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水紀行001 水不足?

2013-06-26 21:01:09 | 水紀行
こんにちわ、「くまドン」です。

 七夕(たなばた)の景のプログを7/3の朝に自動アップの時刻設定いたしました。

 前回のプログから2週間程空いてしまうので、季節の話題を入れます。
 予定外の追加なので、写真は、ほとんどありません。

 関東地方は、5月の雨が異常に少なく、6月の雨量も平年以下の為、今年の夏の水不足が心配されています。
 利根川(とねがわ)水系の八木沢(やぎざわ)ダムの6月25日現在で、すでに貯水率は、64%まで下がり、
 梅雨明けまでに、洪水にならない程度の、まとまった雨が欲しい所です。

 下の写真は、荒川放水路(あらかわほうすいろ)です。奥に見える橋は「かつしかハープ橋」です。


 6月の雨が少ない原因は、北の高気圧が強い為、関東付近では、梅雨前線が南に偏っている為です。
 ただし、関東の南側の水系(荒川・多摩川・相模川)の水は、まだ大丈夫のようです。

【治水・利水の常識・非常識】

(1)まず、平成25年6月25日の荒川水系の貯水量データだけを見てみると、

 ダム名     有効容量  貯水量  貯水率  平年比
           (万m3)  (万m3)  (%)   (%)
 二瀬ダム    2,000   1,382   70    86
 滝沢ダム    5,800   2,501   43     -
 浦山ダム    5,600   3,138   56    92
 荒川調節池   1,020     797   76    83
 4ダム合計  14,420   7,848   54   131

 となっており、4ダム合計の貯水率54%は低いと思うかもしれない?

 知っている人もいるかもしれませんが、

 googleなどで、「荒川水系 貯水率」で検索すると、
  先頭の方に「荒川水系 河川 国土交通省 関東地方整備局」というホームページがあります。
  ここで、上記のデータとグラフを見ることが可能です。

 時間のある方は、考えてみてください。答えは蓮の写真の下にあります。

 埼玉県行田市(ぎょうだし)の古代蓮の里に咲いていた「古代ハス」です。
 今年も、早咲きはすでに見頃を迎えています。
 近くに映画「のぼうの城」で有名になった忍城(おしじょう)があります。



(2)ダムの「有効容量」(有効貯水容量)は、計画上でダムに水を貯められる水量です。
 通常は、農業用水や上水道を安定供給する為に使用されます。
 急な雨などに備えて、ダムが貯水できる「総貯水容量」に対して、十分な余裕を持たせてあります。

 さらに、夏場は、集中豪雨や台風などで大量の雨が降りますので、
 夏季(洪水期、7月~9月)の間、「有効容量」の一部を「洪水調節容量」に変更して、
 ダムに貯水可能な量を増やします。余る分は放水することになります。

 結果として、7月1日になると、各ダムの有効貯水容量(洪水期利水容量と言います)は、
 減少して以下のようになります。(貯水量のデータは6/25のデータを使用しています。)

ダム名     有効容量  貯水量  貯水率
           (万m3)  (万m3)  (%)
 二瀬ダム    1,600   1,382    86
 滝沢ダム    2,500   2,501   100
 浦山ダム    3,300   3,138    95
 荒川調節池     760     797   105
 4ダム合計   8,160   7,848    96

 ほぼ、満水です。
 例年は、ダムの水を放流して、夏季の有効貯水容量に合わせていたのに対して、
 今年は、ダムの放水を節水して、合わせたようです。


 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 次回は、七夕(たなばた)の景です。


名所江戸百景047 第21景 芝愛宕山 ほおずき市 

2013-06-20 12:52:53 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、港区(みなとく)の愛宕山(あたごやま)の「ほおずき市」の風景です。

 愛宕山の「ほおずき市」は、他の「ほおずき市」より二週間以上早く開かれる為、実が赤くなる前の青い状態で売られています。

【愛宕神社のホオズキ市】
 日程: 2013年は、6/23(日)・6/24(月) 9:00~20:00
       (売り切れると終了です。去年(土・日)は売り切れたそうです。)
      毎年、6/23・24に開かれますので、来年から3年間は平日に開かれる事になります。

 ホオズキは、日本最古の書物「古事記」に記載されている程、歴史は古く、平安時代には鎮静剤(ちんせいざい)として利用されていたそうです。副作用があるので、食用には適さず、薬用として用いられていました。
 ホオズキの実は赤みを帯びたオレンジ色になります。
 「くまドン」いる所では、すでに珍しい風習になっていますが、お盆の時期に、仏壇(ぶつだん)に精霊棚(しょうりょうだな)を作り、ホオズキを飾る所が多いようです。(地方によって、飾るものはバラつきがあるそうです。)
 「鬼灯」(ほおずき)と漢字があてられているように、お盆の13日に先祖の霊を迎え入れる時に、「迎え火」をして、先祖の霊が道を間違えないようにしています。「鬼灯」も先祖の霊を仏壇に導く為の提灯(ちょうちん)の見立てて置かれるようになりました。


 愛宕神社の入口に茅の輪(ちのわ)」があり、茅の輪をくぐり、参詣すれば千日分の御利益があるとされています。
 参拝者の長い行列ができていました。
 「ほおずき市」でホオズキを買って、神社の入口に行くと、並ばないで本殿内でお祓いをしてもらえます。


 現代は浅草(あさくさ)の「ほおずき市」が有名ですが、江戸時代においては、最初に「ほおずき市」を始めたのは、愛宕山でして、こちらの方が有名でした。
 逆に、観音様の功徳日(くどくび)である「四万六千日」(参拝すると、約126年分の御利益があるとされた日)は、浅草が最初です。当初は観音様に参拝をする日で、江戸時代の浅草では、「雷除け」として「赤とうもろこし」が売られていました。
 両方が混ざって、現在にいたってます。
 一応、浅草の「ほおずき市」の日程は、2013年 7/9(火)、7/10(水)です。



 下の絵は、広重の名所江戸百景「第21景 芝愛宕山」(春景)です。

 この絵で、最初に目が行くのは、右に大きく描かれた老人の方でしょう。
 右手に大きな「しゃもじ」、左手にも大きな「すりこぎ棒」(ゴマすり等をする棒)を持っています。
 おまけに、頭には、正月の飾り物のような兜(かぶと)を被っています。(「なんだこりゃ?」と思いますよね。)
 これは、江戸時代の正月に、愛宕山で行われた愛宕権現の強飯式(ごうはんしき)という儀式です。
 愛宕権現から毘沙門天(びしゃもんてん)の使いと称する者(絵の老人)が、愛宕神社の別当(神社を管理する寺)の円福寺に行き、お坊さんに「ご飯を食べろ!」と強要する儀式です。(何故、お坊さんに食べさせる・・・????)

