くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

城007 秀吉の但馬攻め(2) 朝来市の陣屋

2014年08月29日 00時10分03秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、織田信長(おだのぶなが)配下の羽柴秀吉(はしばひでよし)の但馬攻めの続きです。但馬(たじま)の現在の兵庫県・北部にあたります。但馬方面は、秀吉の弟である羽柴秀長(ひでなが)の担当になります。

 4月に旅行した時は、竹田城の桜も終わっていて、朝霧もありませんでした。そこで、朝来市内の竹田城周辺にある陣屋を少し見てみる事にしました。予定外ですので、事前調査も不足して、行きあたりばったりです。
 竹田城の北側には和田山(わだやま)の町がありますが、そこから北北西に2km程離れた寺内・糸井地区に「和田山町立郷土資料館」があります。ここは、江戸時代の陣屋があった所です。

【糸井京極陣屋(いといきょうごくじんや)】
 江戸時代の4代将軍・家綱(いえつな)の寛文8年(西暦1668年)に、京極高盛(きょうごくたかもり)が丹後(たんご、現在の京都府北部)・田辺藩(たなべはん)3万5000石から、但馬・豊岡藩(とよおかはん)3万5000石に移封になります。この時に、分家の京極高門(2000石)が建てた陣屋です。
 明治以降は小学校として利用されていましたが、下の写真のように陣屋の表門が現存しています。

 門の奥に見えるのは、和田山町立郷土資料館(右)と幼稚園(左)です。
 駐車場から見た石垣ですが、門の付近も、きれいに良い状態で石垣が残っています。

 この付近には、高生田城(たこうだじょう)という山名氏の山城があったそうです。この城は、山名氏配下の福富甲斐守という人が守っていたと伝えられますが、天正5年、秀長が竹田城を攻める前に落とされた城です。ただし、小さいながらも堅城で、かなり苦労したようです。

 下の写真は、朝来市の土田地区の町並みで、奥に見える山沿いの町が寺内・糸井地区です。高生田城のあったのは、左後方の山の付近かな(?)

 糸井陣屋の近くに、もう一つの陣屋がありました。和田山の町から国道9号線沿いに西に1km程の所に土田地区があります。こちらは、出石藩(いずしはん)5万石の小出(こいで)家から1500石で分家した小出英直が建てた土田陣屋(はんだじんや)があり、明治になるまで続きました。
 写真のように、現在は住宅地となっていますので、何もありませんでした。後で調べた所、移築された門が、教蓮寺(和田山町高田119)に山門として残っているそうです。
 土田陣屋の場所を探していると、下の写真のような、土田城の標識(右下)がありました。

 土田城は、上の話にでてきた高生田城の出城(支城)としての役割です。おなじく、秀長の竹田城攻めで落城しました。
 先にネタばれをしますと、上の写真の後方に見える山が、土田城(はんだじょう、山城)です。
 そうとは知らず、「くまドン」は、城跡の標識の道を進んでいきます。少し上った所に神社がありました。

 神社の石垣が古くて立派でした。城の一部かな?と思いました。この先に、道も無いので引き返すことにしました。

 帰り道に地元の年輩の方に出会いましたので、土田城の事を聞いた所、後方の山頂が土田城で、「昔は山に登る道もあったけど、今はもう誰も通らないから無理だろうな・・・」と教えていただきました。(ありがとうございます)

 羽柴秀長が但馬に攻め込み、山名家の家臣が必死に守った時代も、天下泰平の江戸時代と明治以降の激動の歴史の中に埋もれ、平和な現代においては、遠い昔の話となっています。

 せっかく、ここまで来たのですから、土田陣屋を探している時にあった地元の神社の写真も載せておきます。

 神社の説明板もなかったのですが、地元の人以外でブログに載せているのは、「くまドン」ぐらいでは・・・・・


 前回までのブログは、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。
(1)竹田城とその周辺の過去のブログは、
 「城001 天空の城 竹田城(1) (兵庫県・百名城56番)」
 「城001 天空の城 竹田城(2) (兵庫県・百名城56番)」
 「城001 天空の城 竹田城(3) (兵庫県・百名城56番)」
 「城003 天空の城 竹田城・再訪(1) (兵庫県・百名城56番)」
 「城003 天空の城 竹田城・再訪(2) (兵庫県・百名城56番)」
 「城003 天空の城 竹田城・再訪(3) (兵庫県・百名城56番)」

 「城007 秀吉の但馬攻め(1) 竹田城・羽柴秀長」
 「城007 秀吉の但馬攻め(2) 朝来市の陣屋」 (今回分)
 「城007 秀吉の但馬攻め(3) 古墳の宝庫」
 「城007 秀吉の但馬攻め(4) 秀長の但馬平定、そして鳥取へ」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 次回は、大和郡山城の話の続きです。
 テスト的に、「城007 秀吉の但馬攻め」と「城008 大和郡山城」を並行して進めてみます。
 後で見ると分かりにくくなると思いますので、話しが一段落した所で、番号整列の為、順番を入れ替えます。
 次々回の「訪城記」は、「秀吉の但馬攻め」の続きです。

