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名所江戸百景058 第78景 鉄砲洲築地門跡 築地本願寺の盆踊り(1)

2013-07-30 12:25:04 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回の話は、中央区(ちゅうおうく)にある築地本願寺(つきじほんがんじ)の盆踊り(ぼんおどり)大会です。

 ブログ作成が間に合わず、盆踊り大会の前日になってしまいましたので、完成が間に合いません。
 前半部を切り取って、ブログ更新します。

 まずは、今年、平成25年(2013年)の盆踊り大会の日程から
第66回 築地本願寺納涼盆踊り大会
 日時: 平成25年7月31日(水)~8月3日(土) 19:00~21:00 (最終日は18:00~20:30)
 イベント: 全日: 盆踊り、「大江戸助六太鼓」の生演奏
      8月2日: 仮装大会 女装・男装・コスプレ・着ぐるみなんでも参加自由です!(更衣室なし。注意!)
      露店(ろてん)は、築地市場からの出店あり。(「クマドン」のような食いしん坊には、これが最高!!)
      ただし、人気があるので、祭りの前半で、売り切れ続出 (注意!!!)

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第78景 鉄砲洲築地門跡」(秋景)です。

 手前の水面は、現在の隅田川(すみだがわ)から築地方面を、俯瞰(上から下を見下ろす)で眺めた構図です。
 江戸時代は、対岸の中央区月島(つきしま)は、まだ無く、佃島(つくだじま)は、隅田川の河口部の島でしたから、東京湾の上から眺めている事になります。飛行機・ヘリコプターも無い時代ですから、浮世絵師の想像のなせる技でしょう。
 近景の舟の帆(ふねのほ)を大きく切り取り、奥に行く程、小さくなる遠近法を使用してるにも関わらず、築地本願寺の屋根は大きく、その大きさが強調されています。

【築地本願寺(つきじほんがんじ)】
 2代秀忠(ひでただ)の元和年間に、京都(きょうと)にある西本願寺(にしほんがんじ)の別院(べついん、本寺所属の子院)として、浅草近くの横山町(現在の中央区日本橋横山町か?)に建てられました。
 4代家綱(いえつな)の時に、明暦の大火(めいれきのたいか)で、本堂が焼けてしまいました。
 その後の徳川幕府の区画整理の結果、旧地での再建は認められず、割り当てられた土地は、
 なんと、当時は江戸湾の海だった八丁堀(はっちょうぼり)の沖合でした。(何故、海の上・・・・・????)


 しかし、江戸時代の宗教に対する信仰心は強く、佃(つくだ、現在の中央区佃島)の門徒(もんと)が中心になって、海を埋め立てて、本堂を再建する土地を築いてしまったそうです。・・・・・・・(汗)
 この為、この付近の地名が「築地(つきじ)」となったそうです。

 こうして、明暦の大火から22年後に、「築地御坊」として再建されたそうです。
 さらに、現在の築地の場外市場(じょうがいしじょう)付近が門前町(もんぜんまち)となっていったそうです。

 江戸時代は、広重の絵に描いてある本堂の大きな屋根が、ランドマーク的役割を果たしていました。
 以前、お話しいたしました「名所江戸百景047 第21景 芝愛宕山 ほおずき市」でも、築地本願寺の屋根は描かれていることを説明いたしました。築地本願寺が、遠方からも目立つ建物であった事を示しています。

 大正12年の関東大震災(かんとうだいしんさい)後に発生した火災により、江戸時代からの大小の寺院は焼失してしまいました。

 こうして、新たな本堂を建てることになったのですが、・・・・・・・・・・

 当時の西本願寺(浄土真宗本願寺派)の法主と親交のあった、東京帝国大学(現在の東京大学)工学部教授・伊東忠太による設計となりました。

 なんと、仏教の生まれたインド様式で造られたのが、現在の築地本願寺の建物です。

 この二人、かなり変わった人で、当時のお寺としては、珍しい鉄筋コンクリート造りの上に、大理石(だいりせき)の彫刻もかなり凝った造りになっています。
 昭和初期の頃の話ですが、当時の本願寺門徒は、これを見て、どのように思ったのでしょうか・・・・・・・・???? 
 色々あったらしいのですが、時代は変わり、現在では、築地の街の代表的な顔となり、本堂と石塀が国の登録有形文化財に登録されています。

 さらに、建物内部には、ヨーロッパのパイプオルガンがあり、毎月最終金曜日の12:20~12:50に、コンサートを開いているそうです。

 和洋印(日本・西洋・インド)混在の、なんというか・・・・その珍しいお寺です。

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 次回は、築地本願寺の盆踊り大会の続きになりますが、盆踊り大会中の更新になりそうです。


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名所江戸百景057 第59景 両国橋大川ばた 両国橋・柳橋の夜景

2013-07-29 19:30:28 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、前回の柳橋からの続きとして、浅草橋から両国橋(りょうごくばし)までの話題をとりあげます。
 下の写真は、両国橋の墨田区側から、柳橋に向かって撮影した写真です。
(絵画調)

 柳橋は、緑色の美しいライトアップが特徴ですが、この時は下見に行った時で、天気は曇りで、空に街の光が反射して、絵画調にすると、白く飛んでしまいました。後日、再挑戦となりました。

【両国】
 さて、両国と言う地名は、「武蔵野国」(むさしのくに)と「下総国」(しもうさのくに)との間にある所を指しています。

 江戸時代の初期においては、、「武蔵野国」(むさしのくに)と「下総国」(しもうさのくに)の境は、現在の隅田川だったそうです。(古い時代の利根川・荒川の本流は、洪水のたびに、流れが変わっていました)
 4代将軍・家綱(いえつな)の時代に両国橋が架けられます。江戸時代は、「大橋」と言う名前でしたが、二つの国にまたがっていた事から「両国橋」と呼ばれるようになりました。
 同じ頃に、隅田川の東から、現在の江戸川(利根川の東遷により、利根川の本流になる)の西側までのエリアが武蔵野国に編入されました。(編入時期が2説あって、前後関係がはっきりしていません。)
 両国橋の架橋(かきょう)により、隅田川の東側が便利になり、街が隅田川を超えて、発展していきます。そこが、現在の墨田区両国の周辺となります。

