西暦247年頃起こった邪馬台国と狗奴国との戦いの結果がどうであったか、中国の史書は記
録にとどめていないため、後に編纂された記紀や考古学的資料によって推量するほかない。
邪馬台国畿内説をとれば、その後三輪山の大物主神(出雲系・うがや系)は「出雲国造神賀
詞」によって大和朝廷に服属し、その守り神となることを誓っていることから、4世紀に磯
城の瑞籬宮(水垣宮・桜井市金屋)に於いて天下を治め「初国知らしし御真木(御間城)天
皇」と記されている崇神天皇(御真木入日子印恵命)によって新たな倭王権が誕生したと思
われる。
初代の神武天皇(神倭伊波礼毘古命)も「始駆天下之天皇」とたたえられているが、崇神天
皇が三輪の大物主神の祟りをおそれて、その子孫を探し出し祭祀させたり、皇祖とされる天
照大神を宮中から遷し祀らせたが不都合が生じ、最終的に伊勢に落ち着いた説話などから、
前代の神々(出雲系・うがや系)の抵抗がはげしかったと思われる。神武とは後に付けられ
た諡号であるから倭の地をはじめに開拓した謂れをもつ神の名をまとめて「神倭伊波礼毘古
命」と名付けたのだろう。
初期大和王権を築いた崇神天皇と「群馬」の呼称とが深いつながりを持っている事を一般に
は知られていないと思うので、古代の群馬の成立と群馬の呼称の由来を紹介したい。
古代群馬の情報は娘一家が転勤により群馬県に住んでいた頃訪ねた前橋市にある群馬県立歴
史博物館で購入したと記憶にある『群馬史再発見』(近藤義雄・梅沢重昭・吉永哲郎・熊倉
浩靖他三名の共著・2001年・(有)あさを社)を参考にし、図表なども拝借し、また赤塚次
郎氏の東海系文化の拡散や、私の「秋の七草=尾花=伽耶」説も取り入れ推理しています。
まず東国一の古墳を有する群馬と栃木一帯は5世紀前半まで毛野国(けぬこく)と称されて
いた。5世紀代の倭王「武」の上表文に書かれた「昔より祖禰みずから甲冑をつけて、山川
を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人(もうじん)を征すること五十五国、西は衆夷を服す
ること六十六国、渡りて海北を平らぐること九十五国なり。」とある毛人の国にあたると思
われる。
「毛野国」とは「け」「けぬ」という集団の居住地だったと思われるが、私自身は「モまた
はモウ」の可能性があり、秋の七草でいう「萩=八掬脛=荒吐」または「葛=国巣=国栖=
МО(狛系民族)」であろうと推量している。実際に旧石器文化の「岩宿遺跡」や「八掬脛
洞窟」(月夜野町)など縄文、弥生文化の遺跡が多数発見されている一方、東海系の文化を
持って移住してきた開拓民とその後の大和系からの移住者によって築かれ、確認されただけ
でも一万基の古墳が存在し、その規模、副葬品などから、この地は古代東国文化の中枢であ
ったと思われる。
「毛野国」は5世紀ころ「上毛野(かみつけぬ)」と「下毛野(しもつけぬ)」に分かれ
上毛野は群馬県、下毛野は栃木県の領域となったが、大化改新の国司制のあと国名は二字に
統一されて「上野国(こうずけのくに)」「下野国(しもつけのくに)」となった。
徳川幕府の大政奉還により明治新政府が出来、廃藩置県がなされたが「上野国」は「群馬県
」となり、「下野国」は「栃木県」となった。
群馬県の県名は当時の国府の置かれていた前橋の所在地が「群馬郡」であったために名付け
られたという。
ところが「群馬」と表記して「くるま」とルビがふられている例がいくつも存在している。
現在の感覚からすると「群馬(ぐんま)」を「くるま」と読むことは不可能であろう。
その謎を解く鍵が群馬の歴史の中に潜んでいる。
結論からいえば
和同6年に、上毛野国、車評(くるまこうり)は群馬郡に改められる。
群馬郡と表記されるようになっても呼称は長らく「くるまぐん」といわれていた。
何故「車評」と称されたか、それは古く「車持公」の支配する地域であったためであっ
た。そして「車持公」は崇神天皇の子孫なのである。
古墳から見えてくる大和政権の進出と上毛野国を繁栄に導いた人びとについてもう少し探っ
