紅旗征戎

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マーラーとウィーン、ニューヨーク

2006-06-26 23:45:33 | 音楽・コンサート評
テキサス州ダラス市のダウンタウンにThe Sixth Floor Museumという博物館がある。文字通り6階だけが展示施設になっているのだが、J・F・ケネディの狙撃犯オズワルドがオープンカー上のケネディをライフルで撃ったのが、当時、教科書倉庫だったこの建物からだったのである。ケネディ政権や暗殺事件についての様々な展示があり、2月に訪れた折に興味深く見ていたが、展示品の中に、アメリカの大指揮者レナード・バーンスタインのサイン入りのライターがあった。ケネディの大統領就任を記念して、贈られたもののようである。

レナード・バーンスタイン(1918-90)は、ミュージカル『ウェスト・サイド・ストーリー』の作曲家としてよく知られているが、アメリカが生んだ初のクラシック界の大スターで、1950年代から60年代にかけてはニューヨーク・フィルハーモニックの常任指揮者として、70年代から80年代にかけては、ウィーン・フィルを中心にヨーロッパの主要オーケストラを客演して、「帝王」カラヤンと人気を二分した。ヨーロッパがクラシックの本場ということで、日本のNHK交響楽団もそうだが、シカゴやフィラデルフィア、クリーブランドといったアメリカ諸都市の主要オーケストラも音楽監督や常任指揮者は今でも(ロシア東欧も含む)ヨーロッパ出身者が占めている。バーンスタインの時代は、ナチスの迫害を逃れたユダヤ系音楽家たちがアメリカの音楽界を牛耳っていた。バーンスタイン自身もマサチューセッツのユダヤ系ロシア人の家に生まれたが、3世で生粋のアメリカ育ちだった。きびきびとしたリズム感と鳴り切ったメロディーを武器にしたニューヨーク・フィルでの明快な演奏で名声を博して、晩年は本場ヨーロッパでの重厚でロマン主義的な演奏でその芸術性を評価されるという恵まれた音楽人生を送った人である。

バーンスタインがもっとも得意としていたのがマーラーの交響曲で、同じユダヤ系としての民族的共感があるなどとしばしばまことしやかに論評されてきた。マーラーのシンフォニーは起承転結なベートーヴェンと違って、ともするとパッチワーク的に音楽の流れが途切れていくような印象を受けがちなのだが、バーンスタインのマーラー演奏を聞いていると、長い交響曲も確かに一つの必然の元に作られているように聴くことができる。その意味でもマーラー入門に最適かもしれない。彼は映像も含めると、マーラーの交響曲全集を3度録音しているが、主にニューヨーク・フィルと録音した最初の全集には、JFKの弟で司法長官を務めて、兄同様に暗殺されたロバート・ケネディの、セント・パトリック教会での埋葬ミサでの「アダージェット(交響曲第5番第4楽章)」の演奏が収められている。ヴィスコンティ監督の映画『ベニスに死す』でも使われた、退廃的な美しさを湛えたマーラーの有名なメロディが、このミサでの演奏ではまるでレクイエムのように、静かに悲しみに耐えているように聞こえてくる。同じ全集に収められている交響曲5番の4楽章と比べても、まったく違った印象を受けるのだ。あらためて指揮者とオーケストラの力量を感じさせられた。

作曲家マーラーの人生は、真にドラマチックで、それ自体が文学的で映画的だ。
「私はどこに行っても歓迎されない。オーストリアにおいてはボヘミアンであり、ドイツにおいてはオーストリア人であり、世界においてはユダヤ人だから」と語ったのは有名だが、ウィーン宮廷歌劇場、今の国立歌劇場とウィーン・フィルの指揮者になるために、ユダヤ教からカトリックに改宗したり、若い妻アルマの浮気に悩まされて、精神分析家のフロイトの診断を受けるなど、現実的世俗的な努力も怠らない人であった。彼は、リュッケルトの詩に基づいて合唱曲集『亡き子をしのぶ歌』を書いた4年後に娘マリアが病死するなど芸術と現実の人生がシンクロする悲劇も経験している。保守的なウィーンを追われて、ニューヨーク・フィルの指揮者になったが、アメリカも安住の地とはならなかった。また「交響曲第9番を書くと死ぬ」というジンクスを嫌って、9番目を番号なしの「大地の歌」という合唱付管弦楽曲にしたものの、結局、その後、交響曲第9番を書いた後、第10番は完成することなく、この世を去ることになった。

