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名所江戸百景179 第50景 角筈熊野十二社俗称十二そう 新宿副都心の桜

2014-04-16 12:25:13 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、新宿(しんじゅく)西口の超高層ビル群と桜の風景撮影から始まります。

 ブログが間に合わず、東京の桜は散ってしまいましたが、撮影日は一昨年・平成24年4月上旬です。

 下の写真は、東京モード学園コクーンタワーです。とても目立つ曲線の建物です。


 新宿西口を西に向かって行くと、東京都庁の第一本庁舎があります。左奥に見えるのが第二本庁舎です。


 都庁を過ぎ、西新宿の超高層ビル群の西端に「新宿中央公園」と呼ばれる大きな公園があります。以前は淀橋浄水場であった所を、新宿副都心計画により昭和43年に都立公園として開園しました。

 地図は右が北です。東京都の第一庁舎は地図の下(東)側です。公園の右上(西北)側にある紫色の部分に熊野神社(くまのじんじゃ)があります。「こんな所に神社が?」と思いますが、江戸時代の頃の新宿中央公園の場所は熊野神社の敷地内でした。

【熊野神社(くまのじんじゃ)】
 室町時代に、紀州(きしゅう、現在の和歌山県)出身の鈴木九郎(すずきくろう)という商人が、現在の新宿西部から中野方面の開拓・商売で成功して、中野長者(なかのちょうじゃ)と呼ばれるようになったそうです。
 この鈴木九郎が故郷・紀州の熊野十二所権現を祀った神社を自身の開拓地に建立したのが、新宿の熊野神社の始まりと伝えられます。江戸時代は、熊野神社は熊野十二所権現社と呼ばれ、この付近の地名は、十二社(じゅうにそう)と呼ばれていました。

 現在の熊野神社の西側を通る道路の先には、十二社池(じゅうにそういけ)と呼ばれる大小2つの池があったそうです。2代将軍・秀忠(ひだただ)の慶長年間に、田畑の溜池(ためいけ、用水池)として造られました。
 また、「熊野の滝」と「萩の滝」などと呼ばれる滝があったそうです。
 こちらは、玉川上水の一部を神田上水の水量不足を補う為に造られた神田上水助水堀が、熊野神社の東側で落ちるところにできたものです。
 現在の新宿中央公園にも場所は異なりますが、「新宿ナイアガラの滝」と「新宿白糸の滝」の人工滝があります。


 8代・吉宗(よしむね)の享保年間に、鷹狩り(たかがり)の際に熊野神社に参拝したという記録も残り、池や滝もある十二社の地は江戸近郊の景勝地となり、料亭や茶屋が立ち並び、観光地として繁盛していました。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第50景 角筈熊野十二社俗称十二そう」(夏景)です。

 絵は熊野神社のある方から西北にある十二社池の大池を俯瞰(ふかん、上から下を見下ろす)した風景です。
 遠景が白い霞(かすみ)と黒い影で描く事により、遠景をぼかして、遠近感を表現しています。
 池の周りにある料亭や茶屋、観光を楽しむ人が描かれていて、名所江戸百景らしい雰囲気を出しています。

 明治時代になると、滝は東京都水道局の浄水場である淀橋浄水場(明治25年着工、明治31年通水)の造成により姿を消していきます。
 残った十二社池も、大正12年の関東大震災後に西新宿周辺が宅地化していくに従い、水質が悪化していき、昭和になると埋立てられていきます。昭和20年頃には小池は姿を消し、昭和35年に淀橋浄水場の移転先である東村山浄水場が完成すると、昭和40年の淀橋浄水場の停止と新宿副都心計画が決まると、大池も埋め立てられ姿を消して行きました。現在では、熊野神社境内にある池があるのみです。

 池の横に「こひづか」と刻まれた石碑があります。昭和16年に十二社池の小池の水質が悪化して、鯉が大量死した時に建てられた石碑を遷したものです。

 新宿中央公園の近くには高層ビルが立ち並んでいます。桜を前景に撮影です。
(絵画調)

 後ろのビルは、セントラルバークタワーのビルです。この写真も雰囲気のある写真です。
 しかし、公園の隣には東京都庁の第一庁舎ビルが建っていますので、桜と合わせての風景を作る事にしました。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第50景 角筈熊野十二社俗称十二そう」の景(確定・春景)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)

 「くまドン版の景」も決まりましたので、東京都庁の第一庁舎の展望台に登り、夕日の時間をのんびり待ちます。

 春は霞みがかかり遠景がはっきりしないのですが、一昨年の平成24年は例年より一週間も遅く桜が開花しただけあり、空気の透明度が良い日が多く、この日も富士山がはっきり見える日でした。

 冬とは逆に、夕日は富士山のはるか右(北)側の山並みに沈んでいきます。

 日が暮れると、東京タワーもライトアップされます。
(絵画調)

 この時(平成24年4月)は、まだスカイツリーの開業(平成24年5月)前で、スカイツリーのライトアップは無しです。
 都庁の西側も光の海です。直下が新宿中央公園です。
(絵画調)

 この頃の東京都知事は、石原新太郎(いしはらしんたろう)元知事(~平成24年10月)でした。
 この時は、まさか2年余りの名所江戸百景の撮影・ブログ作成している間に、猪瀬直樹(いのせなおき)前知事、舛添要一(ますぞえよういち)知事となっていくとは思っていませんでした・・・・・・
 東京都の都政が、都民の為の政治であり、健全であり、堅実であることを願います。

 順番が前後しましたが、新宿都庁から撮影した前のブログは、以下の通りです。
 「名所江戸百景128 第86景 四ッ谷内藤新宿(1) 都庁からの展望」
 「名所江戸百景129 第86景 四ッ谷内藤新宿(2) 都庁からの夕景・夜景」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 「くまドン旅日記」のブログを見ていただきありがとうございました。
 桜景の残分も終わりまして、「くまドン版」の残りの景は、1月と2月の4景と紅葉4景の合計8景となりました。
 残りの景は季節外れになりますので、4月中に無理して作る必要が無くなります。ブログ作成のスピートを遅くして、余話を含めて5~6月頃には完成させたいと思います。
 なお、昨年から季節に追われ、ブログ作成を止める期間がありませんでしたが、4月中はGWの連休もあり、色々あるので、「くまドン」側の都合により、コメントの書き込みを禁止させていただきます。

