言の葉綴り

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〈信〉の構造 吉本隆明•全仏教論集成1944.5〜1983.9 ① 序〈信〉についてのメモ

2021-03-16 10:26:00 | 言の葉綴り

言の葉112 〈信〉の構造 吉本隆明全仏教論集成1944.51983.9

 序〈信〉についてのメモ







〈信〉の構造 吉本隆明全仏教論集成

1944.51983.9 昭和五十八年十二月15日第一刷発行 著者吉本隆明 発行所 株式会社 春秋社 より抜粋


序〈信〉についてのメモ


宗教のなかには何か逸することができないものが埋め込まれている。ひとりの教祖の貴重な生涯なのか、理念の古代以前の形態なのか、信仰の劇を演た無数の歴史的な人たちのとらえ難い暗闇なのか。とにかく何か逸することができないものが埋め込まれている。そういう思いから逃れられない部類の人たちがいる。かれは〈信〉の内側に入り込んでみたり、〈信〉の外側にはみ出してみたりするだろう。だがどんなばあいでも〈信〉を課題にすることからは逃れられない。逃れることとほとんど同じ場所があるとすれば、それはただひとつ〈信〉を中性化することだけなのだ。

〈信〉はどんな種類の〈信〉でも(つまり現代的な〈信〉であっても、古代以前に起源をもつ〈信〉であっても)、いつも内側からみれば巨大なものへの〈信〉であり、しかも外側からはいつも卑小なものへの〈信〉なのだ。例外は考えられない。そのことが〈信〉の信仰性から中性化への経路と、その逆に〈信〉の中性点から信仰性へたどる経路の解明を、とても困難なものにしている。だれも〈信〉の周辺を離れずに〈信〉を解明するほかないし、ばあいによってはすべての解きうる課題を〈信〉と〈不信〉のあいだの差異の問題に還元してしまう動機を、はっきりと内省できないほどなのだ。解明して残余をのこすものだけが〈信〉の本質なのだが、解明して理念で織られた布目のように、対象を半透明なものに転化させたい無限の衝動をひき起こさせるのも〈信〉の本質である。つまりわたしたちはほんとは〈信〉をめぐっているつもりで、ついには意識をめぐっていることになっているし、また意識の歴史性をめぐっていることにもなっている。

いつの間にか(だがずいぶん長い年月)宗教的な〈信〉をめぐってたくさんの話し言葉と、たくさんの書き言葉を積み累ねてきたこれらを一箇所に眺望できたとしても、とうていこの問題に終末があるとはおもえないのだ。ただすこしでもこの世界の透明さに肉迫しているという思い込みにうながされて、また歩きだすに違いない。

〈信〉は形而上的にだけいえば、事物と事物とのあいだの差異の同一化であり、意志による世界の被覆だといえよう。ただこの被覆は、自然が精練されうるものであり、この自然の精練が人間化ということも包括しているという概念の上に思い描かれている。被覆によって人間を自然にさしもどすことと、人間を自然の原因あるいは起因とすること、このふたつの極端が〈信〉の構造に輪郭をつけている。ところで人間を自然の原因あるいは起源とするということは、「生誕したことがない人間」という概念を思い描くのと同じ意味をもっている。生誕した人間は、つまり何かの結果として生誕したのだから、それ自体で自然の原因や起源になることはできないからだ。これは〈信〉がいつも擬人的な至上者を比喩としてもたざるをえない理由みたいにおもえる。またこういう擬人的な至上者は所在ということ(場所ということ)の始源に住んでいなければならない。そうでなければ結果としての始源という云い方をしても、ほぼ同じことを意味している。

              吉本隆明