くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

名所江戸百景007 第67景/第70景 旧中川の桜

2013年03月31日 09時00分00秒 | 名所江戸百景
 こんにちわ、くまドンです。
 今回の江戸百景は、「江戸百景001 スカイツリーの真下から」の続きになりますが、ここから先は、東京の人向けになるでしょう。
 北十間川(きたじゅっけんがわ)にある福神橋をさらに東に進んでいくと、最後に旧中川(きゅうなかがわ)に合流して終わります。福神橋からは距離がかなりありますので、自転車の移動の以外は別行程にした方が楽です。
 旧中川との合流地点までの区間は、川がコンクリート護岸で殺風景なので、あまり写真には向きません。もし、川沿いに進むなら、十間川の北側(スカイツリーを背にして川の左側)の道を移動した方が自動車の交通量が少なく、移動が楽です。
 北十間川と旧中川の合流部の少し手前に北十間川に架かる東武亀戸線の鉄橋があります。下の写真はすぐ近くにある人道橋から鉄橋を撮った写真ですが、普段はかなり地味な場所ですが、桜の季節だけは、この場所の風景は写真撮影向きの場所に変わります。

 東武亀戸線は曳舟駅(ひきふねえき)から亀戸駅(かめいどえき)までの短いローカル線とはいえ、10分程間隔ぐらいで電車が通りますので、電車を絡めて撮影することも可能です。桜の時期は、平凡な場所を撮影ポイントに変えてくれます。


 ここが、北十間川と旧中川の合流点です。ここからは、川幅が広くなります。江戸時代初期は、この旧中川が荒川と利根川の下流部になっており、川幅は非常に大きかったそうです。しかし、江戸時代に利根川が江戸川・利根川方向に付け替えされ、荒川が現在の隅田川に付け替えされて、中川は急に水量が減り、川幅が小さくなったそうです。

 左正面から真っ直ぐ手前に流れているのが、北十間川、右から手前に流れているのが旧中川です。奥のスカイツリーが見える所は墨田区、川の左は江東区、写真では見えていませんが右手前が江戸川区です。ここは3区の境界線が交わる所です。
 ここから先は南に進みます。左は江戸川区、右は江東区となります。スカイツリーを入れて撮るなら、左の江戸川区側を進んだ方がよいです。

 すぐそばに、緑色の江東新橋があります。先ほど写真にあった合流部は橋の左側の直下付近です。この辺は旧中川の流れの先にスカイツリーがあるので、橋とスカイツリーの写真を撮るのに向いています。

 旧中川沿いは散歩コースとして整備されているので、桜も所々に植えられています。下の写真は江戸川区側に咲いていた河津桜(早咲き)とJR総武線の鉄橋です。逆に川の左側には、江東区側に亀戸中央公園があり、桜(標準咲き)が植えられています。

 さらに旧中川沿いに南に進むと、青色の「ふれあい橋」があります。この先で川は右に緩やかに曲がりますが、この辺りまでは、旧中川の流れの方向にスカイツリーを見る事ができます。

 旧中川は昔は北から南に(写真の奥から手前に)流れていました。しかし、現在では洪水対策の為、周辺の水域から水門で水の流れを遮断して、水位を1m下げています。余分な水は、旧中川上流部の木下川水門の所でポンプで水を荒川に流しています。結果として、現在の川の流れは逆方向に下流部から上流部へ流れています。ただし、とてもゆっくりなので、ほとんど流れているようには見えませんが・・・・

 橋を二つ程過ぎると、首都高速が高く川を横切り、その直下に逆井橋(さかさいばし)があります。
 この場所が、名所江戸百景「第67景 逆井のわたし」のあった所です。

 逆井橋の少し先にある虹の大橋(人道橋)の江戸川区側堤防の上に逆井の渡しの説明板があります。
 白鷺の姿が印象的な絵ですが、昭和40年代頃は、この川はどぶ川で魚も住めない川となっていました。水質の改善が進んだため、今では再び白鷺が生息できる環境になっています。できれば、白鷺を入れた写真を「くまドン版」の景に加えたいものです。

 虹の大橋から少し江戸川区側の川沿いを歩くと、橋の地図が置かれてあります。ここからは、上流側と下流側を合わせて、11の橋(地下鉄や人道橋を含む)が見えます。
 
 江戸百景にあった「八つ見の橋」より多く橋を見る事ができます。この辺は大島小松川公園となっており、桜の木が多く植えられていますので、写真は撮りやすい所です。

 今日は白鷺の姿もありませんでしたので、とりあえず、この写真を「第67景 逆井のわたし」に対応する「くまドン版」の仮景とします。
 この辺りは、スカイツリーは川の対岸に見るようになります。
 川沿いを少し進むと、都営新宿線の東大島駅(ひがしおおじまえき)があります。この駅は川の上にあり、左側は江戸川区の出口、右側は江東区の出口となっています。


