こんにちわ、くまドンです。
今回は、鳥取砂丘(とっとりさきゅう)と鳥取城の撮影の話です。
前回の竹田城(たけだじょう)の2日目からの続きです。
一応、鳥取城の簡単な情報です。
【鳥取城(とっとりじょう)】 百名城63番(スタンプは鳥取城内の「重要文化財 仁風閣」内)、国指定史跡
別名:久松山城
分類:山城 →平山城
場所:鳥取県鳥取市東町
特徴:山の上にある戦国事態からの山城部分と、江戸時代に整備された麓(ふもと)の近代城郭部分に分かれる。
関ヶ原の戦いの後、池田長吉(いけだながよし、池田輝政の弟、鳥取藩6万石)が治めることになり、
麓(ふもと)に近世城郭の二の丸・三の丸などを造る大改修を行う。
天球丸の石垣のたわみを防ぐために球面を持つ巻石垣が有名です。
昭和の半ばから、石垣の修復が進み、往時の姿がよみがえりつつあります。
下の写真が、鳥取城です。天守台は、後方に見える久松山(きゅうしょうざん)の「山上の丸」にあります。
織田信長軍の命により行われた羽柴(豊臣)秀吉の中国攻めで、毛利家の吉川経家(きっかわつねいえ)が守る鳥取城を、兵糧攻めで降伏させた時は、まだ、山の上丸を中心とした山城でした。
その後、秀吉配下の宮部 継潤(みやべけいじゅん、五奉行の一人)が城主となります。
写真の下半分の城らしい石垣が見える所は、「山下の丸」と呼ばれてます。
江戸時代の鳥取藩6万石の藩主・池田長吉によって、近代城郭に改修された所です。
2代将軍・徳川秀忠の時に、池田光政(いけだ みつまさ、姫路城藩主・池田輝政の孫、池田家・宗家)が幼少との理由で、姫路藩から移封となり、32万石の大藩となったため、石高に見合う城の改築を行い、現在の石垣が出来上がっています。
3代将軍・徳川家光の時に、今度は岡山藩(31万5千石)の池田家の藩主の跡継ぎ・池田 光仲(いけだ みつなか池田輝政の孫、池田家・分家)が幼少との理由で、岡山藩と鳥取藩の藩主が交代となり、幕末まで続きました。
結果的には、江戸時代の鳥取藩は、池田家が交代で治めていた事になります。
真ん中の右側に見える小高い石垣の見える所が、鳥取城の「二の丸」の御三階櫓台です。
その右にある建物が仁風閣(明治40年建造)です。
仁風閣のある手前の内掘の向こう側は「丸の内」と呼ばれた所です。
二の丸に登って行くところにある復元された城門(昭和50年再建)です。
下の写真は、算木積み(さんぎづみ)です。石垣の角部分に使用される積み方で、長方体の石の長辺と短辺を、交互に重ね合わせることで、強度を増しています。石垣の石を見ると、大きさと形にばらつきがあります。
鳥取城の改築は江戸初期の慶長年間から、幕末期の嘉永年間まで行われています。
この為、鳥取城の石垣は、野面積みから、打ち込みハギを経て、切り込みハギに進化していた歴史を見る事が出来ます。
下の写真は二の丸の御三階櫓台の石垣です。
隅石(角部分)を比べると、上の写真と同じ算木積ですが、奇麗に成形された石を使用しています。
二の丸から「天球丸(てんきゅうまる)」への登り口には、お稲荷さんがあります。
時折、雲の隙間から夕日も差してきます。
天球丸には、池田長吉の姉の「天球院」が居住していたことで知られています。
天球丸にも三階櫓があったそうで、二の丸の御三階櫓と並んで立っていたそうです。
天球丸の石垣は、復元に伴う発掘調査の結果、宮部時代にあった石垣を元に、池田長吉の時代に多段の石垣に拡張され、さらに池田光政の時代に現在のような凸型の石垣に拡張されていきました。
この天球丸の下の石垣には、鳥取城の代名詞となっている「巻石垣(まきいしがき)」があります。
下の写真にある亀の甲羅(こうら)状の石垣です。角を持たない形状から巻石垣と呼ばれています。
文化4年(1807年)頃に、石垣が崩れそうになり、それを防ぐ目的で築かれています。
川の護岸(ごがん)や港の突堤(とってい)に関わりのある職人が築いたとされています。
この形の石垣は、鳥取城以外にはないそうで、絵図を元に復元した石垣です。
天球丸の下は整備中の為、巻石垣を下から見る事はできませんでした。
すでに、日没までの時間も少なくなり、日も西の雲の中に沈みましたので、吉川経家が指揮を執った天守台のある山上の丸は、あきらめることにしました。
二の丸から見た仁風閣(重要文化財、観覧料150円)と鳥取の町です。
仁風閣は、明治40年の大正天皇(当時は皇太子)の宿泊施設として建てられた旧鳥取藩主(明治時代は侯爵)の別邸です。フレンチ型ルネッサンス様式を基調とした白色塗装の木造瓦葺二階建てです。
仁風閣の先にある掘は、内堀ですから、江戸時代には、その先の鳥取市街まで城が広がっていたのです。
明治時代の洋風の部屋の中にある照明器具が、レトロ調で凝っています。
仁風閣から二の丸を眺めた景色です。
建物の正面は、櫛形(くしがた)破風の棟飾りを主要モチーフとして造られています。
今回の訪城記の話は終わりです。
次回からは、再び、名所江戸百景の続きになります。大分、期間が空いてしまいましたので、急がなければ(汗)
日本プログ村に参加しています。良ければ、「ポチッ」応援お願いします。(携帯からは無効ですので、不要です。)
