ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

古代からの暗号 星川建彦の本貫?<都祁の星川郷>。大和岩雄著『秦氏の研究』より

2023-07-15 07:26:13 | 日本文化・文学・歴史

当ブログ2023年3月27日「<雀>と名がつけられた<仁徳天皇>」。㋄30日「仁徳天皇の黒幕だった<葛城襲津彦と夕月君>」説
を更新しましたが、大雀(仁徳)天皇が皇族ではなく臣下の出自という信じ難い主張に戸惑われた方もおられたと思いますが、応神
朝を継ぐべき菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)が星川建彦(ほしかわたけひこ)の反乱によって命を落とした事が事実であれば、
私の主張も絵空事ではなくなるはずです。

 SABO氏のブログでは仁徳天皇成立の経緯が兄弟間の譲り合ではなく宇治大君(菟道稚郎子)政権を葛城氏一族中の星川建彦が反乱
を企て、宇治の宮を襲った。宇治の宮では急襲に驚き逃げ出す者が多く稚郎子自身も宇治川を渡って西へ逃げようとして渡し舟に乗り
込むが、その舟は星川側の仕組んだ罠であった。渡し舟のシーンからの展開は大山守の反乱説話の真逆で、宇治大君は星川側の船頭
から宇治川へ突き落され鎧の重みで水中に没して亡くなってしまう。そして反乱に成功した星川建彦が大雀(仁徳)天皇となり新王朝
が成立する。さらに星川建彦は許勢小柄宿禰の長子であるとしていました。

当ブログの推量では<大雀(仁徳)天皇=許勢小柄宿禰>としたものの、皇族以外の許勢小柄が天皇になれたその理由づけが空白で
した。SABO氏の「星川建彦の反乱伝承」こそその隙間を埋めてくれるものと直感しました。また記紀に<星川建彦>の名は記されて
おらず何者か不明です。私は仁徳天皇のバックにいるのが<葛城氏と弓月君>と推量していましたので<星川建彦>の出自が重要です。
幸い当ブログで何度も掲載している<『古事記』建内宿禰の後継系譜>で波多八代宿禰の後継氏族中に<星川臣>がおりました。
<星川臣>とは何者か?
大和岩雄氏(1928年6月〜2021年2月)は大著『秦氏の研究』中で<星川臣ー波多臣(波多八代宿禰)ー弓月君(秦氏)ら>の繋がり
を論じており<菟道稚郎子に対して反乱をしかけたのは葛城氏と秦氏>と考える傍証となると思いますので長文ですが引用させて
いただきます。

 大和岩雄著
  『秦氏の研究』 (1994年7月発行 大和書房)
     「弓月君と秦氏・波多氏」ー弓月君と弓月嶽よりー
「内藤湖南は三輪山の側の穴師の弓月嶽にある兵主神社は、『史記』封禅書に秦の始皇帝が山東地方で祀っていた天王・地主・
 兵主・陰主・陽主・月主・日主・四時主の八神のうち、根本の神である兵主神を祀る神社だから、秦氏の祖の弓月君と、弓月
 嶽ー弓月君ー兵主神というように結びつくと、『日本文化史研究』で述べている。また、日野昭も、弓月嶽が弓月君と関係
 あると述べている。
  ( 中略 )
 弓月嶽と弓月君との関係を論じる場合、私は弓月嶽の背後に拡がる都祁(つげ)の地に注目している。なぜならば、『古事記』
 の建内宿禰後継系譜によれば、波多臣と同じく、波多八代宿禰を祖とする星川臣の本貫の地だからである。
 『和名鈔』によれば、大和国山辺郡には、都祁・星川・服部などの郷名があるが、これらの郷名は、旧都祁国にあった地名で、
 星川郷の地名をとったのが、星川臣である。『新撰姓氏録』(大和国皇別)によれば、「敏達天皇の御世に、居によりて、改めて
 姓を星川臣と賜ふ」とある。居によって星川の姓を名乗る前は、なんといっていたのだろうか。波多氏の分かれなのだから「ハタ」
 であろう。角田文衛も、波多臣を改めて星川臣になったとみている。

  神楽歌に、「わぎもこが穴師の山の山人と人も知るべく山蔓せよ」とある「穴師の山人」とは、穴師山の奥にある星川郷のある
 ツゲの地に住む人々をいう。穴師山を代表するのが、穴師兵主神社のある夕月嶽だから、山人は、弓月嶽から大和国中へ降りて
 くるとみられていた。そこのハタ氏は、波多八代宿禰ー弓月君-弓月嶽という結びつきを無視するわけにはいかない。

  弓月君と弓月嶽の関係は、ツゲのハタ氏(星川氏)をぬきには考えられない。「ツゲ」を『古事記』は「都祁」、『日本書紀』
 は「闘鶏」と書く。雄略紀に闘鶏御田が秦酒公によって命を助けられた話が載っている。ツゲ国については、拙稿「大和の鶏林
 (しらぎ)・闘鶏の国」に詳述したので略すが、このツゲの地に入るには、初瀬川、穴師川、布留川をさかのぼる三コースがある。
 今は穴師川をさかのぼるコースはあまり使用されていないが、昔は「ツゲ」と大和国中を結ぶ主要道路であった。この古道を土地  
 の人は「テンノウ坂」という。「天皇坂」と書くのだろうか。穴師兵主神社の裏を通って、天皇坂をぬけると、上の郷に入る。
 この上の郷の笠という部落には、穴師塚という古墳があり、穴師塚の地に最初の穴師兵主神社があったという伝承がある。