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城007 秀吉の但馬攻め(1) 竹田城・羽柴秀長

2014年08月28日 07時55分15秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回からは、秀吉の但馬攻めです。但馬(たじま)の現在の兵庫県・北部にあたります。まず、先頭は、「城001」と「城003」でも話をした「天空の城」として、大人気の竹田城(たけだじょう)です。平成25年度は、とうとう年間入場者数が50万人を突破しました。「くまドン」も2回行ってますので、その中の一人です。

 今回は、今年の4月に行った時の話ですが、下の写真は、昨年の10月に竹田城に行った時の写真です。
 夏から秋にかけて、雲海の発生する確率が上昇していきますので、楽しみな季節になってきました。

【竹田城(たけだじょう)】 百名城56番(スタンプはJR竹田駅)、国指定史跡
 別名:虎臥城(とらふすじょう)、「天空の城」、「日本のマチュピチュ」
 分類:山城
 場所:兵庫県朝来市(あさごし)和田山町竹田字古城山169
 特徴:天守は無いが、天守台を始めとする山頂に並ぶ石垣群は見事です。
     秋から冬にかけてのよく晴れた早朝に朝霧が発生することがあり、
     近くの展望台からの雲海に包まれた城の姿や、竹田城から見下ろす風景は、まさに絶景!!!
     (ただし、雲海の発生は、その時の運任せ。)

 さて、日が暮れる前に、朝の撮影スポットの立雲狭(りつうんきょう)にロケハン(下見)に行きます。
 竹田の町から、円山川を渡り、車道を登っていくと、ホテル立雲狭(ビジネス客も可と書いてありました)の看板があります。ここを右折して、細いが舗装されている林道を登っていくと、ある程度の広さがある駐車場に着きます。
 駐車場から登ってすぐの所に、第三展望台があります。竹田城が見えます。


 さて、「なぜ、竹田城が先頭になるか?」ですが・・・・
(1)安土桃山時代の天正5年(西暦1577年)10月に、織田信長(おだのぶなが)は、羽柴秀吉(はしばひでよし、豊臣秀吉)を播磨(はりま、現在の兵庫県南部)に派遣して、播磨の攻略を始めます。対抗するのは、毛利方に味方する播磨の諸勢力です。
 この時、羽柴秀吉を迎えたのは、小寺(こでら)家の家臣で、姫路城主だった黒田官兵衛(くろだかんべえ、黒田孝高)です。羽柴秀吉が播磨に入った時は順調で、播磨の諸将は味方になります。
 (この辺は、平成26年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で見た方も多いと思いますので、省略します。)

 立雲狭は、竹田城のある古城山(標高354m)と竹田の町の横を流れる円山川を挟んで、東にある朝来山(標高756m)の中腹にあります。

 無数の奇岩・巨岩・滝が点在する景勝渓谷であると同時に、但馬吉野とも称される山陰随一の山桜の名所です。毎年桜の開花期にあわせて立雲峡桜祭りが開催されます。
 4月に立雲峡に行った時は、1週間遅く、桜はすでに散っていました・・・・・・・・残念!
 それでも、雲海発生時に霧を発生させる円山川の堤防には、遅咲きの桜並木が満開でした。


(2)早くも、天正5年11月には、播磨の上月城(こうづきじょう)を攻めると同時に、秀吉は弟の羽柴秀長(ひでなが)を別働隊3000人で北の但馬方面を攻めることになりました。
 姫路城と竹田城の間には、生野銀山(いくのぎんざん)があり、この銀山を管理する太田垣氏(おおたがきし、山名四天王の一人)の竹田城を落として銀山を入手して、但馬方面の足がかりを作る事が目的でした。
 竹田城は秀吉軍のものとなり、羽柴秀長が城代(じょうだい、城周辺の守備)として治める事になりました。
 この時は、順調に山名家の豊岡城まで進攻しましたが、土地の地侍(土豪)にゲリラ戦術を仕掛けられて敗北し、竹田城付近まで後退することになります。
 その後、播磨の諸将が毛利側に寝返り、背後の荒木村重(あらきむらしげ)の謀反(むほん)するなどして、その対応に追われ、但馬方面の攻略は後回しとなります。

 とりあえず、夕日を狙いましたが、竹田城は山の中にありますので、山並みの中です。

 竹田城の見事な写真をブログを載せているkainaka-2さんは、竹田城の夜景の写真が得意で、「くまドン」も撮影してみたかったのですが、連日の早起きで、さすがに夜間撮影は、きつくなっていましたので、食事をして寝る事にしました。
 宿は、今回も和田山にあるビジネスホテル好日でしたが、前回、美味しい但馬牛を食べた和田山の国道沿いにある「太田家」さんは、満員御礼であきらめました。(やはり人気あります!)