 中川大橋の江東区側には「江東区 中川船番所資料館」があります。


 この船番所を描いたのが、江戸百景「第70景 中川口」です。

 この絵は、西から東を俯瞰した構図です。絵の真ん中で左から右に流れているのが中川、手前から上に向かっているのが、小名木川で、中川との合流点から先は新川と名前を変えます。左手前にあるのが、船番所です。川は十文字に交差しているのですが、中川の合流点より左側(上流側)をカットして、3本の川に見せています。

 中川大橋を渡らず、江戸川区側を進むと小高い場所に上っていきます。ここは、大島小松川公園の風の広場です。この上から見た眺めが下の写真です。

 絵とは逆に東から西を俯瞰した構図になっています。手前を左右に流れているのが旧中川、合流点から左奥に流れているのが小名木川(こなきがわ)です。
 左の白い橋は番所橋と名がつけられ、当時の名前を残しています。(江戸時代に橋はありませんでした。)
 この付近は桜が無いので、「くまドン版」では別の時期を狙いたいと思います。

 2013年の話題として、この中川口に「スカイダック」の水陸両用バスが中川口の水面を周るというツアーができました。亀戸駅の近くの商業施設「梅屋敷」から出ています。(運航日はインターネット等で検索してください。)
  なお、合流部から手前に江戸時代は新川(しんかわ)が流れていたのですが、大正時代に荒川放水路の開削により、新川が江戸川区側に切り離され、残った部分も風の広場ができた時に水路も埋め立てれらました。
 風の広場には、以前あった旧中川と荒川放水路を行き来するのに使用されていた閘門(こうもん)が頭の部分だけ地面から出ています。(古い建築物の為、地震で倒壊する恐れがあって、そのまま残せなかったと聞いたことあるのですが真偽の程は不明です。)ただし、閘門本体は地盤沈下がひどくて、埋められるときには、使用不能になっていました。
 さらに、まっすぐ進むと旧中川と荒川放水路の現在の接続部に「荒川ロックゲート」(2005年完成)があります。たまに船が通ると、水位差の異なる河川間を通過する為に、水門が開閉するのが見ることができます。(パナマ運河の水門と同じ原理です。)

 旧中川は荒川放水路に分断されて、川筋はここまでとなります。次回は、中川口に描かれた小名木川に沿って西に向かいます。

【小名木川・中川船番所について】
 小名木川は、徳川家康が兵糧としての塩の確保の為、行徳からの船を安全に航行させる目的で造らせた人口の運河です。東京湾北部は河口にある為、砂州や浅瀬が多くて座礁し易かったようです。
 さて、運河ができると、塩以外の物資運搬や、成田参詣客も運ぶようになって物量が増大してきます。
 小名木川は江戸物流の河川として重要視され、最初は、小名木川の西端にある萬年橋(まんねんばし)に船番所を置きました。その後、小名木川の東端にある旧中川、新川の合流地点である中川口に船番所を移しました。
 やがて小名木川を中心に現在の江東区にある竪川や大横川、横十間川、仙台堀川など運河の整備が進み、江戸の重要な運河網となっていきます。


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名所江戸百景006 第10景 神田明神曙之景 桜

2013年03月30日 14時55分05秒 | 名所江戸百景
 こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、神田明神についてです。
 まず、神田明神といえば、最も有名なのは、江戸三大祭りの一つ神田祭です。
 今年は2013年5月9日~15日に、4年ぶりに本祭が行われる予定です。
 神田明神の詳細は、プログ後方にまとめました。

 下の絵は、名所江戸百景「第10景 神田明神曙之景」です。

 この絵は神田明神の神官が朝の東の空を眺めている情景です。空の下の方が赤みを帯びて、曙(あけぼの)、つまり、夜明け前なのが分かります。
 絵では手前の真ん中に木があり、左右を二分割しています。現在の写真撮影の構図では、意識的に左右どちらかにずらして、わざと左右のバランスを崩すことが多いので、ど真ん中に置く構図あまり見られない構図です。
 しかし、名所江戸百景ではいくつかの景で、木を真ん中に置く構図を見る事ができます。江戸時代は、この構図が流行していたのでしょうか?
 桜が咲いた時に夜中に神田明神に行った写真です。桜はライトアップされています。
 絵画調