 次回は、名所江戸百景の別の景です。(今後はスローペースになります)

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 ここで、また脱線ですが、江戸百景には関係ないので、話の外に出しておきます。
 (気持ちも重くなるので、作るのが遅れました・・・・・
  単純に旅行気分を楽しみたい人には不要な部分ですが、個人ブログですので自由に書かせていだきます。)

 色々話すと、論点が分からなくなるので、最初にまとめて言うと、
(1)都政は内政が中心で、中国や韓国との外交などは必要が無いのだから、舛添知事は国政や外交に色気を出さず、都知事として健全な都政の運営に集中して欲しい。
(2)日本から中国や韓国へのODAを廃止してください。日本の税金を中国や韓国のような身勝手な国の都合に利用されないようにして欲しい。無駄に予算を使わず、日本の技術を守って、国民の負担を削って欲しい。

 こういう事を書くと、「急にどうした?」と思われるかもしれませんが、最初のあいさつのブログで
 「くまドンはごく普通の一般人ですが、「反中・反韓」です。」と断っていますので、
 特に「くまドン」の何かが変わった分けではありません。
 中国や韓国の身勝手な言動を聞く事すらバカらしかったので、特に何も書かなかっただけです。
 (国の外交としては、相手に身勝手な意見に対して、反論や日本の意見を主張をすることは必要ですが、
  この「くまドン旅日記」のブログで書く内容ではなかったので無視していました。)

(1)舛添知事が過去に訪中経験が多い事から中国訪問の発言をしているが、中国の思惑に利用されるだけだから中国を相手にしないで、都政に専念して欲しいです。

 3月末に、中国の駐日大使を招いて、「北京オリンピックの経験を北京市長に聞きたい」とか、「アジア大都市ネットワーク21」への北京再加盟の要請」とかの甘い発言がありましたが、

 北京オリンピックは、高度成長期の中国で行われた中国初のオリンピックなので、過去に無かったインフラの整備で過大な投資が行われています。この方法は経済成熟期の日本には合いません。中国の思惑や、過大な公共事業獲得の放漫経営に利用されるだけで迷惑な話です。(この部分を再考している間の昨日4/15に、「舛添知事が北京訪問する」の記事が流れてしまいましたが・・・・・・・中国の過大な接待に気を良くして、舛添知事が不要な約束しない事を願いますが・・・・)
 本気でオリンピックの参考にするのなら、同じ成熟した経済国家で、同じく数十年ぶりの前回のロンドンオリンピックの方が、低予算やインフラ活用の点で、よほど参考になります。

 「アジア大都市ネットワーク21」に中国の都市が参加しても、中国の思惑に利用されるだけでしょう。元々、北京が脱退したのも中国の一方的な理屈ですから、中国の政治に利用される都市が参加していない方が円滑に機能するでしょう。中国の再加盟の手伝いする必要もないでしょう。

 舛添都政は始まったばかりで、マスコミが記事になるので、都政と関係無い質問を投げかけていますが、舛添知事が何でも答えるため、都政と関係ない外交関連でミスを繰り返している。
 (先日も浜離宮に新迎賓館を建てるとの失言がありましたが・・・・・・これには公共事業関連の影も見えたりする)
 都知事の仕事は多忙で大変なのだから、外交で成功しようなどと色気を出さずに、不要な質問には都知事の責務では無いので対応せず、甘い意見を排除して、都民の生活・経済の都政に集中して欲しいです。
 中国や韓国に対しては、甘い考えを持たないようにして欲しいです。都知事選で舛添知事に投票した人の多くも、東京都政に外交は期待していないでしょう。東京都民の為の都政に専念してください!

(2)いまだに、日本から中国へのODAが続いています。平成24年度ODA白書では、年間300億年もの無償援助と技術協力(無償のため返済なしで贈与と同じ)が行われています。平成19年を最後に中国への円借款(有償なので返済あり)は終了しています。
 日本の尖閣諸島に散々侵入してきて、日本に対して勝手なことを言っている中国に対して、ODA援助を続けている事は、まったく無駄でしょう。甘い考えでODAを続けている事自体、中国に利用されているようなものです。

 マスコミが、派手に「中国からのPM2.5」と騒いでいますが、騒ぐのが好きなマスコミの特徴が問題を誤解させ、中国や韓国に利用されています。(もっとも、マスコミの中に中国や韓国のスパイがいるようなものですが・・・・)
 中国の目的は、日本から大気汚染などの環境対策技術を盗んで、中国の産業に育てる事です。
 この目的の為に、中国は大気汚染が悪化していると宣伝して、お人好しの日本からの大気汚染対策の技術援助を引き出そうとしていますからね。
 前例としては、中国が日本の新幹線の技術協力の形で盗んで、中国独自の技術と言い張って、東南アジアなどの高速鉄道の受注で日本と競合しています。
 (日本から中国への技術協力では、高速鉄道技術を他の国に輸出しない契約になっていました。中国や韓国のような国に技術を渡しても、勝手な事をしますので、日本の技術を守りながら、盗まれない事が必要です。)
 おまけに、身勝手な韓国も、いつの間にか技術協力に参加して、日本から技術を盗もうとしています。
 中国も韓国も反日教育で中国や韓国の国民を扇動した上に、ずうずうしく勝手な事ばかり言う国です。
 このような中国や韓国に対するODAを含めた援助を続けていることが間違いでしょう。
 「日本のODAが13%もの増加した」との記事がありましたが、その分、財政赤字が増えて、日本の負担が増えているのだから、予算が減らされるからというバカな論理でODAを続けるなどという事はやめて欲しい。
 中国や韓国の留学生の援助(これも技術援助)も含めて、無駄な援助を無くして、予算を減らして欲しい。

