ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

謎解き詠花鳥和歌 和歌の秘伝

2010-02-10 06:46:27 | 日本文化・文学・歴史
和歌の秘伝が皇室の関心事であったことは「古今伝授」に於いても同様であった。この少し
前の1205年に勅撰の『新古今和歌集』が成立しており、最初の勅撰集『古今和歌集』か
らは300年たっているが、この間に古今集の本文と特定の語句を特定の者を選んで伝えて
いき他の者には秘密にした所謂「古今伝授」が定家らによってひそかに行われていたらしい

古今伝授が表面化したのは東常縁(とうのつねより。1401~1502)が門人の飯尾宗祇(いい
おそうぎ。1421~1502)に伝授したときからである。
常縁によれば、紀貫之以来の相伝が藤原基俊、藤原俊成(定家の父)、藤原定家をへて、
代々二条家に伝わり、さらに頓阿法師をへて東家に伝えられたが、宗祇に伝授するときには
常縁以外にそれを受け継ぐ者はいなくなったという。
宗祇から三条西実隆(1455~1537)に受け継がれた古今伝授は三条西家の公枝(きんえだ)
から実枝(さねき)へと受け継がれるが、実枝が世を去ったとき、公国は15あるいは17才の
少年で実枝は公国に直接相伝することができなかった。
古今伝授が途絶えることをおそれた実枝は公国の成長するまで、弟子である細川幽斎(ゆう
さい)に預けることにした。

細川幽斎(1534~1610。藤孝、1582年明智光秀の「本能寺の変」後剃髪し幽斎玄旨と称す)
は足利将軍、織田信長、豊臣秀吉らの下で活躍した戦国武将であり、また当代一の文化人と
言われ、歌道、茶道、有職故実にも詳しく朝廷からも信頼されていた。
関ヶ原の戦い(1600年)の直前、幽斎の居城である丹後の田辺城が石田三成の軍勢に囲ま
れ、幽斎は籠城、討死を覚悟するが、その事を知った後陽成天皇が勅使を派遣して和議を講
じさせた。
天皇は「幽斎が討死すると、古今伝授を伝える者がいなくなるので、本朝の神道奥義、和歌
の秘密が永く絶え、神国の掟も空しくなる」と憂えたと伝えられている。
天皇自ら古今伝授が本朝の神道奥義、和歌の秘密に深く係わっているという証言は大変重要
である。

幽斎は関ヶ原の戦ご、智仁親王、烏丸光広、中院通勝、三条西実枝らに古今伝授を伝えてい
るが、伝授の資料などは残されているものの、儀式のための資料が多く、肝心な内容は<三
木三鳥>などの断片的な語彙が伝わるのみで秘伝の真実を知る者は消滅している。

私は古今伝授の根源は万葉集の山上憶良詠「秋の七種」に遡ると考えているので、中世に何
らかの痕跡が残されていないかと検索してみると、中世に書かれた数ある歌学書あるいは
家集の中で藤原清輔作の『奥義抄』(1135~1144年成立)、上覚作の『和歌色葉』(1198年
頃成立)、堯憲作の『和歌深秘抄』(1493年成立)の中に
 「はぎの花をばなくずはななでしこの花をみなへし又ふぢばかまあさがほの花」
の歌が記載されており、秋の七草を秘歌とする何らかの伝承があったと思われる。

1214年に定家によって詠進された月次の花鳥和歌の花と鳥の取り合わせもこれまでの謎
解きの延長線上にあり、何らかのヒントが込められているはずである。

日本経済新聞の「私の履歴書」で2010年のトップバッターは元首相の細川護煕氏であっ
たが、肥後の大名家としても知られる細川家の初代は細川幽斎である。
「細川家700年にわたる歴史的な文物は東京目白台の永青文庫の細川コレクションに伝え
られ公開されている。南北朝以来幾たびもの戦乱があったが、細川家はほとんど火災などに
遭わなかったので、学術的にも価値のある古文書などが約八万点、枚数にすると数百万枚、
美術品も約七千点あまりある」という。

今年の4月から上野の国立博物館で細川コレクションの企画展が開かれるとのこと、古今伝
授関連の資料をぜひ公開してほしい。





















 
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