gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

城008 大和郡山城(4) 外堀めぐりコース

2014-09-12 12:25:26 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、奈良県の大和郡山城(やまとこおりやまじょう)の話です。大和郡山城は、豊臣秀長(とよとみひでなが、秀吉の弟)100万石の城として有名です。江戸時代も大和・郡山藩の城でした。
 下の写真は、大和郡山城の追手向櫓の上部です。昭和62年の復元ですが、まだ新しさが残っています。


 さて、前回の続きで、城の東側にある春岳院(しゅんがくいん)から外掘コースに向かって歩きます。
 最初は、良玄禅寺(旧雲幻寺、臨済宗)というお寺です。大和郡山藩の藩主・本多政勝(ほんだまさかつ)の菩提寺でもあります。

 大阪夏の陣で豊臣家が滅ぶと、大阪・京都は幕府直轄地となり、その周辺は徳川一族や普代大名(ふだいだいみょう)で、守りを固めることになります。大和郡山藩も譜代大名が続きます。
 順番に並べると、
(1)水野(みずの)家 6万石、西暦1615年~1619年
(2)松平(まつだいら、奥平)家 12万石、西暦1619年~1639年
(3)本多(ほんだ、忠勝系)家 15万石、西暦1639年~1679年
  本多政勝はこの時の初代藩主です。
(4)松平(藤井)家 12万石、西暦1679年~1685年
(5)本多(ほんだ、忠勝系)家 12万石、西暦1685年~1723年
(6)柳沢(やなぎさわ)家 15万石、西暦1724年~1871年
 江戸時代前半の100年程の間に5回も転封があり、普代の家臣は幕政に関与することが多かったので、柳沢家になる前までは、それほど大和郡山の発展には力を入れて無かったようにみえます。

 良玄禅寺の境内には、文化7年に柳沢家・大和郡山藩の第3代藩主・柳沢保光(柳澤尭山)等によって建立された芭蕉の(初時雨)の句碑があります。
句碑には、「けふはかり人も年よれ初時雨 はせを」と刻まれているそうです。

 お寺の中に入るのを遠慮して寺名の石柱を撮影して行こうとした所、門の中で子供を遊ばせていた奥さんらしき方が、親切にも「どうぞ」と案内していただき、下の写真を撮影することができました。ありがとうございます。

 さらに、東に進んでいくと、東側の外堀跡に出る事ができました。ここから南に進みます。

 大和郡山城の外堀を利用した「外堀緑地」の入口に北門があります。

 説明板です。北門は、冠木門(かぶきもん)をイメージして造られたそうです。

 外堀沿いに白い塀が続きます。

 下の地図のように、外堀沿いに整備されています。

 郡山名物の金魚や鯉も泳いでいます。
(絵画調)


 外堀公園の最後近くで、寺社の多い道に入ります。薬園八幡神社(やくおんはちまんじんじゃ)の神門です。

 薬園八幡神社は、薬園村の鎮守(ちんじゅ、土地を守る為の神様)でしたが、現在の場所に移転したと伝わります。地元では「やこうさん」と呼ばれるそうです。


 さらに進むと、洞泉寺町(とうせんじちょう)という場所にでます。
(絵画調)

 格子窓の古い建物が建ち並ぶ所です。とくに格子窓の木造三階建ての建物は珍しい雰囲気です。

 薬園八幡神社から洞泉寺町の通りには、お寺が多くあります。
 近くには源九郎稲荷神社という神社もあります。白狐の伝説があり、「白狐渡御」の行事が行われる神社です。


 近鉄郡山駅の近くに、お城型の交番があるというので、ついでに寄ってみました。


 ここから先は外堀はすでになく、外堀跡の道路などを歩く事になります。時間も無くなってきたので、最後に豊臣秀長の墓である「大納言塚」を見て帰る事にしました。

 下の写真は、城の南側にある豊臣秀長(朝廷の官位は権大納言)の墓です。「大納言塚」と呼ばれています。

 現在、墓は大和郡山市の所有になっています。なぜか、多くのドングリが置かれていました?
 説明板にあった豊臣秀長像も、もう一度載せておきます。

 この後、朝見た柳沢家の菩提寺「永慶寺」の前を通り過ぎて、大和郡山城に戻りました。

 この外掘コースですが、大和郡山城の大きさは実感できますが、ともかく長いです。
 外堀コースは城の北側にある金魚池(外堀の一部)を歩く所が、一番お勧めのコースですが、
 駅前にレンタサイクルがあるので、借りて回る予定でしたが、年末なので休みでした。
 予定したコースの半分も回れず、残念でした。
 その他にも、城の外堀跡の南側に少し離れた所に大きな金魚池が一杯あるので、金魚の町らしさを感じられる所です。大和郡山の金魚の養殖産業は、柳沢家が大和郡山に転封になる時に、持ち込まれた金魚が藩の産業にまで発展した結果です。