てみたい・・・次回に
録にとどめていないため、後に編纂された記紀や考古学的資料によって推量するほかない。
邪馬台国畿内説をとれば、その後三輪山の大物主神(出雲系・うがや系)は「出雲国造神賀
詞」によって大和朝廷に服属し、その守り神となることを誓っていることから、4世紀に磯
城の瑞籬宮(水垣宮・桜井市金屋)に於いて天下を治め「初国知らしし御真木(御間城)天
皇」と記されている崇神天皇(御真木入日子印恵命)によって新たな倭王権が誕生したと思
われる。
初代の神武天皇(神倭伊波礼毘古命)も「始駆天下之天皇」とたたえられているが、崇神天
皇が三輪の大物主神の祟りをおそれて、その子孫を探し出し祭祀させたり、皇祖とされる天
照大神を宮中から遷し祀らせたが不都合が生じ、最終的に伊勢に落ち着いた説話などから、
前代の神々(出雲系・うがや系)の抵抗がはげしかったと思われる。神武とは後に付けられ
た諡号であるから倭の地をはじめに開拓した謂れをもつ神の名をまとめて「神倭伊波礼毘古
命」と名付けたのだろう。
初期大和王権を築いた崇神天皇と「群馬」の呼称とが深いつながりを持っている事を一般に
は知られていないと思うので、古代の群馬の成立と群馬の呼称の由来を紹介したい。
古代群馬の情報は娘一家が転勤により群馬県に住んでいた頃訪ねた前橋市にある群馬県立歴
史博物館で購入したと記憶にある『群馬史再発見』(近藤義雄・梅沢重昭・吉永哲郎・熊倉
浩靖他三名の共著・2001年・(有)あさを社)を参考にし、図表なども拝借し、また赤塚次
郎氏の東海系文化の拡散や、私の「秋の七草=尾花=伽耶」説も取り入れ推理しています。
まず東国一の古墳を有する群馬と栃木一帯は5世紀前半まで毛野国(けぬこく)と称されて
いた。5世紀代の倭王「武」の上表文に書かれた「昔より祖禰みずから甲冑をつけて、山川
を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人(もうじん)を征すること五十五国、西は衆夷を服す
ること六十六国、渡りて海北を平らぐること九十五国なり。」とある毛人の国にあたると思
われる。
「毛野国」とは「け」「けぬ」という集団の居住地だったと思われるが、私自身は「モまた
はモウ」の可能性があり、秋の七草でいう「萩=八掬脛=荒吐」または「葛=国巣=国栖=
МО(狛系民族)」であろうと推量している。実際に旧石器文化の「岩宿遺跡」や「八掬脛
洞窟」(月夜野町)など縄文、弥生文化の遺跡が多数発見されている一方、東海系の文化を
持って移住してきた開拓民とその後の大和系からの移住者によって築かれ、確認されただけ
でも一万基の古墳が存在し、その規模、副葬品などから、この地は古代東国文化の中枢であ
ったと思われる。
「毛野国」は5世紀ころ「上毛野(かみつけぬ)」と「下毛野(しもつけぬ)」に分かれ
上毛野は群馬県、下毛野は栃木県の領域となったが、大化改新の国司制のあと国名は二字に
統一されて「上野国(こうずけのくに)」「下野国(しもつけのくに)」となった。
徳川幕府の大政奉還により明治新政府が出来、廃藩置県がなされたが「上野国」は「群馬県
」となり、「下野国」は「栃木県」となった。
群馬県の県名は当時の国府の置かれていた前橋の所在地が「群馬郡」であったために名付け
られたという。
ところが「群馬」と表記して「くるま」とルビがふられている例がいくつも存在している。
現在の感覚からすると「群馬(ぐんま)」を「くるま」と読むことは不可能であろう。
その謎を解く鍵が群馬の歴史の中に潜んでいる。
結論からいえば
和同6年に、上毛野国、車評(くるまこうり)は群馬郡に改められる。
群馬郡と表記されるようになっても呼称は長らく「くるまぐん」といわれていた。
何故「車評」と称されたか、それは古く「車持公」の支配する地域であったためであっ
た。そして「車持公」は崇神天皇の子孫なのである。
古墳から見えてくる大和政権の進出と上毛野国を繁栄に導いた人びとについてもう少し探っ
てみたい・・・次回に