(3)天正6年4月に明智光秀(あけちみつひで)の丹波(たんば)攻めが始まると、羽柴秀長は織田信長の命令により、明地光秀の増援に行く事になり、竹田城の東にある丹波柏原方面に兵を進めます。
 「城006 兵庫県の織田家(3) 丹波柏原藩・変わりゆく時代」の中でお話ししましたが、下の写真の柏原の八幡神社は、この時に明智光秀の陣地となり、翌・天正7年に戦火により焼失しました。現在の社殿は天正10年に秀吉が再建させた建物です。

 翌・天正7年の6月に丹後の八上城(波多野秀治)が落城、8月に丹波の黒井城(赤井忠家)が落城となり、但馬の東側にあたる丹波(明地光秀)・丹後(細川藤孝)は、織田家の勢力圏となります。

(4)天正8年(西暦1580年)になると播磨(はりま)の三木城が落城するなどして、播磨方面が羽柴秀吉によって、再度平定されることになります。
 そして、羽柴秀長による但馬攻めが再開される事になります。この時、竹田城は、毛利方の太田垣輝延が再占拠していたそうですが、秀長軍6400人が攻め寄せ、再落城となったようです。
 再び、秀長は竹田城の城代として、竹田城を起点に但馬攻めを開始する事になります。

 翌朝、立雲峡に行ってみましたが、残念ながら雲海はありませんでした。
 春でも、条件が良ければ、雲海が見れるのですが、残念でした。


 次回の「秀長の但馬攻め」は朝来市の陣屋・城跡に関する話です。

 前回までのブログは、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。
(1)竹田城とその周辺の過去のブログは、
 「城001 天空の城 竹田城(1) (兵庫県・百名城56番)」
 「城001 天空の城 竹田城(2) (兵庫県・百名城56番)」
 「城001 天空の城 竹田城(3) (兵庫県・百名城56番)」
 「城003 天空の城 竹田城・再訪(1) (兵庫県・百名城56番)」
 「城003 天空の城 竹田城・再訪(2) (兵庫県・百名城56番)」
 「城003 天空の城 竹田城・再訪(3) (兵庫県・百名城56番)」

 「城007 秀吉の但馬攻め(1) 竹田城・羽柴秀長」 (今回分)
 「城007 秀吉の但馬攻め(2) 朝来市の陣屋」
 「城007 秀吉の但馬攻め(3) 古墳の宝庫」
 「城007 秀吉の但馬攻め(4) 秀長の但馬平定、そして鳥取へ」

(2)丹波柏原の八幡神社の話は、以下のブログの最後の所です。
 「城006 兵庫県の織田家(3) 丹波柏原藩・変わりゆく時代」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 次回は、奈良県の大和郡山城の話です。
 テスト的に、「城007 秀長の但馬攻め」と並行して進めてみます。
 後で見ると分かりにくくなると思いますので、話しが一段落した所で、番号整列の為、順番を入れ替えます。
 次々回は、朝来市の陣屋・城跡の話の続きです。

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名所江戸百景201 亀戸天神の例大祭(3) 御鳳輦渡御祭

2014年08月27日 09時30分10秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、江東区の亀戸天神(かめいどてんじん)の例大祭(れいたいさい)の御鳳輦渡御祭(ごほうれんとぎょさい)の続きです。祭りの風景からランダムに並べてみました。今回も大半の写真は絵画調です。
 下の写真は、行列の先頭付近です。行列の途中に子供奉仕団の黄色や水色の幟(のぼり)が少し見えているのですが、どうしても行列の中に潜ってしまいます・・・・・

 行列が通過する町の氏子さん達が先導を務めますが、隣町との境界の所で、次の町の氏子さんが先頭を引き継ぎます。その時の引き継ぎの儀式が行われます。
 下の写真は、江東橋5丁目から江東橋1丁目への町会に、手拍子(てびょうし)で引き継ぎをする一場面です。

 この場所は、竪川(たてかわ)に架かる新辻橋ですが、橋の下にあった竪川は埋め立てられ、この付近から東側(後方)は親水公園になっています。写真上部に見える道路は首都高速7号線です。

 8月下旬のことですから、曇っていても、まだまだ暑いです。所々に休憩ポイントがあります。

 立川3丁目の休憩ポイントの風景ですが、写真の右側には元徳稲荷神社があります。神田柳原和泉橋付近にあった徳右衛門町という町が、明暦の大火(めいれきのたいか)で、火除け地として幕府用地となったため、住民がこの地(当時の本所の一部)に引っ越したのが始まりです。稲荷神社も一緒に引っ越ししました。ここも昔は徳右衛門町と呼んでいたので、元徳稲荷神社と呼ばれています。

 下の写真は錦糸町駅の線路下を行列が通過した所です。線路の上に、JR総武快速の電車が停車していました。

 沿道には、町の氏子さんが囃子(はやし)の音で、行列を迎えます。
 下の写真は、緑町の囃子です。聞いていると、楽しくなるような音色(ねいろ)です♪

 行列の中にも、音楽を奏でる人達が見えます。

 亀戸天神に近くにある天神橋まで来ると、行列とスカイツリーの組み合わせが撮影できるのが、嬉しい所です。

 天神橋の少し手前から、行列の先頭に稚児(ちご)さんが参加してきますので、華やかさ増しますね!

