11月13日月曜日、加古川での高齢者向けの市民大学の講義を終えた後、西宮の兵庫県立芸術文化センター大ホールで、ロリン・マゼール(1930-)指揮のニューヨーク・フィルハーモニックの来日公演を聴いた。
マゼールは、私が中学生でクラシックを聞き始めた頃、毎年、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを指揮していた。すでに30回近くも来日しているようだが、生で聴くのは今回が初めてなので、ずっと楽しみだった。CDで聴いていると、オーケストラの各パートを強調したデフォルメされた表現が目立ち、「曲者」と評されることも多く、古典から近現代まで幅広いレパートリを誇りながらも、数多く出ている名曲名盤のガイドでは必ずしもスタンダードな名盤として推薦されないのがマゼールの演奏の特徴である。だが、くせがあるだけに根強いファンも多いようで、大ホールも様々な年齢層の聴衆で埋め尽くされていた。
ニューヨーク・フィルは、以前、マーラーについて書いた折にも触れたが、バーンスタインの下で黄金時代を築いたアメリカの名門オーケストラである。私が中学生の頃は、欧州の二大オーケストラであるベルリン・フィルとウィーン・フィルの奏者は依然として全員白人男性(ウィーン・フィルの場合はさらにそのほとんどがウィーン育ちであった)だったのだが、それに対してニューヨーク・フィルは当時から「人種のるつぼ」らしく、女性や黒人、アジア系など多彩な構成なのも特徴的だった。今回の来日メンバーで特に印象的だったのは、黒人メンバーは一人だけだったが、アジア系女性奏者が圧倒的に多いことで、香港のオーケストラと言っても通用しそうなほどだった。
最初の曲目は、ドヴォルザークの序曲『謝肉祭』だったが、やや荒削りながら金管を中心に勢いのある演奏だった。コンサートの開始にふさわしい祝祭的な気分に満ちた曲だった。私が座っていたのは舞台に向かって右手の袖口の席10列目くらいで、マゼールの指揮ぶりもオーケストラの演奏も肉眼ではっきり見える好位置だったのだが、昔、ニューイヤーコンサートで見ていたマゼールと比べると、当然だが大分、年をとり、時々、指揮台の手すりに寄りかかる場面もあったのだが、相変わらずの精密な指揮ぶりだった。9日間にわたる来日公演の最終日が西宮だったので疲れもあったのだろう。
2曲目は前半のメインである、ストラヴィンスキー作曲のバレエ『火の鳥』の組曲版(1919年版)だった。ロシアの作曲家ストラヴィンスキーは、1913年のパリ初演が音楽史上名高い、大スキャンダルとなった『春の祭典』で有名だが、バーバリズム全開の『春の祭典』のような作品があるかと思えば、名前を伏せれば、バロックの名曲として誰もが疑わないだろう、組曲『プルチネルラ』(1919-20)など、作曲様式の幅も前衛から新古典主義までかなり揺れ動いた人である。もっとも『春の祭典』も、例えばカラヤン指揮の演奏で聴くと、端正で古典的なバレエ音楽に聞こえるし、最近ではむしろフォルムを強調する演奏も増えているようだ。
マゼール自身はまだ27歳だった時にこの『火の鳥』組曲をベルリン放送交響楽団と録音しているのだが、基本的な解釈は今回の演奏でも当時と変わらなかったが、生で見て感じたのは、ストラヴィンスキーは、フルートやオーボエ、ファゴット、トランペットなどの木管、金管楽器のソロパートに見せ場を多く用意している点だった。マゼールは、決して派手な大振りやオーバーアクションをすることなく、オーケストラの各パートに入念な指示を与えて、それぞれの名人芸をうまく引き出していた。CDで音だけを聴いているとなかなかわからないのだが、オケの各奏者が技量を最大限発揮して、管弦楽の醍醐味を味わせてくれる構成になっていることがよくわかったが、それはストラヴィンスキーの技量であるとともにマゼールの巧みなドライブのなせるわざなのだろう。ストラヴィンスキーが苦手な人も生演奏に触れれば、印象が一変するのではないだろうか。この曲は、「見せる」管弦楽名曲だと実感した。
一昨年、発売されたサイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルの『春の祭典』のように、この曲がもつロシアの土俗的なパワーや野性が一切排除されたようなドライな演奏は物足りなく思っていたのだが、今回のマゼールの演奏は、『火の鳥』がもつ不気味な闇の響きや得体の知れない野蛮なリズムを十分感じさせるような表現で、スマート過ぎない点がとても良かった。
休憩を挟んでの後半、コンサートのメインとして演奏されたのは、ショスタコーヴィチの交響曲第5番『革命』である。ショスタコーヴィチについても以前、ブログで取り上げたが、今年は生誕100年ということで、FMやテレビでも演奏を聴くことが多かったが、コンサートで聴くのは初めてだった。マゼール自身は、この5番をクリーブランド管弦楽団と録音しているが、他の曲は吹き込んでいないので、必ずしもレパートリというわけではないが、ニューヨーク・フィルはバーンスタインの時代から得意にしている作曲家の一人である。