 東京で「正月の初日の出」を撮影する予定でしたので、午後2時がタイムリミットでした。
 車で大和郡山城を出発し、やっと、東京に到着したのは、夜の10時過ぎです。
 ちょうど、大晦日の「王子の狐」の行列が年越しの挨拶をしている時間帯でしたが、
 前年は寝不足で朝早く起きられなかったのので、簡単に荷物の整理して、すぐに就寝・・・・・・・
 そして、初日の出一つに絞って、平成26年の元旦の初日の出撮影に成功しました。


 前回までのブログは、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。
(1)奈良県の城の過去のブログは、
 「城004 雪の高取城(1) (奈良県・百名城61番、日本三大山城)」
 「城004 雪の高取城(2) (奈良県・百名城61番、日本三大山城)」
 「城004 雪の高取城(3) (奈良県・百名城61番、日本三大山城)」

 「城005 奈良県の織田家 柳本藩(1) 橿原神宮の文華殿」
 「城005 奈良県の織田家 柳本藩(2) 黒塚古墳」
 「城005 奈良県の織田家 芝村藩 織田小学校・慶田寺」
 「城005 奈良県の織田家 織田信雄の宇陀松山城(山城、陣屋)」

 「城008 大和郡山城(1) 羽柴秀長100万石の城」
 「城008 大和郡山城(2) 柳沢家・大和郡山藩15万石」
 「城008 大和郡山城(3) 三重の掘、秀長の菩提寺」
 「城008 大和郡山城(4) 外堀めぐりコース」 (今回分です)

(2)名所江戸百景の大晦日の「王子の狐」と初日の出話は、以下のブログです。
 「名所江戸百景134 第118景 王子装束ゑの木大晦日の狐火 王子の狐」
 「名所江戸百景135 第81景 高輪うしまち レインボーブリッジ 初日の出」

 最後に、「ごまさん」へ、奈良県の城が2月の高取城から作り始めて、最後の城が9月になってしまいました。
 この間に色々ありましたが、「ごま姫ちゃん」や「くろちゃん」、そして、ご家族の方といつまでも仲良く、お元気でいてください。何度も、ご訪問していただき、そして、コメントありがとうございました。

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 これで、大和郡山城の話は終わりです。
 テスト的に、「城007 秀吉の但馬攻め」と「城008 大和郡山城」を並行して進めてみましたが、
 後で見ると分かりにくくなると思いますので、しばらくしましたら、番号整列の為、順番を入れ替えます。
 次回からは、名所江戸百景の残分を進めて行きたいと思います。
 さすがに息切れしてますので、今後は、かなりスローペースになると思いますが・・・

 ここまでのブログの大半が、8月半ば頃にできていたので、途中でミスもありましたが、ほとんど自動更新でした。
 8月の終わりごろから、インターネット作業環境の環境更新と仕事・旅行・撮影、その他雑用で、ほとんど、インターネットに入れませんでした(この状況は、まだ続いているのですが)。
 皆さまのブログに訪問できませんでしたが、少しずつ、復帰していきたいと思います。

 日本プログ村に参加しています。良ければ、「ポチッ」応援お願いします。(携帯からは無効ですので、不要です。)
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ


城008 大和郡山城(3) 三重の掘、秀長の菩提寺

2014-09-10 00:10:27 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、奈良県の大和郡山城(やまとこおりやまじょう)の話です。大和郡山城は、豊臣秀長(とよとみひでなが、秀吉の弟)100万石の城として有名です。江戸時代も大和・郡山藩の城でした。
 前回は城の南西側に進みましたが、今回は城の東側です。
 下の写真には、大和郡山城に復元された追手向櫓(写真中)と追手門(おうてもん、写真中奥)があります。

 写真右側の建物は、大和郡山市民会館で、写真左側の石垣は、毘沙門曲輪の石垣です。
 撮影している場所で左を向くと、内掘りの奥に本丸と二ノ丸を結ぶ台所橋が見えます。
(絵画調)

