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名所江戸百景113~116 の取り扱い

2013-11-30 12:25:36 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 前回も、お伝えしましたように、ブログを作成している時間が無く、11月分の紅葉の残景を作成している時間がありませんでした。
 「名所江戸百景113~116・・・・」のブログを作成すると、

12月分のブログが追いつきませんので、この景の分は飛ばして、次の12月分を進めさせていただきます。
 申し訳ありませんが、11月残分は、時間のある時に作成いたします。
 最終的には、このブログの後方に「名所江戸百景113~116・・・・」を並べるようにします。





名所江戸百景112 第94景 真間の紅葉手古那の社継はし 真間の紅葉と手古那伝説

2013-11-29 12:25:11 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、千葉県・市川市(いちかわし)の真間(まま)の紅葉景と、手古那(てこな)伝説の話です。
 下の写真は、手児奈霊神堂です。

 現在では、あまり知られていない話ですが、古代から江戸時代にかけては、かなり有名な話でした。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第94景 真間の紅葉手古那の社継はし」(秋景)です。

 真間の北にある真間山・弘法寺(ぐほうじ)の高台から、南方向を俯瞰(上から下を見下ろす)した絵です。
 名所江戸百景の特徴である近景構図(近くの物を大きく描く)が取り入れられていて、手前に弘法寺(ぐほうじ)の二股に分かれたカエデ(楓)の木が置かれています。
 カエデの枝の間に、「真間の継ぎ橋」と、左に「手古那神社(手古那の社)」を覗き見る構図で描かれています。
 カエデの葉が赤黒いですが、終わりに近づいた紅葉を表現しているのでは無く、
 元の絵は、真っ赤な紅葉でしたが、酸化して赤黒く変色した結果なのです。
 なお、この絵は南方向を見ている絵と言われています。
 そうなると、後方の山は房総半島(ぼうそうはんとう)の山並みなのですが、
 なんとなく、右側の二つの頂きを持つ山が、北側にある筑波山に似ているのですが・・・・・???

 下の写真は、市川市の真間(まま)付近を流れる真間川(ままがわ)を西方向に見た写真です。

 川の右手(北側)の高台が下総台地(しもうさだいち)がありあす。
 手児奈の生きていた古代(大化の改新以前らしいです)においては、下総台地と南の市川砂州の間には、現在の江戸川(江戸時代は利根川)に流れ込む真間川の河口付近から、東に向かって奥深い入江ができていました。
 この入江を「真間の入江」と呼んでいました。現代では陸地となり、市街地となっており、昔の面影はありません。

【手古那(てこな)伝説】
(1)遠い遠い昔のことです。真間のあたりは、アシ(葦)の生える低い湿地帯でした。
 真間山のすぐ下まで海が入りこんでいて、その入江には、舟のつく港があったということです。

 海が近くにある頃は、この付近の井戸水は塩分を含んでいて、飲み水には向いていませんでした。
 ところが、「真間の井」とよばれる井戸だけは、きれいな水がこんこんと湧き出していました。
 この里に住んでいる人びとは、この井戸に水をくみに集まりました。
 この土地に、身なりは粗末(そまつ)ではあるけれども、美しい「手児奈」という娘がいました。
 土地の人達は、手児奈の美しさを誉め、色々なうわさをしました。

  「手児奈が通る道のアシはね、手児奈の傷をつけないようにと、葉を片方しか出さないということだよ。」
  「そうだろう。心のないアシでさえ、手児奈を美しいと思うのだね。」

(2)美しい手児奈のうわさは広がり、真間の台地にある国の役所にも伝わりました。
 そして、里の若者だけでなく、国の役人や、都からの旅人まで、多くの男性から結婚を求めらました。
  「私の心はいくつでも分けることはできます。でも、私の体は一つしかありません。
   もし、私が誰かのお嫁さんになれば、ほかの人を不幸にしてしまいます。」と、全ての求婚を断りました。
 その為、手児奈のことを思って病気になるものや、お互いに争いを起こす者もおりました。

 下の写真の赤い欄干が真間の継ぎ橋の史跡のある所です。正面は、弘法寺の階段です。

 日本最古の和歌集である万葉集(まんようしゅう)には、
  「足(あ)の音せず行かむ駒(こま)もが葛飾の真間の継橋やまず通わむ」(読み人知らず)
  (足音せず行く馬が欲しい。そっと葛飾の真間の継ぎ橋を渡って彼女に逢いに行きたい)
 と言う歌が残っています。
 手児奈を祀る手児奈霊神堂(てこなれいじんどう)は、上の写真の赤く「つぎはし」と書かれた石橋の20m程先を右に曲がった所にあります。