 自動車の通行が激しいので、道路越しの撮影は苦労しましたが、目の前をスカイダックの水陸両用船が通過して行きました。名所江戸百景の「中川口」が描かれた旧中川・川の駅まで移動中のようです。

 この時の乗客は、祭りの行列も楽しめたので、2倍お得だったようです。
 亀戸天神に到着すると、神楽殿(かぐらでん)の天神囃子の音楽が迎えてくれました。

 お天気もお昼頃には雨に降られましたが、最後に亀戸天神に到着した時には晴れて青空が広がっているという状態です。(今年の8月に撮影した翌日の氏子神輿宮入りも深川祭りの神輿行列も、最初はくもり、最後は青空晴天という展開でした。雨に降られたのは、この日だけですが・・・・最後良ければ、全て良しとするべきか・・・?)

 最後は亀戸天神の本殿の前に、鳳輦を置き、宮司(ぐうじ)さんを始めとする神官・氏子さん達により、鳳輦に乗った神様を神社に戻す還御祭が行われます。

 鳳輦渡御の儀式も終わり、日が暮れてきました。亀戸天神の境内にある提灯(ちょうちん)にも、静かに明りが灯され始めました。長かった夏の一日が終わろうとしています。

 亀戸天神の境内に「やきそば」と「カキ氷」の屋台があったのですが、8月ですから暑くてかないません!
 撮影後は、食欲よりカキ氷でした。
 ・・・・カキ氷の写真ですか?・・・・・・・・・・毎度のことですが、カキ氷を食べるのに忙しく撮影し忘れました・・・・(汗)

 亀戸天神の氏子さんの中には、墨田区にある牛嶋神社の氏子さんの両方に所属している人もいます。
 さて、亀戸天神・例大祭(8月)の本祭りは4年に一度で、次回は平成30年になるはずです。
 牛嶋神社・例大祭(9月)の本祭りは5年に一度で、平成29年になるはずです。
 亀戸天神の「氏子神輿宮入り」の写真は来年の機会があれば、作りたいと思います。(来年は陰年ですが・・・)
 さらに、亀戸香取神社・例大祭(8月)の本祭りは4年に一度で、次回は平成28年に予定、
 亀戸天祖神社・例大祭(9月)の本祭りは5年に一度で、次回は平成29年に予定、
 亀戸浅間神社・例大祭(7月)の本祭りは4年に一度で、次回は平成29年に予定と思います。
 (正確には、氏子さんの事情や社会情勢などで、変更になる場合もあります。例えば、平成23年に発生した東日本大震災により、平成23年の本祭りの多くは自粛(じしゅく)して延期になり、復興を願い、平成24年が本祭りになった所も多かったです。悲しい話ですが、年月による風化もありますので、書き残します。)

 なお、今年本祭りだった江戸三大祭りの一つ・深川祭り(富岡八幡宮)の3年に一度で、次回は平成29年です。もっとも、深川祭りは毎年何かしらの出し物があるのですが、ここは氏子領域も広いし、特別ですね。
 ややこしいのですが、亀戸天神の氏子領域と深川祭りの氏子領域の間には、深川発祥の地とされる深川神明宮とその氏子領域があります。深川神明宮の例大祭(8月)の本祭りは3年に一度で、来年・平成27年が本祭りのはずです。
 以前も書いたように、本祭りはお金がかかります。陰年(かげどし)を地味(じみ)にすることにより、予算を抑えて蓄え、何年に一度かの本祭りを行う事ができます。氏子さんの負担も考え、無理なく子孫に伝統を伝えていけるように長年の経験に支えられた本当の知恵といえるでしょう。
 それに比べて、近年の政治は、何かに理由付けて予算を増やして、国の借金はバカみたいに増やすは、一部の団体の利益目的の政策や、無計画なバラマキ(これも結果的には一部の団体の利益目的なのですが)と増税で、国民の負担を押し付け続けるのだから、迷惑の塊です!!!
 「くまドン」は消費税増税反対!8%も反対で5%に戻せ!ですからね(横道にそれるので抑えていたのですが、ひさびさの脱線です・・・)。

 以前のブログも、一応載せておきます。
(1)周辺にある神社のブログは、以下の通りです。
 「名所江戸百景080 第67景 逆井のわたし 亀戸浅間神社の祭」
 「名所江戸百景077 第70景 中川口 東大島神社とカヌー・ハゼ釣り」
 「名所江戸百景090 平井諏訪神社の大祭(9/14~9/16)」
 「名所江戸百景102 第31景 吾嬬の森連理の梓 シャンパンツリー(逆さツリー)」 
 「名所江戸百景001 スカイツリーの真下から」 (亀戸香取神社)
 右欄の「月別アーカイブ」の中で、一番古い「2013年3月」のブログ一覧が全く表示されなくなりました・・・?
 一番上のメニューバーで前のブログに移動させていくと、正常に読み込めるので、ブログはあるようです。
 しばらく様子見ですが、対応を考えなければならないかもしれません。