 隅田川に架かる橋の歴史については、「名所江戸百景018~020 隅田川の大橋(1)~(3)」でふれましたので、割愛させていただきます。


 下の絵は、広重の名所江戸百景「第59景 両国橋大川ばた」(夏景)です。

 絵の表現としては、俯瞰(ふかん、上から下を見下ろす)で描かれていますが、他の名所江戸百景に見られる極端な遠近法は使用しておらず、比較的、素直な構図となっています。
 川と橋を斜めに配置して、両国橋の全てを描かず、橋の両側を絵の外側に出している所は、広重の名所江戸百景らしいかもしれません。

 絵では、両国橋には多くの人が通り、隅田川には多くの物資を運ぶ船が行き交っていて、交通・経済の要所であった事が分かります。
 また、絵の左側外には、前回お話ししました「柳橋」の船宿があり、絵には水遊びをしている屋形舟が描かれています。
 そして、隅田川の岸辺に立つ休み処のような店が建ち並び、江戸の行楽地であったことを窺う(うかがう)ことができます。

【浅草橋】
 JR総武線(そうぶせん)の浅草橋駅の出口を出ると、周辺は問屋街(とんやがい)となっています。
 駅の周囲で目立つのは、人形専門店の看板でしょう。

 江戸時代に創業している「久月」や「吉徳」を含めて、「五月人形」の専門店が4軒も本店を構えています。
 こういう土地柄なのか、JR浅草橋駅の駅内にも、人形が飾ってあります。

 浅草橋駅から、南に100m程歩くと、浅草橋があります。
 浅草橋は、神田川(かんだがわ)に架かる橋ですが、神田川は、JR総武線の飯田橋駅の所から、隅田川に合流する所までは、江戸城の外堀の役割を果たしていました。
 この浅草橋を渡った所に、江戸城の「浅草見附門(あさくさみつけもん)」がありました。

 浅草橋から東にある柳橋(やなぎばし)方向を見て、橋の右手に郵便局のあるビルがあります。
 このビルの右手の道を少し行くと、左手に初音森神社があります。

【初音森神社(はつねもりじんじゃ)】
 この神社は、名所江戸百景で、他の方のブログを初めて見た時は驚きました。
 下の写真のように、ビルの1階に鳥居があり、階段を登っていくと、2階に神社があるのですから・・・・

 さて、神社にあった名所江戸百景の説明板によると、
 (歴史も、年月と共に、新しい資料が見つかり、変わっていくので、正確にはわかりませんが、)
 この辺一帯は、古くは、「初音の里」と呼ばれ、近くにある大きな通りの交差点付近は「初音の森」と呼ばれる森が広がっていました。初音森神社は、この森にありました。
 戦国時代の天文年間頃に、社前に馬場(ばば、軍馬の育成所・訓練所)ができたそうです。

 江戸時代になり、3代家光(いえみつ)の時に、浅草橋に浅草見附門が造られ、境内地が半分となりました。
 さらに、4代家綱(いえつな)の時の明暦の大火(めいれきのたいか)の後の火避地(ひよけち)としての土地区画整理に結果、残りの土地も、関東郡代(かんとうぐんだい)の屋敷用地となってしまい、現在の墨田区千歳に代替地が与えられ、引っ越しとなってしまいました。この時、初音の馬場も、大きさが縮小されたそうです。
 しかし、初音森神社が引っ越しになっても、氏子さんである町の人達は、そこに住んでいます。江戸時代は、わざわざ、隅田川を渡って、参拝に行っていたそうです。
 昭和23年に、本社が遠いので、現在の場所に摂社(せっしゃ、本社の管理下にある神社)が建てられました。
 (本社は、まだ、墨田区にあるそうです。)

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第6景 馬喰町初音の馬場」(春景)です。

 広重が、名所江戸百景を描いた時は、初音森神社は、ここに無く、初音の馬場も縮小されていました。
 広重の絵に描かれた場所が、初音の馬場らしいのですが、細長い馬場を絵では表現せず、横に曲線を描いて、絵の右外に流れる反物(たんもの)が、絵に動感と広がりを与えています。

 この絵が描かれた馬喰町(ばくろちょう)の「初音の馬場」の場所は、
 現在の中央区日本橋馬喰町(にほんばしばくろちょう)1丁目14番地付近(靖国道路の南側)です。
 前述の初音森神社の近くにある「浅草橋」交差点の南西側(対角)にあります。
 現在はビル街となっていて、当時の面影は残していませんので、自由に使用できる景として、別の場所に変更して、使用させていただきます。

 下の写真は、神田川に架かる柳橋から、浅草橋方面を撮影した写真です。(下見の時に撮影した写真です。)
(絵画調)


【柳橋の芸妓(げいぎ)】
 柳橋の芸者(芸気)の歴史は古く、11代家斉(いえなり)頃からあり、柳橋は料亭も多く、花街(はなまち)として賑わいました。
 柳橋は、江戸商人や文化人の奥座敷となり、明治以降も政治家・経営者・力士などが客層として存在しました。
 その為、柳橋の芸者は、芸の技や教養(きょうよう)で高いレベルを必要とされていました。
 (現代でいえば、歌・踊り・演奏が全て上手で、頭も良いという感じでしょうか)
 以前、明治時代には、芸者はアイドル的扱われ方をしていた話をしましたが、「柳新二橋」(りゅうしんにきょう、柳橋と新橋)と呼ばれ、中でも「柳橋」は、別格に扱われていたそうです。

 両国から見た柳橋のアップです。


 昭和の高度成長期を過ぎた頃から、レジャーの多様化、隅田川・神田川の水質汚染・堤防による景観遮断、バブル景気の崩壊などで、顧客も減り、平成11年に最後の料亭「いな垣」の廃業と共に、芸妓組合も解散となり、高い技と誇り(ほこり)と共に長い歴史の幕が下りることになりました。

 両国橋から、北側を撮影した写真です。スカイツリーのライトアップは粋(いき)です。

 正面に見える橋は、JR総武線の架橋です。右を走るは、首都高速6号線。

 さて、前回の「名所江戸百景056・・・」で、柳橋の撮影後に、今度は両国橋に移動して再挑戦です。
 8月初め頃の日没は18:50頃と遅く、隅田川の親水テラスで、のんびり暗くなるのを待ちます。
(絵画調)

 正面から流れてくる川が神田川、左端にあるのが、両国橋です。

 太陽は雲に隠れましたが、時折、街に日が差し込みます。

 柳橋から、また一隻、屋形船が出港していきます。

 ライトアップの時間になりました。空の色が徐々に暗くなっていき色づくのと、動いている屋形船が中途半端にぶれ過ぎていない写真を選びました。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第59景 両国橋大川ばた」に対応する「くまドン版」の景(夏景・確定)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作る事を第一目標にしています。)

