ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

謎解き詠花鳥和歌 藤と雲雀(ひばり)ー25 小倉山と鹿⑩

2013-05-28 13:35:57 | 日本文化・文学・歴史
平安初期の歌人紀貫之は『古今和歌集』の撰者であり、恋多き貴公子というイメージを抱き
がちですが、嘗ては名門であった紀氏一門もその頃は凋落の一途をたどるばかりで、五位以
上の官位を得ることさへままならず、貫之自身70歳ほどの高令となりようやく従五位上に
なったといいます。

宇佐家の伝承によると紀氏に縁のある土地は山城、丹波、吉備の高島、木国(菟狭)、紀伊
国(和歌山)など各地に拡散しつつも山城国には紀伊郡(きいのこおり)があり紀氏の拠点
であったと思われます。ところが、日本書紀雄略天皇紀にあるように渡来民族の秦氏は頭数
からいっても先進的な技術からいっても在来系が勝てる相手ではなく、山城地域の開拓を進
め巨大な富を集め勢力を拡大していきます。

秦氏の渡来は誉田(応神)天皇14年に弓月王が127県の民を率いて来朝しましたが、彼らを
葛城氏の本拠地である大和の朝津間腋上の土地を与えて住まわせたという。ところが、葛城氏
の本宗家は雄略天皇によって滅亡に追い込まれ、やがて葛城系賀茂氏は山背へ移住したことが
『山城国風土記』逸文の賀茂社の鎮座由来によって伝えられていますが、葛城氏の支配下に
あった秦氏も山背へ移住したものと思われます。
特に雄略朝に㝢豆麻佐(太秦)を賜姓された秦酒公(はたのさけのきみ)の本拠地である葛野
の嵯峨野一帯、また「伏見稲荷縁起(山城国風土記逸文)」に登場する秦中家忌寸(はたのな
かついえのいみき)らの先祖である伊呂具(いろぐ)や欽明天皇即位前記に夢のお告げにより
見い出され寵愛されたという秦大津父(はたのおおつち)の本拠地は紀伊郡深草であるという。

しかし山城の紀伊郡はもともと紀氏の本拠地であったはず、紀氏の没落は秦氏の繁栄と表裏一体
のものではなかったでしょうか。

秦氏の山城への進出は雄略天皇の時代と記されていますが、京都地方の古墳の分布状況から
推量すると秦氏の居住地域である嵯峨野の古墳は5世紀後半以降に築造されており、書紀の記述
と整合しているようです。しかし嵯峨野以外では5世紀以前にも古墳は築かれており秦氏以外の
勢力の有力者も存在していました。特に現在の向日市(むこうし)にはかなりの前方後円墳、
前方後方墳が築かれており、山城の古代の中心地域であったと思われます。

向日市は京都市、長岡京市と境を接し、東部は桂川の氾濫原、西部は長岡丘陵の洪積台地が南北
に延びる。784年に桓武天皇は向日、長岡京市にまたがる地域に長岡京を造営し、平安遷都までの
10年間都城とされていました。この地域の歴史的な注目度は低いようですが意外に重要な地域
かもしれません。

山城国であった頃は乙訓郡(おとくにのこおり)といい、「山城国風土記」逸文が伝える鴨氏
(葛城系)の移動伝承に登場する所でした。
これによると賀茂建角身命が日向の曾の峯(高千穂)に降臨し、さらに神武天皇の先導となって
大和の葛城山に至り定着したが、その後に移動した山背国の岡田の賀茂に落ちつき、さらに山背
川に沿って北上し、久我の地に定着したといいます。
天孫降臨や神武東征に従ったというのは記紀作成のための創作でしょうが、賀茂氏が葛野郡や乙
訓郡に居住していたことは確かでしょう。それは賀茂氏の祖神とされる賀茂建角身命を祀る神社
がたくさん存在するからです。

「山城国風土記」逸文の伝える久我には久我神社があります。ここは延喜式内社の久我神社(乙
訓郡久我村・現伏見区久我)です。社伝によると長岡京遷都に祭して王城の艮角(うしとら)の
守護神として祀られたという。祭神は賀茂建角身命、玉依姫命、別雷神で、鴨森大明神、森大明神
とも称した。
賀茂建角身命は久我の地の落ち着いた後、丹波国の神野の伊可古夜日女と婚姻関係を結んで、玉依
日子、玉依姫命の二子が生まれ、その後いわゆる丹塗矢の聖婚説話があり、玉依姫から別雷神が
生まれます。その子の父(丹塗矢)は乙訓郡の社(角宮神社=すみのみや=乙訓神社=下社・
乙訓郡長岡町井の内)に坐せる火雷神(ほのいかずちがみ)という。

上記角宮神社を古くは下社と称したというが、これに対して上社があった。
現在の向日(むこう)神社で向日市向日町北山に鎮座し、祭神は向(むかいの)神、乙訓に坐せる
火雷神、神武天皇、玉依日売命を祀る。向神は大歳神(素戔鳴尊の子)の子で向日の神といわれる。
古くは向日(むこう)神社を上社、乙訓坐火雷神社を下社と称したが下社が廃れたので1275年上社
に合祀された。

ここで興味深いのは向日の神(向神)です。出雲の素戔鳴尊の孫と伝えられていますが、出雲大社
の本殿を囲む瑞垣の内側に摂社が三社ありますが、その一社を御向社(みむかいのやしろ)といい、
大国主命の后であるスセリ姫を祀っています。
<向日あるいは向>はあまり耳なれない名称ですが、出雲の大国主命の末裔という富當雄(とみま
さお)氏が吉田大洋氏に語った一節を思い出しました。
これを次回に














































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