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城011 上田城・真田陣太鼓(3) (長野県・百名城27番、平城)

2015-11-14 09:30:52 | 訪城記
こんにちわ、くまドンです。

 今回は、長野県・上田市(うえだし)の上田城(うえだじょう)を訪城した時の話の続きです。
 下の写真は、上田城の二ノ丸の風景です。

 江戸時代の2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の元和8年(西暦1622年)に、徳川方に味方した真田信之(さなだのぶゆき)は、上田藩9万5千石から松代藩13万石に加増・移封されます。(領地は上州・沼田領3万5千石を含みます)
 続いて、東にある小諸藩(こもろはん)5万石の藩主だった仙石忠政(せんごくただまさ)が上田藩・6万石に加増・移封されてきます。関ヶ原の戦いの後で、櫓(やぐら)などの建造物も壊され、濠(ほり)も全て埋め立てられていた状態でしたが、仙石忠政が亡くなる寛永5年(西暦1628年)までに、上田城の大改修を行い、真田時代の濠を再度掘り直し、櫓も7基も建造したそうです。忠政の死後は上田城の改修は行われなくなりましたので、現在の櫓や濠は、仙石家時代に再建されたものだそうです。
 その後、仙石家は、但馬(たじま)・出石藩(いずしはん)に移封となり、徳川一族の藤井松平家(ふじいまつだいらけ)が治める藩になります。この藤井松平家は、徳川家康の4代前の松平長親(まつだいらながちか)を同じ祖先とする親類筋にあたるそうです。

 上田城の二ノ丸・東側にある外堀です。現在は樹齢100年を超えるケヤキ並木がある遊歩道となっています。

 昭和2年に真田方面行きの電車の線路(上田温泉電軌(株)北東線)が外掘の中に敷設されて、写真右奥の橋の下には、公会堂下駅(公園前駅)があったそうです。(昭和47年廃線)

 幕末(江戸時代末期)の上田藩は、最後の藩主である松平忠礼(まつだいらただなり)が10歳で上田藩を相続したため、藩内抗争で混乱していたそうです。藩主となった安政6年(西暦1859年)から10年間の間に時代は激動し、
 慶応3年10月に大政奉還(たいせいほうかん)、12月に徳川慶喜(よしのぶ)が征夷大将軍職辞職(=徳川幕府の終わり)、
 慶応4年(明治元年、西暦1868年)になると、戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まり、1月に鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)で幕府軍が官軍に敗北。徳川慶喜に戻る。3月に官軍側の西郷隆盛(さいごうたかもり)と幕府の勝海舟(かつかいしゅう)との会談により、江戸無血開城と進んでいきます。
 その後、上田藩は明治新政府側に恭順して、北越戦争(長岡藩)、会津戦争(奥羽越列藩同盟)に出兵します。
 下の石碑は、上田城の本丸にある「戊辰役上田藩従軍記念碑」です。

 明治4年になると、廃藩置県(はいはんちけん)により、上田藩の歴史は幕を閉じます。

 上田城の二ノ丸・北側にある「招魂社」です。戊辰戦争以後の戦死者を祀るための神社(大正12年設立)です。


 仙石氏の時代に、櫓(やぐら)が7つと櫓門が2つ造られましたが、江戸時代に本丸に天守は造られませんでした。(真田時代は不明)
 下の写真は上田城の南櫓から櫓門(平成6年復元)と北櫓を眺めた風景です。

 明治6年に上田城の土地・建物を旧藩士に払い下げになったそうですが、買い手が見つからず、最後はたたき売り状態となり、南櫓と北櫓は一基6円で売却されて、遊郭(ゆうかく)として移築されていきました・・・・
 南櫓と北路の2基の櫓は、昭和16年に転売されそうになった所を、市民運動により、翌年、1,800円で買い戻されて、昭和24年に現在の位置に移築復元されました。

【昔の1円の価値】
 正確な所は不明ですが、調べてみた所、
 明治時代初め頃の1円は、現在の1万円~2万円程にあたるそうです。
 昭和16年頃の1円でも、現在の5千円程の価値があるそうです。
 その他に、消費者物価等の統計資料(図録)では、明治6年を100とすると、昭和16年で693になりますので、この間に1円の価値は1/7程度になっています。
 (この当時は、円の通貨単位の下に銭(せん、1円=100銭)と通貨単位がありました。)

 下の写真は櫓門(平成6年復元)内部の柱と屋根です。


 3基の現存する櫓の中で、唯一解体されずに残った西櫓は、江戸時代からの材木・生糸商人であった丸山平八郎直養(なおよし)が本丸の土地と共に買い取っています。
 明治も10年以上過ぎると、時代も落ち着いてきたのか、上田旧藩士から上田藩主の松平氏を祀る「松平(しょうへい)神社」が建てようとする動きがでてきます。

 息子の丸山平八郎直義(なおよし)の時代に、明治12年に本丸の土地が、明治22年に西櫓が、最後の藩主・松平忠礼に無償で返還されました。そして、上田城公園の原型となっていきます。
 上の写真の神社正面の建物が拝殿(はいでん)のようです。「真田井戸」のある神社の裏に回ると、本殿(ほんでん、神霊を宿した神体を安置する社殿)があります。

 昭和28年になると、真田、仙石、松平の歴代上田城主を合祀するようになり、「上田神社」と名称が変わります。
 さらに、「真田十勇士(さなだじゅうゆうし)」などの話が人気となり、昭和38年には、ついには名前が「真田神社」となってしまいます・・・・・(汗)
 上田城の有名な大きな真田六文銭(六連銭)の兜(かぶと)です。


 最後は真田の兜と同じ赤色の紅葉の写真です。


 真田関連で過去に作成したブログは以下の通りでうす。(クリックすると、そのブログに飛びます)
 「城011 上田城・真田陣太鼓(1) (長野県・百名城27番、平城)」
 「城011 上田城・真田陣太鼓(2) (長野県・百名城27番、平城)」
 「城011 上田城・真田陣太鼓(3) (長野県・百名城27番、平城)」 今回のブログです。

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 次で上田城の話は最後になります。

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