ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

謎解き詠花鳥和歌 藤と雲雀ー42 壬申の乱・大海人皇子の味方⑥

2014-03-07 09:20:36 | 日本文化・文学・歴史
前回は山背を冠する舎人の出自を手掛かりに高市皇子の養育にあたっていたと思われる高市
県主や渡来人の子孫・東漢氏が高市皇子を守り大海人皇子の味方であったことが分りました。
壬申紀をさらりと読むと大海人皇子の吉野方は下級官人である舎人ら20余人を頼りとする
のみの、女、子供を連れた総勢40名足らずの一行で乱は突発的に始まったような印象を持
ちますが、乱時の大海人皇子はすでに50歳前後であろうと思われ、天智天皇亡きあとの皇
位を我がものとするために着々と準備を重ねて来た老練な策士であったと思い始めました。

飛鳥は斎明天皇の都ですが天智天皇は667年に近江の大津に遷都しました。しかし壬申の乱で
近江方が敗れたために今では幻の都となってしまいました。このふたつの都の間にあるのが
山背(山城)国です。

上図は井上満郎著『渡来人』(1987年㈱リブロポート)に掲載されている「山城国の氏族の分布」
図に同書に載る同氏が調査された長岡京や平安京が営まれる以前の居住者名の一覧表を参考
に大海人皇子と係わりのあると思われる情報を書き加えたものです。

難波津から淀川を遡り巨椋池(江戸時代に埋め立てられた)の西口が与等津でその付近から
北へ向かう鴨川と東へ向かう宇治川(山背川)南へ向かう木津川(韓川)に分れますが、大
海人皇子は大和へ通じる木津川沿いの豪族をほぼ味方につけていたようです。どのような関
係か紹介したいと思います。

大海人皇子の最大の味方は吉野を共に脱出した舎人たちと、そのバックにいる地方豪族たち
であろうと検索を続けてきましたが、山背の木津川沿いにも舎人と関係深い氏族が居住して
います。

 祝園(ほうその)郷の安斗連

舎人の安斗連智徳(あとのむらじちとこ・彼の日記が壬申紀の参考資料にされた)を以前に
火明系として紹介しましたが姓氏録には左京神別、山城国神別とあり相楽郡祝園郷に居住す
る阿刀連のことです。

 筒城(つづき)の調首(つきのおびと)

舎人の調首淡海(おうみ・壬申紀に彼の回想記が採られたとみられる)は姓氏録では左京諸
蕃下に載る調首でその出自は百済国・努理使主(努理能美・ぬりのみー応神天皇の世に帰化)
の後裔で調(みつぎもの)を管理する任にあたっていました。
仁徳天皇記では皇后・磐之媛が自分の留守の間に天皇が八田若郎女を召しいれた事に怒って
実家のある葛城の高宮へ帰りますが、滞在したのは山背の筒城の努理能美の家でした。
そこには努理能美が飼っている虫で一度は這う虫になり、一度は繭になり、一度は飛ぶ鳥に
なり三色に変化する不思議な虫がおり、皇后はこの虫をご覧になりたくてお越しになりまし
た。別に他意はありません。と皇后をかばう発言をしています。努理能美は養蚕をしていた
ことが分りますがその地は木津川西岸にある筒城でその後裔が調首です。

 水主(みずし)郷の水主(みずぬし)神社と 山背直

上図には筒城の北に栗隈氏の勢力圏が見られますが、ここは久世郡で11の郷がありました。
舎人の山背直についての手掛かりが水主郷の水主神社(祭神・火明命)にありました。
尾張氏と同族の海部氏が祀る籠神社に秘蔵されていた『海部氏勘注系図』に火明命から7世
孫の建田勢命が山背直等の祖と記されており、「孝霊天皇御宇、丹波国丹波郷に在りしが、
その後山城国水主村に移った」とあり、前回、山背直は山背国造と同族で天津彦根神の子孫
という説を紹介しましたが、火明系という別伝もありました。
舎人の中で火明系は朴井連雄君、安斗連智徳、山背直小林がおり大海人皇子と火明系(伽耶
系、海人系)との強固な結び付きを感じます。