今回は、鳥取砂丘(とっとりさきゅう)と鳥取城の撮影の話です。
前回の竹田城(たけだじょう)の2日目からの続きです。
一応、鳥取城の簡単な情報です。
【鳥取城(とっとりじょう)】 百名城63番(スタンプは鳥取城内の「重要文化財 仁風閣」内)、国指定史跡
別名:久松山城
分類:山城 →平山城
場所:鳥取県鳥取市東町
特徴:山の上にある戦国事態からの山城部分と、江戸時代に整備された麓(ふもと)の近代城郭部分に分かれる。
関ヶ原の戦いの後、池田長吉(いけだながよし、池田輝政の弟、鳥取藩6万石)が治めることになり、
麓(ふもと)に近世城郭の二の丸・三の丸などを造る大改修を行う。
天球丸の石垣のたわみを防ぐために球面を持つ巻石垣が有名です。
昭和の半ばから、石垣の修復が進み、往時の姿がよみがえりつつあります。
下の写真が、鳥取城です。天守台は、後方に見える久松山(きゅうしょうざん)の「山上の丸」にあります。
織田信長軍の命により行われた羽柴(豊臣)秀吉の中国攻めで、毛利家の吉川経家(きっかわつねいえ)が守る鳥取城を、兵糧攻めで降伏させた時は、まだ、山の上丸を中心とした山城でした。
その後、秀吉配下の宮部 継潤(みやべけいじゅん、五奉行の一人)が城主となります。
写真の下半分の城らしい石垣が見える所は、「山下の丸」と呼ばれてます。
江戸時代の鳥取藩6万石の藩主・池田長吉によって、近代城郭に改修された所です。
2代将軍・徳川秀忠の時に、池田光政(いけだ みつまさ、姫路城藩主・池田輝政の孫、池田家・宗家)が幼少との理由で、姫路藩から移封となり、32万石の大藩となったため、石高に見合う城の改築を行い、現在の石垣が出来上がっています。
3代将軍・徳川家光の時に、今度は岡山藩(31万5千石)の池田家の藩主の跡継ぎ・池田 光仲(いけだ みつなか池田輝政の孫、池田家・分家)が幼少との理由で、岡山藩と鳥取藩の藩主が交代となり、幕末まで続きました。
結果的には、江戸時代の鳥取藩は、池田家が交代で治めていた事になります。
真ん中の右側に見える小高い石垣の見える所が、鳥取城の「二の丸」の御三階櫓台です。
その右にある建物が仁風閣(明治40年建造)です。
仁風閣のある手前の内掘の向こう側は「丸の内」と呼ばれた所です。
二の丸に登って行くところにある復元された城門(昭和50年再建)です。
下の写真は、算木積み(さんぎづみ)です。石垣の角部分に使用される積み方で、長方体の石の長辺と短辺を、交互に重ね合わせることで、強度を増しています。石垣の石を見ると、大きさと形にばらつきがあります。
鳥取城の改築は江戸初期の慶長年間から、幕末期の嘉永年間まで行われています。
この為、鳥取城の石垣は、野面積みから、打ち込みハギを経て、切り込みハギに進化していた歴史を見る事が出来ます。
下の写真は二の丸の御三階櫓台の石垣です。
隅石(角部分)を比べると、上の写真と同じ算木積ですが、奇麗に成形された石を使用しています。
二の丸から「天球丸(てんきゅうまる)」への登り口には、お稲荷さんがあります。
時折、雲の隙間から夕日も差してきます。
天球丸には、池田長吉の姉の「天球院」が居住していたことで知られています。
天球丸にも三階櫓があったそうで、二の丸の御三階櫓と並んで立っていたそうです。
天球丸の石垣は、復元に伴う発掘調査の結果、宮部時代にあった石垣を元に、池田長吉の時代に多段の石垣に拡張され、さらに池田光政の時代に現在のような凸型の石垣に拡張されていきました。
この天球丸の下の石垣には、鳥取城の代名詞となっている「巻石垣(まきいしがき)」があります。
下の写真にある亀の甲羅(こうら)状の石垣です。角を持たない形状から巻石垣と呼ばれています。
文化4年(1807年)頃に、石垣が崩れそうになり、それを防ぐ目的で築かれています。
川の護岸(ごがん)や港の突堤(とってい)に関わりのある職人が築いたとされています。
この形の石垣は、鳥取城以外にはないそうで、絵図を元に復元した石垣です。
天球丸の下は整備中の為、巻石垣を下から見る事はできませんでした。
すでに、日没までの時間も少なくなり、日も西の雲の中に沈みましたので、吉川経家が指揮を執った天守台のある山上の丸は、あきらめることにしました。
二の丸から見た仁風閣(重要文化財、観覧料150円)と鳥取の町です。
仁風閣は、明治40年の大正天皇(当時は皇太子)の宿泊施設として建てられた旧鳥取藩主(明治時代は侯爵)の別邸です。フレンチ型ルネッサンス様式を基調とした白色塗装の木造瓦葺二階建てです。
仁風閣の先にある掘は、内堀ですから、江戸時代には、その先の鳥取市街まで城が広がっていたのです。
明治時代の洋風の部屋の中にある照明器具が、レトロ調で凝っています。
仁風閣から二の丸を眺めた景色です。
建物の正面は、櫛形(くしがた)破風の棟飾りを主要モチーフとして造られています。
今回の訪城記の話は終わりです。
次回からは、再び、名所江戸百景の続きになります。大分、期間が空いてしまいましたので、急がなければ(汗)
日本プログ村に参加しています。良ければ、「ポチッ」応援お願いします。(携帯からは無効ですので、不要です。)