 PM2.5の問題について補足しておきます。
【PM2.5(微小粒子状物質)】
 大気中に浮遊する微粒子のうち、粒子径が概ね2.5μm(ミクロン)以下ものを指します。
 粒子の大きさにより定義されていて、特に大気汚染物に限らないことに気がついてください。
 ディーゼル車の排気ガスが原因で、肺に到達するので危険と言われていますが、
 タバコの煙の粒子は、0.2~0.5μmです。中国から飛んでくるの黄砂(こうさ)の粒子は0.5~5μmです。
 これも、PM2.5の濃度に含まれていることに気がついてください。

 つまり、PM2.5濃度の地図を見ると、黄砂の発生源のある中国が異常に高いのは当たり前で、編西風にのって移動する黄砂の濃度が表示されているような画像になっています。
 (世界地図で見れば、砂漠の砂が砂嵐で舞うサハラ~中近東~中央アジア~ゴビ砂漠~黄土高原のPM2.5が異常に高いのが分かります。)
 PM2.5が問題だというのであれば、砂漠地帯の近くに人は住めないでしょう。(実際は人が住んでいますが・・)

 中国の黄土高原から飛んでくる黄砂は、昔からの現象で、現代の問題ではありません。
 マスコミが黄砂にかすむ北京の映像を流し、盛んにPM2.5の問題を騒いでいますが、北京は春から夏にかけて黄砂で霞み、青空も見えないのは毎年の事です。最近のことではなく、産業革命以前の大昔からのことです。
 中国政府のPM2.5問題に結び付けたい報道操作に、日本のマスコミが利用されているか、マスコミが話題に飛びついた結果、中国の思惑に利用されている可能性が考えられます。

 さらに、中国の国内で森林伐採などによる黄土高原の砂漠化が進み、黄砂の飛ぶ量が増加していて、当然、北京や日本に到達する黄砂の量(濃度)は増加してます。この辺の誤解も、公害問題を大きく宣伝したい中国側の報道操作や、PM2.5と中国の大気汚染を結び付けて話題にしたいマスコミの報道が原因と考えられます。

 環境省は、九州でPM2.5の大気中濃度が国の環境基準越えに対して、「直ちに健康被害に結びつく値ではない。ただ濃度と健康影響との関係は未解明な点が多い」と言ってますが、マスコミは大騒ぎです。
 関東地方でも、昨年の秋ごろ、PM2.5の大気中濃度が高くなった事がありますが、首都圏で発生した排気ガスが原因です。それでも、日本のマスコミは、やたら中国からのPM2.5と結び付けようとしていました。

 PM2.5が問題と言うのであれば、日本国内のディーゼル車の排ガス抑止と禁煙活動の方が効果があるでしょう。
 黄砂と花粉が合わさる事で、人体への影響が大きくなるというのであれば、日本国内のスギ花粉が飛ばないように無駄な枝を伐採する努力の方が賢明と思います。紀元前から続く中国からの大量の黄砂を抑止するのは無駄な努力です。
 (ただし、これを逆手にとっての増税や公共事業追加は、別の意味でお断りですが・・・・)

 最後に、「くまドン旅日記」は、普通の人が作っている気ままな個人ブログ(本来は写真・旅行・歴史のブログ)ですが、この内容が人種差別だというのであれば、国家の教育で「反日教育」を行って、中国や韓国の国民を扇動している中国や韓国は、国家犯罪レベルの人種差別です。
 こんな身勝手な中国や韓国に、日本の悪口を言われる筋合いは無いと思います。
 さらに言えば、自由な日本の普通の国民のブログの発言と、国家犯罪レベル(洗脳・扇動・威し)の中国や韓国の発言を同格にされたくは無いです。
 「くまドン」も、あまり政治の事は関わりたくない方なので、次回は通常に戻ります。


名所江戸百景178 第88景 王子瀧の川 石神井川の桜並木

2014-04-07 07:55:47 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 前回の北区(きたく)の王子(おうじ)の桜の続きで、今回は石神井川(しゃくじいがわ)の花並木風景です。
 飛鳥山公園の撮影後、石神井川に戻り上流に向かいます。北区では、この付近の石神井川を音無川と呼んでいます。川面は残念ながら、3面コンクリート張りですが、川沿いに桜並木が続きます。桜も散り始め、石神井川の流れにも桜の花びらが浮かびます。

 石神井川を200m程歩くと、左手に滝不動がある正受院(浄土宗)があります。
 川側に入口が無いので、路地を曲がります。気をつけないと通り過ぎてしまいます。

 江戸時代には王子付近は滝が多かった場所です。この滝不動のあった所にも、正受院本堂裏から石神井川に下る坂の途中に、不動の滝と呼ばれる滝がありました。室町時代に正受院の庵(いおり)を草創した僧侶(大和国の学仙坊)が、石神井川が増水した後の川から不動の霊像をすくいあげたことから、不動尊が祀られていました。
 「江戸名所図会」には、不動の滝を以下のように説明しています。
 「正受院の本堂の後、坂路を廻り下る事、数十歩にして飛泉あり、滔々(とうとう)として消壁に趨る(はしる)、
     此境ハ常に蒼樹蓊鬱(おううつ)として白日をささえ、青苔露なめらかにして人跡稀なり」

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第49景 王子不動之滝」です。

 この絵の滝は、王子を流れる現在の石神井川にあった不動の滝(ふどうのたき)を描いたものです。
 現代においては、石神井川は洪水対策により、コンクリート護岸に覆われているので、昔の面影はありません。
 絵の説明は、「名所江戸百景035 第49景 王子不動之滝 名主の滝」しましたので、そちらをご覧ください。