 久世郷の黄書造(きふみのみやつこ)大伴

壬申の乱の始まりに古京飛鳥の留守司・高坂王のもとに駅鈴(駅馬に付ける鈴で公務の旅の
者に与えられる通行証)を手に入れるために遣わされたのは大分君恵尺ら3名ですが、その
中に黄書造(黄文造)大伴がいました。姓氏録山城国諸蕃の条に、「高麗国の人、久斯祁王
より出づ」とあり、彼は壬申の功臣ともされ、後に連姓となり山背守にもなりました。その
居住地が久世郡久世郷です。
相楽郡には大狛郷、下狛郷があり高麗国から渡来した狛氏も居住しており当時は木津川を韓
川と呼ぶほど渡来系の人々の居住地だったようです。

 栗隈郷の栗隈(くるくま)氏

壬申の乱時、太宰率であった栗隈王と同名の栗隈氏がおりましたので興味を持ちました。
この地は7世紀初頭には朝廷直属の栗隈の屯倉(みやけ・久世の屯倉とも)がありました。
仁徳天皇紀には栗隈県に大溝を掘った記事が、推古紀にも同様な記事があり、渡来人の技術
で灌漑用あるいは舟運用水路を造り開拓、開墾をすすめていったと思われます。
栗隈氏は屯倉の管掌者と思われ、天智7年には栗隈首徳万(とくまろ)の女、黒媛郎(くろ
めのいらつこ)が水主(みぬしの)皇女を生んでいます。
また旧久世郡久津川村(現城陽市)久津川古墳群(5世紀代)は栗隈一族の墓と考えられて
おり、中心的な車塚古墳からは、舶載の鏡7面や玉類、刀類などの副葬品が発掘されており
大王家とも係わりのある大勢力であったと思われます。

栗隈王と同名なので系図的な繋がりを探してみましたが、直接つながる系図はないようです。
が、徳万の娘が天智天皇の皇女を生んでいることや屯倉の長(後に久世郡司になる)という
立場からも朝廷に出入り出来る立場にあったと思われ、大海人皇子や栗隈王とも面識はあっ
たでしょう。
大海人皇子の名が養育した凡海氏から、また高市皇子が同様に高市県主から名づけられたよ
うに敏達天皇の孫(曾孫説もある)である栗隈王も養育した栗隈首の名から付けたと考えら
れるのではないでしょうか?
確たるものではありませんがふたつほどの理由があります。

①中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子の母・斎明天皇は661年に百済救援のために筑紫
 に向かい、都としたのが筑紫の朝倉橘広庭宮といいます。しかし斎明天皇はわずか二カ月
 後に崩御し、救援軍は白村江で惨敗を喫し逃げ帰ってきました。
 栗隈郷には筑紫の宮と同名の旦椋(朝倉・あさくら)神社(現・宇治市大久保)がありま
 す。室町末期に焼失したものを旦椋社と天満社を合祀して再建したとの事。旧社地は大久
 保の西方の小字、旦椋であるという。朝倉宮は大宰府近くの朝倉とされており、栗隈王は
 太宰率として二度下向しており、また子息である美努王も694年に太宰率を任じられて
 おり朝倉宮は思い出深く、斎明天皇を偲ぶよすがであったと思われます。始め朝倉であっ
 たが旦椋という難しい表記になった理由は分らないとのことです。

②栗隈王の子・美努王は橘三千代と結婚し三人の子供がうまれます。その長子が葛城王で、
 後に橘諸兄となり朝廷の重臣として活躍しますが、栗隈郷から少し南に井手という地名
 があり、その一帯が橘諸兄の本願で墓もあり、代々子孫がすんでいるとのこと。
 このあたりが栗隈王の私有地であった可能性があるのではないでしょうか。

 久世郡式内社 ナミ栗(なみくり・さにくり)神社

巨椋池の近くには殖栗氏の名が見えますが、ここには久世郡式内社ナミ栗神社があり、10
世紀頃には羽栗氏の祖神を祀っていると伝えられていますが、それ以前の山城国風土記逸文
に「ナミ栗の社」南郡(なみくに)の社。祇つ社(くにつやしろ)。祭神の名は「宗形の阿
良足(あらたらし)の神。里を並栗と名づける。とあり、8世紀初頭には宗形系の社として
存在していたようです。

 大住郷

木津川をはさんで栗隈郷の左岸の大住郷は南九州から来た大住隼人の居住地域です。飛鳥は
隼人の言葉の「ひし」菱形に護られていた意味は重要です。

以上山背の木津川沿いはすべて大海人皇子の息のかかった豪族たちが占めており、若干24
歳の大友皇子が太刀打ち出来るような相手ではなかったようです。


 







 


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