 内掘左外にある二ノ丸(現在は県立郡山高校の敷地)へ続く道の途中には、表門がありました。

 城の南東側の門である鉄門跡の石垣です。他の門と同様に入口が直角に曲がった虎口(こぐち)でした。
(絵画調)

 大和郡山城の堀は三重になっていて、鉄門跡の石垣外側は中掘の東側となります。
 中掘の右手には、現在は近鉄の線路が走っています。

 右の踏み切りを渡り、線路沿いに進むと、追手東隅櫓が右手に見えてきます。左側は追手向櫓です。

 年末(休日)の昼間ですから、あまり電車が通りません。

 東隅櫓の横には十九間多聞櫓が続いています。
(絵画調)

 写真の下の石垣の所には、桜門と呼ばれる門がありました。
 中掘はここで西に折れて続きますが、 台地の部分を削って造ったらしく、ここからは水は無くなり、空掘(からぼり)になります。なかなか深い掘りですが、現代の冬は枯れ草がぼうぼうですから、三重の掘りの一番外側にある外堀コースに移動する事にします。時間があれば、大和郡山城の大きさを実感するには良いコースです。

 桜門跡から東に進むと、春岳院(しゅんがくいん、高野山真言宗)というお寺があります。豊臣秀長の菩提寺です。

 天正19年(西暦1591年)に豊臣秀長が亡くなると、城の南側に墓所が造られました。
 菩提寺は大光院というお寺が開創されましたが、その後、京都に移転する事になり、
 藤堂高虎(とうどうたかとら)により、墓の管理と位牌を春岳院(当時は東光寺とうい寺名)に託しました。

 「春岳院」とういう名は、豊臣秀長の法名から来ています。
 藤堂高虎は、秀長の元家臣(最初は300石)で、最後は22万石(当時は8万石)の大名にまで出世した武将です。

 山門の脇に、小さなお地蔵様が並んでいました。

 それから、秀長の菩提寺だった大光院の蒲庵古渓(ほあんこけい、古渓宗陳)は、秀長の葬儀の導師(どうし)も務めたお坊さんですが、なかなか、この人は硬骨漢なお坊さんですよ・・・!
 下の写真は、城の南側にある豊臣秀長の墓です。「大納言塚」と呼ばれています。

 江戸時代は豊臣政権を滅ぼした徳川幕府の時代で、大和郡山藩は京・大阪のすぐ近くですから徳川譜代の大名が治めていたので、その後、墓も荒廃したそうです。
 江戸時代後期の10代将軍・徳川家治(とくがわいえはる)の安永6年(西暦1777年)に岳院の住職が現在ある
姿に復興したとのことでした。
 下は説明板にあった豊臣秀長像です。

 秀長の朝廷の官位は、従二位権大納言にまでなりましたので、「大和大納言」の尊称がありました。

 長くなりましたので、外堀コースは次回とさせていただきます。

 前回までのブログは、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。
(1)奈良県の大和郡山城の過去のブログは、
 「城008 大和郡山城(1) 羽柴秀長100万石の城」
 「城008 大和郡山城(2) 柳沢家・大和郡山藩15万石」
 「城008 大和郡山城(3) 三重の掘、秀長の菩提寺」 (今回分です)

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 次回は、朝来市の陣屋・城跡の話の続きです。
 テスト的に、「城007 秀吉の但馬攻め」と「城008 大和郡山城」を並行して進めてみます。
 後で見ると分かりにくくなると思いますので、話しが一段落した所で、番号整列の為、順番を入れ替えます。
 次々回は、大和郡山城の話です。

 日本プログ村に参加しています。良ければ、「ポチッ」応援お願いします。(携帯からは無効ですので、不要です。)
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ


城008 大和郡山城(2) 柳沢家・大和郡山藩15万石

2014-09-08 00:10:38 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、奈良県の大和郡山城(やまとこおりやまじょう)の話の続きです。大和郡山城は、豊臣秀長(とよとみひでなが、秀吉の弟)100万石の城として有名です。江戸時代も大和・郡山藩の城でした。
 下の写真(絵画調)は、大和郡山城に復元された追手門(おうてもん、大手門のこと)と追手向櫓です。


 さて、前回の続きで、大和郡山城の本丸に入ります。
 本丸には柳沢神社があります。徳川幕府・5代将軍の徳川綱吉(とくがわつなよし)の側用人(そばようにん)だった柳沢吉保(やなぎさわよしやす)祭った神社です。