 正受院から100程歩くと、音無さくら緑地という公園があります。

 また、江戸時代の石神井川は蛇行した川でしたが、河川改修で直線化されています。

 この公園は右に書いてあるように蛇行していた石神井川の川道に造られた公園で、公園の奥には江戸時代からの川の地面の露出した護岸が残されている貴重な場所となっています。

 下の写真は、音無さくら緑地の写真です。その他に吊り橋もあります。


 音無さくら緑地の50mに紅葉橋と金剛寺(こんごうじ、真言宗)があります。現在は桜が美しい所ですが、江戸時代は紅葉の名所でした。

 紅葉橋のすぐ上流左手は青い屋根の金剛寺です。その先に見えるのは、「音無もみじ緑地」です。

 8代将軍・吉宗(よしむね)が飛鳥山(あすかやま)に江戸の人が花見のため桜の木を植えるように命じたのは有名ですが、同じく、吉宗の命により、この付近にはカエデが植えられました。金剛寺も紅葉寺(もみじでら)の別名があります。
 ここの仏像は色々あるのですが、結構、特徴のある仏像です。

 金剛寺は、弘法大師(こうぼうだいし、空海)が遊歴した際に創建されたと伝わり、弘法大師自ら不動明王像を彫って安置したと云われる像が本尊らしいです。後ろの石碑に「弘法大師」の文字が見えます。
 金剛寺の本堂から紅葉橋の方を眺めた景色です。手前の緑屋根のお堂が弁天堂です。

 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝(みなもとよりとも)が、平氏打倒の為、房総(現在の千葉県)から隅田川を渡って武蔵国(現在の東京都・埼玉県)へ攻め入るときに、この金剛寺あたりに陣を張ったといわれています

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第88景 王子瀧の川」(秋景)です。

 まず、この付近は、「源平盛衰記」に「滝野川松橋」という場所として書かれていて、この付近の地名を「滝の川」と呼ばれていました。王子滝の川は、金剛寺付近の石神井川(音無川)付近を指しています。
 この絵は、金剛寺の石神井川・上流側から、岩屋弁天、金剛寺、弁天滝を眺めた絵です。紅葉が赤黒いですが、絵の顔料が参加して黒っぽくなったもので、元は鮮やかな赤い紅葉が描かれていました。
 王子付近の石神井川は「王子七滝」と呼ばれるように滝が多い所でした。この絵に描かれている滝も、「王子七滝」の一つである「弁天の滝」を描いています。滝の水に打たれる人などが様子が見てとれます。崖下の赤い鳥居の洞窟(どうくつ)が岩屋弁天で、右上の建物が松橋弁天社の本尊です。現在の金剛寺にある弁天堂です。
 絵の奥には、松橋と左岸の王子神社に続く道の途中に茶屋が見えます。

 下の写真は、石神井川の対岸上流側から金剛寺の撮影した写真で、広重の絵に近い方向から撮影した写真です。「くまドン」は、なるべくコンクリート護岸を入れたくないので、音無もみじ緑地と桜、金剛寺で画面を構成しました。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第88景 王子瀧の川」に対応する「くまドン板」の景(確定・春景)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)

【石神井川(別名は音無川、王子川、滝野川、大川)の水源】
(1)現在の水源は、なんと「小金井カントリー倶楽部」というゴルフ場敷地内の湧水を水源だそうです!
 昔は、さらに西の小平市にある鈴木小学校の敷地に水源があったそうです。
 上流部の小平市と西東京市を流れる水源は、雨水を除けば湧水だけになりますので、流量は少ないです。
 石神井川は練馬区(ねりまく)に入ると、武蔵関公園(むさしせきこうえん)にある富士見池の湧水を合わせて流れて行きます。この流れは、以前は大川と呼ばれ、石神井川の支流とされていました。

 音無もみじ緑地には桜(ソメイヨシノ)だけでなく、ヤマモミジ、サザンカ、オトメツバキ、ヤブツバキが植えられています。


(2)石神井川の昔の本流は、練馬区にある石神井公園の三宝寺池を水源としていました。同じ公園の石神井池は昭和8年ごろに三宝池からの水を堰き止めて造られた人工の池です。現在では湧水が減少して、石神井川と切り離されてしまい、大川の方が本流となってしまいました。
 現在は、地下水を揚水して水位を保ち、石神井池と三宝寺池との間を浄化した水を流す事により環境を維持しています。
 (最近、都心の地下水位が上昇して問題化している記事がありましたが、この付近は影響なしか・・・・・・?)
 さらに途中に通過する豊島園池などの湧水を合わせて、王子付近では流量を増してきます。

 ドバト(カワラバト)がいたので、一枚撮影です。


(3)このように水源地の湧水量減少が問題になっている石神井川ですが、さらに流量の減少に拍車をかける計画があり、問題になっています。
 外環道(東京外かく環状道路)の西側(関越道~中央道~東名道)を結ぶ計画です。
 「くまドン」は詳しくは知らないのですが、調べた範囲・「くまドン」の考えられる範囲でお話しします。
 東京西部の武蔵野台地の地下水脈は、西の多摩地区から東の都心方向へと、西から東に流れています。
 この土地を南北に貫く外環道は、住宅密集地であるエリアを通す為に、地下に建設することになります。
 この為、外環道が地下水脈を遮断してしまう結果になるのです。まともに考えれば、外環道が地下水を遮断した結果、西(上流)側は地下水が堰き止められ、地下水位が上昇して、構造物への影響が発生し、東(下流)側は地下水が激減して、地下水位が減少した結果、湧水の枯渇・減少や地盤沈下が発生することになります。
 特に石神井川の元水源であった三宝寺池は外環道計画線のすぐ東側で地下水位の減少が顕著で影響大です。他にも外環道の東側には小さな水源が点在しています。
 また、外環道は南の東名道まで貫くので、他にも神田川などの東京西部を水源とする河川にも影響を与えます。
 一応、国土建設省側は、地下水流動保全工法(地下水を下流側にバイパスさせる)を検討しているようですが、長年の使用による目詰まりや経年劣化が考えられ、問題は残りそうです。