 この景は、現在でも、広重の「名所江戸百景」と同じ方向から両国橋を撮影できます。
 広重の「名所江戸百景」とは、撮影位置も方向も事なりますが、最初の取り決めとして、「くまドン」版では、撮影の表現の自由度を上げる為に、こだわらないことにしています。



 今回は、これで終わりとさせていただきます。
 夜になると雷雨になり、足立・葛飾・両国の花火大会が中止・中断になって残念ですが、今後に期待したい所です。

 次回は、夏の祭りに関する景の予定ですが、この景作成に手間取り、期日までに間に合うか・・(汗)


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名所江戸百景056 第60景 浅草川大川端宮戸川 柳橋と屋形船

2013-07-26 21:30:44 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 前回の両国花火(りょうごくはなび=隅田川花火)に続き、柳橋(やなぎばし)と屋形船(やかたぶね)の話です。
(絵画調)

 JR総武線(そうぶせん)の浅草橋駅(あさくさばしえき)から、南へ100m程行くと、「浅草橋」という橋があります。
 上の写真は、浅草橋から柳橋方向を見た写真です。
 (2012年の8月上旬の土曜日の夕方17:00~18:00頃に撮影しました写真です。)

 真ん中を流れる川が「神田川(かんだがわ)」で、奥に見える緑色の橋が「柳橋」で、柳橋の向こう側30m程の所で、神田川は隅田川に合流します。
 神田川の右岸は、中央区(ちゅうおうく)の東日本橋、左岸は、台東区(だいとうく)の柳橋、奥の隅田川の対岸に見えるのが、墨田区(すみだく)の両国で、3区の境界部になっています。
 この付近は、屋形船の船宿(ふなやど)が多くあります。


 下の絵は、広重の名所江戸百景「第60景 浅草川大川端宮戸川」(夏景)です。

 まず、題名から説明いたしますと、現在の隅田川は、江戸時代においては、浅草付近で「浅草川」や、「宮戸川(みやとがわ)」と呼び、それより下流を「大川端(おおかわばた)」と呼んでいました。
 この題名は、「隅田川」を3連呼している不思議な題名になっています・・・・・・・???

 この絵は、両国橋から北の浅草方面の隅田川を眺めています。遠方には、筑波山(つくばさん)が見えています。
 絵は、遠近法を用いて描かれ、川に浮かぶ舟の大きさなどにより、遠近感を表現すると同時に、江戸時代の隅田川が、屋根のある屋形船を含め、色々な種類の船でにぎわっていたことを示しています。

 広重の「名所江戸百景」の特徴ともいえる近景構図(近くの物を極端に大きく描く)が取り入れられています。
 この中で、まず、目につくのは、左手前の大きな棒でしょう。
 良く見ると、左下に人の頭らしきものが描かれています。さらに、右側にも、同じ形の棒を持った舟が浮かんでいます。
 山岳信仰(さんがくしんこう)の一つとしてあった大山講(おおやまこう)の一団だと言われています。

 下の絵は、両国橋の墨田区(東)側の親水テラスに描かれている両国花火の絵の一枚です。

 絵の右下に泳いでいる人達も、「大山講」に行く前の人達で、隅田川で水ごり(冷水を浴びて、心身を清める修験道の言葉)をしているそうです。手に持っているのは、奉納(ほうのう)する納太刀(おさめだち)です。
 (現代では、このような人はいません。念のため)

 大山(おおやま)は、現在の神奈川県(かながわけん)丹沢(たんざわ)山塊にある山で、山頂に阿夫利神社(あふりじんじゃ=雨降り神社)があります。
 江戸時代は、「石尊大権現・大山寺」というお寺が別当(べっとう)として、管理していました。
 神社の名前の通り、雨乞い(あまごい)の神ですので、農民には、農耕の神として扱われましたが、
 古典落語「大山詣り(おおやままいり)」では、何故か、大山寺は、博打(ばくち)と商売に、
 ご利益(仏教では「ごりやく」と読む)があるため、江戸ッ子に人気があるとういう話になっています・・・・???
 明治政府の神仏分離令により、大山寺は無くなり、元の「阿夫利神社」の名称が使用されるようになりました。
 なお、大山寺は、その後、大山の麓(ふもと)にある伊勢原市(いせはらし)に再興されています。

(絵画調)


 さて、「浅草川大川端宮戸川」」の絵の左側から、屋形船が出てきていますが、ここが、神田川が隅田川に合流する所です。この絵の左側に「柳橋」がありました。
 絵の川の向う岸に建物が見えますが、広重の「名所江戸百景」を描いた安政年間の柳橋は、花街(はなまち、芸妓(げいぎ)のある街)として知られ、高級料亭や船宿が立ち並ぶエリアでした。
 また、一般庶民にも楽しめる酒場・飲食店もあり、両国花火や舟遊びで、多くの人が遊べる場所でした。

 現在の柳橋周辺も、船宿だけでなく、料亭や、レトロな食堂、問屋街などがある為、静かなブームとなっているようです。


【屋形船(やかたぶね)=楼船(ろうせん)】
 夏になると、花火や、隅田川でよく見かけるのが屋形船です。
 屋形船は、屋根と、宴会を楽しむ座敷がある和船のことですが、その歴史は古く、その原型は、平安時代の貴族の舟遊びにまで、遡(さかのぼ)ります。
 江戸時代になり、平和の時代が訪れると、隅田川の屋形船の舟遊びが盛んになっていきました。
 4代将軍・家綱(いえつな)の頃には、大型の豪華絢爛(ごうかけんらん)な装飾で飾られた船が競うように作られていきました。徳川幕府が、大名の力を制限する為に、「大船建造の禁(おおぶねけんぞうのきん)」と呼ばれる禁令を作ったことにより、大型船の建造は抑えられるようになっていきました。


【柳橋(やなぎばし)】
 古くは、5代将軍・綱吉(つなよし)の元禄時代に、現在の柳橋付近は、隅田川の舟遊びの舟宿でにぎわっていました。神田川も渡船で往来していましたが、不便(ふべん)の為、橋の架けることを願い出て、許可されました。
 当初は、神田川が、大川(江戸時代の隅田川の名称の一つ)に合流する手前にあった事から、「川口出口之橋(かわぐちでぐちのはし)」と呼ばれていたそうですが、橋のほとりに柳が植えられていたことから、「柳橋」と呼ばれるようになったそうです。