 右の石柱に「川越(かわごえ)・甲府(こうふ)城主 柳沢美濃守吉保公」と刻まれているように大和郡山藩の藩主ではありませんでした?
 柳沢吉保は、綱吉が将軍になる前の館林藩(たてばやしはん)の藩主だったころからの家臣です。綱吉が5代将軍になると、綱吉の側近(側用人)として、将軍の命令を老中(ろうちゅう)に伝える役目で、綱吉に重用されました。
 当初は、幕府の530石の旗本(はたもと)でしたが、川越藩7万2000石、さらに、甲府藩15万石へと加増されていきます。元禄時代には大老(たいろう)にまで出世します。
(絵画調)

 5代将軍の綱吉が亡くなり、徳川家宣(いえのぶ)が6代将軍になると、新井白石(あらいはくせき)が幕政を主導する事になり、柳沢吉保は失脚して、家督を子供の柳沢吉里(やなぎさわ よしさと)に譲って隠居します。
 ここで、甲府藩・2代藩主の柳沢吉里ですが、親の柳沢吉保が幕政のみで藩の政治を顧みなかったの対して、幕政には一切関わらず、藩政に力を注ぎました。(親の吉保が、賄賂(わいろ)政治で有名で、綱吉の「生類哀れみの令」などの悪法を推し進めたので、幕府からにらまれていたこともありますが・・・)
 結果的には、この吉里は名君で、農業用水の整備などが行われ、甲府藩の領民にとっては幸せでした。

 8代将軍・徳川吉宗(よしむね)の時代になると、享保の改革(きょうほのかいかく)において、甲府藩は幕府直轄領となり、甲府藩15万石の柳沢家は、大和郡山藩15万石に移封となります。
 本丸にある柳沢神社は、初代藩主の柳澤吉里が、親の吉保を祭る為に造った神社です。

 こうして柳沢吉里は、柳沢家・大和郡山藩の初代藩主となった分けですが、2代目・3代目の藩主も名君と呼ばれ、
 大和郡山の領民にとっては、治世が安定した比較的幸せな時代を迎える事になります。


 下の写真は、本丸の南西側からみた石垣です。大和郡山城を現在の形にしたのは、豊臣秀長です。

 兄・豊臣秀吉の補佐として、大和国・和泉国・紀伊国の3ヵ国100万石の領地を有し、大阪城を中心とした機内を固める必要がありましたので、大幅に拡張されました。

 豊臣政権時代の石垣ですから、野面積みで石の形もまちまちです。石垣の角部(隅石)は算木積みのようですね。
 野面積み(のづらづみ): 自然石を加工しないで、そのまま積み上げる方法である。当然、石の形はバラバラ。
 算木積み(さんぎづみ): 石垣の角部に長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせて強度を上げる積み方。
(絵画調)

 蒸気機関も無かった時代に、人力で築城しているのですから、ある意味驚きです!

 本丸の柳沢神社の後ろに天守台があるのですが、平成29年3月まで工事中で進入禁止でした。
 仕方が無いので、柵の外から天守台を撮影しました。

 この天守台の石垣の特徴は、転用石と呼ばれる地蔵様(石仏)や墓石が使われている事です。当時の大和地方は石材に乏しかったために、周辺から徴用されたそうです。このため、この天守台に建てた天守には、祟り(たたり)があったという伝説まで残ってしまいました!
 本丸から内掘を見た眺めです。結構高さがあります!


 本丸と二ノ丸の間にある台所橋です。
(絵画調)

 台所橋を渡った県立郡山高等学校のある所が、二ノ丸で、藩主の館(やかた)や藩政が行われた場所でした。

 二ノ丸を道路沿いに南西に進んでいくと城の中掘にでます。右の石垣は南御門跡です。

 カモ(鴨)類は、カルガモ(留鳥)がいました。


 さらに中掘を過ぎて行くと、右手に永慶寺(えいけいじ)の山門(市指定文化財)があります。
 この山門は、豊臣秀長の時代に建築された門で、幕末に中掘にあった南御門を移築したものです。

 大和郡山城で現存する唯一の遺構(いこう)でもあります。

【永慶寺(えいけいじ)】
 大和郡山城主・柳沢家の菩提寺(ぼだいじ、先祖の位牌を納めてある寺)です。
 下の写真は、柳澤家仏間(香厳殿)です。境内の説明板によると柳沢家の墓所は左奥にあるらしいです。