 金剛寺のすぐ隣は「音無もみじ緑地」です。ここも蛇行した旧河道を利用した人工のすり鉢状の公園ですが、洪水対策で垂直直立コンクリート護岸が続く他の場所に比べれば、なんとなく、ほっとする所です。一応、この公園も集中豪雨など洪水時は、遊水池の役割を果たしています。


 なるべく地下水脈を切らないで建設できれば最善ですが、地下40m以上の大深度地下と聞いていたのですが、殿付近を通るのでしょうか・・・・?ジャンクションやインターチェンジ付近は浅くなると思いますが・・・
 ちなみに、武蔵野台地の外環道付近の地層は、一番上の浅い層は有名な関東ローム層(10m程の厚さの粘土層)で火山灰が積もった水の通し難い層です。
 その下に武蔵野礫層(10m程の厚さ)という武蔵野台地が扇状地(せんじょうち)だった頃の層があります。この層は礫(れき、目の粗い大きめの砂)や石で水を通し易く、浅い層の地下水がが流れています。
 さらに下には、非常に硬い上総層群と呼ばれる砂質土層、粘土層が交互に重なっていて、この部分にも、深い層の地下水脈が流れています。

 親水護岸なので下まで近くまで降りられますが、手を伸ばしても水面に近づくのは、これがやっとでした。
 たまたまですが、ハトが飛んでいる所が撮影できました。正面右外が金剛寺です。

 石神井川の上流で散った桜の花びらが、ゆっくりと静かに流れていきます。
 春が来たと思ったら、あっという間に桜の季節も通り過ぎて行きそうです・・・・・・・・・

 それ以外にも外環道の西側計画は、中間のインターチェンジの建設や住宅の立ち退き、車の排ガス処理など、問題が多そうです。
 (「くまドン」は、外環道の目的は都心の環状線の渋滞緩和で、中間のIC(インターチェンジ)が少ない方が
 車の流れが良くなるので、地元が中間ICを要らないのであれば、IC建設を中止した良いと思うのですが・・・・
 現在でも中央高速の高井戸ICは住民の反対で首都高速側の出入り口がありませんしね。)

以前の王子のブログは、
 「名所江戸百景176 第19景 王子音無川堤棣 王子・音無親水公園の桜」
 「名所江戸百景177 第17景 飛鳥山北の眺望 飛鳥山の桜満開」
 「名所江戸百景034 第18景 王子稲荷の社 北とぴあ」
 「名所江戸百景035 第49景 王子不動之滝 名主の滝」
 「名所江戸百景109 第18景 王子稲荷の社 北とぴあ 夕暮れ」
 「名所江戸百景134 第118景 王子装束ゑの木大晦日の狐火 王子の狐」


 最近の外環道建設の流れですが、その時の政権の状況で勝手に決められています。
 平成18年に外環道沿線の6区市町(杉並区、武蔵野市、三鷹市、調布市、世田谷区)から国・都に他の問題も含めた意見書が提出して回答を受けるなどがありました。
 平成19年に外環道西側の関越道~東名道間環境評価を踏まえて、高架方式から大深度地下方式に計画変更。
 平成21年に石原元都知事が自民党政権時に関越道~東名道の事業着手を要請して、計画策定が行われる。
 同年に民主党政権が誕生して、補正予算見直しにより、測量設計費を除く71億円の内、66億円の予算を凍結。
 平成23年、平成24年に着工して、東京都が目指す2020年東京オリンピックに完成させる方針を決定・着工。
 (この当時は、まだ、民主党の野田政権でしたが、官僚に任せたので、凍結が解除された模様)
 昨年の平成25年に2020年東京オリンピック開催が決まりました。


 また、脱線です・・・・・・
 こういう事を書いても、風景写真や歴史関連の雰囲気で、このブログ見ていただいている人の気分を下げるだけなので、書かない方が楽しい事は分かっているのですが、個人ブログですので、自由に書かせていただきます。
 (他にも気分が重くなるので、1月・2月に作らなかったブログがいくつかあるのですが・・・・)

 「くまドン」は、オリンピックに便乗して、政治家や官僚が全然関係ない所や地方で「2020年までに○○○完成」とデタラメな理由や、「景気対策」や「大規模災害防止」で予算獲得しようとして、過大な公共事業と財政赤字を膨らませているのに腹立ています。
 長い年月で、決められた限られた予算を効率的に使わなければならないはずなのに、政治家と企業の都合でさんざん使いつぶし、その赤字を国民に押し付ける筋合いは無いです。
 消費税10%どころか8%も認めません。5%に戻してください。
 国家予算の歳出も必要だとの理由による公共事業の増加は認めません。以前の減らした歳出まで予算を激減させてください。最近では、公共事業をやる為の口実作りで、外国人労働力を使うとか言い始め、日本国民の生活や負担も考えずに公共事業目的だけ一生懸命なの見て、こんなろくでもない連中が政策を決めているのかと腹を立てています。
 法人税減税も一切認めません。業界の利益を代弁する政治家を見て、嫌気がさしています。政治家や業界の甘えた考えで、企業の多額飲食費を経費として認めさせた法律改正にも呆れてます。(当然、反対です。)
 (何度も書きますが、「くまドン」は無党派層ですから、政党には無関係です。)


 今回は、王子の桜は、これで終了とさせていただきます。
 「くまドン旅日記」のブログを見ていただきありがとうございました。

 「くまドン」の家の近くの桜も散り始めてしまいました。道の桜の花びらが風に舞っています・・・・・
 (今年の「くまドン」はブログ作るのがやっとで、どこかに桜を見に行く時間がありませんでした。)
 「くまドン」のブログでも紹介しましたが、皇居の桜は、普段は入れない坂下門から乾門までの道が一般公開になり、満員御礼で大変だったみたいです。

 桜の景が2景残っていますが、次回は、王子の前に飛ばした皇居の東御苑の予定です。

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名所江戸百景177 第17景 飛鳥山北の眺望 飛鳥山の桜満開