 神田川の幅は狭いので、屋形船は方向転換をしないで、後ろ向きに進んで、隅田川まで出ます。


 江戸時代が終わり、明治時代になっても、隅田川の舟遊びは人々に親しまれて行きました。 
 明治20年に鉄鋼橋(てっこうきょう)が架けられましたが、関東大震災(かんとうだいしんさい)の時に落ちてしまい、震災復興事業の一環として、昭和4年に現在の橋が架けられました。同じ隅田川にある永代橋(えいだいばし)のデザインを取り入れたそうです。
(絵画調)


 現在の柳橋ができて、舟の通行を可能にする為に、小松屋の二代目さんが、屋根の取り外しのできる「屋根舟」を造ったそうです。

【小松屋(こまつや)】
 柳橋では、有名な船宿です。

 なんと、この小松屋さん、実は、「くまドン」の地元である江戸川区(えどがわく)と関わりがあります。
 明治時代は、隅田川が荒川(あらかわ)の下流部だったのですが、明治時代に発生した水害を教訓に荒川放水路の計画が建てられました。
 (「名所江戸百景051 第70景 中川口 勝海舟と西郷隆盛」を参照してください。)
 この為、荒川放水路が、江戸川区西小松川(にしこまつがわ)の真ん中に通ることになり、放水路が通過する農家は、土地から退去で、廃業となってしまったそうです。
 小松屋さんの先祖も、その農家の一軒でした。それ以外の副業として、堀にいる魚を釣りに来る人達に、田舟を貸す商売もしていたそうです。
 このことから、最初は、両国橋の墨田区(すみだく)側で船宿を始めたそうです。
 その後、現在の柳橋に移り、釣り船、屋根舟、網舟、涼み舟、汐干舟となんでもありありの看板を掲げて、船宿を始めたそうです。
 「小松屋」の屋号(やごう、一家の特徴から付けられる家の名前)は、先祖の住んでいた小松川の地名からとったものだそうです。

 西に傾いた夕日が雲に隠れると、神田川は、青空を反射して、青一色の世界になります。
 写真を撮影していると、浅草橋の下から屋形舟が、くぐり抜けてきました。
 浅草橋の西側にも船宿が、かなりあります。
(絵画調)


 昭和30年代から40年代の高度経済成長期(こうどけいざいせいちょうき)による歪(ひずみ)として、隅田川の水は汚れ、魚の住めない川となりました。
 両国の花火大会や、灯篭流し(とうろうながし)も行われなくなり、隅田川に屋形船が浮かぶ事もなくなりました。

 昭和50年代になると、隅田川の水質の改善も進み、再び、魚の姿が見えるようになってきました。
 昭和53年には、両国花火は、隅田川花火として復活し、その前年には、屋形船も復活することになりました。
 ただ、それから数年間は、隅田川に浮かぶ屋形船は、小松屋さんの舟一隻だったそうです。
 その後、小松屋さんは、最後の木造屋形船をつくったそうです。現在でも、都内唯一の木造屋形船として、活躍しているらしいです。

 続いて、また一隻、浅草橋の下から屋形船が現れ、隅田川に出港していきます。
 柳橋は低いので、舟の安全を見張るの人も、頭を下げて、橋の下を通過します。


 現在は、東京にある各河川の水質の浄化は進み、神田川にも、魚や水鳥が戻ってきました。
 かみそり堤防と言われた真っ直ぐな堤防にも、親水テラスと呼ばれる護岸が設けられ、人が憩える場所となりました。
 隅田川には、屋形船や水上バスを含め、多くの船が行き交うようになりました。

 平成16年から、柳橋はライトアップが行われるようになり、緑の美しい姿が特徴的な橋として、人気があります。
 小松屋さんの有名な赤い舟と船宿です。
(絵画調:この写真だけ、5月に下見に行った時に撮影しました。)


【御座船(ござぶね)】
 船体に漆塗り(うるしぬり)が施され、豪華な装飾の屋台を設けた舟です。
 下の写真の小松屋の御座船は、徳川将軍家の御座船をモデルに建造されました。
 朱塗りの船体と豪華な内装を再現して造られました。60名も乗船可能だそうです。
 赤い船体が特徴の屋形船で、過去において、テレビなどで何回も紹介されたそうです。

 柳橋の奥にあった小松屋さんの御座舟(赤い舟は、2隻あります)も出発のようです。


【小松屋(佃煮)】
 柳橋の右側の中央区(左側は台東区)にも、佃煮(つくだに)を販売している小松屋さんがあります。
 江戸前アナゴ(穴子)の佃煮が評判の店です。
 この2軒の「小松屋」さんは、親戚同士だそうです。他の方のブログでも、よく紹介されています。

 最後になりましたが、

 手前の船や人が大きく写っている写真を選ぼうかと思いましたが、背後が日景の写真が多く、結局、船宿の夕方の雰囲気が写っているこの写真にしました。
 (絵画調でないと、暗部が黒くつぶれでしまいます。写真的表現なら問題ないのですが・・・・・・・)
 この写真を、広重の名所江戸百景「第60景 浅草川大川端宮戸川」に対応する「くまドン版」の景(夏景・確定)とさせていただきます。水遊びは、夏らしいので、夏景に分類します。
 (このブログは、名所江戸百景の現代版「くまドン版」を作る事を第一目標としています。)



 前回、平成25年の東京下町・ベイエリアの大きな花火大会の日程は記載しましたので、割愛します。

 隅田川花火大会の日は、屋形船も「満員御礼」(まんいんおんれい)です。
 一年前から予約で埋まっているらしいです・・・・・・・・・・(汗)
 この日は、隅田川は屋形船で埋め尽くされて、混み合います。

 屋形船は、大人数の宴会(えんかい)の予約も受けていますが、
 週末などは、乗合船で、二人からの少人数グループの予約を受け付けている船宿も多数あります。

 柳橋付近で写真に見つけただけでも、「小松屋」、「田中屋」、「あみ清」、「あみ新」、「井筒屋」、「三浦屋」、「鈴木屋」、「野田屋」・・・・などがあります。
 (浅草橋の右側は日景、背後は逆光だったので、撮影していなかっ所もあります。)
 また、船宿も、隅田川沿いだけでなく、荒川・中川・江戸川や、東京湾沿いにも、多数あります。
 詳細などは、インターネットなどで、お調べください。

