こんにちわ、「くまドン」です。
今回は、品川区(しながわく)の品川浦(しながわうら、洲崎)です。
下の写真は、現在の品川浦(しながわうら)の写真です。
(絵画調)
L字型の奥まった港に、釣り船や屋形船(やかたぶね)が並び、北にある品川駅周辺の現代的な高層ビルが、水面に陰を落とします。
「品川浦とつり舟」は、品川区の「品川百景61番」にも指定されています。東京23区には、区内の百景を選定している所も多いです。
午後1時過ぎに到着しましたが、一番暑い(汗)時間帯で、体力を消耗すると1日持ちませんので、早めに撮影を終了させることにしました。
当日は、夏休の休日なので、屋形船の予約があるのか、お昼から船の準備中です。
かつての品川浦は豊富な水揚げを誇り、海苔(のり)の主要な産地でもありました。
ここ品川は、同じく広重の作品「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)」の第一宿「品川宿」があったことで有名です。
下の絵は、広重の名所江戸百景「第83景 品川すさき」(秋景)です。
絵は、ごく自然な遠近法(えんきんほう)と、俯瞰(ふかん、上から下を見下ろす)で描かれています。
手前の港が現在の品川浦ですが 江戸時代は、品川湊(しながわみなと)と呼ばれ、目黒川(めぐろがわ)の河口にあった港でした。右手前の橋の所が、目黒川の河口です。その先が洲崎で、弁才天が描かれています。
江戸の海には、多くの船が帆(ほ)を張り、左手奥には房総(ぼうそう、現在の千葉県)まで海岸線が続きます。
右奥にあるのが台場(だいば、江戸時代の海上砲台)です。
江戸時代の目黒川河口は、現在では埋め立てられています。
下の写真は、品川浦の行き詰まりの所から撮影した写真です。
見ての通り、わずかに残された水面に、釣り宿の船が所狭しと、泊められています。時代の流れを感じました。
品川洲崎は、目黒川から運ばれた砂が堆積してできた洲が北方向に長く伸びてできた所でした。
洲崎に描かれている神社は、広重がこの絵を描いた頃は、弁才天(べんざいてん)であったそうです。
現在は、下の写真のような利田(かがた)神社となっています。
(絵画調)
広重が、この絵を描いた頃は、この洲崎の裏側にも台場が築かれていて、絵には、なぜ描かれなかったのかは、一つの謎(なぞ?)とされています。
神社には、下の写真のようなキツネ(狐)像がありますが、最初見たときは、クマ(熊)かと思いました。(笑)
「利田(かがた)神社と鯨塚」も、「品川百景69番」に指定されています。
江戸時代、品川沖に迷い込んだクジラの骨が埋められた塚もあります。
当時は江戸中の評判になり、浜離宮(はまりきゅう)まで運び、11代将軍・家斉(いえなり)に見せたらしいです。
考えてみれば、幕府が、品川の台場を作る原因は、アメリカのペリーの開国要求に備えて、造られたものでした。
そして、ペリーの開国要求には、捕鯨船(ほげいせん)の物資補給が含まれていました。
(当時のアメリカは、世界有数の捕鯨国でした。目的は、ランプの灯に使う鯨油(げいゆ)です。)
下の地図は、現代の品川周辺の地形図です。
「国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データ(図名等)を使用しました。」
手書きですので、大雑把ですが、左下の赤丸の所が「品川すさき」です。
広重の絵は、西の高台(黄緑色の地形部分)から望む視点になっています。
オレンジ色の線が、以前、目黒川が流れていた部分で、絵の「品川すさき」に流れ込んでいました。
現在の目黒川河口部は直線化されて、天王洲南運河を通り、東京湾に注ぎこんでいます。
図の右上には、現在も第3台場と第6台場が残されています。
江戸時代末期には、図の中ほどにある天王洲(てんのうす)や品川埠頭(しながわふとう)、そして、東京港にも台場が築かれていました。
広重が「名所江戸百景」を描いた頃は、未着工の台場もありました。絵に描かれた台場と、その時の造られていた台場が一致しているのかは、一つの謎となっています。(最後まで未完成で終わった台場も、あるそうです。)
このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作る事を第一目標にしていますので、
この写真を、広重の名所江戸百景「第83景 品川すさき」に対応する「くまドン版」の景(夏景・確定)とさせていただきます。
今回は、これで終わりとさせていただきます。
暑い日が続きますので、日中の撮影には、水分をこまめに取って、熱中症などには、十分お気をつけください。
今回の話は、「名所江戸百景060~062 佃島の船渡御」の続きで、佃島で撮影後に向かった場所です。
佃島(つくだじま)の住吉神社の行列が、晴海埠頭(はるみふとう)へ向かっている頃です。
(「佃島の舟渡御」の最後については、いつか時間のある時に修正させていただきたく思います。)
次回は、この後も撮影は続き、別の場所の景になります。
日本プログ村に参加してみました。時間があれば、「ポチッ」と押してください。