2014-04-06 09:30:53 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 前回の北区(きたく)の王子(おうじ)の桜の続きで、今回は飛鳥山(あすかやま)公園の花見風景です。
 写真は、飛鳥山公園にあるスロープカー「アスカルゴ」です。高齢者、障害者や子供連用の昇降設備です。

 飛鳥山公園は桜の花見で有名ですが、その始まりは、8代将軍・吉宗(よしむね)が飛鳥山に花見の場所として桜を植えさせたことに始まります。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第17景 飛鳥山北の眺望」(春景)です。

 手前に、花見を楽しむ人達と飛鳥山の桜が描かれ、上空からの典型的な俯瞰(ふかん、上から下を見下ろす)の構図で描かれています。花見している人達の楽しむ姿が、訪れた春の暖かい一日の風景を表現しています。
 遠くに見える筑波山(つくばさん)の下に広がる関東平野には、青く横一線に引かれた荒川(あらかわ)が流れ、田園地帯を省略した構図で描く事により、手前の飛鳥山に対する遠近感を表現しているようです。

 飛鳥山公園の北側に沿って、都電荒川線の路面電車が走っています。この交差点は有名な撮影スポットです。

 写真の左側が飛鳥山公園で、歩道橋を渡ると、そのまま飛鳥山公園に入れます。

 江戸時代からの有名な桜の花見の名所ですから、人の多いこと!多いこと!

 桜の花は散り始めの頃ですが、桜満開・人で一杯と言う状態です。広重の絵のように遠景は望めませんが、まさに飛鳥山の花見客の風景という感じです。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第17景 飛鳥山北の眺望」に対応する「くまドン板」の景(確定・春景)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)

 時計台も、なんとなく古風に造られています。


以前の王子のブログは、
 「名所江戸百景176 第19景 王子音無川堤棣 王子・音無親水公園の桜」
 「名所江戸百景034 第18景 王子稲荷の社 北とぴあ」
 「名所江戸百景035 第49景 王子不動之滝 名主の滝」
 「名所江戸百景109 第18景 王子稲荷の社 北とぴあ 夕暮れ」
 「名所江戸百景134 第118景 王子装束ゑの木大晦日の狐火 王子の狐」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 東京都心の桜は、ついに「散り始め」マークばかりになってしまいました・・・・・・(汗)

 次回は、名所江戸百景の王子の桜の最終回の予定です。(王子の桜は3景あります。)

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名所江戸百景176 第19景 王子音無川堤棣 王子・音無親水公園の桜

2014-04-05 09:30:07 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、北区(きたく)の王子(おうじ)の桜の風景です。
 いきなり、北とぴあ(ほくとぴあ)からの風景です。飛鳥山公園(あすかやまこうえん)の桜が満開です。

 線路を走る新幹線は、真ん中で分離できるように分かれています。どこ行きかな?
 撮影時期は、桜満開後の雨の翌日で、散り始めですが、なんとか桜はきれいに咲いています。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第17景 飛鳥山北の眺望」(春景)ですが、北の筑波山を眺めているえです。
 南方向を眺めている上の写真とは逆方向になります。

 絵の説明は、次回にします。

 次は、JR線の下を通り抜け、王子稲荷神社に行きます。
 関東の稲荷が集まる伝説を持つ大晦日(おおみそか)の装束稲荷の行列の目的地です。


 下の絵は、広重の名所江戸百景「第18景 王子稲荷の社」(春景)です。

 絵の説明は、「名所江戸百景034 第18景 王子稲荷の社 北とぴあ」で説明済みです。

 続いて、王子稲荷のすぐ先にある名主の滝公園の池と桜です。

 ここは、現在では地下水位が下がり、ポンプで揚水となりましたが、江戸時代からの滝があるので、
 「名所江戸百景035 第49景 王子不動之滝 名主の滝」の回に百景の一枚を作りました。

 飛鳥山公園に向かう途中に王子神社があります。


 王子神社のすぐ下に石神井川が流れています。現在は、音無川親水公園になっていて、桜の多い所です。

 しかし、この公園・・・・・・・「親水公園」と名がついているのですが、「くまドン」が行く時は桜の咲いている春なので、いつも水が無いのです・・・・・・・・・(汗)

 橋の下はアーチ状のトンネルになっています。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第19景 王子音無川堤棣」に対応する「くまドン板」の景(確定・春景)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第19景 王子音無川堤棣」(春景)です。

 石神井川(しゃくじいがわ)は武蔵野台地(むさしのだいち)を流れ、関東の低地部に出る時に王子神社と飛鳥山の間の狭い谷を抜けていくことになります。江戸時代の頃は、この場所で石神井川を堰き(せき)止めて、東に流れる石神井用水(しゃくじいようすい)と、北に流れる根村用水・上郷用水の3つの用水として使用されました。
 石神井用水(しゃくじいようすい)は、この付近では別名を音無川と呼ばれていました。石神井用水は王子から現在のJR線沿いに日暮里に通り、そこから三ノ輪に向かい、白髭(しらひげ)方面と山谷掘(さんやぼり)に分流されていました。
 この絵は、その王子の堰から滝のように落ちる音無川の流れを、青い色彩で美しく描かれています。川の左側は、8代将軍・吉宗(よしむね)が桜を植えるように命じた飛鳥山で崖の上には茶屋や料亭があり、桜の淡い色彩が春の暖かさを感じさせます。川の右手前は王子神社のある方です。堰の奥に見える屋根は、江戸時代の王子神社の別当(べっとう、神社を管理しているお寺)だった金輪寺です。明治の神仏分離で廃寺となりましたが、その後、藤本(ふじもと)坊が金輪寺の名跡(みょうせき)を継いでいます。

 音無親水公園は、この広重の絵が描かれた場所に造られました。音無親水公園から王子神社登っていく所から、音無親水公園を見下ろした写真です。桜の木の向こうには飛鳥山側の崖があります。