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 なんとか、両国花火の日までに、屋形舟の話を追加できましたが、ブログの作成が遅れ気味です。
 次回も、両国付近の話題を続けたいと思いますが、
 ブログが遅くなる場合は、話の順番変更になるかもしれません・・・・・・!!!(汗)


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名所江戸百景055 第98景 両国花火 白髭橋と両国花火

2013-07-23 07:55:21 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、日本の夏の風物詩である花火(はなび)の話題です。
 両国花火と白髭橋(しらひげばし)です。スカイツリーも花火に合わせたライトアップです。(絵画調)


 今年、平成25年の東京下町・ベイエリアの花火大会日程からです。
  (足立区の花火大会は先週7/20(土)に、先陣を切って、開催済み(悪天の為、中止)ですので、割愛します。)

(1)第47回葛飾納涼花火大会 (約12,000発)
   日時: 7/23(火) 19:20~20:20 (小雨決行、荒天中止の場合は7/24(水)に延期)
   場所: 葛飾区柴又野球場(江戸川河川敷)

(2)第36回 隅田川花火大会 (約25,000発)
   日時: 7/27(土) 19:05~20:30 (小雨決行、荒天中止の場合は7/28(日)に延期)
   場所: 桜橋下流~言問橋上流(第一会場)、駒形橋下流~厩橋上流(第二会場)

(3)第38回江戸川区花火大会 (約14,000発)
   日時: 8/3(土) 19:15~20:30 (小雨決行、荒天中止の場合は8/4(日)に延期)
   場所: 江戸川河川敷(都立篠崎公園先)

(4)第25回東京湾大華火祭 (約12,000発)
   日時: 8/10(土) 18:50~20:10 (小雨決行、荒天中止の場合は8/11(日)に延期)
   場所: 東京港晴海埠頭沖海上・晴海ふ頭公園

 その他にも、大小の花火大会がありますので、インターネットなどで、お調べください。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第98景 両国花火」(秋景)です。

 この絵は、両国(りょうごく)の川開きの風景です。
 右上に花火がありますが、現代とは異なり、花火の開き方が独特の表現です。江戸時代は、黒色火薬は1種類しかありませんので、花火は単色(1色のみ)です。
 広重のいた江戸時代の頃は、旧暦の5月28日から8月28日までの間、両国橋で夕涼みが毎晩行われていました。
 (2013年では、新暦の7/6から10/2までに当ります。旧暦は年によって約1カ月程前後します。)
 隅田川に架かっている橋は、両国橋です。橋の周辺に多くの船が集まっています。
 両国橋が架けられてからは、橋の周りに、夕涼みの納涼(のうりょう)にきた屋形舟(やかたぶね)が集まっていました。(当時は、火災の危険を避ける為に、隅田川以外の花火が禁じられていました。)
 花火を売る舟が、屋形船などの間を漕いで回り、客の注文に応じて花火を打ち上げていたそうです。

 花火舟以外にも、食べ物や酒などを売る小舟が、数多く出ていたそうです。
 下の絵は、現在の両国橋の墨田区側の堤防に描かれている絵を写真に撮り、その一部をトリミング(画像の切り取り)したものです。 舟の後方では、花火の打ち上げをしている所です。

 それにしても、この屋形船は定員オーバーなのでは・・・・・・・・・・・???

 「くまドン」も、隅田川の花火大会を、名所江戸百景「くまドン版」に加えたいと思いました。
 できれば、スカイツリーの開業年ですので、スカイツリーのライトアップの両方を写真に収めたいところです。
 (このブログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作る事を第一目標にしています。)

 ところが、両国橋~白髭橋までの水辺は、見物客が多く、歩行者の規制で、三脚を立てる隙間処か、橋などで立ち止まることは許されれないのです・・・・・・・・・・・・・・・・(汗)
 「くまドン」は、人で異常に混雑(こんざつ)している所や、渋滞(じゅうたい)している所は疲れるので、行く気がしないのです。その為、今まで、両国花火を見に行った事が無く、撮影ポイントが良くわかりません。
 規則は守らなければならないので、調べてみると、白髭橋(しらひげばし)の北側まで行けば、規制も無く、比較的空いているとの情報がありましたので、ここなら、スカイツリーと両国花火の両方が撮影できそうです。

 「くまドン」が自転車で自宅から白髭橋まで行くと、下の写真のように、屋形船が大行列で浮かんでいました。
 見てると、この後も屋形船が来て、行列が、どんどん長くなっていきました。
 屋形船の中では、すでに宴会(えんかい)が始まっている事でしょう。

 白髭橋も花火開始の2時間前から、立ち止まる事は出来なくなりますが、花火開始の2時間以上前に白髭橋に着くことができたので、撮影できました。

 白髭橋より北側は、規制はありません。この付近は荒川区(あらかわく)です。
 しかし、「くまドン」の考えが甘かった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(汗)

 写真を見ての通り、満員状態です。カメラの「簡単パノラマ」機能で撮影した写真ですが、180度の角度で写っています。
 右が、隅田川の下流側に当り、スカイツリーが見えます。左には、上流にある水神大橋(すいじんおおはし)が見えています。正面を川沿いに走っているのが、首都高速6号線です。

【火薬の伝来】
 花火は、火薬が爆発した時の火の粉です。
 この原料となる火薬は、戦国時代(1543年)に歴史上でも有名な種子島(たねがしま)に漂着したポルトガル人による火縄銃(ひなわじゅう、鉄砲)の伝来と同時に、火薬も伝えた事が、源流となっています。
 戦国時代の半ばから、戦場の主力が、騎馬・弓矢から鉄砲に替わると、火薬も大量製造もされるようになります。

下の写真は、岐阜県(ぎふけん)の岐阜城(ぎふじょう)の資料館で撮影した写真です。


 それ以前にも、火薬の製法自体は、伝わっていたらしいのですが、以下の理由で、あまり普及・発達していなかったようです。
  ・原料の硝石(しょうせき)の製法が無かったこと
  ・取り扱いを間違えると、発火して自爆しかねない。
  ・湿気の高い日本では、湿ると使えない。

【火薬と花火】
 江戸時代になり、天下太平の世の中になると、狩猟以外の目的で、火薬の使用は無くなりますから、火薬製造職人は仕事がなくなる事になります。
 そこで、花火を専門に扱う火薬屋が登場することになります。最初は小さな「おもちゃ花火」でした。
 (混乱した戦乱の時代から、平和の時代への変化の象徴ともいえるでしょう。)