ストラヴィンスキー以上にこのショスタコーヴィチで、マゼールは、ピアノ、フルート、ピッコロ、ヴァイオリン、トランペットのソロや、低弦のユニゾンを効果的に浮き立たせていた。この曲は、起承転結のハッキリしたわかりやすい交響曲の一つで、CDで漠然と聴いていても十分に楽しめるのだが、今回のマゼールの演奏では、ある意味でオケとソロ楽器の競演といった協奏曲的な趣を楽しむことができた。
行進曲風の終楽章の冒頭とコーダは、ソロモン・ヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』公刊以来、ソ連共産党幹部に妥協した『強制された歓喜』、『苦々しい凱歌』なのか、それとも『苦悩からの解放と勝利』を表現しているのか、しばしば議論されてきたが、マゼールの演奏は、そうした政治的な解釈にはこだわらず、この部分は比較的速いテンポで快調に演奏した。クライマックスはトランペットなどの咆哮で華やかに、そして力強く終わった。
バイオリン・パートが女性奏者で占められているためなのか、弦パートが全般にややパワー不足に感じられたが、それはコントラバス、チェロなどの低弦と、金木管パートが強力すぎて圧倒されていたからなのかもしれない。割れんばかりの拍手が続き、マゼールも何度も舞台に呼び戻されている最中に、スポンサーの某真珠会社の副社長なる人物がステージに登場してスピーチをして、自社の銀座店のためにマゼールに作曲してもらったという"A Pearl, A Girl"という曲を演奏させたのは、興ざめだったが、その曲自体は、弦楽合奏による美しいもので、それまでの演奏で弦パートにやや不満をもっていただけに、最後に合奏という形で力量を確認できたのはよかった。
スポンサーによって、せっかくの盛り上がりに水を差された鬱憤を晴らすがごとく、マゼールはさらにアンコールとしてもう一曲、ワーグナーの歌劇『ローエングリーン』第3幕への前奏曲を華やかに演奏して、会場は最高潮に達して、閉演となった。
一人一人の奏者が独奏者なみの技量をもつオーケストラと言われるのがニューヨーク・フィルだが、日頃のアメリカ論でおなじみの喩えで言えば、まさに『サラダ・ボウル』的な多文化オーケストラで、各ソロパートの魅力を引き出すマゼールはまさにこのオーケストラのシェフとして適任だと思った。コンサートでの名演は、一回限りで、形に残らないから、それだけ美しいし、いいものだ。
マゼールは、私が中学生でクラシックを聞き始めた頃、毎年、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを指揮していた。すでに30回近くも来日しているようだが、生で聴くのは今回が初めてなので、ずっと楽しみだった。CDで聴いていると、オーケストラの各パートを強調したデフォルメされた表現が目立ち、「曲者」と評されることも多く、古典から近現代まで幅広いレパートリを誇りながらも、数多く出ている名曲名盤のガイドでは必ずしもスタンダードな名盤として推薦されないのがマゼールの演奏の特徴である。だが、くせがあるだけに根強いファンも多いようで、大ホールも様々な年齢層の聴衆で埋め尽くされていた。
ニューヨーク・フィルは、以前、マーラーについて書いた折にも触れたが、バーンスタインの下で黄金時代を築いたアメリカの名門オーケストラである。私が中学生の頃は、欧州の二大オーケストラであるベルリン・フィルとウィーン・フィルの奏者は依然として全員白人男性(ウィーン・フィルの場合はさらにそのほとんどがウィーン育ちであった)だったのだが、それに対してニューヨーク・フィルは当時から「人種のるつぼ」らしく、女性や黒人、アジア系など多彩な構成なのも特徴的だった。今回の来日メンバーで特に印象的だったのは、黒人メンバーは一人だけだったが、アジア系女性奏者が圧倒的に多いことで、香港のオーケストラと言っても通用しそうなほどだった。
最初の曲目は、ドヴォルザークの序曲『謝肉祭』だったが、やや荒削りながら金管を中心に勢いのある演奏だった。コンサートの開始にふさわしい祝祭的な気分に満ちた曲だった。私が座っていたのは舞台に向かって右手の袖口の席10列目くらいで、マゼールの指揮ぶりもオーケストラの演奏も肉眼ではっきり見える好位置だったのだが、昔、ニューイヤーコンサートで見ていたマゼールと比べると、当然だが大分、年をとり、時々、指揮台の手すりに寄りかかる場面もあったのだが、相変わらずの精密な指揮ぶりだった。9日間にわたる来日公演の最終日が西宮だったので疲れもあったのだろう。