 元々は、甲府藩の藩主だった頃の柳澤吉保が、甲府の地に永慶寺を創建した事から始まります。
 吉保の死後は永慶寺に埋葬されて、柳沢家の菩提寺となります。
 その後、甲府藩主の座を継いだ柳澤吉里(吉保の子)が、甲府藩から大和郡山藩に移封になります。
 この移封に伴い、永慶寺も大和郡山に移転して、柳沢家代々の菩提寺となっています。
(絵画調)

 墓は見れませんでしたが、境内にあったお堂の一風景からです。年末でしたので、新年を迎える準備もあります。
(絵画調)



 前回までのブログは、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。
(1)奈良県の大和郡山城の過去のブログは、
 「城008 大和郡山城(1) 羽柴秀長100万石の城」
 「城008 大和郡山城(2) 柳沢家・大和郡山藩15万石」(今回分です)

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 次回は、朝来市の陣屋・城跡の話の続きです。
 テスト的に、「城007 秀吉の但馬攻め」と「城008 大和郡山城」を並行して進めてみます。
 後で見ると分かりにくくなると思いますので、話しが一段落した所で、番号整列の為、順番を入れ替えます。
 次々回は、大和郡山城の話です。

 日本プログ村に参加しています。良ければ、「ポチッ」応援お願いします。(携帯からは無効ですので、不要です。)
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ


城008 大和郡山城(1) 羽柴秀長100万石の城

2014-09-06 07:55:22 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、奈良県の大和郡山城(やまとこおりやまじょう)の話です。大和郡山城は、豊臣秀長(とよとみひでなが、秀吉の弟)100万石の城として有名です。江戸時代も大和・郡山藩の城でした。
 下の写真(絵画調)は、大和郡山城に復元された追手門(おうてもん)と追手向櫓です。

 追手門は、大手門(おおてもん)の古い呼び方で、城の正門にあたります。
 今回の写真は、昨年・平成25年の大晦日(おおみそか、12月31日)に撮影しました。

【大和郡山城(やまとこおりやまじょう)】 奈良県指定史跡
 別名:雁陣之城
 分類:平山城
 場所:奈良県大和郡山市
 特徴:天守台はありますが、天守は無い。本丸には柳沢神社があります。
     追手門(梅林門)とその周囲の向櫓、東隅櫓、十九間多聞櫓が復元されています。
     石垣は、野面積みで、近世城郭初期の特徴を良く残しています。
     石垣の石が不足して、築城時に徴用された地蔵様や墓石などの転用石もあるのも特徴です。
     大和郡山の町を回る外堀コースは、豊臣秀長(秀吉の弟)100万石の城の大きさと大和郡山の歴史や
     味わうことができます。郡山の名産・金魚も必見。

 下の絵は説明板にあった豊臣秀長像の絵です。

【豊臣秀長(とよとみひでなが)】
 豊臣秀吉の弟で、秀吉の信頼も厚く、片腕として内政・外交・軍事でその才能を発揮した。
 秀長の性格は温厚、真面目、寛容であり、秀吉を影で支えながら、秀吉の間違いを指摘して止める事ができた唯一の人物でした。
 このため、豊臣恩顧の武将からの信頼も厚く、秀長が早死することなく、長生きしたら、豊臣家は滅びる事無く、徳川家康(とくがわいえやす)も天下を取れなかっただろうと言われる事も多いです。
 実際の歴史は、秀長が52歳で亡くなると、朝鮮出兵、後継者だった豊臣秀次の廃嫡と続き、豊臣家は滅亡の道を歩むのですが・・・・・

 掘を回りこむように追手門に向かって進んでいくと、まず、追手向櫓(昭和62年復元)が左手に構えています。
(絵画調)

 追手向櫓の所で道は右に曲がり、追手門が立ちふさがります。

 追手門は喰違虎口(くいちがいこぐち)になっています。
 喰違虎口: 門は横向きにして、門の前後通路をL字型に曲げ、進入路をS字にして、攻撃側の勢いを落とします。
 さらに、周囲を櫓(やぐら)と壁などで囲み、門の前で攻撃側を集中攻撃できる為、守備が容易になります。

