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城008 大和郡山城(2) 柳沢家・大和郡山藩15万石

2014-09-08 00:10:38 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、奈良県の大和郡山城(やまとこおりやまじょう)の話の続きです。大和郡山城は、豊臣秀長(とよとみひでなが、秀吉の弟)100万石の城として有名です。江戸時代も大和・郡山藩の城でした。
 下の写真(絵画調)は、大和郡山城に復元された追手門(おうてもん、大手門のこと)と追手向櫓です。


 さて、前回の続きで、大和郡山城の本丸に入ります。
 本丸には柳沢神社があります。徳川幕府・5代将軍の徳川綱吉(とくがわつなよし)の側用人(そばようにん)だった柳沢吉保(やなぎさわよしやす)祭った神社です。

 右の石柱に「川越(かわごえ)・甲府(こうふ)城主 柳沢美濃守吉保公」と刻まれているように大和郡山藩の藩主ではありませんでした?
 柳沢吉保は、綱吉が将軍になる前の館林藩(たてばやしはん)の藩主だったころからの家臣です。綱吉が5代将軍になると、綱吉の側近(側用人)として、将軍の命令を老中(ろうちゅう)に伝える役目で、綱吉に重用されました。
 当初は、幕府の530石の旗本(はたもと)でしたが、川越藩7万2000石、さらに、甲府藩15万石へと加増されていきます。元禄時代には大老(たいろう)にまで出世します。
(絵画調)

 5代将軍の綱吉が亡くなり、徳川家宣(いえのぶ)が6代将軍になると、新井白石(あらいはくせき)が幕政を主導する事になり、柳沢吉保は失脚して、家督を子供の柳沢吉里(やなぎさわ よしさと)に譲って隠居します。
 ここで、甲府藩・2代藩主の柳沢吉里ですが、親の柳沢吉保が幕政のみで藩の政治を顧みなかったの対して、幕政には一切関わらず、藩政に力を注ぎました。(親の吉保が、賄賂(わいろ)政治で有名で、綱吉の「生類哀れみの令」などの悪法を推し進めたので、幕府からにらまれていたこともありますが・・・)
 結果的には、この吉里は名君で、農業用水の整備などが行われ、甲府藩の領民にとっては幸せでした。

 8代将軍・徳川吉宗(よしむね)の時代になると、享保の改革(きょうほのかいかく)において、甲府藩は幕府直轄領となり、甲府藩15万石の柳沢家は、大和郡山藩15万石に移封となります。
 本丸にある柳沢神社は、初代藩主の柳澤吉里が、親の吉保を祭る為に造った神社です。

 こうして柳沢吉里は、柳沢家・大和郡山藩の初代藩主となった分けですが、2代目・3代目の藩主も名君と呼ばれ、
 大和郡山の領民にとっては、治世が安定した比較的幸せな時代を迎える事になります。


 下の写真は、本丸の南西側からみた石垣です。大和郡山城を現在の形にしたのは、豊臣秀長です。

 兄・豊臣秀吉の補佐として、大和国・和泉国・紀伊国の3ヵ国100万石の領地を有し、大阪城を中心とした機内を固める必要がありましたので、大幅に拡張されました。

 豊臣政権時代の石垣ですから、野面積みで石の形もまちまちです。石垣の角部(隅石)は算木積みのようですね。
 野面積み(のづらづみ): 自然石を加工しないで、そのまま積み上げる方法である。当然、石の形はバラバラ。
 算木積み(さんぎづみ): 石垣の角部に長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせて強度を上げる積み方。
(絵画調)

 蒸気機関も無かった時代に、人力で築城しているのですから、ある意味驚きです!

 本丸の柳沢神社の後ろに天守台があるのですが、平成29年3月まで工事中で進入禁止でした。
 仕方が無いので、柵の外から天守台を撮影しました。

 この天守台の石垣の特徴は、転用石と呼ばれる地蔵様(石仏)や墓石が使われている事です。当時の大和地方は石材に乏しかったために、周辺から徴用されたそうです。このため、この天守台に建てた天守には、祟り(たたり)があったという伝説まで残ってしまいました!
 本丸から内掘を見た眺めです。結構高さがあります!


 本丸と二ノ丸の間にある台所橋です。
(絵画調)

 台所橋を渡った県立郡山高等学校のある所が、二ノ丸で、藩主の館(やかた)や藩政が行われた場所でした。

 二ノ丸を道路沿いに南西に進んでいくと城の中掘にでます。右の石垣は南御門跡です。

 カモ(鴨)類は、カルガモ(留鳥)がいました。


 さらに中掘を過ぎて行くと、右手に永慶寺(えいけいじ)の山門(市指定文化財)があります。
 この山門は、豊臣秀長の時代に建築された門で、幕末に中掘にあった南御門を移築したものです。

 大和郡山城で現存する唯一の遺構(いこう)でもあります。

【永慶寺(えいけいじ)】
 大和郡山城主・柳沢家の菩提寺(ぼだいじ、先祖の位牌を納めてある寺)です。
 下の写真は、柳澤家仏間(香厳殿)です。境内の説明板によると柳沢家の墓所は左奥にあるらしいです。

 元々は、甲府藩の藩主だった頃の柳澤吉保が、甲府の地に永慶寺を創建した事から始まります。
 吉保の死後は永慶寺に埋葬されて、柳沢家の菩提寺となります。
 その後、甲府藩主の座を継いだ柳澤吉里(吉保の子)が、甲府藩から大和郡山藩に移封になります。
 この移封に伴い、永慶寺も大和郡山に移転して、柳沢家代々の菩提寺となっています。
(絵画調)

 墓は見れませんでしたが、境内にあったお堂の一風景からです。年末でしたので、新年を迎える準備もあります。
(絵画調)



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(1)奈良県の大和郡山城の過去のブログは、
 「城008 大和郡山城(1) 羽柴秀長100万石の城」
 「城008 大和郡山城(2) 柳沢家・大和郡山藩15万石」(今回分です)

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 次回は、朝来市の陣屋・城跡の話の続きです。
 テスト的に、「城007 秀吉の但馬攻め」と「城008 大和郡山城」を並行して進めてみます。
 後で見ると分かりにくくなると思いますので、話しが一段落した所で、番号整列の為、順番を入れ替えます。
 次々回は、大和郡山城の話です。

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