(3)手児奈は悩み、海に沈む夕日を見て、
 「私さえいなければ、けんかもなくなるでしょう」と、真間山の下にある海(真間の入江)に身投げしてしまいました。

 こうした手児奈を慰める為に、真間の「手児奈霊堂」は造られました。
 現在は、安産の神さまとして祀られています。

 下の写真の真正面の奥に、手児奈霊神堂があります。広重の絵では手児奈霊堂の右に延びるつぎ橋の所です。

 広重の絵では、道の両側に「真間の入江」の名残である大きな池が江戸時代にありましたが、現代では、両側は人家となっています。

(4)万葉集には、山部赤人(やまべ の あかひと、奈良時代の歌人)を始めとした沢山の人が手児奈の話を題材にした歌が残っています。
 当時の奈良の都にも、遠く離れた関東の伝説が知られていたと言うほど有名な話だったのです。

 下の手児奈霊神堂(てこなれいじんどう)です。

 手児奈が水くみをしたという井戸は、手児奈霊堂の左奥にある「亀井院(かめいいん)」というお寺の庭に残る「真間の井」と言われています。


 お堂の南側には、広重の絵に描かれた池の名残りらしい池があり、ハス(蓮)の葉が浮かぶ水面に手児奈霊神堂の姿が映し出されています。

 ただし、写っているのが、柳の木やスイレン(睡蓮)なので、秋景らしくありません。どちらかと言えば夏景向きです。

 池の前に赤い紅葉が入れたかったのですが、残念ながら、オレンジ色の紅葉しかありませんでした。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第94景 真間の紅葉手古那の社継はし」に対応する「くまドン板」の景(確定・秋景)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)
 
 できることなら、下の写真程度の紅葉が手前にあれば、よかったのですが・・・・・・・・・
(絵画調)


 それでは、広重の絵で、もう一つの題材である弘法寺(ぐほうじ)に行ってみましょう。江戸時代は紅葉の名所で、真間の紅葉は、弘法寺を指しています。

 最初の道に戻り、弘法寺(ぐほうじ)の階段を登ります。途中には、万葉集の歌碑などがあります。

【弘法寺(ぐほうじ)、山号は真間山】 日蓮宗の本山(由緒寺院)。
(1)創建は、奈良時代まで遡り、行基(ぎょうき、奈良時代の高層)が真間の手児奈の霊を供養するための求法寺(ぐほうじ)と創建されたと伝わります。

 弘法寺境内に入ると、できたばかりの新しい祖師堂(そしどう、開山の像を祀った堂)があります。
 あまりに新し過ぎるので、雰囲気が出ず、振り返り、仁王門(におうもん)と両側の木で構図を作りました。
(絵画調)

 上の写真の「仁王門」と下の下の写真の「鐘楼堂」は、明治の大火でも残った建築物です。

 近くに樹齢400年以上と呼ばれる「伏姫桜」と呼ばれる大きな桜の木もあります。
 なお、「伏姫(ふせひめ)」は、前回の国府台でもお話しました「南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)」に登場する里見(さとみ)家の姫の名です。

(2)平安時代になると、空海(くうかい、弘法大師(こうぼうだいし)、真言宗の開祖)がが伽藍(がらん)を構えて、弘法寺に改称したという。その後、天台宗(最澄(さいちょう、伝教大師)が開祖)に改宗。

 弘法寺の東の端は下総台地の高台の崖で、南側の町が見渡すことができます。
 広重の絵の見ている位置に最も近い場所です。

 手前に手児奈霊神堂の青い屋根があり、遠くには、JR市川駅にある「アイリンクタウン市川」のザ・タワーズウエストが見えます。この建物の45階には展望施設があり、360°の大パノラマが広がっています。
 「くまドン旅日記」でも、いつか時間のある時に、ここからの展望を紹介します。
 (現在は、ブログ作成の時間がありませんので、今回は省略します。)

(3)鎌倉時代にあんると、日蓮宗(にちれんしゅう)の法華経寺(ほけきょうじ)の布教活動に問答で負けて、日蓮宗に改宗することになりました。
 江戸時代の5代・綱吉(つなよし)の元禄年間には、徳川御三家(ごさんけ)・水戸藩主の徳川光圀(とくがわみつくに)が、弘法寺の紅葉狩りに訪れ、茶室を愛で、遍覧亭(へんらんてい)」という号を贈った歴史があります。
 残念ながら、明治21年に火災により諸堂は焼失しましたので、諸堂は、その後、再建した建物です。

  
 境内を左に進み、客殿・本殿を過ぎると正面に朱雀門(すざくもん、赤門)と呼ばれる赤い門があります。
 この門も、明治の火災で焼失せずに残った門で、弘法寺の建物の中でも最も古い(推定500年位)と伝わります。(絵画調)