 上の写真はカメラについている絵画調変換フィルターを使用したものです。

 今回は少し構成を変えてみる試みをしました。
今まで、写真とカメラで絵画調に変換したものを比較用に並べてみましたが、今回はどちらか片方だけを出して、プログを軽くしてみました。絵画調に変換したものは「絵画調」と書いておきます。

 境内に入ると、正面に本社がありました。
 2枚とも絵画調

 神田明神と夜桜の組み合わせです。


 横を見ると、なんと!宴会をやっています。神社の境内で宴会できるのでしょうか?でも、楽しそう。
 この神社の裏にも公園があるのですが、ここも宴会で満員でした。この時期はこれが定番ですね。

 宴会している所の隣に、狛犬がありましたので、邪魔にならないように撮らせていただきました。


しかし、翌朝もう一度、神田明神に行ってみました。 神田明神は本郷台地と呼ばれる台地の東側に位置しており、東側は崖のようになっています。江戸時代と異なり、高い建物が建つようになったため、遠方は見えませんが、今でも神田明神の東側にいくと、台地の端に建っている事が分かります。スカイツリーも写真の右端に見えています。


 昨夜、宴会していた所には、ゴミ一つ落ちていませんでした。おそらく、神社の方と迷惑をかけないという約束で宴会しているのでしょうね。境内は広々としていまいた。
 絵画調

 神田明神の第1番目の祭神は大黒様です。


 本社の右に昨晩は気がつかなかった像がありました。獅子山再建との碑があります。親獅子が子獅子を谷底に突き落とし、はいあがってきた子をはじめて我が子とするという内容を表しています。昔、「巨人の星」というマンガで、親父の星一徹がこの話を使っていたような記憶が残っているのですが・・・・。今一つ記憶があいまいです。
絵画調


 幕末に作られ、関東大震災で壊れたのを再建したそうです。
 珍しいのと構図が決まっているので、後方に桜と神田明神の屋根を入れて構図を作りました。広角28mmでこれでぎりぎりです。

 この写真を名所江戸百景「第10景 神田明神曙之景」に対応する「くまドン版」の景(確定)とさせていただきます。
(このプログは、名所江戸百景の現代版「くまドン版」を作るのが第一目標です。)

 神田明神に行くには、JR御茶ノ水駅を降りて聖橋(ひじりばし)を渡っていきます。この橋から東側を見た景色が下の写真です。目の前に神田川があり、手前に営団丸の内線の橋があり、次に右の御茶ノ水駅から伸びているJR総武線の橋があります。そのすぐ下にある一番奥の橋が昌平橋です。左に壁がありますが、これが湯島聖堂の壁です。
 絵画調

 こちらが湯島聖堂だけの写真です。


 下の絵は江戸百景「第47景 昌平橋聖堂神田川」です。
 写真とは逆方向で、奥の昌平橋から聖橋方向を眺めている図になっています。右側には今の湯島聖堂の壁と同じような壁が描かれています。桜の写真ばかりでは、百景になりませんので、とりあえず、上の写真を「くまドン版」の仮景として、別の時期に百景に入れる写真を狙ってみます。



 
 【神田明神について】
・神田、日本橋、秋葉原、大手町・丸の内など108もの町の総氏神様です。
 沢山の町内が氏子の為、各町の摂末社が本社の裏手にずらっと並んでいます。
・神田神社で行われる神田祭は天下祭(てんかまつり)と言われ、
 江戸時代は9月に行われていました。
 日枝神社の山王祭と並び、江戸時代に徳川将軍が見物する為、
 祭りの山車(だし)が、江戸城内に入ることを許された祭りです。
 一年おきに、神田祭と山王祭が交互に江戸城に入ります。
 現在では、あまりに盛大の為、費用がかかり過ぎ、2年に一度だけ本祭が行われます。
 間の年の陰祭は地味に祭りをやって、余った分の本祭用にお金を貯めるそうです。
 今年、2013年5月9日~15日に、4年ぶりに本祭が行われる予定です。
 2年前の本祭の2011年は東関東大震災の為、慰霊を込めて自粛で中止となりました。
・神田神社の神様は、神社の説明板に
 一ノ宮 大己貴命(オオナムチノミコト、大黒様)
 二ノ宮に少彦名命(スクナヒコナノミコト、恵比寿様)、
 三ノ宮に平将門命(タイラノマサカドノミコト、平将門様)
 と書かれています。
・平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれています。
・江戸城の鬼門(北東)に当たる位置に配置されたとあります。
 「名所江戸百景003・・・」で寛永寺(かんえいじ)が鬼門に置かれたと
 書きましたが、江戸城に鬼門には諸説あり、
 浅草寺(せんそうじ)にも鬼門説があります。
 もっとも、神田から上野・入谷・浅草にかけて寺社が一杯ありますから、
 これ全てが鬼門封じなのではと「くまドン」が感じますが、なにが正しいのでしょうか?