 正面から見た追手門(昭和58年復元)です。


 最初に、天正13年に羽柴(豊臣)秀長が大和郡山城にはいる所までの背景を説明しますと、
 天正10年: 本能寺の変: 明地光秀(あけちみつひで)の謀反により、織田信長(おだのぶなが)が自害。
         山崎の戦い: 羽柴秀吉が明智光秀に勝利。
 天正11年: 賤ヶ岳の戦い: 旧織田家の主導権争いで、豊臣秀吉が柴田勝家(しばたかついえ)に勝利
             戦後に、毛利輝元が祝勝の使いと人質を出して、秀吉と毛利(もうり)は同盟関係。
 天正12年: 小牧・長久手の戦い: 秀吉が織田信雄(おだのぶかつ)・徳川家康の連合軍と戦い、休戦。
         秀吉包囲網が崩壊: 紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部、越中が孤立する。
 天正13年: 秀吉の紀州攻め: 根来・雑賀衆に勝利して、和泉・紀伊(きい、現在の和歌山県)を制圧する。
             戦中に、秀吉は関白(かんぱく)に就任
             戦後、紀伊一国は羽柴秀長の領土となる。
         秀吉の四国攻め: 秀長は総大将として出陣、長宗我部氏は降伏して、土佐一国を安堵される。
 そして、四国攻めの働きにより、秀長は紀伊一国に、大和郡山をくわえた100万石の大名となります。

 追手門横の石垣です。
(絵画調)

 大和郡山城はの石垣は豊臣秀長100万石の時代に築かれた石垣がほとんどです。秀長以前の筒井氏時代は小規模な城で、遺構はほとんど残っていないようです。

 その前の大和郡山城主だった筒井氏を伊賀上野に移封して、羽柴秀長を大和郡山に入れたのは、大阪城州への畿内(関西)の土地を豊臣家の親族や近臣で固める意味もありました。
 当時は、東の徳川家康とも休戦しているだけで、講和していませんでしたし、西には九州攻めも残っていました。

 追手門の裏側です。これだけの門ですから、柱も太いですよ。


 追手門の中から外側を見た写真です。左側が進入路で、正面に追手向櫓があります。
(絵画調)

 下の写真は追手門を抜けて、門の後斜めから見た写真です。左奥に見える櫓が東隅櫓(昭和59年復元)です。
(絵画調)

 追手門を抜けた所が、毘沙門曲輪(本丸ニの郭)となります。続いて、本丸のある方向に進むと、ここには、柳沢文庫(やなぎさわぶんこ)と呼ばれる歴史資料の保存・公開する施設がありますが、当然のことながら、年末だったので休館日でした・・・・・・
 毘沙門曲輪(右)と本丸(左)の間に、内掘があります。
(絵画調)

 手前の方ほど水深が浅くなり、内掘の最後は、空掘(からぼり)となっています。

 本丸の石垣が少し低くなっている所があります。ここに極楽橋と呼ばれる橋が架り、本丸への入口でした。

 極楽橋の本丸側入口には、右の絵のように多聞櫓門があったようです。
 (健全財政を基本とする「くまドン」は、橋の建設費だけでなく、維持・保守費用もありますので、余計な事を言わない事にします。)

 本丸の周りを内掘が一周していますが、極楽橋の左側は石垣で区切られています。
 下の写真の左側の部分です。現在は、ここから本丸に入ります。
(絵画調)

 反対側から見た石垣です。手前が本丸の石垣、奥が毘沙門曲輪の石垣です。その間に一段低い石垣があります。


 前回までのブログは、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。
(1)奈良県の城の過去のブログは、
 「城004 雪の高取城(1) (奈良県・百名城61番、日本三大山城)」
 「城004 雪の高取城(2) (奈良県・百名城61番、日本三大山城)」
 「城004 雪の高取城(3) (奈良県・百名城61番、日本三大山城)」

 「城005 奈良県の織田家 柳本藩(1) 橿原神宮の文華殿」
 「城005 奈良県の織田家 柳本藩(2) 黒塚古墳」
 「城005 奈良県の織田家 芝村藩 織田小学校・慶田寺」
 「城005 奈良県の織田家 織田信雄の宇陀松山城(山城、陣屋)」

 「城008 大和郡山城(1) 羽柴秀長100万石の城」 (今回分です)
 「城008 大和郡山城(2) 柳沢家・大和郡山藩15万石」
 「城008 大和郡山城(3) 三重の掘、秀長の菩提寺」
 「城008 大和郡山城(4) 外堀めぐりコース」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 次回は、朝来市の陣屋・城跡の話の続きです。
 テスト的に、「城007 秀長の但馬攻め」と「城008 大和郡山城」を並行して進めてみます。
 後で見ると分かりにくくなると思いますので、話しが一段落した所で、番号整列の為、順番を入れ替えます。
 次々回は、大和郡山城の話の続きです。

