社の例大祭」
 「名所江戸百景277 第67景 逆井のわたし 平井諏訪神社と旧中川」
 「名所江戸百景090 平井諏訪神社の大祭(9/14~9/16)」

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 日本プログ村に参加しています。良ければ、「江戸時代」と「風景写真」のどちらかを「ポチッ」応援お願いします。
(両方押しても、1日1回分ですから不要です。携帯からは無効ですので、不要です。)
にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村 (設定はINポイント順です)


名所江戸百景277 第67景 逆井のわたし 平井諏訪神社と旧中川

2016-09-18 00:27:47 | 名所江戸百景
こんにちわ。「くまドン」です。

 今回は、江戸川区・平井(ひらい)の諏訪神社(すわじんじゃ)例大祭(れいたいさい)から始まって、平井周辺の話や、周辺を流れる旧中川(なかがわ)や荒川放水路(あらかわほうすいろ)について、話を広げてみます。
 下の写真は、諏訪神社の例大祭の時に、JR平井駅周辺に飾られていた山車(だし)です。

 山車には「下平井」の文字が見えますが、この付近の旧地名です。
 下の地図は、明治時代頃の平井駅周辺の地図です。すでに鉄道(てつどう)が敷かれていて、真ん中の赤い■印が「平井停車場(現在の平井駅から少し東側付近、明治32年開業)」です。総武鉄道(そうぶてつどう、現在のJR総武本線)の駅でした。
 亀戸駅の右下に「下平井」の文字(黄色の線)の地名があります。
 平井の諏訪神社は、下平井の鎮守社(ちんじゅしゃ=土地を守護する神を祀る神社)です。

 地図の上から左下に蛇行(だこう、曲がりくねって)流れる川が、現在の旧中川です。青い○印の所に平井橋が架っていますが、江戸時代には橋は無く、平井橋の少し西(左)側に「平井の渡し」があった所です。平井駅と橋の中間に「聖天堂?」(黄色の線)と書かれた寺がありますが、この寺が現在の燈明寺(とうみょうじ、平井聖天、関東三大聖天の一つ)です。江戸時代の「江戸名所図会(えどめいしょずえ=地誌紀行図鑑)」にも、中川の「平井の渡し」から「平井聖天宮」まで続く道のりの絵が描かれています。
 平井の諏訪神社は、この燈明寺のすぐ隣(左)にありますが、徳川幕府・8代将軍・徳川吉宗(よしむね)の享保年間に、燈明寺の惠祐法印(えゆうほういん)が、信州の諏訪大社(すわたいしゃ)から神霊を勧請(かんじょう=分霊)したのが始まりとなります。
 下の写真は、平井橋の西側にいた旧中川のアオサギ(青鷺)です。


 さらに周辺部を広くした地図を下に載せます。
 平井駅の左下に赤い■印に「亀戸(かめいど)停車場(現在の亀戸駅、明治37年開業)」、亀戸駅の上(北)側に東武鉄道(とうぶてつどう)と赤い■印の天神停車場(明治37年開業、現在の小村井駅の西側にあった)の文字も見えます。

 平井駅の右上(北東)に「中平井」の文字(黄色の線)、そのさらに北側に「上平井」の文字(黄色の線)が見えます。
 この当時の平井村は、明治22年に「下平井」「中平井」「上平井」の三地区が合併した地区です。
 地図の境界線から判断すると、「下平井」と「中平井」の境界線は、現在の平井5・6丁目内にあるようです。
「中平井」と「上平井」の境界付近は、荒川放水路(大正2年~昭和5年の17年間の工事で完成)により失われています。「上平井」地区は、葛飾区(かつしかく)の新小岩地区(新小岩・西新小岩・東新小岩)の一部地域に当たりますが、現在では、小学校や中学校に「上平井」の名を残すのみです。
 平井に隣接する地区の当時の名称は、黄色の線のあるように、北東(右上)側に葛飾区の「奥戸(おくど)」、東(右)側に江戸川区の小松川地区の「上小松」「下小松」「西小松川」「逆井(さかさい)」、南西(左下)側に江東区の「亀戸(かめいど)」、北西(左上)側に墨田区の「上木下川」、「下木下川」(現在の東墨田)、「葛西川(現在の立花)」の地名が見えます。
 「逆井」の境界で囲まれたエリアは現在の平井2・3・4丁目の一部にあたるのですが、この「逆井」と書かれた地名が、この時代の地図の中川沿いのあちこちにみられるので、「逆井」という地名自体の意味が良く分からない所があります。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第67景 逆井のわたし」(夏景)で、上の地図では、緑の○印の場所で、現在の逆井橋のある所です。