 門の奥に見える建物は、以前の弘法寺寺務所で、現在は、「真間道場」として使用されているそうです。

 門の入り口の右手には、下の写真のような事が書かれていました。


 この赤門をくぐり、右手奥に大黒堂があります。日蓮の真刻と伝える大黒天を祀っています。


 赤門をくぐると、どごからかお経(おきょう)を読む声が聞こえてきます。
 右手を見ると、里見龍神堂(さとみりゅうじんどう)と呼ばれる小さなお堂があり、その中で朝の日課なのかお経をあげていました。イチョウの黄葉の落ちる中の雰囲気で、お寺らしき雰囲気が漂っていました。


 朝の富士山を撮影に国府台に2回行き、帰り際に真間に寄りましたが、2度目に弘法寺に行った時は、少し時間が遅かったので、お経の時間は終わっていました。


 弘法寺のすぐ隣に、弘法寺古墳があります。

 この場所から見ても、よく分かりませんが、長さが40m以上もある前方後円墳です。
 下総台地の崖の上にある為、崩れかかっているそうです。


【真間付近の名所江戸百景】
 真間のすぐ北東側には、前回のブログでお話しました国府台があります。
  「名所江戸百景110 第95景 鴻の台とね川風景(1) 国府台と朝の富士山」
  「名所江戸百景111 第95景 鴻の台とね川風景(2) 国府台と朝の富士山」

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 仕事の多い時期なので、ブログを作成している時間が無く、思うようにブログは進みません。
 秋の紅葉の時期も短く、休みの日は限られていますので、百景を作る為に1日に何景も撮影する必要があります。
 この日の撮影は大変でした。朝、国府台→真間・弘法寺を2カ所を撮影して帰宅した後に、
 再度、家を出発して、その他に5カ所も周りました。その中には、
  「名所江戸百景104 第49景 水道橋駿河台 雪化粧の富士山」
 の文京シビックセンターもあります。
 11月分は15景もあったので、他の4か所のブログが、11月分の紅葉の景として、残ってしまいました。
 12月と1月分も約15景ずつあるので、とても終わりそうもありません。
 残念ながら、11月の紅葉ブログ残り4景分は、別の時期に他の景と合わせて作らせていただきます。
 一定期間後に、日付を変更して、このブログの後方に移動させていただきます。

 次回からは、12月の景になります。

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名所江戸百景111 第95景 鴻の台とね川風景(2) 国府台と朝の富士山

2013-11-26 07:55:11 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、千葉県・市川市(いちかわし)の国府台(こうのだい)で、紅葉と赤い富士山の撮影の続きです。

 国府台の富士山撮影は2回目です。日時は12月13日頃です。日の出時間は6:42頃と前回より遅くなっています。
 今回は、しっかりと、朝日に染まる赤い富士山を撮影することができました。
 冬至(とうじ、12月22日頃)も近いので、朝は寒く、河川敷は霜(しも)で白くなっています。
 手前の江戸川には、まだ朝日が当らず、水辺のカモも静かにじっとしています。

 いきなりですが、この写真を、広重の名所江戸百景第95景 鴻の台とね川風景」に対応する「くまドン板」の景(確定・秋景)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)
 写真の雰囲気は、ほとんど冬ですが、撮影している後の公園内は、まだ紅葉の最中ですので、秋景です。

 里見公園は、木が生い茂っていますので、富士山を撮影できる場所は、2カ所だけですが、逆に周辺の木々を入れて、撮影することもできます。(富士山がかなり小さくなってしまいますが・・・)


 朝の光も赤みが無くなり、オレンジ色に変わる頃、江戸川の水面にいたカモが並んでどこかに飛んでいきます。
 なんとなく、広重の絵のカモの雰囲気が感じられます。


 朝日の赤みなくなり、富士山も、いつもの白い雪の姿になります。再び、里見公園内で少し撮影をしてみる事にしました。
 12月も中頃になると、紅葉のピークは過ぎていましたが、色づきの良い木も残っていましたので、何枚かは撮影できました。
(絵画調)


【總寧寺(そうねいじ)、山号は安国山(あんこくざん)】 曹洞宗(そうどうしゅう、禅宗の一つ)の寺院
 下の写真は、里見公園の東側に隣接する總寧寺です。
 江戸時代の国府台(現在の里見公園)は、總寧寺の敷地で、里見公園南側の洋風庭園付近に本堂があったといわれていますが、この寺の歴史は波乱万丈(はらんばんじょう)の歴史です。

(1)この寺は、室町時代(南北朝時代)の3代将軍・足利 義満(あしかが よしみつ)の永徳年間に近江(滋賀県)守護(しゅご)の佐々木源氏・六角氏が、曹洞宗の僧を招いて、滋賀県北東部の米原市(まいばらし)のお寺を建てたのが始まりです。