  絵の左にある柱が愛宕神社の門ですが、この柱に「正月三日・・・」と書いてあり、背景に凧(たこ)が飛んでいる事から正月の風景として描かれています。老人がいる所は、「男坂」の階段です。
 遠くに江戸の町並(築地方向)が見えるのですが、その手前の青く塗られた部分には、大名屋敷があったはずです。さらに、町並の奥の部分が黒く塗られています。「しゃもじ」の左横の高い屋根が「築地本願寺」(つきじほんがんじ)だと言われていますが、この付近も大名屋敷がならんでいました。「くまドン」には、わざと、大名屋敷の部分は、はっきりと描かないように見えるのですが、大名屋敷を描くことは、問題があったのでしょうか・・・・・・???
 その先には舟の帆(ほ)が浮かぶ江戸の海が広がっています。左側には、海岸線が奥まで続いていますが、方向的には、東京下町の深川・洲崎・砂町方面になります。

 鳥居の先には、「出世の石段」と言われる男坂がありますが、とても急な階段です。

 現代は、「強飯式」は、すでにありませんし、ホオズキ市の写真は、人が多く、思うようには撮影できませんでしたが、一応、ほおずきと出世の石段の両方が写っていますので、
 この写真を、広重の名所江戸百景「第21景 芝愛宕山」に対応する「くまドン版」の景(確定)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作る事を第一目標にしています。)

 「ほおずき市」当日は、混んでいて撮影できなかったので、5月に一度下見に行った時の写真です。

 現在では、赤い門は、階段から離れていますので、絵と同じ構図は不可能です。また、周辺は高いビルが林立して、愛宕山からの眺めはありませんが、高い建物が無い江戸時代は眺めが良かったのでしょう。

 下の写真は、愛宕神社の男坂「出世の石段」を下から見た写真です。標高25.7mしかありませんが、都心部では高さのある階段です。
 「出世」という言葉の為か、意外と学生さんみたいな人が多かったのには、びっくりでした。
 記念撮影で、上の鳥居の所にも沢山の人がいますね。
 強飯式の毘沙門天の使いが行く円福寺は、下の鳥居の左側にありました。

 ここからは、左手のタワービルの隙間に東京タワーを見ることができます。

 鳥居の右横には、下の写真の女坂があります。男坂をよりは緩いのですが、それでも急な階段です。

 この女坂の上に茶屋があり、そこの主人が慣例で、毘沙門天の使いを演じていたそうです。
  「女坂の上愛宕おやといへる茗肆(みずちゃや)のあるじ、旧例にてこれを勤む。」
 現在でも、女坂を登った所に古風な建物があり、当日は人の出入りがあったのですが、食事処かな?

 男坂の上の左側にも、レストランがあります。調べたら、結構有名な料理人のイタリアンレストランらしいです。
 平日でも人気があるらしく、当日は「ほおずき市」ですから、人が多く、順番待ち状態です。

 「くまドン」は混んでいるので、男坂の下にある道路沿いの近くにある下の写真の定食屋さんで食事となりました。

 江戸時代は、この道路沿いに円福寺以外にも、小さな寺院が並んでいたそうです。定食屋さんのすぐ右隣に「真福寺」というお寺が現在もありますので、江戸時代は、「真福寺」か、左隣にあった「長久院」の敷地だったのでしょう。
 ご飯の「おかわり」は自由です。最初に5月に下見に行った時は、アルバイトのお嬢さんが、「強飯式」を意識してか、「おかわりどうですか?」と言ってくれました。でも、強要はされませんので、大丈夫です。
 江戸時代のお寺のお椀(わん)なら、小さいから、9杯ぐらい食べられるかもしれません(新参者は9杯、古参は7杯食べさせられるそうです。)。しかし、この店のお椀で9杯と言われたら、「くまドン」でも無理でしょう。

【天狗・太郎坊神社】
 前回の最後に、猿田彦(さるたひこ)と天狗(てんぐ)の話をしましたので、天狗についても少し話をしましょう。
 本殿右横には、「太郎坊神社」(たろうぼうじんじゃ)があります。 

 太郎坊神社は、滋賀県東近江市にある太郎坊阿賀神社(あがじんじゃ)が始まりで、なんと、聖徳太子(しょうとくたいし)の時代に創建らしいです。
 天狗は、山で修業した修行僧が高慢になった時の姿とされていますが、その天狗を束ねる「大天狗」になると、今度は、山の神として、信仰を集めるようになります。

 江戸時代中頃には、神の信仰の対象となる大天狗として、「八天狗」が挙げられていて、
(1)愛宕山の太郎坊は、「イザナギの神を祀る愛宕神社を守護するために3000年前(縄文時代)に仏の命令によって、この任務に就いたとされている。」とされていました。
 愛宕権現は、山岳信仰の為、天狗信仰もあり、「愛宕山太郎坊」を祀ってしました。さらに、芝の愛宕神社は、愛宕太郎坊は猿田彦の化身(けしん)としています。


 他の八天狗として、
(2)鞍馬山の「僧正坊」(鞍馬天狗) : 牛若丸(うしわかまる、源義経)で有名。

(3)比良山の「次郎坊」 : 比叡山(ひえいざん)に居たが、法力の強い法師に占領され、滋賀県の比良山(ひらやま)に移動した。

(4)白峰の「相模坊」 : 相模国(神奈川県)の丹沢(たんざわ)にある大山(おおやま)に居たが、平安時代末期の保元の乱(ほうげんのらん)で流された崇徳(すとく)上皇が讃岐(さぬき、香川県)の白峰で憤死した時に、慰霊の為、白峰に移った。
 左の写真は、香川県坂出市(さかいでし)にある白峯寺(しろみねじ、四国八十八箇所霊場の第81番札所)にあった「相模坊」の像です。くちばしと羽があるので、烏天狗(からすてんぐ)のようですね。
 たまたま、四国へ旅行で五色台(黄峯・白峯・赤峯・青峯・黒峯)に行った時に、撮影したのがありました。(笑)

