gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

城007 秀吉の但馬攻め(4) 秀長の但馬平定、そして鳥取へ

2014-09-04 00:10:22 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、織田信長(おだのぶなが)配下の羽柴秀吉(はしばひでよし)の但馬攻めの話です。但馬(たじま)の現在の兵庫県・北部にあたります。

 「城007 秀吉の但馬攻め(1) 竹田城・羽柴秀長」の続きになります。
(1)但馬方面は、織田方と毛利(もうり)方の勢力のぶつかりあう地域でした。
 天正7年に毛利一族の吉川元春(きっかわ もとはる)が但馬方面の毛利勢を救援しようとしましたが、
 伯耆(ほうき、現在の鳥取県西部)・羽衣石城(うえしじょう)の南条元続(なんじょうもとつぐ)が織田方に寝返ります。
 下の写真(絵画調)は、羽衣石城の駐車場から山頂を撮影したものです。真ん中やや右の山上に模擬天守が見えています。

 後方を遮断された状態になり、但馬にまで進出した吉川元春は軍勢を引き返すことになりました。
 結果として、毛利方の但馬国人は孤立することになります。

(2)天正8年(西暦1580年)になると、播磨(はりま、現在の兵庫県南部)方面が、羽柴秀吉によって再度平定される事になります。毛利勢と戦うに当たって、山陽方面は秀吉が、但馬方面は、竹田城城主である弟の秀長が担当することになります。
 下の写真は、有名な竹田城の雲海です。

 4月に始まった但馬攻め、5月には平定完了となります。
 但馬の毛利方は前述のように孤立していましたから戦意がありません。次々に降伏していきます。

(3)豊岡城(とよおかじょう)の山名四天皇の最後一人・垣屋豊続(かきやとよつぐ)も奮戦むなしく降伏。
 下の写真は、豊岡の観光地図です。現在の豊岡城は、神武山公園(じんむさんこうえん)となっています。


(4)山名 堯熙(やまな あきひろ)の有子山城(ありこやまじょう、山城)も激戦の末に落城。
 下の写真は、江戸時代初期に造られた出石城(いずしじょう)ですが、後方に見える山が有子山城です。


(5)「旅日記 山陰海岸」で紹介した場所にも秀長の但馬攻めに関係した城がありました。
 下の写真は、「旅日記018 山陰海岸(8) かすみ丸遊覧船」でも話をしました「塔の尾城」の直下の岸壁です。この上に海城がありました。兵庫県・香美町(かみちょう)の海岸にあります。

 塔の尾城は、室町(南北朝)時代に築かれた城で、長氏という一族の城でしたが、天正8年の秀長による但馬攻めで落城となりました。
 静かで、美しい海岸ですが、このような場所にも戦国時代の嵐は吹き荒れていたのです。

(6)戦国時代の有名な大名で城造りの名人と呼ばれた藤堂高虎(とうどうたかとら)がいます。22万石の大名にまでなりましたが、この当時は、羽柴秀長に300石で仕えていました。
 下は、愛媛県の今治城(いまばりじょう)にあった藤堂高虎の銅像です。

 この藤堂高虎も、香美町南部の小代谷の地侍(国人)のゲリラ戦には大分苦戦したようで、何度も痛い目にあったようです。天正9年に但馬平定に貢献した事により、3000石の鉄砲大将になりました。

(7)下の写真は、「旅日記012 山陰海岸(2) 居組・諸寄の漁港」で話をしました浜坂の城山公園にある「芦屋城跡」です。塩冶高清(えんやたかきよ)が居城する海上交通を確保する為の海城でした。

 芦屋城、天正8年の秀長の但馬攻めで落城しましたが、この塩冶高清は城を退却後、鳥取城の北にある雁金山城(かりがねやまじょう)を築き、翌・天正9年に鳥取城を攻める秀吉軍に対抗する毛利方として戦いを続ける事になります。
 この塩冶高清、秀吉からは「山賊衆」と呼ばれる程、山陰の地の利を生かして、山の中を神出鬼没に兵を動かすことが得意でした。

(8)下の写真は、「旅日記020 山陰海岸(10) 城崎の竜宮城・来日岳」の城崎(きのさき)の円山川(まるやまがわ)河口にある気比の浜(けいのはま)です。奥に見える岬の左手にある家のある付近が現在の津居山です。