(2)戦国時代になると、11代将軍・足利義晴(あしかが よしはる)の享禄年間に、戦乱でお寺が焼失してしまい、
 遠江国(とおとうみのくに、静岡県中部)の掛川(かけがわ)に避難して、常安寺という名前のお寺を建てました。

(3)ところが、戦国の混乱は拡大して、室町時代末期に、再び、戦乱でお寺が焼失してしまい、常陸国(ひたちのくに、茨城県)に避難する事になりました。住職は、お寺の再建を考え、小田原の戦国大名・北条氏を頼り、関宿宇和田(現在の埼玉県幸手市)にお寺を再建しました。その後、総寧寺の旧称に戻ったそうです。
 この時の寺領は、米20貫(昔の重さの単位、米1貫=約米1.2石として、約24石)です。



(4)その後、豊臣秀吉の小田原攻めにより、北条氏が滅んでしまいましたが、お寺なので、新たに関東を治める事になった初代・徳川家康からも、寺領として、米20石が与えられることになりました。

(5)その後、2代・秀忠(ひでただ)により、関宿内町(現在の千葉県野田市)に移転させられますが、
 この土地は洪水多発地帯でした。



(6)4代・家綱(いえつな)の寛文年間に洪水を避ける為、移転を懇願して、現在の国府台への移転が認められました。
 (江戸時代の川は、城の堀と同じ防衛線の役割があったので、徳川家康入府後に江戸を望む城は敵の陣地になる可能性がある為、国府台城は廃城となっていました。)
 さらに寺領として128石5斗が与えられ、「曹洞宗関東僧録司」となり、関三刹(かんさんさつ)として、江戸時代の曹洞宗の統制をすることになったのです。(突然、大出世しているのですが?・・・・・)
 関三刹(かんさんさつ)は、以下の3寺です。
 大中寺(だいちゅうじ、栃木県栃木市大平町西山田)
 總寧寺(そうねいじ、千葉県市川市国府台)
 龍穏寺(りゅうおんじ、埼玉県入間郡越生町)

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第95景 鴻の台とね川風景」(秋景)です。


(7)幕末・明治初年には、江戸城無血開城に不満を持つ幕臣が市川市・国府台付近に集まり、一時、大鳥 圭介(おおとり けいすけ)を中心とする幕府軍がいたそうです。
 その後、幕府軍は会津方面に移動した為、直接の戦闘は行われませんでしたが、応援に向かった木更津方面の幕府軍と明治新政府軍の間で、市川・船橋戦争(いちかわ・ふなばしせんそう)が行われたそうです。

 昨年の秋は暖かいので、カエデの紅葉が赤くならず、黄色のまま終わる木も多かったのです。
 結果として、イチョウの黄葉写真は結構撮影できたのですが、カエデなどの紅葉の写真は、江戸百景としては、黄葉写真ばかりになり、紅葉の景を選択するのは苦労しました。
(絵画調)


(8)明治時代になると、陸軍の施設になったり、病院になったりします。
 大正時代末頃から昭和にかけての10年間程、この里見公園には、「里見八景園」と呼ばれる遊園地があり、プールや動物園、茶屋などがあったそうです。京成線沿いにあり、最盛期には、1日千人もの来園者が訪れたそうです。
 下の写真は、里見公園北側の真ん中にある池です、 白い橋の奥には人工の小さな滝があります。当時の八景園の施設でした。
(絵画調)

 池の周りのカエデも、1回目の時は緑の葉のままでしたが、この日は赤や黄色に色づいてました。
 池には、赤い富士山を一緒に撮影していた年配の地元の方が二名程いまして、国府台の色々な事を教えていただきました。(ありがとうございました。)
 お二人が被写体として撮影していたのは、なんとキツツキで、「アカゲラ」と「アオゲラ」がいるとのことでした。
 例年、寒くなると、国府台には「アカゲラ」が姿を見せるらしいですが、昨年は、「アオゲラ」も姿を見せたそうです。

【国府台までのアクセス】
 「くまドン」は、朝が早過ぎて、電車では家からのアクセスに時間がかかり過ぎるので、マイカーで行きましたが、
 最寄駅は京成本線の国府台駅です。歩いて15分~20分かかります。
 国府台駅の700m程、南東に離れた所にJR総武線の市川駅があります。市川駅からは、京成バスで「国立病院・矢切駅経由 松戸駅行き」に乗り、「国立病院」か「公民館」のバス停で下車となります。(6時過ぎ頃が始発です。)

【国府台付近の名所江戸百景】
 国府台のすぐ南東側には、名所江戸百景「真間の紅葉手古那の社継はし」が描かれた場所があります。
 この景に関しては、次回のブログで触れさせていただきます。
 その谷は、「国分寺跡」などの史跡や、「じゅんさい池緑地」があります。