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名所江戸百景005 第79景 芝神明増上寺 桜満開

2013年03月29日 20時06分03秒 | 名所江戸百景
 こんにちわ、「くまドン」です。
 インターネットの接続が不調になって、全くつながらなくなりました。仕事もあり、3日間アクセスができませんでした。本日、業者に連絡して対処方法を聞いて、やっと接続が回復しました。
 桜が咲いている間に少しでもプログを更新しようとしたのですが、プログ開始早々、いきなりズッコケ状態です。それでも、散り始めとはいえ、東京の桜は、まだ咲いています。桜が咲き終わるまでに、少しでもプログを進めていきたいと思います。
 前回は上野の桜で、寛永寺の話をしましたので、今回は芝公園にある増上寺(ぞうじょうじ)を取り上げてみたいと思います。増上寺は浄土宗の寺院です。

 天正18年(1590年)、徳川家康が江戸入府の時に、たまたま増上寺の前を通りかかり、慈昌上人(じしょうしょうにん、源誉存応上人)と対面したのが菩提寺となるきっかけでした。
 この当時の増上寺は現在の四谷駅近くの麹町・紀尾井町付近にあったのですが、家康に気に入られ、日比谷へ移り、さらに江戸城を拡張することになった為、家康により慶長3年(1598年)に現在の芝へ移されました。

 増上寺は徳川家の菩提寺ですから、徳川将軍15人中6人(2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂)が眠っています。寛永寺と同じ6人になっています。
 寛永寺との菩提寺をめぐる経緯は「上野の桜①」で書いた通りです。

 太平洋戦争中の空襲によって徳川家霊廟、五重塔などの多くの遺構を失うことになりました。焼失せずに焼け残った遺構は重要文化財に指定されています。
 戦前、霊廟は増上寺境内の別の場所にありましたが、空襲で焼失してしまい、現在は本殿右の安国殿裏にある徳川家墓所にまとめられて墓塔が建てられています。


 行く途中の右側に水子地蔵が奇麗に並べられています。


 下の絵は、名所江戸百景「第79景 芝神明増上寺」です。


 絵の右側にある建物が芝大神宮、左側にあるの門が増上寺です。手前には増上寺の参拝客が歩いています。その後ろにいるのは、増上寺の托鉢(たくはつ)のお坊さんです。
 増上寺は徳川家の菩提寺ですから、当然、手厚い保護で江戸時代は繁栄して、僧侶の養成・学問を担当する関東十八檀林(かんとうじゅうはちだんりん)の筆頭となり、京都の知恩院(ちおんいん)とともに浄土宗の名高い寺となりました。関東一円の浄土宗の寺からお坊さんが多数修行に来ていたことになります。

 JR浜松町駅や地下鉄大門駅からに西歩いて行くと、下の写真の門が見えます。この門が上の絵に描いていある増上寺の表門である大門です。昭和になって道路整理の為、江戸時代の門より大きく作り変えた為、門の下を車が通り抜けます。手前の交差点を右に行くと、芝大神宮です。この大門が増上寺の表門でしたから、江戸時代の増上寺の広さを感じることができます。


 そのまま歩いて行くと、絵の大門の後ろに描かれた中門である三解脱門(三門、重要文化財)があります。江戸時代は増上寺境内にありました。戦争の空襲による消失をまぬがれた江戸初期の建築様式の面影を残す門です。三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のことだそうです。
 増上寺は東向きが正面の為、お昼過ぎには逆光になって撮り難いです。撮影は午前中の早い時間に撮った方が良いです。


 三門を通り抜けると、増上寺の大殿と一緒に東京タワーが見えます。桜は散り始めでした。ほぼ、満開状態でした。

 現代の芝といえば、最初に、思い浮かぶのは東京タワーでしょう。スカイツリーができた現在も東京タワーは東京のランドマークとして健在です。逆に江戸時代といえば、高層建築物はありませんから、お寺や神社がランドマーク的存在であり、宗教的な参拝と同時に観光地にもなっていたわけです。
 このプログは名所江戸百景「くまドン版」を作ることが最初の目標になっていますので、「くまドン版」では、このようなランドマーク的存在は、積極的に取り入れていきたいと思います。