19歳年下の妻アルマは画家の家に育ち、ツェムリンスキーに作曲を習っていた作曲家でもあったのだが、画家のクリムト、建築家のグロビウス、画家のココシュカ、作家のヴェルフェルと19世紀末から20世紀初頭のドイツ・オーストリアを代表する芸術家たちと恋愛遍歴を重ねた。マーラーとアルマの人生が多くの人の関心を惹きつけるのは、前出のフロイトも含めて、関わった人々全てが当時の芸術文化の最先端の人々だからであろう。

そうしたマーラーとその生涯・作品を文化史的に検討した好著が渡辺裕氏の『マーラーと世紀末ウィーン』(岩波現代文庫)である。もともとはNHK交響楽団の機関紙の連載を基にしたものであるせいか、統一的なテーマを持った本というよりは、マーラーをめぐるエッセー集的な色彩が強く、マーラーの交響曲のように、魅力的な主題が一見バラバラにちりばめられている。しかし日頃読んでいる社会科学者たちの文章と違って、音楽学者らしく、短く、リズムがよい文章が印象的で、テンポよく読む通すことができた。

19世紀の歌劇場は、あくまで社交の場で、オペラの上演中も出入りおしゃべり自由だったようだが、その「悪習」を断つため、舞台以外の照明を落とし、休憩時間以外は出入り禁止にするなど、ウィーン歌劇場の近代化に取り組んだエピソードや、画家クリムトらと1902年の「ベートーヴェン」展に取り組み、「闇に対する光の勝利」という近代啓蒙主義的なベートーヴェン像に挑戦し、逆に「闇の勝利」を表象したこと。それはマーラーが人気指揮者でありながら、ベートーヴェンの楽譜を大胆に改変した演奏を行なって、聴衆や批評家の間で物議をかもしたことにもつながっていた等々、興味深いエピソードをちりばめながら、ウィーンの19世紀末の文化運動全体の中でマーラー像が再検討している。

トーマス・マンの小説『ベニスに死す』とマーラーの結びつきについては、ヴィスコンティが主人公をマーラーをモデルにして、かつマーラーの楽曲を使って映画化したことにより、過度に強調された「神話」であると指摘しているが、同時にこの映画自体が映像と音楽、文学の融合という19世紀末以来のヨーロッパ芸術の潮流の延長線上にあるのではないかと渡辺氏は肯定的に捉えてもいる。

中にはマーラーの交響曲4番の各演奏を計量分析したような、ややマニアックな論考も含まれているが、本書で繰り返し描かれているのは、「管弦楽によるソナタ」としての交響曲形式にこだわりながらも、結果的に交響曲的予定調和を超えてしまった、意図せざるポストモダニストとしてマーラー像である。

渡辺氏は、音楽が再現芸術である以上、現実的に鳴り響くためには演奏家という媒体を経なければならず、必然的に作曲された時代と演奏される時代という「異なった二つの時代、二つの精神の出会い」を経て、我々の前に「異文化の出会い」として立ち現れるものだと指摘している。

たとえば19世紀に演奏されたバッハが、ロマン主義的で本来のバッハではないと語ることがどこまで意味があるのか?オリジナル楽器を使ってオリジナルな編成で、21世紀のホールで再現すれば、本物の「バッハ」に触れられるのか?そんなことはないだろう。むしろ換骨奪胎され、再解釈され続けても生き残るだけの度量を持ち合わせているからこそ、「クラシック」と呼ぶに値する芸術なのだろう。そんなことを考えさせられた。

音楽に対する予備知識がなくても、マーラーの音楽を聴いたことがなくてもヨーロッパ文化論として十分興味深く読める本だが、ベートーヴェンの交響曲とマーラーの交響曲を比べながら聞くと、著者の言わんとすることがより深く理解かもしれない。マーラーが指揮したベートーヴェンのシンフォニーはどんな演奏だったのだろうか?叶わぬ夢だが、読み終えた後にしみじみ聴いてみたいと思った。


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