 国府台の北側には、矢切の渡しがあります。徒歩で江戸川の堤防沿いに歩いて30分のコースとなっています。自動車でも江戸川沿いの道路を通り行くことができます。(少し北側に駐車場もあります)
 矢切の渡し関連のブログは、以下の通りです。(クリックするとリンク先に飛びます。)
  「名所江戸百景030 第93景 にい宿のわたし 矢切の渡し」
  「名所江戸百景031 第93景 にい宿のわたし 柴又帝釈天」
 矢切の渡しまで行くと、一日がかりの旅行になります。

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 11月分の紅葉の景は、まだまだ続くのですが、ブログ作成の時間が足りなく、どうやら終わりそうもなさそうです。
 12月分も多く、年末までに全てを載せるのは、難しそうです。・・・・・・・・(汗)。

 次回は、同じ名所江戸百景の中で国府台の近くにある市川市・真間(まま)の紅葉です。

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名所江戸百景110 第95景 鴻の台とね川風景(1) 国府台と朝の富士山 

2013-11-25 12:25:21 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、千葉県・市川市(いちかわし)の国府台(こうのだい)で、紅葉と赤い富士山の撮影が目的です。
 いきなり、国府台のから望む富士山の超望遠アップ写真から始まります。
 朝日を浴びる富士山は雪で真白でした。撮影日は、昨年・平成24年11月25日頃です。(日の出時間は6:26頃)

 よく見ると、富士山の下に、見たことがある尖ったビルがあります。NTTドコモ代々木(よよぎ)ビル(渋谷区)です。
 このビルは、新宿高層ビル群の南にあり、東京都のビルの中ではミッドタウンタワー(248m)、東京都庁第一本庁舎(234.4m)に次いで3番目(屋上239.85m、最頂部272m)の高さがありますので、目立つ形の為、新宿方向を探すのに助かります。

 NTTドコモ代々木ビルは、新宿の南にあるので、東から見ると、右側に新宿の高層ビル群が見つかります。
 カメラを広角側に回すと、周辺が広く入ります。新宿の都庁らしき建物が、富士山から右側に少し離れた場所に見えます。撮影位置を移動したので、手前の建物と富士山の位置関係が変わりましたが、分かりますでしょうか?
 富士山の手前の丹沢(たんざわ)の山塊も良く見えます。左には、スカイツリー(634m)も見えます。

 手前の川は、東京都と千葉県の間を流れる江戸川(えどがわ)です。江戸川沿いの堤防の上は、遮る建物が少ない為、富士山を撮影に向いている所です。
 当然、江戸川の堤防沿いに移動していくと、スカイツリーと富士山を重ねて撮影することも可能です。
 朝日が昇る前に到着して撮影する予定でしたが、ものの見事に寝坊(ねぼう)して、朝日が明るくなってから到着したので、富士山が赤というより、オレンジ色になってしまいました。再度、挑戦となりました。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第95景 鴻の台とね川風景」(秋景)です。

 国府台(鴻の台)から、江戸川(利根川)の下流方向(南側)を眺めた風景です。
 江戸川の左側に迫った崖が国府台(現在の里見公園)です。崖に紅葉している木があり、展望台になっています。
 真ん中を緩やかに流れる江戸川(利根川)の右に関東平野が広がり、右奥に富士山が見えていますが、
 上の写真のように国府台から見ると、富士山は西側にあるので、江戸川の対岸に見る事になります。

 現在の国府台を江戸川下流方向に見ると、下の写真(これは5月頃撮影した写真です。)のようになります。

 富士山は、真横の右にありますので、絵のように写真を撮影しようとすると画角が90°を超える対角魚眼レンズで撮影することになってしまいます。(当然、富士山は、もの凄く小さく写りますが・・・・)
 左の木が茂っている斜面が国府台の崖です。実際に崖に近づいてみると、結構、急な斜面なのですが、広重の絵のようにオーバーハング(上部が前にせり出している)していません。
 江戸時代の頃は現在と異なっていて、国府台の台地が、もっと江戸川(利根川)の中に張り出していたという指摘もあります。
 広重が国府台の景色を描く時に、崖の急峻(きゅうしゅん)さを誇張(こちょう)して描いたのか?
 この場所は、明治時代は、軍の施設になっていて、現代では、川沿いに車道が走っていますので、崖が崩されている可能性もありますので、今となっては、なんとも言えませんが・・・・・・・・謎として残る所です。

 せっかく、ここまで来たのですから、里見公園内を回ってみます。
 昨年、平成24年は暖かく、なかなか紅葉が進みませんでした。
 この時も、公園の真ん中に池付近の樹は紅葉していませんでした。
 それでも、比較的早めに黄葉するイチョウは黄色に色づいて、朝日を浴びて輝いていました。