(5)大山の「伯耆坊」 : 伯耆国(ほうきのくに、鳥取県)の大山(だいせん)に居たが、相模国に居た「相模坊」が四国の白峰に移動したので、後任に相模国の大山に移った。(なんだか、会社の人事異動みたいです。・・・・・)

 その他に、飯縄の「三郎」、彦山の「豊前坊」、大峯の「前鬼坊」などがあります。

【NHK放送博物館】
 現代において、愛宕山は、日本初のラジオ放送が発信された場所です。
 現在の日本放送協会(NHK)の元になる社団法人東京放送局(JOAK)は、この愛宕山に放送局を置いていました。
 愛宕神社のすぐ左手に、現在もNHK放送博物館(ほうそうはくぶつかん、入館無料)があります。
 当時の放送機器・資料や、過去の番組で使用したものが展示してありました。
 撮影に関しては、商業用や取材の場合は撮影許可が必要とのことでしたが、個人であれば問題ないとのことでしたので、撮影してきました。長くなるので、少しだけ出します。(でも、長くなった・・・・)
 まず、NHK教育テレビの「できるかな」の「ノッポさん」の相棒、「ゴン太くん」です。(1970年~1990年まで20年間)

 他に、人形劇などで使用した人形なども展示されてました。

 朝の連続ドラマも第1回から貼ってありました。とても全部は無理ですので、ほぼ無作為抽出です。

 さすがに、この辺は覚えているでしょう。
 第74回 純情きらり   (2006年前) 愛知/東京 脚本:浅野妙子(原作:津島佑子) 主演: 宮﨑あおい
 第75回 芋たこなんきん (2006年後) 大阪  脚本:長川千佳子(原作:田辺聖子) 主演: 藤山直美
 第76回 どんど晴れ  (2007年前) 岩手/神奈川 脚本:小松江里子   主演: 比嘉愛未
 第77回 ちりとてちん (2007年後) 福井/大阪   脚本:藤本有紀    主演: 貫地谷しほり、上沼恵美子

 第78回 瞳       (2008年前) 東京      脚本:鈴木聡      主演:榮倉奈々
 第79回 だんだん  (2008年後) 島根/京都   脚本:森脇京子    主演: 三倉茉奈・三倉佳奈
 第80回 つばさ    (2009年前) 埼玉      脚本:戸田山雅司   主演:多部未華子
 第81回 ウェルかめ (2009年後) 徳島      脚本:相良敦子    主演: 倉科カナ
 第82回 ゲゲゲの女房 (2010年前) 島根/東京 脚本:山本むつみ (原作武良布枝:) 主演:松下奈緒

10年程、時代を逆に進めます。
 第54回 ひまわり (1996前年) 東京/福島   脚本:井上由美子   主演: 松嶋菜々子
 第55回 ふたりっ子 (1996年後) 大阪/兵庫 脚本:大石静 主演: 三倉佳奈・三倉茉奈→岩崎ひろみ・菊池麻衣子
 第56回 あぐり    (1997年前) 岡山/東京/山梨 脚本:清水有生(原作:吉行あぐり) 主演:田中美里

 第57回 甘辛しゃん (1997年後) 兵庫 脚本:宮村優子/長川千佳子  主演:佐藤夕美子
 第58回 天うらら (1998年前) 栃木/東京 脚本:神山由美子(原作:門野晴子) 主演: 須藤理彩
 第61回 あすか  (1999年後) 奈良/京都 脚本:鈴木聡        主演: 竹内結子

さらに、15年程、時代を逆に進めます。この頃の作品は、明治・大正・昭和を生きた女性の話が多い。
 第28回 本日も晴天なり (1981年後) 東京 脚本:小山内美江子  主演:原日出子
 第29回 ハイカラさん  (1982年前) 神奈川/静岡 脚本:大藪郁子 主演:手塚理美
 第30回 よーいドン   (1982年後) 大阪/京都 脚本:杉山義法  主演:藤吉久美子

 第31回 おしん (1983年) 山形/東京/佐賀/三重 脚本:橋田壽賀子 主演:小林綾子→田中裕子→乙羽信子
  平均視聴率52.6%(2013年6月現在で、テレビドラマの視聴率で歴代1位)。1年放送は最初から別格扱い。
  現代の多様化した個人の価値観(オンリーワン)の時代では、この視聴率を超えるのは無理でしょう。
 第32回 ロマンス   (1984年前)  北海道/東京 脚本:田向正健  主演:榎木孝明、小宮久美子
 第33回 心はいつもラムネ色 (1984年後) 大阪/東京 脚本:冨川元文 主演: 新藤栄作、藤谷美和子
 第34回 澪つくし (1985年前)     千葉    脚本:ジェームス三木 主演: 沢口靖子

 さすがに初期作品になると、時代を感じさせます。(白黒テレビですものね)
 第1回 娘と私   (1961年) 東京  脚本:山下与志一(原作:獅子文六)  主演:村田貞枝
 第2回 あしたの風(1962年) 香川  脚本:山下与志一(原作:壺井栄)    主演: 渡辺富美子
 第3回 あかつき (1963年)  東京 脚本:山下与志一(原作:武者小路実篤) 主演:荒木道子

 第4回 うず潮 (1964年) 広島/東京/長野(1965年)  脚本:田中澄江(原作:林芙美子) 主演: 林美智子
 第5回 たまゆら (1965年)  宮崎他 脚本:山田豊/尾崎甫(原作:川端康成) 主演:加藤道子
 第6回 おはなはん (1966年) 愛媛/東京 脚本:小野田勇(原作:林謙一)   主演:樫山文枝
 第7回 旅路   (1967年)  三重/北海道 脚本:平岩弓枝          主演:日色ともゑ
 第8回 あしたこそ (1968年) 東京 脚本:橋田壽賀子/中沢昭二(原作:森村桂) 主演:藤田弓子