(2)前回も載せましたが、亀戸天神と献灯明の話は、以下のブログです。
 「名所江戸百景076 穴守稲荷と亀戸天神の献灯」
 「名所江戸百景016 第65景 亀戸天神境内 藤の花(1)」
 「名所江戸百景017 第65景 亀戸天神境内 藤の花(2)」
 「<速報>名所江戸百景 第65景 亀戸天神境内 藤の花(3)」
 「名所江戸百景164 第30景 亀戸梅屋舗 亀戸天神梅 まつり」
 「<速報>名所江戸百景 第65景 亀戸天神境内 和船でスカイツリーへ」

 「名所江戸百景199 亀戸天神の例大祭(1) 献灯明・薪神楽」
 「名所江戸百景200 亀戸天神の例大祭(2) 御鳳輦渡御祭」
 「名所江戸百景201 亀戸天神の例大祭(3) 御鳳輦渡御祭の続き」 (今回分)

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 「くまドン旅日記」のブログを見ていただきありがとうございました。

 前回も話しましたように、
・今回のブログを「名所江戸百景201 亀戸天神の例大祭(3) ・・・」とします。8月の祭りなので、1カ月程度過ぎたら、8月の亀戸天神例大祭のブログの最後に移動させます。
・前々回に作成した「名所江戸百景 第44景 日本橋通一丁目略図 日本橋・京橋まつり」も番号をつけて、
 「名所江戸百景202 第44景 日本橋通一丁目略図 日本橋・京橋まつり」にさせていただきます。

 次回は、東京(江戸)の紅葉は遅いですが、名所江戸百景の紅葉景の残分作成中です。

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名所江戸百景200 亀戸天神の例大祭(2) 御鳳輦渡御祭

2014年08月26日 12時25分42秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、江東区の亀戸天神(かめいどてんじん)の例大祭(れいたいさい)です。今年・平成26年は4年に一度の本祭りで撮影に行きました。撮影したのは8月23日の御鳳輦渡御祭(ごほうれんとぎょさい)と24日の氏子神輿連合宮入です。
 以前も話しましたように、ちょうどこの時、使用しているパソコンとインターネットの環境を変更していましたので、撮影した写真データもカメラに入れたままで、パソコンにも落とせず、9月以降も忙しかったり、体調崩したりで、10月になってから、やっと写真をパソコンに取り込んでいる有様でした。
 やっと、写真データの整理や絵画調への返還が終わりましたので、2カ月以上遅れとなりましたが、亀戸天神の御鳳輦渡御祭を2回分のブログを作ってみました。

 下の写真は、亀戸天神の社殿です。

 亀戸天神「御鳳輦渡御祭」は、他の神社では「神幸祭(しんこうさい、じんこうさい)」と呼ばれています。
 天神様が御鳳輦(ごほうれん)と呼ばれる神様の乗り物に乗って氏子(うじこ、神社の神様を信仰する人)町内を巡り、町の平安を祈る儀式です。

 亀戸天神に到着した時には、すでに行列は出発していましたが、巡幸ルートの書いてあるパンフレットをいただき、後を追います。「くまどん」の家からは近いので、自転車で移動ですから、墨田区の緑3丁目付近で追いつきました。
 下の写真が行列の先頭ですが、旗には「亀戸天満宮」と「東宮府」の文字と梅の社紋(神社の紋所)があります。
 各町内の氏子さん達が、後に続きます。亀戸天神では木遣(きやり)が先頭を務めます。
(絵画調)

【天神様と梅】
 天神様といえば、菅原道眞(すがわらのみちざね)であり、現代では学問の神様として知られています。
 平安時代に宇多天皇(うだてんのう)に重用されて寛平の治を支えた菅原道眞ですが、宇多天皇の死後は九州の太宰府(だざいふ)に左遷(させん)されてしまいます。
 京の都を去る時に、屋敷内にあった梅・桜・松の木との別れを惜しみました。この時、梅の木について詠んだのが下の歌です。
 「東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅花(うめのはな) 主(あるじ)なしとて 春な忘るな」
  現代語訳:主人(私)がいなくなっても、春が来るたび忘れること無く、梅の木よ、芳しい花を咲かせておくれ
 天神様の飛梅(とびうめ)伝説においては、道真を慕う庭木たちのうち梅だけが太宰府に飛んで行くことができたと伝わり、日本の天神様を祭る神社では梅が社紋となっています。(神社ごとに形は異なるそうです。)
 「東宮府」は、亀戸天神の別称です。(以前のブログで話をしましたので、今回は省略します。)

 下の写真は曳牛です。天神様(菅原道眞)の祭りらしさを感じさせる一つと言えます。午前中は行列で見なかったのですが、午後から行列に加わりました。

【天神様と牛】
 天神様(菅原道眞)と「牛」には色々な伝説が伝わっています。全国の天神様の神社では、神の使いとして「神牛」として扱われています。
 例えば、「道眞が亡くなり、葬送中、遺体を乗せた車を引く黒牛が動かなくなり、その場所を墓所となった。そして、その場所に社殿を建立し、御霊を祀ったことが太宰府天満宮の起源となった。」
 亀戸天神にも神牛(しんぎゅう)座像があります。神牛に触ることにより病気を治し、知恵を得ると云われています。
 (もっとも、米を経済・国力の基本とする江戸時代においては、牛馬は農耕に必要不可欠な存在であり、大事にされてきました。「すき焼き」のように牛肉を食べるようになったのは、明治時代からですが・・・)