【国府台 (こうのだい、鴻の台)】
 広重の絵の題名にある鴻の台(こうのだい)は、千葉県市川市国府台 (こうのだい)の別名です。

 国府台の関東平野の低地部の端にある台地で、その歴史は古いです。
(1)はるか昔、約6000年前の縄文時代(じょうもんじだい)の頃には、現在より海面が3m程度高く(縄文海進)、東京湾は現在の栃木県や群馬県まで入り込んでいました。
 江戸川の東側には、下総台地(しもうさだいち)が連なり、西側の関東平野は海に沈んでしまいますで、
 国府台の目の前は江戸川でなく、東京湾の海が広がっていた事になります。
 国府台は、市川市の標高最高地点(30.1m)でもあります。
 
縄文時代の人達は、狩猟を中心とした生活ですから、魚貝類が獲れる海沿いの国府台は、格好の生活の場だったことでしょう。
 その後、海面の水位は下がり、川から運ばれた土砂も河口部に堆積していった為、海は次第に後退していきました。
 農耕の始まった弥生時代頃には、国府台の対岸に見える江戸川区の北小岩付近に集落あったらしいです。

(2)古墳時代(6~7世紀)になると、地方の豪族(ごうぞく)が古墳(こふん)を作るようになります。埼玉県(さいたまけん)の荒川などの川の近くにある台地には、古墳が多くあります。
 国府台付近にも古墳がいくつかあり、里見公園内でも明戸古墳(あけどこふん)と呼ばれる小さな前方後円墳があります。

 小高くなった上に2つの石棺(せっかん)が並んで置かれています。
 数枚の緑泥片岩を組み合わせた箱式石棺ですが、野ざらし状態で展示している、とんでもない遺跡です。
 現在では、石棺の上のふた(蓋)はありません。

(3)大化の改新以降に、律令制度(りつりょうせいど)が整備されると、地方行政の中心である国府が置かれるようになります。
 国府台の地名は、下総国府が国府台付近にあった事から来ています。周辺には国分寺跡もあり、国府の遺構らしき跡も見つかっていますが、正確な位置は判明していないようです。
 その後、平安時代になると、平将門(たいらのまさかど)の乱などで、国府が占領されたり、律令制度が崩壊していくにつれて、下総国府も衰退していきます。

 足元には、黄色のイチョウの落ち葉の絨毯(じゅうたん)が敷き詰められています。


(4)明戸古墳の2つの石棺は、室町時代(西暦1479年)の武将・太田道灌(おおたどうかん)が、千葉自胤(ちばよりたね)を援助して、臼井の千葉孝胤(ちばたかたね)を攻めたとき、陣(国府台城)を築こうとして盛土を取り除いた際に露出して発見されたと伝えられています。その当時は出土品もあったようです。
 下の写真は、里見公園の東側にある国府台天満神社です。(5月頃撮影した写真です。)
 太田道灌持資がこの土地の鎮守として創建したと伝えられています。

 元々は、里見公園の南東側にある東京医科歯科大学構内にある法皇塚古墳(ほうおうづかこふん)の上に祀られていましたが、明治八年に大学を建てる為に、現在の場所に移されました。
 この神社は、毎年1/17に「辻切り(つじぎり)」と呼ばれる民族行事が行われています。
 ワラで2m程の大蛇(だいじゃ)を四体作り、お神酒を飲ませ魂入れをして、町の四隅の樹に頭を外に向けて掛けるそうです。時代の流れもあり、市川市で昔の姿を伝えているのは、この国府台天満神社のみとなったそうです。
 以前は、獅子舞(ししまい)も行われていたそうですが、その継承者が各々の家の相続者に限られていたことと、社会情勢の変化等から、昭和13年を最後に継承が絶えてたとのことです。

【辻切り(道切り)】
 村と周辺との境(出入口)にあたる四隅の辻に、しめ縄(注連縄)やワラで作った大蛇を造り、悪霊や悪疫が村に侵入するのを防ぐため、霊力によって遮断できると信じられてきた日本の伝統行事です。
 同じ理由から、道祖神(どうそじん)が祀られることもありました。
 千葉県の南部では、しめ縄を張る村が多く、北部では大蛇を作る村多いそうです。

 公園の散策路も、すでに秋の落ち葉ロードとなっています。写真の左外には、夜泣き石などの史跡があります。


(5)戦国時代になると、小田原の戦国大名・北条氏(ほうじょうし)と関東の諸将の間で、二度にわたる国府台合戦(こうのだいかっせん)が行われました。
 第二次国府台合戦は、房総の戦国大名・里見氏(さとみし)と北条氏(ほうじょうし)との間で、行われました。
 結果は、北条氏の夜襲により、里見氏の大敗です。里見方の武将も討ち死にしました。
 里見公園には夜泣き石と言われる史跡があり、合戦で戦死した里見広次の美しい姫の伝説があります。

 「戦死した里見広次の美しい姫が父の霊を弔うため、遠い安房(あわ)の国から国府台を訪ねてきました。
  姫は身も心も疲れ果て、そばにあった石にもたれ弱いかすかな声で父の名を呼びながら、幾日か泣き続け、
  とうとう息が絶えてしまいました。以来、この石から夜になると悲しい声が聞こえてきた。」という伝説です。

 カエデ(楓)の樹が紅葉するのは、遅い方です。公園内の他のカエデの木が青いままなのに、この場所だけ、なぜか奇麗に赤く紅葉していましたのか?・・・不思議です・・・?