 日本プログ村に参加しています。良ければ、「ポチッ」応援お願いします。(携帯からは無効ですので、不要です。)
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ


城007 秀吉の但馬攻め(4) 秀長の但馬平定、そして鳥取へ

2014-09-04 00:10:22 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、織田信長(おだのぶなが)配下の羽柴秀吉(はしばひでよし)の但馬攻めの話です。但馬(たじま)の現在の兵庫県・北部にあたります。

 「城007 秀吉の但馬攻め(1) 竹田城・羽柴秀長」の続きになります。
(1)但馬方面は、織田方と毛利(もうり)方の勢力のぶつかりあう地域でした。
 天正7年に毛利一族の吉川元春(きっかわ もとはる)が但馬方面の毛利勢を救援しようとしましたが、
 伯耆(ほうき、現在の鳥取県西部)・羽衣石城(うえしじょう)の南条元続(なんじょうもとつぐ)が織田方に寝返ります。
 下の写真(絵画調)は、羽衣石城の駐車場から山頂を撮影したものです。真ん中やや右の山上に模擬天守が見えています。

 後方を遮断された状態になり、但馬にまで進出した吉川元春は軍勢を引き返すことになりました。
 結果として、毛利方の但馬国人は孤立することになります。

(2)天正8年(西暦1580年)になると、播磨(はりま、現在の兵庫県南部)方面が、羽柴秀吉によって再度平定される事になります。毛利勢と戦うに当たって、山陽方面は秀吉が、但馬方面は、竹田城城主である弟の秀長が担当することになります。
 下の写真は、有名な竹田城の雲海です。

 4月に始まった但馬攻め、5月には平定完了となります。
 但馬の毛利方は前述のように孤立していましたから戦意がありません。次々に降伏していきます。

(3)豊岡城(とよおかじょう)の山名四天皇の最後一人・垣屋豊続(かきやとよつぐ)も奮戦むなしく降伏。
 下の写真は、豊岡の観光地図です。現在の豊岡城は、神武山公園(じんむさんこうえん)となっています。


(4)山名 堯熙(やまな あきひろ)の有子山城(ありこやまじょう、山城)も激戦の末に落城。
 下の写真は、江戸時代初期に造られた出石城(いずしじょう)ですが、後方に見える山が有子山城です。


(5)「旅日記 山陰海岸」で紹介した場所にも秀長の但馬攻めに関係した城がありました。
 下の写真は、「旅日記018 山陰海岸(8) かすみ丸遊覧船」でも話をしました「塔の尾城」の直下の岸壁です。この上に海城がありました。兵庫県・香美町(かみちょう)の海岸にあります。

 塔の尾城は、室町(南北朝)時代に築かれた城で、長氏という一族の城でしたが、天正8年の秀長による但馬攻めで落城となりました。
 静かで、美しい海岸ですが、このような場所にも戦国時代の嵐は吹き荒れていたのです。

(6)戦国時代の有名な大名で城造りの名人と呼ばれた藤堂高虎(とうどうたかとら)がいます。22万石の大名にまでなりましたが、この当時は、羽柴秀長に300石で仕えていました。
 下は、愛媛県の今治城(いまばりじょう)にあった藤堂高虎の銅像です。

 この藤堂高虎も、香美町南部の小代谷の地侍(国人)のゲリラ戦には大分苦戦したようで、何度も痛い目にあったようです。天正9年に但馬平定に貢献した事により、3000石の鉄砲大将になりました。

(7)下の写真は、「旅日記012 山陰海岸(2) 居組・諸寄の漁港」で話をしました浜坂の城山公園にある「芦屋城跡」です。塩冶高清(えんやたかきよ)が居城する海上交通を確保する為の海城でした。

 芦屋城、天正8年の秀長の但馬攻めで落城しましたが、この塩冶高清は城を退却後、鳥取城の北にある雁金山城(かりがねやまじょう)を築き、翌・天正9年に鳥取城を攻める秀吉軍に対抗する毛利方として戦いを続ける事になります。
 この塩冶高清、秀吉からは「山賊衆」と呼ばれる程、山陰の地の利を生かして、山の中を神出鬼没に兵を動かすことが得意でした。