 歴代大河ドラマもありました。長くなりすぎたので、少しだけ。

 まず、真ん中にあるのが、歴代大河ドラマの平均視聴率第1位トップ(39.7%)
第25回 「独眼竜政宗」 (1987年)  脚本:ジェームス三木(原作:山岡荘八) 主人公:伊達政宗 主演:渡辺謙
 それ以前の織田・豊臣・徳川のNo.1を中心に扱ってきた作品に対して、地方の企業社長のイメージで作られた作品で、地方ブームのさきがけとなった作品です。

 続いて、歴代大河ドラマの平均視聴率第2位(39.2%)は、
第26回 「武田信玄」  (1988年) 脚本:田向正健(原作:新田次郎)  主人公:武田信玄  主演:中井貴一
 第7回の「天と地と」がライバル「上杉謙信」だったの対して、「武田信玄」が主役。 

 そして、第3位は、次の第27回「春日局」(33.1%)で、脚本は、橋田 壽賀子(はしだ すがこ)さんですが、
第24回 「いのち」 (1986年) 脚本:橋田壽賀子 主人公:岩田(高原)未希 主演:三田佳子
 も脚本担当で、歴代9位(29.3%)
 大河ドラマの近代3部作の一つであり、昭和の戦後を取り扱った唯一の作品ですが、朝の連続テレビ小説と重なる時代を取り扱い、ヒットを飛ばせた事はすごいでしょう。
 なんと、カリブ海の国「キューバ」で放送され、視聴率80%という数字を出したそうです。・・・・・・!!!
 その他、第19回 「おんな太閤記」で、歴代5位(31.8%)。「おしん」でテレビドラマ視聴率1位トップと、三冠王状態です。

 時代は進み、少し前の作品も載せておきます。この頃は、夫婦が主役→男が主役→女が主役のサイクルで選ばれていたような?

 第45回 功名が辻 (2006年) 脚本:大石静(原作:司馬遼太郎) 主人公:千代・山内一豊 主演:仲間由紀恵・上川隆也
 第46回 風林火山 (2007年) 脚本:大森寿美男(原作:井上靖) 主人公: 山本勘助   主演:内野聖陽
 第47回 篤姫    (2008年) 脚本:田渕久美子(原作:宮尾登美子) 主人公:天璋院(篤姫) 主演:宮﨑あおい

【その他の見どころ】
この芝の愛宕神社は、普段は静かな神社です。
 しかし、江戸幕府の初代将軍である徳川家康(いえやす)が造らせた事、3代家光(いえみつ)の時代にあった「出世の石段」の故事(こじ)、幕末の最後を決める西郷隆盛(さいごうたかもり)と勝海舟(かつかいしゅう)との会談の場所であった事など、話のネタが多く、1回分では、とても説明できる場所ではありません。

 さらに、愛宕山の南側にある青松寺(せいしょうじ)の左から、タワービルの隙間を抜けて行くと、目の前に東京タワーがあり、左手には芝の増上寺があります。時間があれば、このルートも撮影対象としては、面白かもしれません。

(1)東京タワーライトアップは、
  「名所江戸百景029 第53景 増上寺塔赤羽根 東京タワーと鯉のぼり」
   2013年6月のダイヤモンドベールは金・土(グリーン、6/21(金)のみブラック(無点灯))になりますので、
   2013年のほおずき市の日(日・月)は、普段のランドマーク(オレンジ色)のみとなります。
(2)芝の増上寺は、
  「名所江戸百景005 第79景 芝神明増上寺 桜満開」
 を参考にお願いします。



 「愛宕山のほおずき市」は、これで終わりとさせていただきます。
 梅雨のじめじめした日が続いています。皆様、体調にはお気をつけて、お元気でお過ごしください。

 今週は、「くまドン」の仕事が忙しく、家に帰る時間帯が、昼になったり、夜になったりと不規則で、睡眠不足になりがちでした。
 「くまドン旅日記」もプログ始めて、やっと3カ月となりました。元々、文章を書くのが苦手な「くまドン」が、右も左も分からず、「プログ作成」してきました。プログを見ていただき、ありがとうございました。

 来週は、「くまドン」の都合により、プログの更新することができませんが、7月は仕事のピークが一段落するので、マイペースでプログ作成が可能になりそうです。
 おそらく、次回のプログ更新は7月の上旬からになりますが、宜しくお願いします。

 次回からは、7月分の百景分になります。梅雨明けまでは、のんびりペースになります。


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名所江戸百景046 第73景 市中繁栄七夕祭 日枝神社の山王祭(3)

2013-06-14 19:15:47 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、山王祭の神幸祭(しんこうさい)の風景からです。
 写真は、神幸祭の巡行先で、お昼の休憩場所にあたる中央区(ちゅうおうく)茅場町(かやばちょう)にある日枝神社(ひえじんじゃ)の摂社(せっしゃ)です。

 本年2013年の山王祭は陰年で神幸祭はありませんが、百景を作る関係で、昨年2012年に行われた神幸祭で撮影した写真を使用させていただきます。

 陰年とはいえ、長かった山王祭も終わりに近づいています。
 天気が良かった祭りの前半に比べ、あいにくの雨続きとなっていますが、一応、日程をお知らせします。

【山王祭】
 日程 :2013年6月7日(金)~6月17日(月) 
     6/15(土) 11:00~ 例祭奉幣(ほうべい、ほうへい)、山王太鼓(たいこ)、献灯(けんとう)
     その他の日にも、儀礼・行事はあります。

 上記は、平成25年の山王祭の日程と一部抜粋(ばっすい)です。
 詳細は日枝神社のホームページで御参照ください。


【摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)】
 神社の管理下にある神社で、祭神と関係が深い神(系譜的に連なる神、荒魂、地主神)神社を祀った神社や、特別の由諸がある神社を「摂社」と呼び、それ以外の神社を「末社」と言うそうです。
 神社の境内に小さな神社が祀られていますが、この神社が「摂社」や「末社」です。

 日枝神社の茅場町にある摂社は、3代家光(いえみつ)の寛永年間に、日枝神社の御旅所(神幸祭の際、神輿や鳳輦が巡幸の途中で休息または宿泊する場所)として定められたのが始まりです。
 明治以降の「近代社格制度」の法整備により、大正時代に「摂社日枝神社」という名称になりました。「摂社」の中でも日枝神社の境外にあるタイプです。
 江戸時代は、天下祭りの休憩所ですから、山車(だし)も人も相当な数です。境内は、1300坪(約4300平方m=約65m×65m)もの大きさがあったそうです。