 氏子総代や神職の後ろに「曳太鼓山車(だし)」が続きます。
(絵画調)

 曳太鼓は、天神様の御来訪を氏子町内に知らせる為の物です。

 亀戸天神の「御鳳輦渡御祭」は、江戸時代に記された祭礼絵巻に基づき復元されたものだそうです。
 下は、「天神まつり」のパンフレットにあった「祭礼絵巻」高島千春(江戸時代後期の画家)筆の一部です。

 並べた写真は行列の途中が所々抜けていますが、とりあえず話を進めます。

 この祭りにも、天狗(てんぐ)のような赤顔・鼻高の顔をした猿田彦(サルタヒコ)がいました!
(絵画調)

 後ろに榊(さかき、先端がとがった枝先は神が降りるヨリシロとされる)、社名旗、四神旗(左から青龍・白虎・玄武)が続きます。

 獅子頭山車です。亀戸天神の獅子頭(ししがしら)は大きいです!
(絵画調)

 獅子は魔よけの霊獣として、渡御のお守り役の存在になります。

 左端から、白幣(白い御幣(ごへい))、市女笠(いちめがさ) 、騎馬神職、風流傘と続きます。
(絵画調)

 市女笠は、平安時代の貴族の女性が外出する際にかぶっていた笠で、真ん中の部分が高く作られています。笠には顔を隠す為の布がかけられていますが、虫除けの役割もしています。

 風流傘の後ろに、弓、胡禄(やなぐい、弓矢を入れる容器)、翳(さしば・さしは、紫色の絵の長いうちわ)、随身(ずいじん、ずいしん)が続きます。
(絵画調)

 随身は、平安時代において、貴族が外出時する時に守りを固める警護官でしたが、神道においては、神を守る者とし安置される随身姿の像を指します。神社の門の両脇に「随身」を安置した「随身門」のある神社もあります。

 そして、天神様の乗り物である鳳輦(ほうれん)です。通常の神社の鳳輦は、鳳凰の飾りのついた神輿(みこし)ですが、牛車の形をした鳳輦は珍しく、東京都内では亀戸天神のみだそうです。

 後ろには、楯(たて)、翳(白い柄の長い団扇)、オレンジ色の梅の模様のついた花傘と続きます。
 午後は、この鳳輦の前に曳牛(神牛)がいましたが、午前中に撮影した写真ですので、牛はいません。
 江戸時代の「祭礼絵巻」にも牛車の絵が描かれています。
 下は、「天神まつり」のパンフレットにあった「祭礼絵巻」高島千春(江戸時代後期の画家)筆の一部です。


 最後は、宮司馬車(ぐうじばしゃ)です。御者つきの立派なレトロ風の乗り物です!

 でも、さすがに、馬車は江戸時代の絵巻にはありませんでした・・・・・・・
 (江戸時代以前の中世にも牛車はありましたが、馬車は明治時代になるまで日本に存在していなかったそうです。
  馬は日本中央競馬会の協力とのこと、同じ輸送車に牛も乗っていました。)

 亀戸天神の行列は、江戸時代の火消しや鳶職(とびしょく)が歌った江戸木遣り唄(きやりうた)や、厳かな囃子(はやし)の音が聞こえる中、東京下町の雰囲気が残る町を行く行列の姿が、江戸時代から続く伝統を今に伝えています。
 今年・平成26年8月23日に行われた時の御鳳輦渡御の巡行図です。(天神まつりのパンフレットより)

 氏子さんの町内を天神様が巡行することになるので、巡行ルートが氏子エリアになるはずなので、ルートから二十数地域と呼ばれる亀戸天神の氏子領域を予想してみると、以下のようになります。
 (ただし、亀戸の天祖神社や香取神社、墨田区の牛嶋神社と氏子領域が混在したり、両社の氏子の所もあります。)
 江東区 亀戸(かめいど)1~3丁目
 墨田区 太平(たいへい)3~4丁目、錦糸(きんし)1~4丁目、江東橋(こうとうばし)1~5丁目、
       緑(みどり)1~4丁目、両国(りょうごく)1~4丁目、千歳(ちとせ)1~3丁目、
       立川(たてかわ)1~4丁目、菊川(きくかわ)1~3丁目
 (巡行図と地図を見て簡単に調べたので、抜けているエリアがあったら、ごめんなさい。)

 こうして並べてみると、江東区亀戸3丁目にある亀戸天神の氏子さんの多くは、墨田区の南側にいるのです!
 しかも、竪川(たてかわ)の隅田川入口付近から、横十間川(よこじゅっけんがわ)のそばにある亀戸天神までの川沿いのルートに氏子さんが集中しています?
 不思議に思ったので、少し「くまドン」は考えてみました。(個人的な思いつきですので、信頼性ありません。念のため)