(8)下の写真は、「旅日記020 山陰海岸(10) 城崎の竜宮城・来日岳」の城崎(きのさき)の円山川(まるやまがわ)河口にある気比の浜(けいのはま)です。奥に見える岬の左手にある家のある付近が現在の津居山です。

 城崎(きのさき)の津居山を根拠地としていた奈佐日本之介(なさやまとのすけ)も、同様に鳥取城の北にある丸山城(まるやまじょう)を築き、鳥取城を攻める秀吉軍に対抗する毛利方として、塩冶高清と共に戦う事になります。奈佐日本之介の方は、秀吉から「海賊衆」と呼ばれています。

(9)下の写真は「城002 鳥取城と鳥取砂丘(2) (鳥取県・百名城63番)」に見せた鳥取城の写真です。
 天正9年、鳥取城は秀吉に包囲されます。鳥取城の守将は毛利一族の吉川経家(きっかわつねいえ)です。
 
 秀吉の鳥取城攻めは「兵糧攻め」で、兵量を買い占めた話は有名です。
 陸の補給路の途中になる伯耆の南条氏(羽衣石城)が織田方に寝返り、鳥取城の周辺が秀吉軍に包囲された為、海上輸送に頼る事になります。
 鳥取城(吉川経家)~雁金山城(塩冶高清)~丸山城(奈佐日本之介)が、唯一の海上補給ルートなっていて、兵糧攻めの最中でも物資補給を行っていたが、中間点の雁金山城を、秀吉軍の宮部 継潤(みやべ けいじゅん)に落とされ、港も海上封鎖された為、補給が不可能となりました。塩冶高清は丸山城で奈佐日本之介と共に戦い続ける事になります。

 秀吉の兵糧攻めの結果、城内の兵士らの飢えと疲労を考えた吉川経家の鳥取開城が、秀吉に受け入れられ、鳥取の戦いは終わる事になります。
 戦後の処置において、秀吉は、吉川経家の器量を認め、生きて毛利家に返し、鳥取城の元・山名家の家臣や塩冶高清・奈佐日本之介を切腹させようとします。
 これに対して、吉川経家は、経家自身の生還を固辞し、塩冶高清・奈佐日本之介の助命しようとしたため、経家を含めて全員切腹となってしまいました。
 こうして、山陰方面の織田家の秀吉と毛利家の戦いは終わり、天正10年の山陽方面の備中高松城攻め、本能寺の変、そして、秀吉の中国大返しへと続いて行くのです。

 今年は、NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」の年ですが、但馬方面の攻略では秀吉の弟・秀長が中心でしたので、出番がありませんでした。
 但馬地方の出石そばは有名で、出石城の近くには、皿そばの店が数多くあります。その中に「官兵衛」という店がありましたので、食べてみる事にしました。見ての通り、つゆに玉子やトロロなどを入れて、好みに合わせて食べられるので、楽しかったです。

 食べ終わった皿も見て楽しめます。町中の店の皿そばを1皿ずつ食べ歩くことも可能で、面白いかも。


 鳥取の羽衣石城や、但馬の出石城については、いつか時間がある時にとさせていただきます。

 前回までのブログは、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。
(1)竹田城とその周辺の過去のブログは、
 「城001 天空の城 竹田城(1) (兵庫県・百名城56番)」
 「城001 天空の城 竹田城(2) (兵庫県・百名城56番)」
 「城001 天空の城 竹田城(3) (兵庫県・百名城56番)」
 「城003 天空の城 竹田城・再訪(1) (兵庫県・百名城56番)」
 「城003 天空の城 竹田城・再訪(2) (兵庫県・百名城56番)」
 「城003 天空の城 竹田城・再訪(3) (兵庫県・百名城56番)」

 「城007 秀吉の但馬攻め(1) 竹田城・羽柴秀長」
 「城007 秀吉の但馬攻め(2) 朝来市の陣屋」
 「城007 秀吉の但馬攻め(3) 古墳の宝庫」
 「城007 秀吉の但馬攻め(4) 秀長の但馬平定、そして鳥取へ」 (今回分)

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 次回は、大和郡山城の話の続きです。
 テスト的に、「城007 秀吉の但馬攻め」と「城008 大和郡山城」を並行して進めてみます。
 後で見ると分かりにくくなると思いますので、話しが一段落した所で、番号整列の為、順番を入れ替えます。
 次々回の「訪城記」は、「秀吉の但馬攻め」の続きです。

 日本プログ村に参加しています。良ければ、「ポチッ」応援お願いします。(携帯からは無効ですので、不要です。)
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