 ついでですから、写真に写っている人の名称も話に入れておきます。
【神社の神職】
 上の写真では、日枝神社の神官の方がおりますが、神社には職名が色々あるようです。
 なお、神主(かんぬし)は、古い制度では、神社の長(おさ)でしたが、現代では、神職(しんしょく)全てが対象になるそうです。
 現代の職名は、おおまかに言いますと、「宮司」-「禰宜」-「権禰宜」という関係になっているそうです。

 まず、宮司(ぐうじ、みやづかさ、古制度では神主)は、神社の神職や巫女をまとめる神社の長(おさ)です。神社で一番偉い人です。
 上の写真で、先頭の黒い服を着ている方ですが、見えにくいので、別の写真を載せます。
(絵画調:カメラの画像変換フィルタを使用しています。山王祭は「王朝絵巻」のイメージで多用しています。)

 神幸祭では、宮司さんは、人力車(じんりきしゃ)に乗っていました。

 続いて、宮司の下に補佐職の禰宜(ねぎ)がいます。
 禰宜の語源は「和ませる」の意味の古語「ねぐ」だそうですが、「神の心を和ませてその加護を願う」という意味だそうです。
 「くまドン」は、この字は読めませんでした。・・・・・食べ物のネギ(葱)しか思いつきませんでした。・・・・
 神幸祭では、禰宜さんは、赤い装束で3人いましたが、3人とも馬に乗馬していました。
 (一神社に宮司と禰宜は原則一人ずつらしいのですが、祭り用の増員でしょうか・・?)
(絵画調)

 神職ではありませんが、馬の口輪を持っている白装束の人が「口取」です。
 左側のオレンジ色の装束の人が「副宰領」で、神幸祭の運行の総責任者「宰領(さいりょう)」の補佐です。
 後方の山車(だし)は、「花山車」です。

 そして、禰宜の下に権禰宜(ごんねぎ)がいます。
 神社の一般職ですが、古制度では、祝(ほうり、はふり)などがあったそうです。
 行列の先頭にいる白装束の方が、「権禰宜」です。
(絵画調)

 後ろの建物は、銀座のシンボルである銀座和光(ぎんざ わこう)の時計塔です。
 権禰宜さんの後ろに、巫女さんが続いています。

【巫女(みこ、神子)、舞姫(まいひめ)】
 江戸時代と異なり、現代制度では、舞姫や巫女は神職ではなく、神職の補佐だそうです。
 神事において神楽・舞を奉仕する女性を指すそうです。
 舞いの伝承を役目とする「本職巫女」から、氏子さんのアルバイトまで幅が広いです。
 神社では、舞姫も巫女と言うらしいのですが、神幸祭では、「舞姫」と「巫女」が別々にいました。何故・・・・・???

 日枝神社の摂社に到着した神幸祭の行列は、境内に神輿が入り、神職の拝礼の次に、巫女さんの奉納舞(ほうのうまい)が行われます。(プログ先頭の写真です。)

 奉納舞の雅楽(ががく)を演奏する楽人(がくじん)が、古式豊かな楽器「笙(しょう)」で音楽を奏でます。
(絵画調)

 なお、楽人を「らくじん」と読むと、「気楽に暮らす人。苦労のない人」という意味になってしまいます。(笑)

 奉納舞の巫女さんがいて、奥に神輿と祭り関係者、手前に神職と雅楽を演奏する楽人がいます。
 説明的写真ですが、祭りの雰囲気はあると思います。

 江戸時代と違い、現代の摂社は狭く、大きな山車は外で待ち、祭り関係者も全員は入れません。
 早めに到着して、たまたま、この位置に居ただけなのですが、この写真が撮影できただけでも、ありがたく思い、
 この写真を、広重の名所江戸百景「第73景 市中繁栄七夕祭」に対応する「くまドン版」の景(確定)とさせていただいます。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第73景 市中繁栄七夕祭」です。
 この絵は山王祭とは、全く関係ありませんが、現在の京橋付近には「七夕祭り」はありませんし、オフィス街のビルの谷間にになっていますので、あまり撮影には向きません。よって、現代版である「くまドン版」では自由に使用させていただきます。
 絵の説明は、七夕(たなばた)の時期にさせていただきます。


 お昼の休憩時間が終わり、摂社から日枝神社に向かう午後の神幸祭行列が始まります。
(絵画調)


 最後に、神幸祭行列の中から、次回との関連性がある役を一つ取り上げます。
 下の写真の左のお面は、天狗(てんぐ)に見えますが、「猿田彦」(さるたひこ)と呼ばれる神様です。
 日本最古の書物「古事記」(こじき)や「日本書記」(にほんしょき)における天孫降臨(てんそんこうりん)の所に出てくる国津神(くにつかみ)です。
(絵画調)

 一応、行列の役目を上げておきますと、「猿田彦」の後ろに「朱傘」(しゅがさ)、「賛者」(さんじゃ)、「大真榊」(おおまさかき)、「錦旗」(きんき)、「大幟」(おおのぼり)と続きます。

 江戸時代に「天狗」が流行した結果、両者がごちゃ混ぜになったので、「天狗」に似ていてもおかしくは無いのですが・・・・・・・・・・

 今年2013年に本祭となりました、もう一つの天下祭・神田祭(かんだまつり)の行列でも、「猿田彦」がいました。
 他の方のプログでも取り上げられていたのですが、山王祭との比較様に「くまドン」のプログでも載せておきます。
 トレードマークの「赤い顔」と「高い鼻」、「白い髭(ひげ)」は同じですが、微妙にデザインは異なります。
(絵画調)


 猿田彦の容貌は、「鼻長は七咫(あた)、背長は七尺(約2m10cm)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、またホオズキのように照り輝いている」という姿で記述されています。
 咫(あた)は、古代の円周の単位で0.8尺(約24cm)、4咫(4X0.8=3.2尺、円周率を3.2と近似)の円周は、直径1尺(約30cm)の円になります。
 従って、鼻長は、直径約40cmのデカ鼻(長さなのか?太さなのか?)、八咫鏡は直径約46cmの鏡となります。(ただし、古書では、目の大きさでは無く、目が「ホオズキ」のように赤く光り輝いていたことを記述しています。)


 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 今週は仕事が忙しくて、休日以外、プログの作成どころか、パソコンすら立ちあげられない日が多かったのですが、意外にも先週からのプログ作成が順調に進み、プログの更新が多い結果となりました。(?)