 下の写真は、現在の逆井橋から下流方向を見た風景です。
(絵画調)

 シラサギはいないかと超望遠にズームして探してみましたが、正面の「もみじ大橋」の手前の右岸にいましたね!
 下の写真の右下にいます。


同じ日に撮影した諏訪神社の例大祭の以前のブログは以下の通りです。
 「名所江戸百景090 平井諏訪神社の大祭(9/14~9/16)」
 「名所江戸百景276 平井諏訪神社の例大祭」

 今回は、これで終わりとさせていただきます。
 今回は、時間がなくなりましたので、続きは次回とさせていただきます。

 日本プログ村に参加しています。良ければ、「江戸時代」と「風景写真」のどちらかを「ポチッ」応援お願いします。
(両方押しても、1日1回分ですから不要です。携帯からは無効ですので、不要です。)
にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村 (設定はINポイント順です)


名所江戸百景276 平井諏訪神社の例大祭

2016-09-13 23:50:22 | 名所江戸百景
こんにちわ。「くまドン」です。

 今回は、江戸川区・平井(ひらい)の諏訪神社(すわじんじゃ)の例大祭(れいたいさい)の風景からです。
 撮影したの名所江戸百景「くまドン版」を一生懸命に撮影していた頃の写真ですので、少し前の写真になります。
 JR平井駅の北口広場にあった「宮元」の町神輿(みこし)です。
 今回の写真は全て絵画調でまとめておきます。

 この日は、別の場所の撮影に行く必要がありましたので、撮影終了後に平井駅に戻ってくると、すでに神輿は出発した後でした。
 少し前に出発したばかりとのことでしたので、追いかけると、ちょうど蔵前通りの交差点を渡った所でした。

 スカイツリーが高く見える通りを神輿が、諏訪神社に向かって行く途中でした。
 神輿に追いついて、撮影開始ですが、神輿の駒札を見ると、神社の本社神輿でした。

 諏訪神社の前の通りまで来た所ですが、電柱の向こうに隣の平井聖天の屋根が見えています。

 この日は、朝から曇りの日でしたが、神輿が諏訪神社に到着した時間帯には、青空が広がり始めました!

 威勢の良い掛け声と共に諏訪神社の境内を一周です。



 最後に神社本殿の前で、拍子木(ひょうしぎ)の音が鳴り響き、神輿の渡御は終わりを告げます。


 今年・平成28年の諏訪神社の例大祭の日程は、以下の通りです。
【平井・諏訪神社の例大祭】
 平成28年 9/16(金)~9/18(日) 神輿渡御は9/18の予定です。

 9/13に現在で、台風が南の海に発生したり、日本列島に秋雨前線が停滞しているので、お天気が心配ですが、日本各地に大きな被害も無く、天気が回復して欲しいと思います。
 なお、「くまドン」は、当日は仕事日なので、撮影は無理です。

同じ日に撮影した諏訪神社の例大祭の以前のブログは以下の通りです。
 「名所江戸百景090 平井諏訪神社の大祭(9/14~9/16)」

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 相変わらず、家の用事や仕事がありますので、ブログ作成の時間が限られています。
 「くまドン」が、春から旅行に行っていないので、両親が「心配しないで、旅行にいっておいで」と気を使ってくれました。おかげで、8月と9月に江戸川区、江東区、墨田区の祭りを、それぞれ、半日ずつ撮影に行くことができました。
 すでに夏祭りの期間も終わりですので、祭り風景の残分は、また来年とさせていただきます。
 (来年まで、「くまドン旅日記」は続いているのか?という疑問はあるのですが・・・・)
 この先、このブログをどうするか感が込んでいますが、
 とりあえず、次回は平井周辺の簡単なブログを作成する予定です。

 日本プログ村に参加しています。良ければ、「江戸時代」と「風景写真」のどちらかを「ポチッ」応援お願いします。
(両方押しても、1日1回分ですから不要です。携帯からは無効ですので、不要です。)
にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村 (設定はINポイント順です)