  また、萱森(かやのもり)という部落があるが、「カヤ」は加耶、「モリ」は朝鮮語の「頭(頭領)」だから、「伽耶の頭」の
 いた所と解する説もある。この上の郷を通って更に入ると「都介野(都祁野)」さらに波多野(山添村)となり、このあたりが、
 かつての都祁国であり、「穴師の山人」つまり弓月嶽の山人たちの住む地である。

  波多野には、
式内社の神波多神社がある。この神波多神社の祭祀氏族が波多氏(星川臣)であることからも、弓月嶽と弓月君は
 波多氏と結びつき、弓月君は波多氏の祖とみる私見の裏付けになる。
 しかし、此の地も秦氏とは無縁ではない。此の地の木工(闘鶏御田)が、雄略天皇によって殺されようとしたとき、秦酒公の助命
 歎願によって一命を取りとめた話(『日本書紀』)からも、秦氏とツゲの関係を推測できる。またツゲ国造は、多氏と祖を同じ
 にするが秦氏と多氏の関係は密接である。

  このように弓月嶽の裏にある大和高原といわれるツゲの地は、波多氏と秦氏にかかわるが、特に波多氏と結びつくことからみて
 も、弓月君は波多氏とかかわっている。」

秦氏の研究者として著名な<大和岩雄氏>は残念ながら2021年に亡くなられておりました。「星川建彦の反乱」説のある事をご存知
であったか否か私には分かりませんが、氏の星川臣の本貫が<都祁の星川郷である>とした論考は<仁徳王朝は星川建彦の反乱に勝
利し新王朝が成立した>という説にとって重要な論拠であろうと思います。

 大和氏の論考を整理し不明な点を調べましたので参考まで。
*<星川建彦>は『古事記』の建内宿禰後継系譜中の波多八代宿禰を祖とする波多臣・林臣・波美臣・星川臣・淡海臣・長谷部君ら
 の内の星川臣の出自と思われる。
*星川臣の本貫は奈良県奈良市ですが、ふるくは奈良県山辺郡都祁村星川郷でした。
 しかし、都祁には奈良県で最も古い遺跡(旧石器時代の高塚遺跡)があり、石器が出土しているが、太古は現代と異なる地勢だった。
 都祁は伊賀(三重県)にもあり、三重県亀山の地は古く東海の海が入り込んでおり、また伊賀から上野の辺たりには、太古琵琶湖
 であったが、その後鈴鹿山脈の隆起で地形が変化したという。
 現在の都祁は奈良市に合併されているが、都祁という地名は伊賀の都祁からきていると思われ、伊賀一宮の<敢国神社>の栞には
 「古代の伊賀地方には外来民族の豪族である秦族が多数住んでおり、彼らが信仰する神が当社の配神である少彦名命でありました。
   (中略)
  創建以前には当社の主神である大彦命は350年頃、第8代孝元天皇の長子です。崇神天皇の命を受け、北陸東海を征討する四道
  将軍となり伊賀の国を本貫の地として駐屯され、子孫は伊賀の国中に広がり、伊賀国の阿拝氏を名乗るようになりました。
  よって伊賀人は秦氏族と大彦命の子孫との混血の民族でもあります。」
 上記のように、都祁の波多系星川臣は秦氏族の構成メンバーであるのは確かなようです。
*古代には「都祁」と「大和国中」の往来には穴師川をさかのぼる古道があったが、その坂を土地の人は「テンノウ坂」と呼んでい
 たという。<この地の星川建彦の起こした反乱に勝って天皇になった>という伝承が確かに伝えられていたと思われる<天皇坂>。
 貴重な情報です。
*「星川建彦の起こした反乱」によって命を落した「菟治能和気郎子(宇治稚郎子)」は和邇の比布礼能意富美(わにのひふれのお
  おおみ)の娘である宮主矢河枝比売(みやぬしやがえひめ)が母でした。
  和邇(和珥・丸邇・丸)氏の本拠地は大和国添上郡にあった和邇(天理市和邇町)や和邇坂などに由来しているという。
  『日本書紀』の考昭天皇天皇条によれば、考昭天皇皇子・天足彦国押人命が和珥臣の始祖と注され、皇別の始祖系譜を持ち、
  後に奈良市東部の春日に移り、春日氏を称するようになります。大宅・小野・栗田・柿本など15氏族に分かれており、遣唐使
  として有名な小野妹子や万葉歌人の柿本人麻呂を輩出しています。
  以前のブログで<柿本人麻呂>の名前を<かぎのもとひとまろ>=<鍵の元・日止まる>と考えたことがありました。
  <日=天皇><止まる=皇統が止まる。絶える。>と考えると、自分の祖である和邇系皇統が絶えてしまったことを、我が名に
  くみこんで歌人名にしたのではないかと思いました。

私の古代史の謎解きとして生まれた「<雀>と名がつけられた<仁徳天皇>」と「仁徳天皇の黒幕だった<葛城襲津彦と夕月君>」
は絵空事ではなかったようです。







 












 

 

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