 なんとか撮影場所を確保して、1時間程すると、日が沈み、暑かった一日が終わりを告げます。
 北の空に浮かぶ雲が、ほんのり赤みを帯びる頃になると、見物客の人が、堤防の斜面に隙間なく埋め尽くされます。(絵画調)

 
 「くまドン」は、この場所は初めてだったので知りませんでしたが、三脚を立てる撮影者は、墨田川の親水テラスの柵(一番水辺側)沿いに横一列に並ぶようです。
 2時間前についた時は、ガラガラでしたが、その後方の席に座っている人がいる(距離は空いている)ので、邪魔かな思って行かなかったのです。後から来た人は皆、そちらに並びました。気がついた時には、撮影者で埋まっていました。

 隅田川には白髭橋とスカイツリー、空には月があり、花火見物の人も、ゆかた(浴衣)姿の方が多く、祭りの雰囲気を盛り上げます。

 いよいよ、花火開始の時間が近づいてきました。

【隅田川の川開き】
 江戸の町の建築物は、木造で密集していますので、火災にとても弱く、江戸の町では、大きな火事が何回も発生しています。
 当然、花火は火花ですので、3代将軍・家光(いえみつ)の慶安年間に、徳川幕府は、「隅田川(すみだがわ)以外での花火の禁止」の触れを出しています。

 花火が、始まりました。 (シャッター速度1/3秒)
 コンパクトカメラでは、絞りとシャッター速度の制御ができません。
 この時間は、まだ、明るく、カメラんの「花火モード」では、露出オーバーになってしまいます。


【鍵屋(かぎや)】
 現在、日本で最古の花火業者は、「鍵屋(かぎや)」です。なんと、この「鍵屋」は、東京都江戸川区にあります。
 この鍵屋は、花火の掛け声に使われた「玉や~~、鍵や~~」という言葉で、記憶がある方も多いと思います。

 鍵屋は、4代将軍・家綱(いえつな)の万治年間に、大和国篠原(奈良県南西部)から江戸に出てきた、花火職人である「初代・弥兵衛(やへえ)」が「おもちゃ花火」を売り出し、両国(りょうごく)に「鍵屋」の店を構えたことに始まります。
 その後も、弥兵衛は、花火の研究を続け、8代将軍・吉宗(よしむね)の享保年間には、将軍が享保の飢饉とコレラ流行の死者の慰霊(いれい)を目的に命じた水神祭り(すいじんまつり)に合わせて、、開発した大型の打ち上げ花火を献上(けんじょう)打ち上げています。
 これが、隅田川花火(両国川開き)の始まりと言われています。当初は川開きの初日に花火を打ち上げていたそうです。

 連発する花火は低く、ビルの陰になり、光が重なるので、爆発シーンになってしまいました。(シャッター速度4秒)
(絵画調)


【玉屋(たまや)】
 11代将軍・家斉(いえなり)の文化年間になると、鍵屋の番頭であった「清吉(市兵衛)」が働き者であった為、暖簾分け(のれんわけ=奉公人や家人に同じ屋号(やごう)の店を出して独立する事を許可すること)を許されました。
 この店が、「玉屋(たまや)」で、同じ両国の別の場所に店を構えました。

 その後、江戸の両国花火は、玉屋・鍵屋の二大花火師の時代となり、なにかと話題になったのですが、
 しかし、12代将軍・家慶(いえよし)の天保年間に、玉屋からでた火災が、店だけでなく、周辺の町まで焼いてしまったため、市兵衛さんは、財産没収の上、江戸の町から追放という事になり、「玉屋」は、わずか33年間の一代限りで終わってしまいました。
 真面目に働き、店を開き、一代で隆盛を極めた「玉屋」は、粋(いき)を好む江戸の人の共感を得て、人気があったようです。

 下の写真も、両国の隅田川の堤防にあった絵です。


【明治以降の両国花火】
 江戸時代までの花火は、黒色火薬のみである為、色は単色(一色)のみでした。
 (現在の多様な色が出せるようになったのは、明治時代に色々な化学薬品が外国から輸入されるようになってからだそうです。)
 明治時代に「鍵屋」さんにより、現在の花火の代名詞ともいえる真円形に奇麗に開く「割物」と呼ばれる花火が開発されました。

 江戸時代から続く、両国花火ですが、明治維新や、戦争により、何度か中止となります。
 戦後も隅田川の水質悪化により魚も住めない「死の川」となった時期があり、さらに、自動車の普及による交通渋滞・住宅の過密(火災の危険)などの理由により、昭和36年~昭和52年まで中止となりました。
 昭和53年になると、水質改善が進み、交通渋滞と近隣住宅に対する火災対策を考慮して、現在の位置に移動して、現在の名称で、再開されています。

 暗くなってきたので、空の青さは亡くなりましたが、花火らしい写真となりました。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第98景 両国花火」に対応する「くまドン版」の景(秋景・確定)とさせていただきます。
 江戸時代の両国花火の時期は夏から秋にかけてですが、広重の名所江戸百景では、秋景となっていますので、秋景とさせていただきます。
 さらに、「第98景 両国花火」は、両国橋付近の景であり、白髭橋付近に移動させたので、替わりに、この付近にある「名所江戸百景」の一つを隅田川の別の場所に移動させたいと思います。

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 次回も、両国付近の話題を続けたいと思います。


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名所江戸百景054 第56景 深川萬年橋 響け江戸風鈴 泳げ江戸川の金魚

2013-07-20 12:05:06 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、江戸川区(えどがわく)の特産品である風鈴(ふうりん)と金魚(きんぎょ)が話題の中心です。

 下の写真は、江東区(こうとうく)の隅田川(すみだがわ)と小名木川(こなきがわ)の合流点にある「芭蕉庵史跡庭園」(ばしょうあんしせきていえん)にある松尾芭蕉(まつおばしょう)像と、隅田川に架かる清洲橋(きよすばし)です。


 プログ作成中に江戸川区(えどがわく)で「金魚まつり」があるのに気がついて、作成の順番を変更しました。
 すでに、当日になってしまいましたが、先行して、金魚まつりの情報からです。

【第42回金魚のふるさと江戸川区 金魚まつり】 (江戸川区の「えどがわ百景」にも選ばれています。)
 日時: 平成25年 7/20(土)10:00~18:00、7/21(日)10:00~16:00
 場所: 江戸川区 行船公園(ぎょうせんこうえん) :東京メトロ東西線「西葛西駅」から徒歩15分
 内容: 金魚の展示即売(琉金(りゅうきん)・ 東錦(あずまにしき)・キャリコ・ランチュウ・オランダシシガシラ」他20種)
      金魚すくい(高校生以上1回100円)
      江戸川区特産品の販売
        「小松菜焼酎」「小松菜アイス」など小松菜(こまつな)関連商品コーナー
        「江戸川区特産の花卉(かき=草花)」の即売
        「江戸風鈴」 「つりしのぶ」をはじめとする伝統工芸(でんとうこうげい)の実演・販売