 城崎(きのさき)の津居山を根拠地としていた奈佐日本之介(なさやまとのすけ)も、同様に鳥取城の北にある丸山城(まるやまじょう)を築き、鳥取城を攻める秀吉軍に対抗する毛利方として、塩冶高清と共に戦う事になります。奈佐日本之介の方は、秀吉から「海賊衆」と呼ばれています。

(9)下の写真は「城002 鳥取城と鳥取砂丘(2) (鳥取県・百名城63番)」に見せた鳥取城の写真です。
 天正9年、鳥取城は秀吉に包囲されます。鳥取城の守将は毛利一族の吉川経家(きっかわつねいえ)です。
 
 秀吉の鳥取城攻めは「兵糧攻め」で、兵量を買い占めた話は有名です。
 陸の補給路の途中になる伯耆の南条氏(羽衣石城)が織田方に寝返り、鳥取城の周辺が秀吉軍に包囲された為、海上輸送に頼る事になります。
 鳥取城(吉川経家)~雁金山城(塩冶高清)~丸山城(奈佐日本之介)が、唯一の海上補給ルートなっていて、兵糧攻めの最中でも物資補給を行っていたが、中間点の雁金山城を、秀吉軍の宮部 継潤(みやべ けいじゅん)に落とされ、港も海上封鎖された為、補給が不可能となりました。塩冶高清は丸山城で奈佐日本之介と共に戦い続ける事になります。

 秀吉の兵糧攻めの結果、城内の兵士らの飢えと疲労を考えた吉川経家の鳥取開城が、秀吉に受け入れられ、鳥取の戦いは終わる事になります。
 戦後の処置において、秀吉は、吉川経家の器量を認め、生きて毛利家に返し、鳥取城の元・山名家の家臣や塩冶高清・奈佐日本之介を切腹させようとします。
 これに対して、吉川経家は、経家自身の生還を固辞し、塩冶高清・奈佐日本之介の助命しようとしたため、経家を含めて全員切腹となってしまいました。
 こうして、山陰方面の織田家の秀吉と毛利家の戦いは終わり、天正10年の山陽方面の備中高松城攻め、本能寺の変、そして、秀吉の中国大返しへと続いて行くのです。

 今年は、NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」の年ですが、但馬方面の攻略では秀吉の弟・秀長が中心でしたので、出番がありませんでした。
 但馬地方の出石そばは有名で、出石城の近くには、皿そばの店が数多くあります。その中に「官兵衛」という店がありましたので、食べてみる事にしました。見ての通り、つゆに玉子やトロロなどを入れて、好みに合わせて食べられるので、楽しかったです。

 食べ終わった皿も見て楽しめます。町中の店の皿そばを1皿ずつ食べ歩くことも可能で、面白いかも。


 鳥取の羽衣石城や、但馬の出石城については、いつか時間がある時にとさせていただきます。

 前回までのブログは、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。
(1)竹田城とその周辺の過去のブログは、
 「城001 天空の城 竹田城(1) (兵庫県・百名城56番)」
 「城001 天空の城 竹田城(2) (兵庫県・百名城56番)」
 「城001 天空の城 竹田城(3) (兵庫県・百名城56番)」
 「城003 天空の城 竹田城・再訪(1) (兵庫県・百名城56番)」
 「城003 天空の城 竹田城・再訪(2) (兵庫県・百名城56番)」
 「城003 天空の城 竹田城・再訪(3) (兵庫県・百名城56番)」

 「城007 秀吉の但馬攻め(1) 竹田城・羽柴秀長」
 「城007 秀吉の但馬攻め(2) 朝来市の陣屋」
 「城007 秀吉の但馬攻め(3) 古墳の宝庫」
 「城007 秀吉の但馬攻め(4) 秀長の但馬平定、そして鳥取へ」 (今回分)

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 次回は、大和郡山城の話の続きです。
 テスト的に、「城007 秀吉の但馬攻め」と「城008 大和郡山城」を並行して進めてみます。
 後で見ると分かりにくくなると思いますので、話しが一段落した所で、番号整列の為、順番を入れ替えます。
 次々回の「訪城記」は、「秀吉の但馬攻め」の続きです。

 日本プログ村に参加しています。良ければ、「ポチッ」応援お願いします。(携帯からは無効ですので、不要です。)
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。