 上の全景を入れた写真でも良いのですが、これでは、工夫がありませんので、広重の名所江戸百景の特徴でもあるフレーミングして撮ります。
 写真の「フレーミング」とは、撮影中に望遠レンズなどで広い画像を切り取り構図を作画することを意味します。できあがった画像を切り取っても同じような結果を得られますが、この場合は「トリミング」と言います。
 
 まず、撮影ポジションを移動して、左側に桜近づき、増上寺と東京タワーを入れて撮ってみました。

 くまドンのカメラは絵画調のフィルタ機能がありまして、写真と見比べると面白いので、二枚同時でお見せします。


 今度は右側の桜に近づいて、さらに変化をつけられないかと工夫してみました。撮影してみると、桜の花が陰になって暗くなるので、ストロボを強制発射(日中シンクロ)に変更して撮影しました。桜の露出が後ろの背景の明るさと一致しましたので、下の写真を「第79景 芝神明増上寺」に対応する「くまドン版」の景(確定)とさせていただきます。

 絵画調

 念のため申し上げますと、くまドンのカメラはストロボは自動発光ですので、ストロボの光量を調整できません。距離が近すぎると、桜の花は白飛びしてしまい、距離が遠すぎると花は暗くなります。

 増上寺境内は桜が多くありますから、その他にも、いろいろ撮れます

 屋根だけでも絵になります。


 徳川の時代が終わり、明治になると、神仏分離政策の為、芝公園が増上寺の敷地内に造られました。戦後は、政教分離の為、宗教色のない公園として、芝公園が増上寺を取り囲むように分離されます。

 増上寺の表門を出て南(右)に進むと下の写真の「台徳院霊廟惣門」(たいとくいんれいびょうそうもん、重要文化財)があります。二代秀忠の霊廟へ続く門です。

 戦前、霊廟は増上寺境内の南側にありましたが、これも空襲で焼失してしまい、現在は本殿右の安国殿裏にある徳川家墓所に墓塔が建てられています。

 この惣門は、現在は、下の写真で東京タワーの右側に建っている「ザ・プリンスパークタワー東京」の敷地内だそうです。(都内のホテルの敷地としては、ものすごい広さなのですが・・・)

 その他の消失を免れた重要文化財の門として、増上寺の北側に「二天門」があります。こちらは東京プリンスホテルの敷地内ですが、歩道から見ることができます。

 敷地内を歩いて行くと、徳川家の菩提寺なのですから、当然かもしれませんが、ここにも徳川家康(東照大権現)をまつる東照宮がありました。この辺も桜の撮影に向いている場所でした。

絵画調



絵画調


 のぼり旗の家康の文字の下に二代秀忠の夫人「お江」という文字が見えます。くまドンが撮影したのは、2012年ですから、NHK大河ドラマ「江~姫達の戦国」(2011年放送)の影響が大きかったようです。


 さらに歩いて行くと、「円山随身稲荷大明神」(まるやまずいしんいなりだいみょうじん)』があります。この付近は芝公園の一部です。

 正面は小高い丘のようになっています。登っていくと「芝丸山古墳」と表記された説明板があります。一応調べて現地に行ったのですが、古墳のことを知った時は「まさか、東京のど真ん中に古墳があったとは・・・」という思いでした。


 下の絵は名所江戸百景「第53景 増上寺塔赤羽根」です。


右に大きく赤い塔が見えますが、増上寺にも五重塔があったそうです。正確な位置は不明ですが、丸山古墳か、ザ・プリンスパークタワー東京の付近に五重塔はあったようです。川の左側に民家が綺麗に並んでいますが、江戸時代は、ここまで増上寺の敷地内でした。
 真ん中に川が見える川が「渋谷川」です。現在は首都高速が川の上に通っています。絵の中で渋谷川に架けられた橋が赤羽橋です。現在はコンクリート橋です。橋から渋谷川を見ると、屋形船があり、こんな所にも船宿があるのかと知りました。この橋のすぐ隣にある交差点は、東京タワー撮影の定番となっています。

 桜の写真ばかり選ぶと偏った百景になりますので、「第53景 増上寺塔赤羽根」に対応する「くまドン版」の景は、別の時期に東京タワー周辺で狙ってみたいと思います。とりあえず、上の写真を仮景とさせていただきます。

 これで、今回は終了です。ありがとうございました。


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名所江戸百景004 第11景/第12景/第13景/第89景 上野公園と桜②