(6)このような伝説から、江戸時代後期には、滝沢馬琴(たきざわ ばきん、曲亭馬琴)の「南総里見八犬伝」ゆかりの地として扱われるようになります。国府台は江戸の名所として、有名観光地となっていたのです。

 「南総里見八犬伝」は、文化11年(1814年、馬琴47歳頃)から天保13年(1842年刊行、馬琴75歳頃)までの28年間もかかり完成した馬琴(明和4年(1767年)生まれ)の大作です。
 執筆途中で失明しても、息子の嫁「お路」との口述筆記により完成させたそうです。その後、82歳で亡くなるまで執筆を続けたそうです。
 広重(寛政9年(1797年)生まれ)を有名にした「東海道五十三次」の保永堂版が(天保年間1833年~1834年)、「名所江戸百景」が安政年間(1856年~1858年、同年・コレラにより死去)です。
 読本(よみほん、江戸時代の伝奇小説)作者と浮世絵師(うきよえし)では分野が違いますが、広重にとって、馬琴は同時代の20歳年上の先輩ということになります。
 広重は、江戸で馬琴の「南総里見八犬伝」が評判になり、この絵を描く時に、どのような考えでいたのでしょうか?
 どちらも、亡くなるまで旺盛な創作意欲を持っていた点は、共通ですが・・・・・・・・・・

【国府台までのアクセス】
 「くまドン」は、朝が早過ぎて、電車では家からのアクセスに時間がかかり過ぎるので、マイカーで行きましたが、
 最寄駅は京成本線の国府台駅です。歩いて15分~20分かかります。
 国府台駅の700m程、南東に離れた所にJR総武線の市川駅があります。市川駅からは、京成バスで「国立病院・矢切駅経由 松戸駅行き」に乗り、「国立病院」か「公民館」のバス停で下車となります。(6時過ぎ頃が始発です。)

 長くなりましたので、今回は、これで終わりとさせていただきます。

 先週と今週は仕事が忙しくて、ブログ作成の時間が取れませんでした。
 このブログをまとめるのにも手間取り、残念ながら、ブログの更新が1週間以上停滞してしまいました。
 11月分の紅葉の景は、まだまだ続くのですが、どうやら終わりそうもなさそうです・・・・・・・・(汗)。

 次回も、国府台の紅葉と朝焼けに染まる富士山撮影の続きです。

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名所江戸百景109 第18景 王子稲荷の社 北とぴあ 夕暮れ

2013-11-17 09:31:55 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、北区(きたく)王子(おうじ)の北とぴあ(ほくとぴあ)からの風景です。
 晴れた秋の夕方の撮影です。
 「名所江戸百景034 第18景 王子稲荷の社 北とぴあ」の続きにもなります。
 北とぴあ(東京都北区王子1-11-1)の17階展望スペースは、東南北に展望が開けています。
 西側は展望レストラン(ランチタイム・テータイムあり)です。

 「北とぴあ」から北方向の写真です。右側にあるのが、JRの線路ですが、高架の部分に、東北・新潟・長野方面の新幹線が走っています。下の線路は、京浜東北線(けいひんとうほくせん)を始めとした電車の線路です。
 薄くて、はっきりしませんが、地平線の左側に奥秩父の山並みが、右側に北関東の山並みが見えます。

 左の森が、名主の滝公園で、色々な種類の木々があるので、色々な色の紅葉が混ざり合う良さがあるそうです。
 その手前の左端に見える樹のある所が、王子稲荷神社のある所です。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第18景 王子稲荷の社」(春景)です。

 絵の説明の説明は、「名所江戸百景034 第18景 王子稲荷の社 北とぴあ」でしましたので、割愛させていただきます。

 「北とぴあ」から北東方向を望んだ写真ですが、5月に比べて、澄んだ青い秋空に筑波山(つくばさん)が、すっきり見えています。上の広重の絵と比べて、いかがでしょうか?