 次回は、愛宕山(あたごやま)の「ほおずき市」です。
 来週も忙しいのですが、6月の百景(確定)は、残り1景だけですので、なんとか「ほおずき市」が始まる前には作りたい所です。


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名所江戸百景045 第15景 日暮里諏訪の台 日暮里のアジサイ

2013-06-12 07:55:14 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回も、日暮里(にっぽり)のアジサイ(紫陽花)の話の続きです。

 下の写真は、日暮里の富士見坂(ふじみざか)の上から西側を見た風景です。

 ここは、見晴らしが良いので、有名な夕日の撮影スポットです。
 名前の通り、秋から冬にかけては、富士山が見える場所として、「関東富士見百景」の一つとして知られていましたが、そこに高層ビルが建つので、建設の是非が話題になっています。

 下の絵は、前回もお見せしました広重の名所江戸百景「第14景 日暮里寺院の林泉」です。
 絵の説明は、前回しましたので、省略させていただきます。

 江戸時代は、この付近のお寺は、花や木を植えて、風光明媚な土地とした為、江戸の多く人が訪れる名所となりました。
 特に「青雲寺」「修性院」「妙法寺」などは、競って庭を造り花見寺と呼ばれました。
 江戸時代中ごろになると、「一日過ごしても飽きない里」という意味で「ひぐらしの里」と呼ばれるようになりました。
 元は「新堀」という地名でしたが、明治10年に「日暮里」が正式地名となりました。
 現在でも、日暮里付近の寺は、四季折々の花を咲かせ、日暮里に訪れる人たちを喜ばせてくれます。


 前回の最後にお話ししました谷中銀座(やなかぎんざ)の「夕焼けだんだん」の階段を下りた所にある道を右に行きます。
 右手に「南泉寺」を見て、しばらく行くと、このプログ先頭でお見せした「富士見坂」の下に着きます。
 その少し先に行くと、右手に修性院と青雲禅寺があります。

【修性院 (しゅしょういん)】 日蓮宗の寺院です。
 江戸時代、修性院は、妙隆寺(修性院に合併)、青雲寺と共に花見寺とも呼ばれていました。

 また、谷中七福神の一つである「ひぐらしの布袋」が祀られています。

 寺の塀には、四季をモチーフにした布袋尊のイラストが何枚も描かれており、道行く人々に親しまれています

【青雲禅寺】 臨済宗妙心寺派の寺院です。
 境内には、「南総里見八犬伝」で有名な滝沢馬琴(たきざわばきん、曲亭馬琴)の筆塚(ふでづか)の碑や硯塚(すずりづか)の碑などがあります。
 谷中七福神の恵比寿(えびす)神が祀られています。(正月の10日間のみ拝観可)


 青雲寺を拝見した後、道を戻り、富士見坂を登ります。

【日暮里諏訪の台】
 JR日暮里駅~西日暮里駅間(500m程)の西側にある台地の部分は、台地の幅が狭く、南北に細長く連なっていて、台地上を東西方向に少し進むと、すぐ坂があります。
 この付近を諏訪の台(すわのだい)と呼んでいました。
 江戸時代は高い建物はありませんので、諏訪の台は、東にも西にも展望が開けていました。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第15景 日暮里諏訪の台」です。

 こちらは日暮里の諏訪の台の上からの見晴らしです。
 春景ですから、桜が咲いていて、観光客が現在のJR線のある東側の坂から登ってきている所です。
 台地から北東方向に、なにも遮るものが無い東京低地部(下町)を望む風景です。
 絵の奥に見えるのが筑波山(つくばさん)です。左の山は日光方面の山々です。
 絵に描かれている諏訪の台の所には、諏訪神社(すわじんじゃ)や浄光寺がありました。
 台地の向こうから人が登ってくる坂を地蔵坂です。現在も諏訪神社境内にあります。

 富士見坂を登った所で左に行くと、右手に浄光寺と諏訪神社があります。
 浄光寺は、江戸時代は雪見寺として知られており、風流を好む文人が数多く訪れました。

 下の写真は、JR日暮里駅東口にある「太田道灌」の銅像です。
 この付近は、室町時代の武将「太田道灌(おおたどうかん)」が城を築いた所と伝えられています。

 武士でも鎧(よろい)は無く、いかにも室町時代と言った雰囲気ですね。

 諏訪の台は、別名「道灌山」とも呼ばれていました。江戸時代は、秋の虫聞きの名所となっていました。
 道灌山の公園まで行くと、説明板があります。この公園からは、JR西日暮里駅をすぐ下に臨む程の近さです。
 この先は、道潅山通りを通した時の切り通しで分断されています。切り通しの向こう側に、「船繋の松」という松があったそうです。

 再び、諏訪の台沿いの道を戻り、JR日暮里駅の方に進むと、富士見坂を過ぎた左手に養福寺(ようふくじ)があります。

【養福寺(ようふくじ)】 真言宗豊山派の寺院です。

 赤い仁王門は、5代綱吉(つなよし)の宝永年間の造られたそうです。門の裏側には、広目天と多聞天の二天王像が安置されています。
 江戸時代初期の俳句である談林派歴代の句碑などがあります


 養福寺から先に進むと、谷中銀座の「夕焼けだんだん」の階段の上に続く道にぶつかります。
 ここを左に曲がるとJR日暮里駅です。
 途中の左手に、経王寺(きょうおうじ、日蓮宗、大黒天)、江戸時代に月見寺として有名だった本行寺(ほんぎょうじ、日蓮宗)などがあります。
 また、JR線をまたぐ陸橋から、前回のプログにありました諏訪の台に沿って新幹線が走っている写真が撮影できます。

