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城008 大和郡山城(1) 羽柴秀長100万石の城

2014-09-06 07:55:22 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、奈良県の大和郡山城(やまとこおりやまじょう)の話です。大和郡山城は、豊臣秀長(とよとみひでなが、秀吉の弟)100万石の城として有名です。江戸時代も大和・郡山藩の城でした。
 下の写真(絵画調)は、大和郡山城に復元された追手門(おうてもん)と追手向櫓です。

 追手門は、大手門(おおてもん)の古い呼び方で、城の正門にあたります。
 今回の写真は、昨年・平成25年の大晦日(おおみそか、12月31日)に撮影しました。

【大和郡山城(やまとこおりやまじょう)】 奈良県指定史跡
 別名:雁陣之城
 分類:平山城
 場所:奈良県大和郡山市
 特徴:天守台はありますが、天守は無い。本丸には柳沢神社があります。
     追手門(梅林門)とその周囲の向櫓、東隅櫓、十九間多聞櫓が復元されています。
     石垣は、野面積みで、近世城郭初期の特徴を良く残しています。
     石垣の石が不足して、築城時に徴用された地蔵様や墓石などの転用石もあるのも特徴です。
     大和郡山の町を回る外堀コースは、豊臣秀長(秀吉の弟)100万石の城の大きさと大和郡山の歴史や
     味わうことができます。郡山の名産・金魚も必見。

 下の絵は説明板にあった豊臣秀長像の絵です。

【豊臣秀長(とよとみひでなが)】
 豊臣秀吉の弟で、秀吉の信頼も厚く、片腕として内政・外交・軍事でその才能を発揮した。
 秀長の性格は温厚、真面目、寛容であり、秀吉を影で支えながら、秀吉の間違いを指摘して止める事ができた唯一の人物でした。
 このため、豊臣恩顧の武将からの信頼も厚く、秀長が早死することなく、長生きしたら、豊臣家は滅びる事無く、徳川家康(とくがわいえやす)も天下を取れなかっただろうと言われる事も多いです。
 実際の歴史は、秀長が52歳で亡くなると、朝鮮出兵、後継者だった豊臣秀次の廃嫡と続き、豊臣家は滅亡の道を歩むのですが・・・・・

 掘を回りこむように追手門に向かって進んでいくと、まず、追手向櫓(昭和62年復元)が左手に構えています。
(絵画調)

 追手向櫓の所で道は右に曲がり、追手門が立ちふさがります。

 追手門は喰違虎口(くいちがいこぐち)になっています。
 喰違虎口: 門は横向きにして、門の前後通路をL字型に曲げ、進入路をS字にして、攻撃側の勢いを落とします。
 さらに、周囲を櫓(やぐら)と壁などで囲み、門の前で攻撃側を集中攻撃できる為、守備が容易になります。

 正面から見た追手門(昭和58年復元)です。


 最初に、天正13年に羽柴(豊臣)秀長が大和郡山城にはいる所までの背景を説明しますと、
 天正10年: 本能寺の変: 明地光秀(あけちみつひで)の謀反により、織田信長(おだのぶなが)が自害。
         山崎の戦い: 羽柴秀吉が明智光秀に勝利。
 天正11年: 賤ヶ岳の戦い: 旧織田家の主導権争いで、豊臣秀吉が柴田勝家(しばたかついえ)に勝利
             戦後に、毛利輝元が祝勝の使いと人質を出して、秀吉と毛利(もうり)は同盟関係。
 天正12年: 小牧・長久手の戦い: 秀吉が織田信雄(おだのぶかつ)・徳川家康の連合軍と戦い、休戦。
         秀吉包囲網が崩壊: 紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部、越中が孤立する。
 天正13年: 秀吉の紀州攻め: 根来・雑賀衆に勝利して、和泉・紀伊(きい、現在の和歌山県)を制圧する。
             戦中に、秀吉は関白(かんぱく)に就任
             戦後、紀伊一国は羽柴秀長の領土となる。
         秀吉の四国攻め: 秀長は総大将として出陣、長宗我部氏は降伏して、土佐一国を安堵される。
 そして、四国攻めの働きにより、秀長は紀伊一国に、大和郡山をくわえた100万石の大名となります。

 追手門横の石垣です。
(絵画調)

 大和郡山城はの石垣は豊臣秀長100万石の時代に築かれた石垣がほとんどです。秀長以前の筒井氏時代は小規模な城で、遺構はほとんど残っていないようです。

 その前の大和郡山城主だった筒井氏を伊賀上野に移封して、羽柴秀長を大和郡山に入れたのは、大阪城州への畿内(関西)の土地を豊臣家の親族や近臣で固める意味もありました。
 当時は、東の徳川家康とも休戦しているだけで、講和していませんでしたし、西には九州攻めも残っていました。

 追手門の裏側です。これだけの門ですから、柱も太いですよ。


 追手門の中から外側を見た写真です。左側が進入路で、正面に追手向櫓があります。
(絵画調)

 下の写真は追手門を抜けて、門の後斜めから見た写真です。左奥に見える櫓が東隅櫓(昭和59年復元)です。
(絵画調)

 追手門を抜けた所が、毘沙門曲輪(本丸ニの郭)となります。続いて、本丸のある方向に進むと、ここには、柳沢文庫(やなぎさわぶんこ)と呼ばれる歴史資料の保存・公開する施設がありますが、当然のことながら、年末だったので休館日でした・・・・・・
 毘沙門曲輪(右)と本丸(左)の間に、内掘があります。
(絵画調)

 手前の方ほど水深が浅くなり、内掘の最後は、空掘(からぼり)となっています。

 本丸の石垣が少し低くなっている所があります。ここに極楽橋と呼ばれる橋が架り、本丸への入口でした。

 極楽橋の本丸側入口には、右の絵のように多聞櫓門があったようです。
 (健全財政を基本とする「くまドン」は、橋の建設費だけでなく、維持・保守費用もありますので、余計な事を言わない事にします。)

 本丸の周りを内掘が一周していますが、極楽橋の左側は石垣で区切られています。
 下の写真の左側の部分です。現在は、ここから本丸に入ります。
(絵画調)

 反対側から見た石垣です。手前が本丸の石垣、奥が毘沙門曲輪の石垣です。その間に一段低い石垣があります。


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 「城004 雪の高取城(1) (奈良県・百名城61番、日本三大山城)」
 「城004 雪の高取城(2) (奈良県・百名城61番、日本三大山城)」
 「城004 雪の高取城(3) (奈良県・百名城61番、日本三大山城)」

 「城005 奈良県の織田家 柳本藩(1) 橿原神宮の文華殿」
 「城005 奈良県の織田家 柳本藩(2) 黒塚古墳」
 「城005 奈良県の織田家 芝村藩 織田小学校・慶田寺」
 「城005 奈良県の織田家 織田信雄の宇陀松山城(山城、陣屋)」

 「城008 大和郡山城(1) 羽柴秀長100万石の城」 (今回分です)
 「城008 大和郡山城(2) 柳沢家・大和郡山藩15万石」
 「城008 大和郡山城(3) 三重の掘、秀長の菩提寺」
 「城008 大和郡山城(4) 外堀めぐりコース」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 次回は、朝来市の陣屋・城跡の話の続きです。
 テスト的に、「城007 秀長の但馬攻め」と「城008 大和郡山城」を並行して進めてみます。
 後で見ると分かりにくくなると思いますので、話しが一段落した所で、番号整列の為、順番を入れ替えます。
 次々回は、大和郡山城の話の続きです。

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