 良く見ると、真ん中に赤い傘を差した人がいます。周囲には多くの人が取り巻いています。
 望遠で引き寄せてみると、結婚式の新郎(しんろう)・新婦(しんぷ)の格好をした男女と、ポーズを要求しながらカメラで撮影する人、新婦の衣装をを整える人がいます。

 結婚式の撮影なのか、結婚式の宣伝用写真の撮影なのか分かりませんが、桜満開の中で、カメラマンの要求したポーズに対して、新郎・新婦が見事にポーズを決め、カメラマンの素早く移動しながら、次々に撮影していく様子は、プロの仕事の速度・的確さ・厳しさがヒシヒシと伝わってきたのでした。
 のんびり屋の「くまドン」とは違うプロの世界を垣間見た瞬間でした!!!
 カメラマンの移動が早く、「くまドン」のすぐ隣に登ってきているのに気付かないで、新郎・新婦が赤い傘を差しながら、こちらを向いている写真も撮影してしまいましたが、考えたら営業妨害かもしれないので、非掲載です。

 一度、王子神社に戻って、撮影し忘れた所を撮影してから、戻ってくると撮影は終わっていました。

 音無川親水公園の太鼓橋を渡り、飛鳥山公園に向かう前に親水公園の上にある橋から撮影していたら、
 右から先ほどのプロのカメラマンの声が聞こえてきます。同じ橋の20m程右にいたのです・・・・
 下をもう一度見ると、桜の木の下に、先ほどの新郎・新婦がおりました。
 (撮影する事だけに集中して、カメラマンに気がつかず、後ろを通り過ぎ、新郎・新婦にも気がついていない
  「くまドン」も「くまドン」ですが・・・・・・・・・・)

 この写真は、広重の絵と逆向きに堤から音無川の下流方向を眺めている事になります。

以前の王子のブログは、
 「名所江戸百景034 第18景 王子稲荷の社 北とぴあ」
 「名所江戸百景035 第49景 王子不動之滝 名主の滝」
 「名所江戸百景109 第18景 王子稲荷の社 北とぴあ 夕暮れ」
 「名所江戸百景134 第118景 王子装束ゑの木大晦日の狐火 王子の狐」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 東京都心の桜は、「満開」と「散り始め」マークばかりになってしまいました・・・・・・(汗)

 次回は、名所江戸百景の王子の桜の続きの予定です。(王子の桜は3景あります。)

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名所江戸百景175 第45景 八ツ見のはし 皇居東御苑の春

2014-04-04 07:55:25 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今年も桜の名所として有名な千代田区(ちよだく)にある皇居(こうきょ、江戸城)は、多くの花見客でにぎわいました。今回は皇居東御苑(ひがしぎょえん)の風景からです。皇居東御苑は、江戸城の本丸・二ノ丸・三の丸だった場所です。前回の千鳥ヶ淵(ちどりがふち)・北の丸(きたのまる)は東御苑の北側にあります。
 東京駅を西に歩いて行くと、江戸城(皇居)の内濠(うちぼり)が見えてきます。手前は巽櫓(たつみやぐら)、その奥に内桜田門(桔梗門)、そして一番奥に見えるのが富士見櫓です。
(絵画調)

 内濠沿いに右に進むと、三ノ丸大手門(おおてもん)が見えます。

 (桜が暗いので、日中シンクロしたら、不自然になってしまいました・・・・)
 江戸時代は、将軍の出入口、朝廷から勅使(ちょくし)の参向、大名の登城などを行う正式の門でした。
 大手門は、L字型に曲がった虎口(こぐち)の前後に二つの門を持つ枡形門(ますがたもん)です。前回の北の丸の田安門と同じ構造です。(江戸城内濠の門は、この構造が多い)
 まず、入口の高麗門を内側の虎口から大手町のビル街方面を見た風景です。

 上の写真の左側外に下の写真の櫓門(やぐらもん)があります。
 最初の大手門は、2代将軍・秀忠(ひだただ)の慶長12年(西暦1607年)に藤堂高虎(とうどうたかとら)の設計によって造られましたが、現在の形になったのは、同じく秀忠時代の元和6年(西暦1620年)の江戸城修復に際し、伊達政宗(だてまさむね)、相馬利胤(そうまとしたね)によって現在の形になりました。

 櫓門は両側の石垣の上を渡るように櫓が乗っている門ですが、江戸城の石垣は、切込み接ぎ(きりこみはぎ)と呼ばれる方形に整形した石材を密着させ、積み上げる方法で、城の石垣工法が最高レベルになった工法です。関ヶ原の戦いがあった慶長5年(西暦1600年)以後、隅石(石垣の角の石)などで使用され始め、江戸時代以降に平石にまで多用されるようになりました。通常の城の石垣として思い浮かぶ石垣の典型かもしれません。
 大手門を通過した所が江戸城の三の丸です。この大手門は日本の三百諸侯が登城した門であり、警備が厳しく、警備の多くの侍が詰める同心番所(どうしんばんしょ)がありました。二ノ丸と三の丸の境近くにある大番所も、その一つです。

 三の丸から二ノ丸に入る石垣の間を通り過ぎると、下の写真の百人番所(ひゃくにんばんしょ)があります。

 百人番所は大手門から本丸に入るときの最大の検問所です。甲賀(こうが)組,根来(ねごろ)組,伊賀(いが)組,二十五騎組の4組が昼夜交代で警護していました。 各組には,同心百人ずつが配属されていたところから百人番所と呼ばれます。

 江戸城の二ノ丸には、有名な小堀遠州(こぼりえんしゅう、小堀政一)が造った庭園がありました。3代・家光(いえみつ)の時代に、さらに改修されました。(絵画調)

 皇居東御苑は江戸城の本丸・二ノ丸・三の丸だった場所ですから、江戸時代は将軍の居城ですから、広重などの町人は中に入れない場所でした。
 (ただし、山王祭や神田祭を将軍に見せる時だけは、町人でも祭り関係者は江戸城内に入れました。)