今回は、品川区(しながわく)の品川浦(しながわうら、洲崎)です。
下の写真は、現在の品川浦(しながわうら)の写真です。
(絵画調)
L字型の奥まった港に、釣り船や屋形船(やかたぶね)が並び、北にある品川駅周辺の現代的な高層ビルが、水面に陰を落とします。
「品川浦とつり舟」は、品川区の「品川百景61番」にも指定されています。東京23区には、区内の百景を選定している所も多いです。
午後1時過ぎに到着しましたが、一番暑い(汗)時間帯で、体力を消耗すると1日持ちませんので、早めに撮影を終了させることにしました。
当日は、夏休の休日なので、屋形船の予約があるのか、お昼から船の準備中です。
かつての品川浦は豊富な水揚げを誇り、海苔(のり)の主要な産地でもありました。
ここ品川は、同じく広重の作品「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)」の第一宿「品川宿」があったことで有名です。
下の絵は、広重の名所江戸百景「第83景 品川すさき」(秋景)です。
絵は、ごく自然な遠近法(えんきんほう)と、俯瞰(ふかん、上から下を見下ろす)で描かれています。
手前の港が現在の品川浦ですが 江戸時代は、品川湊(しながわみなと)と呼ばれ、目黒川(めぐろがわ)の河口にあった港でした。右手前の橋の所が、目黒川の河口です。その先が洲崎で、弁才天が描かれています。
江戸の海には、多くの船が帆(ほ)を張り、左手奥には房総(ぼうそう、現在の千葉県)まで海岸線が続きます。
右奥にあるのが台場(だいば、江戸時代の海上砲台)です。
江戸時代の目黒川河口は、現在では埋め立てられています。
下の写真は、品川浦の行き詰まりの所から撮影した写真です。
見ての通り、わずかに残された水面に、釣り宿の船が所狭しと、泊められています。時代の流れを感じました。
品川洲崎は、目黒川から運ばれた砂が堆積してできた洲が北方向に長く伸びてできた所でした。
洲崎に描かれている神社は、広重がこの絵を描いた頃は、弁才天(べんざいてん)であったそうです。
現在は、下の写真のような利田(かがた)神社となっています。
(絵画調)
広重が、この絵を描いた頃は、この洲崎の裏側にも台場が築かれていて、絵には、なぜ描かれなかったのかは、一つの謎(なぞ?)とされています。
神社には、下の写真のようなキツネ(狐)像がありますが、最初見たときは、クマ(熊)かと思いました。(笑)
「利田(かがた)神社と鯨塚」も、「品川百景69番」に指定されています。
江戸時代、品川沖に迷い込んだクジラの骨が埋められた塚もあります。
当時は江戸中の評判になり、浜離宮(はまりきゅう)まで運び、11代将軍・家斉(いえなり)に見せたらしいです。
考えてみれば、幕府が、品川の台場を作る原因は、アメリカのペリーの開国要求に備えて、造られたものでした。
そして、ペリーの開国要求には、捕鯨船(ほげいせん)の物資補給が含まれていました。
(当時のアメリカは、世界有数の捕鯨国でした。目的は、ランプの灯に使う鯨油(げいゆ)です。)
下の地図は、現代の品川周辺の地形図です。
「国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データ(図名等)を使用しました。」
手書きですので、大雑把ですが、左下の赤丸の所が「品川すさき」です。
広重の絵は、西の高台(黄緑色の地形部分)から望む視点になっています。
オレンジ色の線が、以前、目黒川が流れていた部分で、絵の「品川すさき」に流れ込んでいました。
現在の目黒川河口部は直線化されて、天王洲南運河を通り、東京湾に注ぎこんでいます。
図の右上には、現在も第3台場と第6台場が残されています。
江戸時代末期には、図の中ほどにある天王洲(てんのうす)や品川埠頭(しながわふとう)、そして、東京港にも台場が築かれていました。
広重が「名所江戸百景」を描いた頃は、未着工の台場もありました。絵に描かれた台場と、その時の造られていた台場が一致しているのかは、一つの謎となっています。(最後まで未完成で終わった台場も、あるそうです。)
このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作る事を第一目標にしていますので、
この写真を、広重の名所江戸百景「第83景 品川すさき」に対応する「くまドン版」の景(夏景・確定)とさせていただきます。
今回は、これで終わりとさせていただきます。
暑い日が続きますので、日中の撮影には、水分をこまめに取って、熱中症などには、十分お気をつけください。
今回の話は、「名所江戸百景060~062 佃島の船渡御」の続きで、佃島で撮影後に向かった場所です。
佃島(つくだじま)の住吉神社の行列が、晴海埠頭(はるみふとう)へ向かっている頃です。
(「佃島の舟渡御」の最後については、いつか時間のある時に修正させていただきたく思います。)
次回は、この後も撮影は続き、別の場所の景になります。
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