 東を望むと、右手前から左奥に走る首都高速中央環状線(C2、旧王子線)の左に隅田川(すみだがわ)が流れています。写真では見えませんが、隅田川は、写真の真ん中付近を湾曲して、写真の右端に流れているのが見えます。
 隅田川のすぐ左に並行して、荒川放水路(あらかわほうすいろ)が流れています。こちらも、写真の左端まで横方向に流れています。

 並行して流れる荒川放水路と隅田川の距離が最も近くなるのは、写真の右側と左側の所です。

 北の方角も、夕日の影が伸びて、新幹線が夕日を浴びていますが、下の線路には、もう日が当りません。


 南の方も、王子駅から日暮里駅(にっぽりえき)・鴬谷駅(うぐいすだにえき)へと続くJR線の先にスカイツリーが見夕日を浴びています。大分、夕日が傾いてきたようです。
 手前のJR王子駅の右手には飛鳥山公園(あすかやまこうえん)が見えていますが、桜の名所なので、紅葉の色がにぶいです。

 飛鳥山公園でも、イチョウの黄葉だけが奇麗に色づいています。(上の写真では右端の外にある所です)


 その先を見れば、新宿(しんじゅく)の高層ビル群が並んでいます。
(絵画調)

 写真の左外には、東京タワーや東京ドームも見えます。
 さらに、超望遠でアップしてみます。先ほどより、夕日の赤みも増してきました。


 東の隅田川に、夕日の陰がかかる頃、夕日の赤さもピークを迎えました。

 江戸時代の荒川である隅田川(右)と、洪水対策に明治から昭和にかけて造られた荒川放水路(左)が並行して流れています。両川の間の細い部分は足立区(あだちく)です。その先の広がった所が北千住(きたせんじゅ)です。

 左側の隅田川にも夕日が当っています。奇麗に赤く染まっています。
 
 夕日の当っている所だけを、隅田川を中心にフレーミング(レンズのズームで画像を切り取る)しました。
 絵画調にすると、夕日の当っている赤と、日が陰った所の白が際立ちます。
(絵画調)

 左の隅田川の土手の向こう側は荒川放水路です。土手一枚と河川敷分の隙間しかありません。
 足立区と北区の区境を見ると、江戸時代は、荒川放水路の中ほどまで奥に蛇行(だこう)していたようです。

 筑波山も夕日で赤く染まりました。

 他の方向の方が雰囲気が良いような気もしますが、筑波山を入れた景も百景の中に欲しい所です。 
 この写真を、広重の名所江戸百景「「第18景 王子稲荷の社」に対応する「くまドン板」の景(確定・秋景)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)

 当日は、ダイヤモンド富士の日で沢山撮影者が来ていました。
 北とぴあの西側は展望スペースがありません。(小さな窓はありますが、近づくのは禁止となっていました。)
 窓から離れて、お互いに譲り合いながらの撮影でしたが、マナーを守る優しい方が多かったです。
 残念ながら、富士山は雲の中でした。


 北とぴあの西側にある展望レストランですが、「くまドン」が行った時は、夕日の時間はティータイムです。
 当日は、ダイヤモンド富士の日で、窓際は予約済みになっていました。
 (「くまドン」は、北トピアが西向きの撮影に不向きなのを知っていたので、始めからダイヤモンド富士の候補から外していましたから、気にしませんでしたが)
(絵画調) 上下は、黒なのでトリミング(画像の切り取り)しました。

 夕日が沈んだ後に、試しにレストランに入って、アイスを頼みました。大きな最中のカップに挟まれたアイスクリームでしたが、食べ方が分からず、悪戦苦闘していました?(また、食べ物を撮影するのを忘れていました・・・・)

 日が沈み、赤い空に、やっと、雲の中から富士山が顔を出しました。


 王子周辺の話は、以下のブログで致しましたので、今回は割愛させていただきます。
  「名所江戸百景034 第18景 王子稲荷の社 北とぴあ」
  「名所江戸百景035 第49景 王子不動之滝 名主の滝」 (名主の滝公園は紅葉が奇麗と聞いています)
 周辺部の話として、王子を通る都電荒川線関連は、
  「名所江戸百景036~037 第102景 蓑輪金杉三河しま ・・・」
  「名所江戸百景105 第103景 千住の大はし ・・・」 (荒川自然公園の北東側は、隅田川堤防です。)
 JR山手線(武蔵野台地の崖線(がいせん))沿いの谷中・日暮里・上野の話は、
  「名所江戸百景044~045 第14景 日暮里寺院の林泉 ・・・」
  「名所江戸百景087 第15景 日暮里諏訪の台 ・・・」
  「名所江戸百景003~004 第11景/第12景/第13景/第89景 上野公園・・・」
 東京メトロ南北線沿いの話は、
  「名所江戸百景104 第49景 水道橋駿河台 雪化粧の富士山」
  「名所江戸百景028 第49景 水道橋駿河台 鯉のぼり」
 となります。(今頃ですが、やっと、リンクを貼る方法が分かりました。青字の部分をクリックで、開きます。)

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 次回は、また、別の場所の紅葉(黄葉)話が続きます。

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