 散った桜の花びらが池に趣を添えていました。

 皇居の東御苑の桜の木の本数は、あまり多くはありませんが、庭園内には東京都心では珍しくなった多くの草木が植えられていて、四季折々の風景を楽しむ事ができます。シャクナゲ(石楠花)の花も、その一つです。

 明治時代になると、皇居として宮内庁や皇室関連の施設があり、やはり一般人は中に入れませんでした。
 (明治以降は荒れはてていました)

 昭和35年に閣議決定されて、特別史跡に指定後、昭和43年から一般公開となっています。
 (幸せな時代とも言えます)
 現在の二ノ丸庭園は、9代・家重(いえしげ)の時代の庭園絵図を元に造られました。

 下の写真に池の手前に咲き始めているのはシャクナゲ(石楠花)の花です。他の木々も新緑の緑に覆われつつあります。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第45景 八ツ見のはし」に対応する「くまドン板」の景(確定・春景)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)

 二ノ丸から白鳥濠を横目に坂を登ると、江戸城の本丸です。結構、広い場所ですが、一際目立つのが本丸の天守閣跡の石垣です。その大きさは44m四方、高さ18mの巨大な天守台です。

 2代・秀忠の慶長年間に最初の天守閣が造られました。将軍の権威の象徴として、天守閣は、たびたび建て替えられましたが、4代・家綱(いえつな)の明暦年間に発生した「明暦の大火(振袖火事)」で焼失しました。
 この大火の被害は大きく、「江戸城全体や江戸の町の再建に費用がかかる大変な時期に天守閣の再建は不要」と意見により、以後、江戸城の天守閣は再建されることはありませんでした。すでに徳川幕府は安定期を迎え、権威の象徴である天守閣を建てる必要もなかったわけです。物事の軽重や優先順位を考えた立派な意見だと、「くまドン」は思います。
 下の写真は、天守台の石垣のアップです。石と石の間に隙間がありません。

 下は天守台から眺めた本丸の広場です。ここに江戸時代は本丸御殿(ほんまるごてん)がありました。
 実際の将軍が政務や生活をしたのは、本丸御殿でした。これだけ広々とした場所が都心にあるのは良い事です。
(絵画調)

 右奥(南)側が正面で、南から北に表・中奥・大奥と並んでいました。表は将軍謁見(えっけん)の場や幕府役人の政務の場、中奥は将軍の生活や政務の場。大奥は将軍の夫人や女中が生活する場所でした。
 こちらも2代・秀忠の慶長年間に完成しています。その後、火災による焼失・再建を繰り返しますが、14代・家茂(いえもち)の文久年間の火災による焼失後は再建されず、西の丸御殿に機能が移動しています。

 本丸の南側には、富士見櫓を見れるポイントがあります。どこからみても同じ形に見える三重櫓で天守閣が焼失してからは、天守閣の替わりの役目を果たした櫓です。

 富士見櫓は、上の写真と反対側の濠から見上げた方向が良いのですが、残念ながら、今年の桜の一般公開期間に見に行く暇がありませんでした。
 皇居東御苑内は、色々な花が咲きますので、これからの季節は楽しみです。


 下の絵は、広重の名所江戸百景「第45景 八ツ見のはし」(夏景)です。

 この絵は、日本橋の西側にある一石橋からの眺めです。江戸時代は、この位置から四方に八つの橋を眺められることで有名な場所でした。絵の手前にある一石橋から道三堀(どうさんぼり)に架かる銭瓶橋を望んだ風景です。
 緑濃い柳の木と飛び交うツバメ(燕)が夏の季節を表現しています。
 一応、八橋の名前は一石橋を中心に東は日本橋と江戸橋、北は常盤橋(ときわばし)、南は呉服橋(ごふくばし)、西は、銭瓶橋(ぜにかめばし)、道三橋(どうさんばし)です。

 「八ツ見のはし」にあたる「くまドン版」の景を皇居東御苑に持って行ってしまいましたが、一応、この付近の写真も載せておきます。皇居東御苑の大手門を再び出て真っ直ぐ行き、JRの線路下を通過すると、8橋の一つ呉服橋のあった所に出ます。この付近の堀は埋め立てられています。左に曲がると、日本橋川に架かる橋がありますが、この橋が広重の絵に描かれた一石橋のあった所です。すでに道三掘も埋め立てられいますので、昔の面影はありません。下の写真は、北側にあった常盤橋付近で撮影した写真です。(主に1月に撮影した写真です。)
(絵画調)

 まだ、堀の石垣や、明治以降に造られた石橋が残っています。
 常盤橋の東側には、日本銀行本店の建物があります。
(絵画調)

 そのまま東に進むと、三越日本橋本店のある場所に出ます。有名なライオン像です。
(絵画調)

 三越の降りているシャッターにも広重の絵や日本橋の絵が描かれています。道路を南に向かえば日本橋です。

 道路の対岸にも老舗(しにせ)の店が並んでいます。



以前のブログは、
 「名所江戸百景174 第54景 外桜田弁慶堀糀町 北の丸・千鳥ヶ淵の桜並木」
 「名所江戸百景095 第113景 虎の門外あふひ坂 皇居外苑の二重橋と櫓」
 「名所江戸百景092 第51景 糀町一丁目山王祭ねり込 桜田濠の彼岸花」
 「名所江戸百景093 第54景 外桜田弁慶堀糀町 桜田門の彼岸花」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 「くまドン旅日記」を見ていただきありがとうございました。
 「くまドン」の桜の景も残り1景となりました。(後で、王子の桜の前に移動させるので、話が合わなくなりますが・・)
 桜の花びらが舞っていますが、まだ桜の木には多く残っていてくれます。はたして、残り1景は桜が散るまでに間に合いますでしょうか?
 今年は桜の撮影に行っている時間がありませんでしたが、家の窓から見える桜と通勤の途中で眺める桜が唯一の花見となっています。

 次回は、名所江戸百景の別の桜景の予定です。

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