 JR駅東口にあった太田道灌の銅像を撮影した後で、バスステーションの左奥にある「ステーション・ガーデンタワー」に立ち寄りました。
 昔は、ここに駄菓子屋(だがしや)さんの問屋(とんや)が10軒ほどあったのですが、時代の流れで駄菓子屋の数も減り、再開発で高層ビルが建っています。
 現在では昔の面影はありませんが、「ステーション・ガーデンタワー」の低層階が店となっていて、1階と2階に1軒ずつ駄菓子問屋が残っていました。
 「くまドン」は、昔、文化祭で駄菓子を仕入れたことがありました。せっかく来たので、2袋(問屋はまとめ買いです)買っていくことにしました。親戚のおばさんが、喜んで持って行ってくれました。
 この店に行く2週間前に、群馬県のテレビでも放送されたことがあったそうで、わざわざ群馬県から買いに来た方もいたそうです。


 日暮里周辺の寺院は、現在も花の名所で、四季折々の花が咲きますので、
 名所江戸百景「第15景 日暮里諏訪の台」に対応する「くまドン版」の景は、また別の季節にやりたいと思います。

 どの寺も、まじめなお寺ですので、迷惑のかからないように、拝観・撮影に心がけましょう。

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 山王祭の期間は長く、週末も続きますので、次回は、山王祭からもう一景を選ばさせていただきます。
 今週は特に忙しく、パソコン立ち上げる暇もないので、週末には間に合わないかもしれません。・・・・・(汗)



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名所江戸百景044 第14景 日暮里寺院の林泉 谷中のアジサイ寺

2013-06-10 12:25:37 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、アジサイ(紫陽花)の話題です。
 梅雨の時期になり、アジサイも見頃を迎えました。

 知っている方も多いと思いますが、アジサイの原種は、古代から日本に自生していた「ガクアジサイ」です。

 下の写真は、台東区(だいとうく)谷中(やなか)のアジサイ寺として知られる長久院(ちょうきゅういん)です。


 アジサイが歴史上に現れたのが、万葉集(まんようしゅう)です。少ないですが、二首ほど詠まれています。
 平安時代になると、食用にもならないので、ほとんど見向きもされなくなります。

 現代では、開花とともに色が美しく変化していくアジサイ(紫陽花)は、梅雨の時期を彩る風物詩となっています。
 しかし、広重の名所江戸百景には、アジサイは描かれていません。
 これには、以下の理由があります。
 (1)江戸時代は、前時代の混乱を極めた戦国時代と安土桃山時代の反動として、
   幕府の統治を安定化させる為に礼節(れいせつ)が重んじられた結果、
   花の色が変化するアジサイ、「移り気」、「心変わり」、「裏切り」の象徴として忌み嫌われていた。
 (2)青紫の花色が原因で、江戸時代には「幽霊(ゆうれい)花」や「化け花(ばけばな)」と呼ばれていた。
 (3)アジサイには、青酸性の毒があり、毒草を栽培している結果となります。
   ただし、ヤマアジサイの一変種「アマチャ」は、甘茶(あまちゃ)の原料になります。
 以上の理由により、江戸時代において、アジサイは見向きもされていませんでした。

 アジサイで、最も一般的にある球状のアジサイは、西洋アジサイです。
(絵画調)

 アジサイは、日本から中国に移植され、野性化しました。
 江戸時代の11代将軍家斉(いえなり)頃に、揚子江にあった花の美しい変種が、イギリスに持ち込まれ、欧米へと伝わって行ったのです。
 英国で東洋の花として人気が上がり品種改良が進んで、現在の西洋アジサイが、大正時代に逆輸入されました。

 日本でアジサイが、まともに評価されたは、なんと、昭和の戦後に北鎌倉の「明月院」に植えられて、「アジサイ寺」として有名になったのが始まりです。

 このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることが目的ですから、気にせず、アジサイの景を作ります。

 現代の東京のアジサイの名所は、文京区(ぶんきょうく)の白山神社(はくさんじんじゃ)です。
 しかし、広重の名所江戸百景には、その近くで描かれた景はありません。・・・・・・・・・・・・・・(汗)
 今回は、名所江戸百景が描かれた場所付近で、アジサイの景を作ってみる事にしました。
 アジサイは挿し木(さしき)で増やすことができ、丈夫で育てやすい為、色々な場所で植えられています。
 ある意味、場所の選択は自由です。

 今回、選んだ場所は、荒川区(あらかわく)の日暮里(にっぽり)と台東区(だいとうく)の谷中(やなか)です。

 
【日暮里・谷中】
 以前、「名所江戸百景034」で王子(おうじ)の話をした時に、武蔵野台地の崖線(がいせん)が、JR線の西側に沿って走っている話をしましたが、
 日暮里付近では、この台地の部分を諏訪の台(すわのだい)と呼んでいました。

 この付近の台地は、台地の幅が狭く、南北に細長く連なっていて、台地上を東西方向に少し進むと、すぐ坂があります。
 日暮里を含む上野の台地と、西側の本郷の台地に挟まれた地域は、谷中(やなか)と呼ばれる地域です。
 日暮里を含む谷中地区は、70軒を超える寺院が集中していて、「寺町」と呼ばれています。

(1)江戸時代初期
 日暮里・谷中付近には、鎌倉時代に造られた天王寺(てんのうじ)や諏訪神社(すわじんじゃ)を含めて、寺社の数は少なかったのです。

 日暮里駅の南口を出て西の台地を進みます。
 少し歩くと、左手に、鎌倉時代開山といわれる天王寺があります。
 下の写真は、天王寺にある釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)です。
 5代将軍綱吉(つなよし)の元禄時代(1690年)に造られたそうです。
(絵画調)


【天王寺】
 元は、鎌倉時代後期に始まった日蓮宗(にちれんしゅう)の一派の寺だったのですが、色々ゴタゴタがありまして、同じく元禄時代(1698年)に天台宗(てんだいしゅう)に強制改宗となったそうです。
 さらに、元禄時代(1700年)には、徳川幕府公認の富くじ(現在の宝くじ)が始まり、目黒不動(めぐろふどう)、湯島天神(ゆしまてんじん)と共に「江戸の三富」として大いに賑わったそうです。
 江戸時代においては、寺社の費用集めとして、寺社を中心に行われました。
 ただし、富くじはギャンブル性があり、幕府より禁止令がでることも度々ありましたが、
 天王寺の富くじは、幕府公認の為か、天保(てんぽう)の改革の禁令まで続けられました。