2013年03月25日 09時59分16秒 | 名所江戸百景
 こんにちわ、「くまドン」です。
 今回の江戸百景は、前回の上野の桜の続き、夜景編です。

 夕暮れになり、少し空が暗くなってきました。ぼんぼりに明かりが灯され雰囲気を盛り上げます。この時間になると、写真撮影は一気に進むようになります。
 上野公園と言えば花見で有名ですが、通路以外は酒飲みの客で埋め尽くされています。人の入れる隙間はありません。通路のみで撮影となりますが、特に撮影に問題はありません。


清水堂がライトアップされ、昼とは別の雰囲気を醸し出します。

絵画調

 
 よく見ると、清水堂の灰色のはずの屋根が青くなっっています。くまドンはこの原因をいろいろ考えてみました。
①夕暮れの時間帯の空は青みが強く、たまたま撮影した時の屋根の角度が青い空の色を反射しやすい状態だった。
②カメラのホワイトバランスを普段は晴天(補正なし)にしているのですが、このときはAUTO(自動)になっていた為、電球の赤みを検知して、青色補正が加わった。
 おそらく、このような原因により、屋根の色が青色になったと考えます。

 この時間帯の撮影は、空の青みが増して通常の時間帯と異なる雰囲気の写真が撮れるので、写真枚数が増えてしまいます。

絵画調

 空の青みが最も濃かった時間です。

絵画調

 この青色とは異なりますが、広重の「江戸百景」では、「ベロ藍」という青が好まれて使用されています。この色は、ドイツで発明された合成顔料を使用した色です。広重の時代に外国から入ってきて流通するようになり、江戸の人達に好まれたようです。19世紀のヨーロッパのジャポニズムにおいて、広重の絵が評価され、ヨーロッパで発明されたベロ藍の色が「ヒロシゲブルー」として有名になったは、少し不思議な気がします。

 突然ですが、名所江戸百景「第11景 上野清水堂不忍の池」に対応する「くまドン版」の景(確定)は、なるべく清水堂を映す角度を同じにして桜を入れたかったので、下の写真にします。夜景にしたのは、夜桜の風景も百景の中に入れたかったからです。

絵画調


 清水堂を下の方に歩いて行くと、ライトアップされた弁天堂が現れました。突然、姿を現すので、この景色は結構驚きでした。
この写真を撮っている時に気がついたのですが、ホワイトバランスがAUTOのままになっているのに気がつきました。普段は晴天(補正無し)なので、途中で修正しました。 

 上の写真がホワイトバランスがAUTO(自動)で青み補正がかった写真
 下の写真がホワイトバランスが晴天(補正なし)で撮った写真です。違いわかりますでしょうか?

絵画調

 弁天堂に行く途中の屋台も、満員状態でした。

絵画調

 不忍池に浮かぶライトアップされた弁天堂  

絵画調


 4月は新人歓迎を名目に花見になるはずですが、今年は3月24日には早くも満開になってしまい、4月には桜は散っているはずですが、やっぱり、葉桜になった木の下で宴会をやっているのでしょうか?
 夜8時を過ぎると、花見用の照明が消されて、明るさが半減してしまいますが、花見客も毎年恒例なのか慣れたものです。照明が消された途端、携帯用照明を点灯させて、その場を盛り上げ、そのまま飲み続けます。


 暗くなると手ぶれにならないようにISO感度を400に上げて撮影しますが、絵画調にすると、粒子荒れが目立つようになってきます。


 この絵は江戸百景「第13景 下谷広小路」です。

 右手前の店は松坂屋です。現在も同じ所に上野松坂屋があります。奥の方には上野のお山が見えます。奥の方に見える石垣は寛永寺の石垣だそうです。

 夕暮れ後の帰り際に撮った写真です。絵とは逆方向に上野公園から松坂屋方面を映した写真ですが、桜と江戸時代とは違う夜の明るい街並みを撮ることができました。

この桜は、早咲きの桜ですので、その年の気温にもよりますが、撮影時期が他の桜より数日早くなります。


 現代の風景として、上の写真を「第13景 下谷広小路」に対応する「くまドン版」の景(確定)とさせていただきます。
下は絵画調の写真です。


こちらは、不忍池から上野松坂屋方面を撮った写真です。

そして、その絵画調ですが、写真の方が明るめの補正が必要なのに対して、絵画調は調度良い明るさになっています。


 上野の桜は長くなりましたが、プログを読んでいただき、ありがとうございました。

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名所江戸百景003 第11景/第12景/第13景/第89景 上野公園と桜①

2013年03月24日 23時45分20秒 | 名所江戸百景
 こんにちわ、「くまドン」です。
 今回の江戸百景は、上野の桜を題材に江戸百景プログを作ります。


上野は江戸時代の代表的観光地で、名所江戸百景でも4景が描かれています。その内3景は桜が題材です。
 現代の上野のイメージといえば、上野動物園と西郷さんの銅像でしょう。