2曲目は前半のメインである、ストラヴィンスキー作曲のバレエ『火の鳥』の組曲版(1919年版)だった。ロシアの作曲家ストラヴィンスキーは、1913年のパリ初演が音楽史上名高い、大スキャンダルとなった『春の祭典』で有名だが、バーバリズム全開の『春の祭典』のような作品があるかと思えば、名前を伏せれば、バロックの名曲として誰もが疑わないだろう、組曲『プルチネルラ』(1919-20)など、作曲様式の幅も前衛から新古典主義までかなり揺れ動いた人である。もっとも『春の祭典』も、例えばカラヤン指揮の演奏で聴くと、端正で古典的なバレエ音楽に聞こえるし、最近ではむしろフォルムを強調する演奏も増えているようだ。
マゼール自身はまだ27歳だった時にこの『火の鳥』組曲をベルリン放送交響楽団と録音しているのだが、基本的な解釈は今回の演奏でも当時と変わらなかったが、生で見て感じたのは、ストラヴィンスキーは、フルートやオーボエ、ファゴット、トランペットなどの木管、金管楽器のソロパートに見せ場を多く用意している点だった。マゼールは、決して派手な大振りやオーバーアクションをすることなく、オーケストラの各パートに入念な指示を与えて、それぞれの名人芸をうまく引き出していた。CDで音だけを聴いているとなかなかわからないのだが、オケの各奏者が技量を最大限発揮して、管弦楽の醍醐味を味わせてくれる構成になっていることがよくわかったが、それはストラヴィンスキーの技量であるとともにマゼールの巧みなドライブのなせるわざなのだろう。ストラヴィンスキーが苦手な人も生演奏に触れれば、印象が一変するのではないだろうか。この曲は、「見せる」管弦楽名曲だと実感した。
一昨年、発売されたサイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルの『春の祭典』のように、この曲がもつロシアの土俗的なパワーや野性が一切排除されたようなドライな演奏は物足りなく思っていたのだが、今回のマゼールの演奏は、『火の鳥』がもつ不気味な闇の響きや得体の知れない野蛮なリズムを十分感じさせるような表現で、スマート過ぎない点がとても良かった。
休憩を挟んでの後半、コンサートのメインとして演奏されたのは、ショスタコーヴィチの交響曲第5番『革命』である。ショスタコーヴィチについても以前、ブログで取り上げたが、今年は生誕100年ということで、FMやテレビでも演奏を聴くことが多かったが、コンサートで聴くのは初めてだった。マゼール自身は、この5番をクリーブランド管弦楽団と録音しているが、他の曲は吹き込んでいないので、必ずしもレパートリというわけではないが、ニューヨーク・フィルはバーンスタインの時代から得意にしている作曲家の一人である。
ストラヴィンスキー以上にこのショスタコーヴィチで、マゼールは、ピアノ、フルート、ピッコロ、ヴァイオリン、トランペットのソロや、低弦のユニゾンを効果的に浮き立たせていた。この曲は、起承転結のハッキリしたわかりやすい交響曲の一つで、CDで漠然と聴いていても十分に楽しめるのだが、今回のマゼールの演奏では、ある意味でオケとソロ楽器の競演といった協奏曲的な趣を楽しむことができた。
行進曲風の終楽章の冒頭とコーダは、ソロモン・ヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』公刊以来、ソ連共産党幹部に妥協した『強制された歓喜』、『苦々しい凱歌』なのか、それとも『苦悩からの解放と勝利』を表現しているのか、しばしば議論されてきたが、マゼールの演奏は、そうした政治的な解釈にはこだわらず、この部分は比較的速いテンポで快調に演奏した。クライマックスはトランペットなどの咆哮で華やかに、そして力強く終わった。
バイオリン・パートが女性奏者で占められているためなのか、弦パートが全般にややパワー不足に感じられたが、それはコントラバス、チェロなどの低弦と、金木管パートが強力すぎて圧倒されていたからなのかもしれない。割れんばかりの拍手が続き、マゼールも何度も舞台に呼び戻されている最中に、スポンサーの某真珠会社の副社長なる人物がステージに登場してスピーチをして、自社の銀座店のためにマゼールに作曲してもらったという"A Pearl, A Girl"という曲を演奏させたのは、興ざめだったが、その曲自体は、弦楽合奏による美しいもので、それまでの演奏で弦パートにやや不満をもっていただけに、最後に合奏という形で力量を確認できたのはよかった。
スポンサーによって、せっかくの盛り上がりに水を差された鬱憤を晴らすがごとく、マゼールはさらにアンコールとしてもう一曲、ワーグナーの歌劇『ローエングリーン』第3幕への前奏曲を華やかに演奏して、会場は最高潮に達して、閉演となった。
一人一人の奏者が独奏者なみの技量をもつオーケストラと言われるのがニューヨーク・フィルだが、日頃のアメリカ論でおなじみの喩えで言えば、まさに『サラダ・ボウル』的な多文化オーケストラで、各ソロパートの魅力を引き出すマゼールはまさにこのオーケストラのシェフとして適任だと思った。コンサートでの名演は、一回限りで、形に残らないから、それだけ美しいし、いいものだ。