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ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

謎解き詠花鳥和歌 女郎花と鵲ー10

2010-05-22 07:11:28 | 日本文化・文学・歴史
上垣外憲一著『倭人と韓人』から

 「脱解王の神話」(前回のつづき)

 さらに重要なのは、脱解の舟に七宝とが満載されていた、という点である。『三国
 遺事』は僧侶によって編まれ、仏教の普及した高麗時代の書であるために、仏教用語の
 七宝という言葉を用いるが、その七宝とは、『大無量寿経』と『阿弥陀経』で異同がある
 が、金・銀・瑠璃・玻璃・白珊瑚・赤真珠・瑪瑙などを指すという。瑠璃は青色の玉、ま
 たガラスを指す。玻璃も紺碧の宝石である。金銀の他は宝石類を指しているといってよい

  ところで、丹波地方の弥生遺跡からは、ガラスを含む玉類とその製作場の跡が何ヵ所も
 発見されている。丹後は、本来、丹波に含まれていたものが、和銅三(710)年に丹波の後
 の国として分離したものであるが、その丹後半島(京都府北部)に、玉作の遺跡は多いの
 である。峰山町扇谷遺跡では、弥生前期末から中期初の時期に、管玉製造の分割・研磨工
 程を示す原石剥片や砥石などが出土している。また弥栄町坂野丘遺跡では、弥生中期末
 ~後期の墓から、ガラス製勾玉六個、ガラス製小玉約五百個、碧玉製管玉三百二十八個、
 鉄剣一口が出土している。弥生中期(前100~後100年)頃にこの地方で玉作りが盛んに行
 われ、またこの地の首長たちが、その玉類を多量に所有していたことがうかがえる。もち
 ろん奴隷も、商品として、またこの玉の見返りとして、さらに未開の地域から入手するこ
 とも容易だったであろう。
  新潟県のヒスイの加工は、弥生中期後半に盛んに行われているので、前一世紀頃に丹波
 で盛んだった玉作りは、百年ほどの間に佐渡、新潟にまで伝わり、一世紀以来、盛んに行
 われたものと考えられている。
  脱解王が新羅に到着したのは、新羅第二代の南解王の時といわれ、その後、脱解王が新
 羅第四代王として即位するのは、紀元57年と伝えられる。丹波で玉作りが盛行した時代
 とほぼ一致している。前に挙げた扇谷遺跡の玉作りは、弥生中期初には終わりを告げてい
 るという。勢力争いかなにかの結果、工人などがいなくなったのであろう。なにかの理由
 で丹波にいられなくなった玉作りの王が、所有する玉とを舟に積み、交易ルートをた
 どり、ついには新羅に達する、それはけっしてありえないことではないのである。
  脱解王の舟が最初加羅の海岸に現れ、次いで鶏林の東方海岸に着いた、という航海の順
 路も、この舟が倭国の方角から着いたことを示している。また脱解王は、瓠公という人物
 を大臣にしているが、この瓠公も倭から海をわたってきたという伝承を持つのである。

  瓠公者未詳其族姓、本倭人、初以瓠繋腰、渡海而来、故称瓠公。

 以上のような点から、次のようなことを推量できる。脱解王は、丹波の出身であり、玉作
 りの王であった。また奴隷交易も行っていた。玉の交易ルートにより新羅に来着して、倭
 との交易によった富をたくわえ、ついに王位についた、ということである。もちろん神話
 であるから、他系統の伝承も混入しているであろうが、この脱解神話の骨子は以上のよう
 なものであったと考えられる。
  新羅王家三家のうち、昔氏は後代にも昔于老(ウロ)が倭の使臣の接待にあたったり、
 その于老の子の訖解(ウルヘ)尼師今の代に倭との通婚が行われたという伝称をもつ
 (『三国史記』)など、とくに倭との関係が深いようである。その昔、氏の始祖の脱解が
 倭出身とまで断定できなくとも、昔氏は倭との交易を行う氏族ではなかったか、と推測さ
 れるのである。
  このようにみてくると、日本海沿岸と朝鮮半島南部の交易はかなり古い時代にさかのぼ
 ると思われる。とくに紀元一世紀から後の往来は盛んであり、日本からの玉および奴隷の
 輸出に対して、半島から大量の鉄が輸入され、日本に鉄器時代をもたらすことになるので
 ある。(了)

これまで昔脱解の出身地、倭の東北一千里の「多婆那国」は、出雲、丹波、吉備加夜と三者
三様の推理を紹介してきたが、朝鮮半島の伝承である故に確かにここと特定することは不可
能であろう。しかし、多婆那国を推定した三者の理由はどれも正しい見かたをしているよう
に思われる。何故だろう。私にはこの三つの地域にある共通項があるような気がしてならない。

それは、私がこれまで謎解きをしてきた「古代からの暗号」の原点。「秋の七草」の<尾花
>である。

 万葉集の「秋の七草」の尾花は
  尾花(をばな)→茅・萱(かや)→伽耶(朝鮮半島・狗邪韓国)
               (列島内)吉備津神社縁起「葺き草の茅」→吉備加夜

 古今集の古今伝授「をがたまのき(御賀玉木)」は
  をがたまのき→雄(花・をばな)が玉の木→榧(かや)→伽耶(朝鮮半島・狗邪韓国)
            (列島内)→火明かりの榧(古代イヌガヤの油を灯明に用いた)
                 →火明命(尾張氏の祖)→尾張地方

と解き、山上憶良詠「秋の七草」とは「秋津嶋(日本の古称)の七種族」を暗号で伝えよう
とし、萩に続く尾花は金官伽耶(首露王が建国)の前代にあった南方系倭人(海人系)の国
<うがや>と考えた。この<ウガヤ>は記紀には、国譲りをせまられる<出雲>として描か
れていると思われる。

記紀によれば弥生時代の出雲は、天孫降臨によって国譲りをせまられた大国主命の治める葦
原中国であり、中国の史書には「倭国」と書かれているが、奈良時代の『日本書紀』編纂の
頃にも<うがや>の伝承は認識されていたと思われ、初代とされる神武天皇の父が<鵜葺草
葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)>と神武天皇の前代に<ウガヤ>の名称を残してい
る。また『播磨国風土記』には大国主命の説話が多数あることから、吉備地方は出雲と同一
圏と考えられている。

では丹波は出雲系か大和系のどちらの系統に属していたか?を次回に・・・













 
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