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第56景 深川萬年橋」(夏景)です。

 萬年橋(まんねんばし)は、江東区(こうとうく)の小名木川(こなきがわ)に架かる橋です。
 江戸時代は、葛飾北斎(かつしかほくさい)の富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろくけい)「深川(ふかがわ)萬年橋下」でも描かれ、太鼓橋(たいこばし)として有名でした。
 小名木川が隅田川(すみだがわ)に合流する近くに架かる橋であり、
 萬年橋から、隅田川の流れを眺める事が出来ます。
 広重の絵に描かれている川も、隅田川です。
 江戸時代の川は、物資の輸送ルートになっていました。
 絵に描かれている舟には、荷物(米でしょうか?)が積まれています。
 一番左端の船は、材木を組んだ筏(いかだ)です。隅田川の上流から江戸に運ぶ途中でしょうか?

 絵の構図としては、「名所江戸百景」の特徴の一つとなっている、手前の物を大きく描く近景構図で描かれています。
 まず、絵の右側と下部に萬年橋の欄干(らんかん=人の落下を防ぐ手すり)の一部を置き、
 次に、絵の上部と左側に亀(かめ)を吊るした手桶(ておけ、取ってが付いている水などを入れる容器)の一部を置く事により、額縁構造(がくぶちこうぞう)を構成しています。
 そして、額縁の中にある遠景の富士山(ふじさん)や、隅田川の川面と舟や人を描き、吊るされた亀が、その景色を見ているように大きく描き、さらに、その絵を見る人がいるという「入れ子構造」により遠近感と奥行きを表現しています。

 江戸時代には、萬年橋の北側に、「奥の細道」を始めとする俳句(はいく)で有名な松尾芭蕉の芭蕉庵があったことで知られています。
 下の写真は芭蕉稲荷(ばしょういなり)です。

 大正6年に、松尾芭蕉ゆかりの「石のカエル(蛙)」が見つかったことから、芭蕉稲荷が建てられました。


 さて、広重の絵に描かれた吊るされた亀は、現代に住む「くまドン」には、全く意味不明でしたが、江戸時代の人から見れば、すぐに分かる内容でした。

【放生会(ほうじょうえ)】
 江戸時代までの日本は、基本的に農耕を中心とした社会で、狩猟(しゅりょう)を行う人は限られていました。
 仏教(ぶっきょう)には、不殺生戒(ふせっしょうかい=生き物を殺してはいけない)という考え方があります。
 放生会は、捕獲(ほかく)した動物(魚、鳥など)を、川や野に放して、殺生(さっしょう)を戒める(いましめる)宗教儀式でしたが、江戸時代になると、町人の間で、流行のように行われていたようです。

 放つ動物は、場所により異なっていたそうですが、萬年橋では、「鶴(つる)は千年、亀は万年」の言葉に引っ掛けて、亀の放生が行われていたようです。
 絵に描かれている亀は、放生会用の亀を売っている亀屋の手桶ということになるのですが、
 亀屋から客が買って川に放した亀を、亀屋が再び捕まえて、また新たな客に売るという商売が行われていたらしいです・・・・・・・・・・・・・・・・

 そうやって考えてみると、絵の中に描かれている人は、「はたして、釣りをしている人なのか?客が亀を放すのを待っている人なのか?」という疑問も発生します。「くまドン」の考えすぎかもしれませんが・・・・・・・・・・・・・



 さて、当然のことですが、現代では、不用意に生き物を捕獲・放流すると、法律違反となります。
 (1)野鳥などの捕獲=鳥獣保護法違反など
 (2)生物の放流(ペットの遺棄)=動物愛護法違反、外来生物や危険生物の遺棄も法律違反、遺伝子汚染など
 (3)勝手に捕獲禁止した生物の売買も、法律違反

 従いまして、生き物は不可として、亀の替わりに何を置くかは、人それぞれの発想だと思いますので、
 「くまドン」は風鈴をにしてみることにしました。(こんな橋の上で風鈴を鳴らす人はいないと思いますが・・・)

 風があり、タイミングが合わせずらいので、連写モードで撮影です。


【風鈴(ふうりん)】
 あの「り~ん」と鳴る風鈴の音は、日本では一般に涼しげな音と表現されてきた音で、夏の風物詩(ふうぶつし)の一つとなっています。
 秋のスズムシなどの虫の声と対比されることもありますが、この音に関する感覚は、外国の人や、子供の頃に自然の音にふれる環境の無い人には、雑音(ざつおん=ノイズ)に聞こえるらしく、日本は独特に発達した考え方のようです。
 子供の頃の環境や教え方が、音に対するイメージ・感情に影響を与えるという事は、不思議な事です。

 日本における風鈴の原型は、縄文時代に土鈴(どれい)と呼ばれる音を出す器物から始まります。
 弥生時代になると、田畑を荒らす動物を追い払うため鳴子(なるこ)を置くようになり、守るための結界(けっかい)のような使われ方になってきます。
 日本に仏教が伝わると、寺の建築物の四方に青銅(せいどう)製の「風鐸」(ふうたく)と呼ばれるものが吊り下げられるようになりますが、日本特有の厄除け(やくよけ)の考え方で使われていました。
 その後、鎌倉時代(かまくらじだい)の僧「法然(ほうねん、浄土宗の開祖)」上人が風鈴(ふうれい)と名付けたという話が伝わっています。
 下の写真は、上野公園の不忍池(しのばずのいけ)にある大黒天堂(弁天堂の隣)の風鐸です。


 江戸時代の8代吉宗(よしむね)に享保年間になると、「書物の輸入解禁」により、西ヨーロッパで開発された無色透明ガラスが、オランダ→長崎(ながさき)経由で日本に伝わります。
 この当時において、長崎職人により、ガラス製の風鈴が作られたそうです。
 当時のガラスは「ビードロ」と呼ばれ、とても高価な為、一部の富裕層(大名・豪商)しか手に入らなかったそうです。
 12代家慶(いえよし)の天保(てんぽう)年間になると、長崎で腕を磨いた職人により、江戸でもガラスが作られるようになり、
 江戸時代末期には、吹きガラスで作られた風鈴が、夏の風情(ふぜい)を楽しむ粋(いき)な道具として、江戸で流行するようになりました。

