九品人の落書帖

写真をまじえ、身の回りで見聞きしたことを、つれづれなるままに!

老いとは…

2018年09月05日 | 日記
 Eテレ『ヨーコさんの言葉』から引用する。
               □

 「ねぇ、おねぇちゃん…」
 押し殺したような妹の声が聞こえた。
 「あの孔ちゃんが死んだって、
 脳梗塞で倒れて、
 サンフランシスコで」

 孔ちゃんは父の友人の子供で、
 北京に居たとき、
 うちの応接間でハイハイをしていた。

 大連の孔ちゃんの家で、
 テーブルに山とつまれた肉饅頭を、
 さあ食べようと思ったとき停電になった。
 思い出すと口中ツバキだらけとなる。

 高校生になった孔ちゃんが、
 ふらっと私の家に来たことがある。
 カレーの鍋をひろげた膝の間にはさんで、
 盛大にカレーを食べていたのだけを思い出す。

 孔ちゃんが大学に入って、
 演劇を始めてポスターを何度も頼まれた。
 多分、私の公になったはじめての仕事だったと思う。

 私が結婚した後も
 度々、家へ遊びに来た。
 「就職したんだ」
 大きな商社だった。

 時々、私の仕事場に現れた。
 机にあごをのっけて何時間も
 私の仕事を珍しそうに見ていた。
 孔ちゃんは、どんどん商社マンらしくなっていった。
 そして、アメリカへ転勤になった。

 私がニューヨークへ行った時、
 孔ちゃんとご飯を食べた。
 写真を見せてくれた。
 とてもキレイな奥さんと子供が写っていた。
 余裕ある笑い方の孔ちゃんは、
 私には自慢たらしく見えた。

 孔ちゃんと最後に合ったのは、オジさんの葬式だった。
 私達は五十を過ぎていた。
 顔が落ちついた貫禄になって立派だった。

 墓地を並んで歩いて、
 はるばる生きてきたなぁと。
 こんなババアになるなんて、
 こんな立派なオジンになるなんて。

 六十年以上も付き合ったのに、
 何枚かの写真のように現れた記憶以外に
 孔ちゃんのことは、何も知らない。

 何も分からず、
 ただ無念だった。
 私は大声で泣いた。

 私達は老いて誰にも死が近づいている。
 これから生き続けるということは、
 自分の周りの人達が
 こんなふうにハガレ続けることなのだ。
 老いとは、そういう寂しさなのだ。


 
 

 
  
コメント
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