こんにちわ、「くまドン」です。
今回は、千葉県・市川市(いちかわし)の真間(まま)の紅葉景と、手古那(てこな)伝説の話です。
下の写真は、手児奈霊神堂です。
現在では、あまり知られていない話ですが、古代から江戸時代にかけては、かなり有名な話でした。
下の絵は、広重の名所江戸百景「第94景 真間の紅葉手古那の社継はし」(秋景)です。
真間の北にある真間山・弘法寺(ぐほうじ)の高台から、南方向を俯瞰(上から下を見下ろす)した絵です。
名所江戸百景の特徴である近景構図(近くの物を大きく描く)が取り入れられていて、手前に弘法寺(ぐほうじ)の二股に分かれたカエデ(楓)の木が置かれています。
カエデの枝の間に、「真間の継ぎ橋」と、左に「手古那神社(手古那の社)」を覗き見る構図で描かれています。
カエデの葉が赤黒いですが、終わりに近づいた紅葉を表現しているのでは無く、
元の絵は、真っ赤な紅葉でしたが、酸化して赤黒く変色した結果なのです。
なお、この絵は南方向を見ている絵と言われています。
そうなると、後方の山は房総半島(ぼうそうはんとう)の山並みなのですが、
なんとなく、右側の二つの頂きを持つ山が、北側にある筑波山に似ているのですが・・・・・???
下の写真は、市川市の真間(まま)付近を流れる真間川(ままがわ)を西方向に見た写真です。
川の右手(北側)の高台が下総台地(しもうさだいち)がありあす。
手児奈の生きていた古代(大化の改新以前らしいです)においては、下総台地と南の市川砂州の間には、現在の江戸川(江戸時代は利根川)に流れ込む真間川の河口付近から、東に向かって奥深い入江ができていました。
この入江を「真間の入江」と呼んでいました。現代では陸地となり、市街地となっており、昔の面影はありません。
【手古那(てこな)伝説】
(1)遠い遠い昔のことです。真間のあたりは、アシ(葦)の生える低い湿地帯でした。
真間山のすぐ下まで海が入りこんでいて、その入江には、舟のつく港があったということです。
海が近くにある頃は、この付近の井戸水は塩分を含んでいて、飲み水には向いていませんでした。
ところが、「真間の井」とよばれる井戸だけは、きれいな水がこんこんと湧き出していました。
この里に住んでいる人びとは、この井戸に水をくみに集まりました。
この土地に、身なりは粗末(そまつ)ではあるけれども、美しい「手児奈」という娘がいました。
土地の人達は、手児奈の美しさを誉め、色々なうわさをしました。
「手児奈が通る道のアシはね、手児奈の傷をつけないようにと、葉を片方しか出さないということだよ。」
「そうだろう。心のないアシでさえ、手児奈を美しいと思うのだね。」
(2)美しい手児奈のうわさは広がり、真間の台地にある国の役所にも伝わりました。
そして、里の若者だけでなく、国の役人や、都からの旅人まで、多くの男性から結婚を求めらました。
「私の心はいくつでも分けることはできます。でも、私の体は一つしかありません。
もし、私が誰かのお嫁さんになれば、ほかの人を不幸にしてしまいます。」と、全ての求婚を断りました。
その為、手児奈のことを思って病気になるものや、お互いに争いを起こす者もおりました。
下の写真の赤い欄干が真間の継ぎ橋の史跡のある所です。正面は、弘法寺の階段です。
日本最古の和歌集である万葉集(まんようしゅう)には、
「足(あ)の音せず行かむ駒(こま)もが葛飾の真間の継橋やまず通わむ」(読み人知らず)
(足音せず行く馬が欲しい。そっと葛飾の真間の継ぎ橋を渡って彼女に逢いに行きたい)
と言う歌が残っています。
手児奈を祀る手児奈霊神堂(てこなれいじんどう)は、上の写真の赤く「つぎはし」と書かれた石橋の20m程先を右に曲がった所にあります。
(3)手児奈は悩み、海に沈む夕日を見て、
「私さえいなければ、けんかもなくなるでしょう」と、真間山の下にある海(真間の入江)に身投げしてしまいました。
こうした手児奈を慰める為に、真間の「手児奈霊堂」は造られました。
現在は、安産の神さまとして祀られています。
下の写真の真正面の奥に、手児奈霊神堂があります。広重の絵では手児奈霊堂の右に延びるつぎ橋の所です。
広重の絵では、道の両側に「真間の入江」の名残である大きな池が江戸時代にありましたが、現代では、両側は人家となっています。
(4)万葉集には、山部赤人(やまべ の あかひと、奈良時代の歌人)を始めとした沢山の人が手児奈の話を題材にした歌が残っています。
当時の奈良の都にも、遠く離れた関東の伝説が知られていたと言うほど有名な話だったのです。
下の手児奈霊神堂(てこなれいじんどう)です。
手児奈が水くみをしたという井戸は、手児奈霊堂の左奥にある「亀井院(かめいいん)」というお寺の庭に残る「真間の井」と言われています。
お堂の南側には、広重の絵に描かれた池の名残りらしい池があり、ハス(蓮)の葉が浮かぶ水面に手児奈霊神堂の姿が映し出されています。
ただし、写っているのが、柳の木やスイレン(睡蓮)なので、秋景らしくありません。どちらかと言えば夏景向きです。
池の前に赤い紅葉が入れたかったのですが、残念ながら、オレンジ色の紅葉しかありませんでした。
この写真を、広重の名所江戸百景「第94景 真間の紅葉手古那の社継はし」に対応する「くまドン板」の景(確定・秋景)とさせていただきます。
(このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)
できることなら、下の写真程度の紅葉が手前にあれば、よかったのですが・・・・・・・・・
(絵画調)
それでは、広重の絵で、もう一つの題材である弘法寺(ぐほうじ)に行ってみましょう。江戸時代は紅葉の名所で、真間の紅葉は、弘法寺を指しています。
最初の道に戻り、弘法寺(ぐほうじ)の階段を登ります。途中には、万葉集の歌碑などがあります。
【弘法寺(ぐほうじ)、山号は真間山】 日蓮宗の本山(由緒寺院)。
(1)創建は、奈良時代まで遡り、行基(ぎょうき、奈良時代の高層)が真間の手児奈の霊を供養するための求法寺(ぐほうじ)と創建されたと伝わります。
弘法寺境内に入ると、できたばかりの新しい祖師堂(そしどう、開山の像を祀った堂)があります。
あまりに新し過ぎるので、雰囲気が出ず、振り返り、仁王門(におうもん)と両側の木で構図を作りました。
(絵画調)
上の写真の「仁王門」と下の下の写真の「鐘楼堂」は、明治の大火でも残った建築物です。
近くに樹齢400年以上と呼ばれる「伏姫桜」と呼ばれる大きな桜の木もあります。
なお、「伏姫(ふせひめ)」は、前回の国府台でもお話しました「南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)」に登場する里見(さとみ)家の姫の名です。
(2)平安時代になると、空海(くうかい、弘法大師(こうぼうだいし)、真言宗の開祖)がが伽藍(がらん)を構えて、弘法寺に改称したという。その後、天台宗(最澄(さいちょう、伝教大師)が開祖)に改宗。
弘法寺の東の端は下総台地の高台の崖で、南側の町が見渡すことができます。
広重の絵の見ている位置に最も近い場所です。
手前に手児奈霊神堂の青い屋根があり、遠くには、JR市川駅にある「アイリンクタウン市川」のザ・タワーズウエストが見えます。この建物の45階には展望施設があり、360°の大パノラマが広がっています。
「くまドン旅日記」でも、いつか時間のある時に、ここからの展望を紹介します。
(現在は、ブログ作成の時間がありませんので、今回は省略します。)
(3)鎌倉時代にあんると、日蓮宗(にちれんしゅう)の法華経寺(ほけきょうじ)の布教活動に問答で負けて、日蓮宗に改宗することになりました。
江戸時代の5代・綱吉(つなよし)の元禄年間には、徳川御三家(ごさんけ)・水戸藩主の徳川光圀(とくがわみつくに)が、弘法寺の紅葉狩りに訪れ、茶室を愛で、遍覧亭(へんらんてい)」という号を贈った歴史があります。
残念ながら、明治21年に火災により諸堂は焼失しましたので、諸堂は、その後、再建した建物です。
境内を左に進み、客殿・本殿を過ぎると正面に朱雀門(すざくもん、赤門)と呼ばれる赤い門があります。
この門も、明治の火災で焼失せずに残った門で、弘法寺の建物の中でも最も古い(推定500年位)と伝わります。(絵画調)
門の奥に見える建物は、以前の弘法寺寺務所で、現在は、「真間道場」として使用されているそうです。
門の入り口の右手には、下の写真のような事が書かれていました。
この赤門をくぐり、右手奥に大黒堂があります。日蓮の真刻と伝える大黒天を祀っています。
赤門をくぐると、どごからかお経(おきょう)を読む声が聞こえてきます。
右手を見ると、里見龍神堂(さとみりゅうじんどう)と呼ばれる小さなお堂があり、その中で朝の日課なのかお経をあげていました。イチョウの黄葉の落ちる中の雰囲気で、お寺らしき雰囲気が漂っていました。
朝の富士山を撮影に国府台に2回行き、帰り際に真間に寄りましたが、2度目に弘法寺に行った時は、少し時間が遅かったので、お経の時間は終わっていました。
弘法寺のすぐ隣に、弘法寺古墳があります。
この場所から見ても、よく分かりませんが、長さが40m以上もある前方後円墳です。
下総台地の崖の上にある為、崩れかかっているそうです。
【真間付近の名所江戸百景】
真間のすぐ北東側には、前回のブログでお話しました国府台があります。
「名所江戸百景110 第95景 鴻の台とね川風景(1) 国府台と朝の富士山」
「名所江戸百景111 第95景 鴻の台とね川風景(2) 国府台と朝の富士山」
今回は、これで終わりとさせていただきます。
仕事の多い時期なので、ブログを作成している時間が無く、思うようにブログは進みません。
秋の紅葉の時期も短く、休みの日は限られていますので、百景を作る為に1日に何景も撮影する必要があります。
この日の撮影は大変でした。朝、国府台→真間・弘法寺を2カ所を撮影して帰宅した後に、
再度、家を出発して、その他に5カ所も周りました。その中には、
「名所江戸百景104 第49景 水道橋駿河台 雪化粧の富士山」
の文京シビックセンターもあります。
11月分は15景もあったので、他の4か所のブログが、11月分の紅葉の景として、残ってしまいました。
12月と1月分も約15景ずつあるので、とても終わりそうもありません。
残念ながら、11月の紅葉ブログ残り4景分は、別の時期に他の景と合わせて作らせていただきます。
一定期間後に、日付を変更して、このブログの後方に移動させていただきます。
次回からは、12月の景になります。
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