 時々、強い風が吹き、風鈴がぶれてしまいます。(絵画調)


 明治時代になると、西洋のガラス製造技術が導入され、生産量増加=価格低下により、最盛期を迎えました。

 明治から昭和初期にかけては墨田区一帯が製造地でしたが、手間がかかる、空襲被害等の理由から徐々に減り、現在は篠原風鈴本舗(江戸川区南篠塚)とその一門で都内二軒のみ。そもそも江戸風鈴は昭和四〇年頃に五代目・儀治氏が名付け広めたものです。一つ一つが手吹きで、切り口がギザギザしていること(滑らかだといい音が出ないそう)が特徴。

 試しに、風鈴の動きを止める為に、ストロボを使用してみましたが、ガラスに光の反射が入ってしまいました。
 この位置からでは、隅田川の川面が見え難いので、場所を移動することにしました。


【江戸風鈴(篠原風鈴本舗)】 (江戸川区の「えどがわ百景」にも選ばれています。)
 昭和初期までは、墨田区(すみだく)一帯が風鈴の製造地でした。
 昭和30年代~40年代の高度成長期(こうどせいちょうき)に伴う都市化の時代の流れと共に、製造する店も減り、現在では、都内の製造地は、篠原風鈴本舗(しのはらふうりんほんぽ、江戸川区南篠塚)と、その一門だけの、わずか2軒のみとなってしまいました。
 江戸風鈴という名前は、昭和40年頃に、篠原風鈴本舗の方が、「江戸時代のガラス風鈴が現在の東京でも受け継がれている」ことから名前をつけたそうです。
 「江戸風鈴」という名前は、篠原風鈴本舗の商品名だそうです。それ以前は、「ガラス風鈴」や「ビードロ風鈴」と呼ばれていたそうです。
 江戸時代以来の伝統的な「宙吹き」という製法で作り上げています。
 「篠原風鈴本舗」は、外国にも文化交流の一環として行くこともあるそうです。
 (外国では、実演で、火を使うことに許可が出ない国もあるそうです。)

 一応、広重の絵に近づける為、萬年橋の欄干を下に入れて構図を取りました。
 手前が小名木川、奥を左右に流れる川が隅田川です。

 隅田川に架かる橋は、「清洲橋(きよすばし)」で、ドイツ・ケルンのライン川に架かる吊橋がモデルになっていて、萬年橋からの眺めは、「ケルンの眺め」と呼ばれる時があります。
 風鈴の絵柄は、金魚と水草ですが、この写真では、分かり難いので取り直します。

【金魚】
 現在でも、縁日や夜店の金魚すくいなどで、日本人には馴染み深い金魚ですが、
 江戸時代前期に、金魚の大規模養殖が始まりましたが、まだ高価な物で、武士や豪商の物でした。
 江戸時代中期になると、庶民にも手に入り、飼育されるようになります。「金魚売り」や「金魚すくい」なども行われるようになったようです。
 江戸時代後期の11代家斉(いえなり)の化政文化期(かせいぶんかき)には、大量生産・流通体制が確立し、金魚の価格が安価になり、本格的な金魚飼育が庶民に普及していき、幕末には、金魚の飼育が流行しました。
 歌川国芳の「金魚づくし」を代表とする浮世絵や日本画の画題として取り扱われました。
 広重のいた江戸時代末期の「金魚」は、新しいもの好きの江戸の人にとり、粋(いき)だったのです。

 東京東部の下町地区は、低湿地が多かったため、明治時代から養魚場が多くありました。
 大正12年の関東大震災後の昭和初期に、江東区や墨田区に都市化や工業化の波が押し寄せ、養魚池は、広い土地、良質な水を求めて、江戸川区に移転してくるようになりました。
 江戸川区は、愛知県弥富市(やとみし)、奈良県大和郡山市(やまとこおりやまし)と並んで、江戸川下流域の金魚の三大養殖地として有名でした。(他に山形県や熊本県を含め、全国に産地があります。)

 ちょうど、隅田川の水上バスが清洲橋を通過する所です。この付近は、水上バスの運行が多いので、助かります。
 さすがに、ビルが立ち並び、富士山は見えませんが、
 一応、風鈴の金魚の絵と、川、橋、舟、雲、青空と夏景らしさが揃いましたので、

 この写真を、広重の名所江戸百景「第56景 深川萬年橋」に対応する「くまドン版」の景(夏景・確定)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作る事を第一目標にしています。)


 昭和30年代からの高度成長期から始まる都市化の波で、江戸川区も宅地が増えていき、周辺の川の水質も悪化していきました。
 それでも、金魚の養殖池のあった江戸川区船堀(ふなぼり)付近は、交通が不便であった為、なんとか、金魚の生産は行われ続けました。
 しかし、昭和58年に、都営地下鉄新宿線(しんじゅくせん)が船堀駅まで延長になると、急速に宅地が進み、地価高騰(ちかこうとう)や、金魚のエサになるミジンコが入手不可能になるなどの理由により、経営環境が悪化してしまいました。
 (住民の生活環境を良くする目的の地下鉄が、地域の産業を衰退させてしまったのは、皮肉な結果といえます。)
 多くの業者は、生産拠点を埼玉県や、千葉県、茨城県へ移転していき、昭和初期の最盛期に22軒もあった養魚場は、現在では3軒(1軒は区外で生産)を残すのみとなってしまいました。

 現在でも、江戸川区の金魚は、生産量こそ少なくなったものの、「エドガワリュウキン」を始めとする高品質の金魚が作られています。
 (「全日本金魚品評会」では江戸川区産の金魚(リュウキン)が、最高賞の農林水産大臣賞を数多く受賞!!)
 現在の江戸川金魚は、養殖業者の善意で続いているような所もあり、あまり「くまドン」が勝手な事を言えませんが、江戸川金魚の伝統の火が続いて欲しいとは思います。

(絵画調)


【甘いもの情報】
 都営地下鉄新宿線の船堀駅前には、金魚の形をした「きんとと」という美味しいお菓子の店があるらしい。


 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 突然、江戸百景を地元の話題に引き込みましたが、時代の流れに負けずに、前向きに進もうとする地元の産業を盛り立てたいと思うのは、誰もが同じと思います。お察しください。

 次回は、夏のイベントに関する景の予定です。


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