紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

自立支援を考える

2005-10-16 16:40:25 | 社会
大分前の話だが、日本の先端企業を扱った英語テキストを使っているクラスで、将来、入社してみたい企業への志望動機書を英語で書いてみるという宿題を出したことがあった。企業についていろいろ調べて、なぜ自分がその業界や企業に興味をもったのかを書いてもらったのだが、その中で目を引いたのが一人の学生の出した志望書だった。彼の父親は全盲らしく、家族の手助けなくしては一人で食事をすることもままならないらしい。しかし父親はなるべくなら家族に助けられずに万事を自分で行なおうともがいていて、そうした姿を見るのが息子としてつらく、将来は障害者のための補綴具メーカーに就職したいと書かれていた。心を動かす内容であり、おそらく企業もきっと採用してくれるだろうと思われるような志望書だったが、自立支援のあり方についていろいろ考えさせられた。

その後、8月にアメリカ人の政治学者を囲む研究会があった。彼は自分の政治学のクラスをとっていた学生のエピソードとしてこんな話を紹介した。「過度の援助は自立の妨げになる」と政治学のクラスで習ったある学生の前である日、杖をついた老人が倒れていた。優等生だった彼は授業で習った内容をバカ真面目に反芻して、老人を助けるべきか否か、逡巡していると、通りかかった中年の男がその老人を助けて、「若いくせにぼっと突っ立って何やってるんだ!それでも人間か」と怒ったという。次の日からその学生は政治学の授業に来なくなったというのがオチだった。出来すぎていて作り話じゃないかと思うが、その位、アメリカ政治のクラスでは定番の議論なのである。

アメリカの大学院で福祉をめぐる政治を勉強し始めた時に一番衝撃を受けたのは「援助に値しない貧困層 Undeserving Poor」という言葉だった。ペンシルバニア大学の社会史学者マイケル・カッツ教授の1990年の著書『援助に値しない貧困層-「貧困」に対する戦いから「福祉」に対する戦いへ』で有名になった言葉であるが、日本で「福祉」というと恵まれない人を助けるものであり、助けることがいいことだというのが暗黙の前提になっていた気がしたので初めて耳にしたときはどういう意味かすぐに理解できなかった。1980年代後半からアメリカでは、高齢者や障害者などの「援助に値する」貧困層と、未婚の母などの「援助に値しない」貧困層を区別し、後者への補助金を廃止・削減しようという動きが保守派を中心にさかんだった。特に槍玉に挙げられていたのが、シングルマザーを対象にしたAFDC(要扶養児童世帯補助金)で、10代で妊娠して未婚の母となった黒人女性が主な受給者になっていたため、この補助金があるせいで、かえって若年で未婚の出産が増えているなどと共和党保守派に批判されつづけ、クリントン民主党政権も1996年の「福祉改革法」で廃止し、就労を原則とし、一時的にしか援助しないTANF(貧困世帯一時補助金)へ切り替えた。これにより各州の福祉給付受給者数は激減したが、貧困問題はもちろん解決されなかった。

「援助に値しない貧困層」というネーミングは、自由主義的市場競争を重視し、北欧・西欧諸国と比較して「弱い」福祉国家であるといわれるアメリカらしいが、アメリカよりも福祉国家であることにコンセンサスがあると考えられてきた日本の福祉行政のあり方も一方では、厚生官僚など、行政による「保護」「収容」「給付」といった、国家による後見性を前提とした「措置」行政だと批判されてきた(例えば新藤宗幸『福祉行政と官僚制』岩波書店、1996)。国民の生存権や生活権を実質的に保障するために行政の役割が不可欠であるとしても、福祉サービスの主体が行政である限り、社会的スティグマ(烙印)や市民の自主性を阻害するという問題を免れない難しさが存在している。

郵政民営化法案に隠れてしまったが、先の通常国会で廃案になり、現在の特別国会で成立見込みの法案に「障害者自立支援法」がある。10月14日に参議院本会議で与党賛成多数で可決され、衆議院に送られた。同法案は、1.身体、知的、精神と各障害によって分かれていた施策や制度を一本化する、2.就業支援として職業訓練や創作活動の事業を促進し、空き店舗や空き教室などを活用できるよう規制緩和する、3.障害者が利用する福祉サービスについて国の財政負担を義務付けた上で、介護保険と同様、原則1割の自己負担を求めることを柱としているが、障害者団体を中心に、「一割負担」を求める点や、障害者の所得保障がない点などが批判されている。国の財政事情を鑑みると、「自立支援」よりも、障害者の「自己負担」の強化にポイントが置かれていると疑われるのも無理ないだろう。しかし第2のポイントである、障害者の就業支援や社会参加の拡大のための政策が重要なことは言うまでもない。この機会に真の「自立支援」とは何かを改めて問うてみる必要があるだろう。

日本の障害者行政は、障害者を健常者と区別し、親の庇護の元におくか、施設に入所させる方法を主流としてきたが、今日の障害者政策のあり方は「ノーマライゼーション」、つまり障害者や高齢者が社会の他の構成員と出来る限り同様に活動し、生活できる環境を作ることが重要だと考えられるようになってきた。この「障害者自立支援法」のコンセプトもそうした「ノーマライゼーション」の方向性に沿っているものだと言えるだろう。「健常者」に比べて就労機会や就労「能力」に限界がある障害者に所得保障することは一見「正しい」ように思われるが、行政による「施し」という社会的スティグマを押されたり、差別されるという問題点が残る。社会において異なる背景・条件を抱えた人々が共生するためには、ただ単に社会的に不利な立場にある人々に援助するだけでなく、そうした援助をすることが当然であるというコンセンサスが形成されること、もっと言えば自分もその立場になりうるということを心から理解する必要があるだろう。裏を返して言えば、自分も障害者になりうると思うと同時に、障害者が自分と同様に社会の担い手となりうると考える必要があるのである。その意味で就労支援や職業訓練の充実することや、可能限りの自己負担を求めることは決して間違っていないはずだ。

先ほど述べたように、「助けることがいいことだ」とは必ずしも思われてないアメリカで、障害者福祉を考える際によくなされている説明は、車社会のアメリカでは誰もが事故で車椅子に乗る可能性があり、障害者の問題は他人事ではなく、自分の問題なのだ、ということだった。こういう説明を聞けば、最も保守的で個人主義的なアメリカ人でも納得することだろう。

「援助」や「支援」という言葉自体にも、援助する側、支援する側の「優位」性や「優越」観が内在しており、「援助」される側、「支援」される側からすると、不公平感、被差別意識、スティグマを感じやすい構造になっている。そうした「タテ」の関係ではなく、自分の問題として、対等な市民間の相互扶助として障害者行政の問題を捉える意味でも、単に「自己負担」の増加を批判するのではなく、実効的な「自立支援」のあり方は何かを考える方に議論の力点をおくべきではないかと今回の法案をめぐる議論を聞いていて思った。



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