 釈迦如来坐像の脇には、大きな花が咲いていました。


(2)3代家光(いえみつ)の寛永年間(1623~43)
 上野に寛永寺(かんえいじ)ができると、寛永寺の北側に子院(しいん、本寺に付属する小寺院)が多く作られます。

 天王寺を出て再び前に進むと、谷中霊園(やなかれいえん)があります。
 ここは、都立谷中霊園と、天王寺墓地、寛永寺墓地の土地が複雑に入り組んでいます。
 この霊園には、多くの有名人の墓があることでしられています。
 天王寺から、しばらく霊園を進むと、左手に天王寺の五重塔跡地があり、ここを右折して、突き当りを右に進むと、築地塀(つきじべい)で有名な観音寺(かんのんじ、安土桃山時代の慶長年間に創建)があります。

 築地塀は、土で塗り固めた塀のことですが、この観音寺の築地塀は、瓦(かわら)を層状に入れて強度を補強しています。(谷中の有名スポットの一つです。)
 境内には、赤穂浪士(あこうろうし)の会合にも使用され、供養塔(あこうろうしくようとう)と伝わる石塔があります。

 観音寺を出て、元来た道(南へ)をそのまままっすぐ進むと、300m程で、信号ある交叉点にぶつかります。ここを右折して、次の信号を左折すると、150m程先の左手に「アジサイ寺」の長久院があります。

(3)同じく、3代家光の慶安年間(1648~51)
 江戸幕府の江戸再開発計画により、神田付近にあった寺院の多くが、谷中付近に移転させられます。

 長久院はこの時代に移転してきた寺です。現在は、「アジサイ寺」として有名です。
 境内は非常に手入れが行き届いて、落ち着いた雰囲気をある寺です。アジサイが奇麗に咲いていました。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第14景 日暮里寺院の林泉」に対応する「くまドン版」の景(確定)とさせていただいます。(絵の説明はプログ最後にします。)

【長久院(ちょうきゅういん)】 真言宗豊山派の寺院です。
 安土桃山時代の慶長年間に神田(かんだ)地区で開山しました。
 3代家光の慶安年間に幕府の再開発計画により、現在の地に移転してきました。
 山門は、11代家斉(いえなり)の文化年間に再建された薬医門です。
 本堂の前にある閻魔王の石像は台東区の文化財指定です。


 長久院を出て、元の道を戻り、突き当りの信号を左折して、三崎坂を下っていくと、150m先の右手に「全生庵」(ぜんしょうあん)があります。(谷中の有名スポットの一つです。)

【全生庵(ぜんしょうあん)】 臨済宗国泰寺派の寺院です。
 山岡鉄舟(やまおか てっしゅう、幕末の幕臣)が明治維新に殉じた人々を弔うために発願。明治16年に創建。
 山岡鉄舟の墓や、落語家の三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう)の墓があります。
 8月上旬に「谷中圓朝まつり」があり、落語の怪談噺(かいだんばなし)の元になった幽霊画コレクションが公開されます。

(4)さらに、4代家綱(いえつな)の明暦年間になると、
 明暦の大火(1657)により焼失した寺院が、江戸の町の防火対策の一環として、現在の日暮里・谷中付近に移転してきました。

 全生庵を出て、ゆるやかな三崎坂を下り、80m程先を右折して、100m程行くと、「しょうぶ寺」の立善寺があります。

【立善寺(りつぜんじ)】 日蓮宗の寺院です。
 この寺は、明暦年間に現在の谷中地域に落ち着いた寺ですが、他の寺とは理由が異なります。
 3代家光の正保年間に両国(りょうごく)の地で開山。その後の移転先を江戸幕府に御用地(ごようち)として取り上げられてしまい、難渋しましたが、明暦年間に現在の谷中地域に落ち着いたそうです。

 「しょうぶ寺」と呼ばれていました。現在は、境内に幼稚園がありますが、今も門前で菖蒲の花が咲いています。
 門前にある「アンパンマン」の看板と「バイキンマン」の石像が、幼稚園の雰囲気を出しています。

(5)当然のことながら、寺が増えてくれば、参拝客が増えてきて、門前町が形成されていきます。

 立善寺を通り過ぎ、右手に「岡倉天心(おかくら てんしん)記念公園」を見ながら、300m程進むと、谷中銀座ある通りに出ます。
 現在の日暮里・谷中の門前町は、谷中銀座でしょう。

 下の左の写真は、谷中銀座を見下ろす「夕焼けだんだん」の階段です。西向きなので、夕日を浴びる階段が撮影スポットとなっています。
 この日は平日だった為、休日の店が多かったです(残念・・・)。右の写真のようなシャッターの絵もありました。
 「くまドン」は、谷中銀座でみやげに、「谷中せんべい」を買いました。

 谷中銀座は、安くて、美味しそうな食べ物屋が並んでします。また、昔懐かしい雰囲気の品物も売っていたりします。
 「くまドン」は、歩いて、汗もかきましたので、昼食は、冷たい物にしました。


(6)江戸時代中頃になると、日暮里付近の寺に、花見寺として有名になる寺ができ、さらに、多くの人が集まるようになります。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第14景 日暮里寺院の林泉」です。

 日暮里の諏訪の台(すわのだい)と呼ばれる台地の西側から、諏訪の台を俯瞰(ふかん、上から下を見下ろす)した絵です。
 特に近景を極端に大きくする表現法も使用されておらず、江戸時代の他の風景画と同じような表現法です。
 春景ですので、桜が咲いていますが、真ん中の下の広場のような場所が、花見寺として知られた妙隆寺の庭です。
 その後ろの坂が富士見坂です。観光客が花見をしている風景が描かれています。
 左上の台地上にあり、木の合間に見える寺の屋根が、これも花見寺として知られた青雲寺(せいうんじ)です。



 日暮里のアジサイを1回でまとめようとしたのですが、寺の数が多いので、まとめきれませんでした。
 長くなりましたので、今回は、これで終わりとさせていただきます。

 次回は、日暮里のアジサイの続きになります。



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