 今回も、くまドンのカメラで写真を絵画調に変換するフィルタ機能を使用した映像を並べてみますが、元が銅像の写真の為、余り変化がありません。


 しかし、江戸時代には動物園もありませんし、幕末の西郷さんも鹿児島藩の武士に過ぎませんでした。
 江戸時代に上野が有名であったのは、徳川将軍家の祈祷所・菩提寺である東叡山・寛永寺(とうえいざん・かんえいじ)があったからです。徳川歴代将軍15人中6人(4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定)が寛永寺に眠っています。
 当初、徳川将軍家の菩提寺は芝にある増上寺(ぞうじょうじ)がだったのですが、3代家光が祖父家康を尊敬し、天海上人に大いに帰依した為、家光自身葬儀は寛永寺に行わせ、遺骸は家康の廟がある日光へ移すようにと遺言した結果、4代目以後の徳川家の廟が寛永寺側に移り、寛永寺が徳川家の菩提寺となってしまいました。当然、増上寺側は反発しますので、最終的には歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺が交替で造営することになったそうです。
 寛永寺は上野公園の外側にあります。これは、寛永寺にある4代家綱の家綱霊廟への門(水盤舎、重要文化財)です。右奥にスカイツリーが見えたので、入れてみました。


 寛永年間に始まったので、「寛永寺」が寺号となり、江戸城の鬼門(北東)を守るという意味で山号が「東の比叡山」=「東叡山」となりました。(比叡山は、京都の鬼門(北東)を守るという役割がありました。) 
 徳川家康の頃から重用されていた天台宗の天海上人が、2代秀忠の時に現在の上野公園に当たる土地を貰い受け、3代家光の時に寛永寺の本坊を建てたことから始まります。この為、現在も上野公園には、寛永寺の建物が数多くあります。

 まず、最初は上野の山の急斜面にある清水観音堂(重要文化財)です。京都にある清水寺(きよみずでら)に倣って作られた為、清水の舞台と同じ懸造り(かけづくり)作られています。この作りは斜面の柱の長さを調節して、建物の床面を揃える工法であり、そこから景色を眺められるようになっており、江戸時代も人気がありました。上野戦争により伽藍の大半は焼けてしましましたが、清水堂は残ったので重要文化財に指定されてます。


 下の絵は名所江戸百景「第11景 上野清水堂不忍の池」です。
この絵は、清水堂から清水堂舞台越しに不忍池を望んだ構図です。


 なるべく絵の雰囲気に近づけようとして撮ってみました。




 現在も不忍池は近くにあるのですが、写真のように木が茂っているので、清水堂から不忍池を見る事は不可能となっています。


 絵の左側にある松の枝が円形に曲がっていますが、月の松と呼ばれ、
名所江戸百景「第89景 上野山内月のまつ」にも描かれています。
2013年からは、月の松と同じ形をした松が清水堂の前に植えられ、当時の雰囲気を再現しています。


 清水堂からの階段を下りていくと、正面に不忍池の中にある弁天堂(辯天堂、べんてんどう)が見えてきます。

 
 天海上人が琵琶湖に浮かぶ竹生島に見たてて、不忍池に中之島を築き、寛永年間に弁天堂が作られたそうです。(昭和33年に再建。)
 池には、ユリカモメが羽を休めていました。ユリカモメは冬鳥で繁殖期になると、顔が黒に変わります。(なんだか覆面レスラーみたいな顔ですが・・・・)

 くまドンが撮影した時には、まだ「月の松」が植えられていなかったので、上の写真を「第89景 上野山内月のまつ」に対応する「くまドン版」の景(確定)として選択しました。選択理由は不忍池と桜と北への渡り前のユリカモメが映っているので、季節感があるからという理由です。

 弁天堂のすぐ隣にある大黒天堂も桜が満開となっています。


 再び、上野山に戻り、左側にある緩い坂を登っていくと、五条天神があります。
 五条天神は、江戸百景「第12景 上野山した」に描かれています。


 手前の店は上野寛永寺の門前にある紫蘇飯(しそめし)屋「伊勢屋」です。後ろに五條天神と、上野寛永寺の石垣、上野のお山と配置されています。左端の傘をさした行列は上野寛永寺に花見に出掛ける江戸城の奥女中の花見御一行らしいです。上野寛永寺の門前町の風景です。
 この絵の内容からすると、江戸時代において、五条天神は今と異なり上野山の下の方にあったらしいです。現在の上野公園の南の入口付近の低い所です。