(1)亀戸天神は江戸時代以前からありましたが小さな神社でした。江戸時代の徳川4代将軍・家綱(いえつな)の時代に、明暦の大火(めいれきのたいか)で江戸の町の大半が焼けてしまい、江戸の町を復興・整理する為に、現在の墨田区南部一帯(当時は本所と呼びました)に多く町屋を移転させました。その鎮守神(ちんじゅがみ、土地を守る神)として、将軍から社地を寄進されたのが、亀戸天神です。
 その当時に江戸の町から移転してきた人達の住んでいた所が氏子さんのエリアになっているようです(例として、元徳稲荷神社のある立川3丁目)。徳川将軍家・幕府の仕事ですから、何も言わずに決定です。
 この時代に錦糸町の付近も、大名や旗本(はたもと)の下屋敷が建ち並ぶ武家屋敷に変わったそうです。
 下は、立川二丁目の町神輿(みこし)です。

 「立川」と書いて「たてかわ」と呼びます。旧字体では「竪川」と書きます。すぐ横を流れる竪川が地名です。
 (留守番の方に聞いて確認しました。ありがとうございました。)

(2)徳川幕府の初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が、行徳(ぎょうとく)の塩を輸送する為に、小名木川(こなきがわ)を開削(かいさく)したのは比較的有名な話ですが、その北に並行に走る竪川(たてかわ)は、小名木川の通行量が増大した為に造られたバイパスルートでした。
 また、南北方向にも横十間川(よこじゅっけんがわ)や大横川(おおよこかわ)が造られ、水上交通が発達した為、隅田川の東側に行く時は日本橋から船で移動することが多かったようです。(この付近は低地のため洪水になることが多く、縦横にはりめぐらせた川は、洪水時に排水路の役目も果たしていました。)
 この為、日本橋から亀戸天神に参拝(観光)に行く江戸の町の人達は船で運河を行くルートが参拝ルートになっていたと考えられます。この付近の町人が住むエリアも川に沿って集中しました。内側には武家屋敷のエリアの為、町人の住める場所は限られていました。
 結果的に竪川から横十間川の近くにある亀戸天神までの川沿いルートが氏子領域となっていったのかもしれません。

 下の写真は、現在の竪川です。川の上には、首都高速7号線が通過しています。

 江戸時代は、川の両側に町屋の地域がありました。
 竪川の西半分は今でも昔の運河が残っています。東半分は埋め立てられて、親水公園になっています。

(3)江戸時代の町家の多い所は亀戸天神までで、その東側には田園地帯が広がり、逆井の渡し口にあった亀戸浅間神社から亀戸天神までの田園風景が観光ルートになっていました。亀戸天神の東側の地域は、明治時代から昭和にかけて人口が増えて発展してきましたので、町としての発展時期にばらつきがあったようです。
 以前、「名所江戸百景080 第67景 逆井のわたし 亀戸浅間神社の祭」の話の中で、亀戸(1~9丁目)には4つの神社(亀戸天神、香取神社、天祖神社、浅間神社)があって、同じ町内でも氏子領域が分かれている話をしました。

 「名所江戸百景080 第67景 逆井のわたし 亀戸浅間神社の祭」の時に使用した地形図を再度載せておきます。
 一応、説明の補足として、地形図(大雑把な位置で、正確ではありません)を載せておきます。
 「国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データ(図名等)を使用しました。」
 下の地図の真中を蛇行して流れる太い川が隅田川(当時の荒川)です。右端を蛇行して流れる川が、江戸時代の中川(なかがわ、江戸時代以前の荒川)です。
 赤○で囲ってある所が、広重の名所江戸百景で描かれた「逆井の渡し」と「中川口」です。
 近くにある黄星印付近が亀戸浅間神社、左上の赤星印が亀戸天神ある所です。
 
 地図を見て分かりますように、江戸時代に、現在の江東区の内部に運河が縦横(じゅうおう)に造られました。
 江戸の町の人達は、亀戸方面に行く場合、舟で「逆井の渡し」まで行き、そこから陸路で亀戸浅間神社へ行き、古道を通って、名所江戸百景で描かれた「亀戸天神」や「梅屋敷」、「吾嬬(あづま)の森」に参拝へ行ったわけです。
 北十間川(きたじゅっけんがわ)と横十間川(よこじゅっけんがわ)の合流部が「柳島(やなぎしま)」の所です。
 (この付近の話は、最初の「名所江戸百景001 スカイツリーの真下から」でやりましたので、割愛します。)

 以前のブログは、以下の通りです。
(1)「名所江戸百景080 第67景 逆井のわたし 亀戸浅間神社の祭」
(1)亀戸天神と献灯明の話は、
 「名所江戸百景076 穴守稲荷と亀戸天神の献灯」
 「名所江戸百景016 第65景 亀戸天神境内 藤の花(1)」
 「名所江戸百景017 第65景 亀戸天神境内 藤の花(2)」
 「<速報>名所江戸百景 第65景 亀戸天神境内 藤の花(3)」
 「名所江戸百景164 第30景 亀戸梅屋舗 亀戸天神梅 まつり」
 「<速報>名所江戸百景 第65景 亀戸天神境内 和船でスカイツリーへ」