 現在の五条天神は上野公園の西側の斜面に置かれています。

 絵画調してみましたが、白い空と白い桜の組み合わせでは今一つメリハリが無い感じがします。


すぐ隣に花園稲荷神社があります。

神社の横から鳥居が連続して並んでいる階段があり、通り抜けると上野公園に出ます。


 さらに、歩いて行くと周りより小高くなった所にパタゴ(仏塔)があります。大仏山パゴダ(昭和42年建設)と呼ばれるものです。


 その脇に「上野大仏」の顔があります。
 上野に大仏があるとは知りませんでした。この大仏は最初は寛永年間に造られ、地震や火災等で何度も再興を繰り返し、最後は関東大震災によりお首が落ち、第二次大戦時には鉄・銅の不足により軍に胴体を徴用されて、顔のみが残されたそうです。現在のパゴタはその大仏殿の跡地には建てられました。


 江戸時代は徳川幕府が一番偉く、幕府の作った所が一番偉いという考えになりますから、江戸時代の間は、東叡山・寛永寺は天台宗の総本山となってしまい、比叡山や日光山を管轄する立場になってしまいました。(現在は天台宗の関東総本山)

 日光山と言えば東照宮(とうしょうぐう)であり、東照宮は東照大権現(徳川家康のこと)を祭る神社です。当然、上野公園にも東照宮はあります。他の東照宮と区別する為に「上野東照宮」(重要文化財)と呼ばれます。ただ、管理しているのは寛永寺ではありません。

 この東照宮は完成時に各大名から灯篭が多数寄進されました。2013年まで修理中であり、くまドンが行った時は工事中でした。本殿側は撮影不可能でした。銅灯篭を撮影しました。


 東照宮の隣に五重塔(重要文化財)があります。寛永年間に建立され、上野東照宮の建物でしたが、寛永寺の所有を経て、現在は東京都所有になっています。その為、名称は「旧寛永寺五重塔」となっています。付近は桜の木が多く雰囲気の良い所です。
 五重塔の前に柵があるので近寄れませんが、何とか構図を考えて作画してみました。なお、五重塔は上野動物園の敷地内にある為、五重塔の下に行きたい場合は、上野動物園に入園する必要があります。

 上の写真を江戸百景「第12景 上野山した」に対応する景(確定)とさせていただきます。選択理由は、東京では珍しく残る五重塔と、石灯篭、桜の組み合わせが江戸時代からの風景らしく感じたからです。下の方に屋台の店も少し映っていますが、「伊勢屋」の代わりともいえます。

 当然、天海は寛永寺の初代貫主(かんしゅ、天台宗総本山の住職を貫主と呼ぶそうです。比叡山にも貫主がいますので、混同され易い。)です。
 下の写真は埼玉県川越市にある天海の像です。

 幕府は徳川幕府の権威を上げる為、寛永寺の3代目住職からは皇族を付かせて宗教的権威を上げていきます。
 こうして、繁栄した寛永寺ですが、幕末の上野戦争(新政府軍vs旧幕府軍の彰義隊)で主要伽藍を焼失し、一帯は焼け野原と化したそうです。


 この時、新政府軍に対抗する為に彰義隊に皇族として祭り上げられたのが、最後の寛永寺の座主であった北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう)です。
 元々、寛永寺に皇族を置いたのは、朝廷を徳川幕府側に取り込み、いざとなった場合には、独自に擁立できる皇統を関東に置いておくという江戸幕府の用心深い戦略から来ています。江戸時代初期に建てた方針が200年後に働いているというのも、何か少し怖い感じがします。
 上野公園にあるこの軍人風の銅像がありましたが、誰でしょうか?


 歴史の知識が乏しいくまドンは戦前の軍人と言っても乃木将軍ぐらいしか名前を知らないのです。(戦後生まれの人が知らないの無理はないのですが・・・・) 説明板を見たら親王と書いてあったので、北白川宮能久親王と思ったら、小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)と書いてありました。
 皇居北の丸公園にあるこちらの銅像が、北白川宮能久親王銅像(北の丸公園)でした。


上野公園には野口英世の銅像もありました。

 その他にも上野公園には「ボードワン」という人の銅像もあるらいしです。くまドンが行った時は工事中でその場所にはいけませんでした。(この人は誰だ・・・・?????という認識レベルですが)

 長くなりましたので、上野の桜の夜景撮影は、次回のプログでやります。
ありがとうございました。

 日本プログ村に参加してみました。今一つ「くまドン」プログがどの分類に当てはまるのか判りませんが、時間のある方はどれか「ポチ」と押してください。
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