 「名所江戸百景199 亀戸天神の例大祭(1) 献灯明・薪神楽」
 「名所江戸百景200 亀戸天神の例大祭(2) 御鳳輦渡御祭」 (今回分)
 「名所江戸百景201 亀戸天神の例大祭(3) 御鳳輦渡御祭の続き」 (次回分)

 長くなりましたので、今回は、これで終了とさせていただきます。
 「くまドン旅日記」のブログを見ていただきありがとうございました。

 上でも話しましたように、ちょうどこの時、インターネットの環境を変更していましたので、手違いを思うようにプログの変更もできず、「名所江戸百景199 亀戸天神の例大祭(1) ・・・・」が抜けてしまいました。
 色々考えてみましたが、以下のように変更させていただきます。
・8月に作成した「名所江戸百景200 亀戸天神の例大祭(2) ・・・・」を「名所江戸百景199 亀戸天神の例大祭(1) ・・・・」に変更。
・今回のブログを「名所江戸百景200 亀戸天神の例大祭(2) ・・・」とします。8月の祭りなので、1カ月程度過ぎたら、8月の亀戸天神例大祭のブログの後に移動させます。

 次回は、名所江戸百景の残分か、または、8月の亀戸天神の例大祭の続きのどちらかです。

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名所江戸百景199 亀戸天神の例大祭(1) 献灯明・薪神楽

2014年08月25日 07時55分20秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、江東区の亀戸天神(かめいどてんじん)の例大祭(れいたいさい)の続きです。今年・平成26年は4年に一度の本祭りでしたが、現在、環境を変更している最中でしたので、思うように内容を変更できず、本祭りの大半は終ってしまいました。とりあえず、最後の献灯のみの話になります。

 亀戸天神に向かう途中に撮影した旧中川(きゅうなかがわ)の写真です。8月最後の休日で、暑い日でしたが、風は涼しさを感じさせる一日でした。

 川の左側が墨田区・亀戸、右側は江戸川区・平井(ひらい)です。

 亀戸天神の境内で見かけた一風景です。清めの塩(?)をかけている量が半端ではないです。


 例大祭の最終日に行われる献灯明(けんとうみょう)の風景です。

 夜の境内に、神前から分けられた1000個以上の灯明が灯り、静寂の闇につつまれます。
 灯明の灯りは、天神様(てんじんさま=菅原道真)の霊をお守りしていることを表しています。

 同時に、かがり火の中での薪神楽(たきぎかぐら)が行われます。その一場面からです。

 昼間とは異なる囃子(はやし)の音が雰囲気を物語ります。

(絵画調)


 一応、今年・平成26年の情報も、再度載せておきます。
【 亀戸天神社 例大祭 】
 日時: 8月21日(木)~25日(月) 
     8月21日(木)宵宮 御鳳輦・神社神輿蔵出
     8月22日(金)例大祭祭典
     8月23日(土)御鳳輦渡御祭(ごほうれんとぎょさい)・稚児行列
              (昼)9:00~16:00 天神囃子・青空個展市
              (夜)19:00~野外コンサート
     8月24日(日)氏子神輿連合宮入 25基の神輿の宮入りです!
              (昼)里神楽・子供太鼓奉納
              (夜)津軽三味線・琉球三線、子供お祭り広場(ミニ縁日)
     8月25日(月)献灯明(けんとうみょう)・薪神楽(たきかぐら)、子供お祭り広場(ミニ縁日)

 夜景が多いので、昼間の写真を、もう一枚のせておきます。夏が終わりなのに、ひまわりが結構、咲いていました。

 手前が、江戸川区・小松川(こまつがわ)、川の向こうが、江東区・大島(おおじま)です。

 昨年・平成25年に作成したブログは以下の通りです。
(1)亀戸天神と献灯明の話は、
 「名所江戸百景076 穴守稲荷と亀戸天神の献灯」
 「名所江戸百景016 第65景 亀戸天神境内 藤の花(1)」
 「名所江戸百景017 第65景 亀戸天神境内 藤の花(2)」
 「<速報>名所江戸百景 第65景 亀戸天神境内 藤の花(3)」
 「名所江戸百景164 第30景 亀戸梅屋舗 亀戸天神梅 まつり」
 「<速報>名所江戸百景 第65景 亀戸天神境内 和船でスカイツリーへ」
(2)城南島公園と羽田・穴守稲荷の話は、
 「名所江戸百景082 第72景 はねたのわたし弁天の社 羽田空港」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 「くまドン旅日記」のブログを見ていただきありがとうございました。
 当分、環境変更中なので、撮影してきた写真も、思うようにパソコンに取り込めない状態が続いています。
 とりあえず、この後は、作成済みのお城周りの話を更新して行きます。

 次回は、訪城記の予定です。

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