ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

古代からの暗号 息長氏とは何者か? 1

2024-09-01 09:39:31 | 日本文化・文学・歴史

日本書紀の允恭天皇二年条には、皇后となった忍坂大中姫(おしさかおおなかつひめ)の娘時代の
説話が記されている。
 忍坂大中姫が闘鶏(つげ)の国造から姫の庭に咲く<蘭・あららぎ>を求められる話で、特にドラ
マチックな内容ではないが、私の謎解きの原点である万葉集中の<山上憶良詠・秋の七草の藤袴>を
解く鍵として設定されていたのが<蘭・あららぎ>であり、ヒントの<新羅・あららぎ>から答えは
<新羅・しらぎ>と解いてきた。しかし、これまでの謎解きの経緯から闘鶏の国と忍坂大中姫を登場
させている理由が他にもあるのではないか?と思った。

 忍坂大中姫は応神天皇の皇子である若野毛二俣王(わかのけふたまたおう)が父であり、母は弟百
師木伊呂弁(弟日売真若比売)、祖母と母は息長を冠する姉妹とされる。兄は意富富杼王(大郎子)
であるが、後に仁徳王朝の武烈天皇で皇統が途絶えそうになった時に、意富富杼王の孫にあたる彦主
人王(ひこうし王)=乎富等=継体(けいたい)天皇が皇位につく。彦主人王の妃の振姫の遠祖は丹
波比古多多須美知宇斯王の娘と伝えられている。天皇位が開化天皇の皇子・日子坐王から11代も経た
息長系の子孫に手渡されたのである。やはり息長氏は只者とは思えない。いったいどのような秘密が
隠されているのか推理してみたい。
 
 允恭天皇の父である仁徳天皇が皇位についたきっかけは非公式ではあるが、都祁(闘鶏)の星川建
彦の乱によって太子の宇遅若郎子が殺され、仁徳王朝が成立したという秘伝があった。
私は仁徳天皇の事績や新羅の迎日信仰の存在が確認され、難波の宮で行なわれた宮中祭祀にも都祁の
国造一族の娘が選ばれて奉仕していた事実も確認したので仁徳新王朝説を支持している。
応神朝と仁徳朝には皇位の選び方にも違いが見られ、応神朝までは親子継承が一般的だが、仁徳朝で
は親子継承と兄弟継承が見られた。また応神朝の后妃は皇族の出自が一般的であるが、仁徳朝では臣
下である葛城系の女性が皇妃に選ばれており、仁徳天皇は葛城襲津彦の娘である磐之媛を皇后とし臣
下出身の皇后の初例となった。
このように日本の古代史には隠されている史実もあると分かってきたが、系図は詳しく残されている
のにその社会的位置付けや民族の系譜など知る手がかりの不明なのが息長氏であろう。日子坐王から
11代も経て渡された天皇位、息長氏とは何者なのか知る手がかりを求めて崇神天皇以下の天皇系譜・
崇神天皇の異母兄弟とされる日子坐王を祖とするの息長系譜・天日矛系譜などを一枚にまとめれば
新しい気づきがみつけられるのではと大きな系図をつくってみた。(カレンダーの裏を利用したので
裏の色が透けて汚いが思考の過程を示したいと挿入しました。)




 参考にしたのは 1、横田健一著 『飛鳥の神々』から「息長氏関係の系譜」
         2,々 上   『飛鳥の神々』から「息長氏と皇室関係の系譜」
         3、々 上   『飛鳥の神々』から「応神天皇の系譜」
上記の系譜の中で重要と思う場合には夫人の出自も書き入れている、
特に興味深く思った事は
* 古事記には「初国知らしし御真木天皇」と記されている崇神天皇であるが、系譜上は開化天皇の
  皇子となっている事に違和感がある。初代天皇のはずなのに前代の開化天皇の子供のはずがない。
  開化天皇の皇子であるのは日子坐王であろう。
* 系譜上は崇神天皇の異母兄弟とされる日子坐王は天御影神(あめのみかげのかみ)の娘である息
  長水依比売(おきながみずよりひめ)と婚姻し丹波比古多々須美知能宇斯王が生まれる。この王
  は丹波河上麻須良郎女と結婚して日婆須比売(ひばすひめ)がうまれるが、彼女は長じて崇神天
  皇の皇子・伊玖米入日子伊沙(2代・垂仁天皇)の皇后となり景行天皇が生まれる・息長の血は崇
  神天皇系にも受け継がれており、崇神朝にとっても息長の血は必要なものだったのではないか?
  新王朝は前代の王家の血を受け継いで後継王朝として正当性を持たせる例は多い。
  火明命系の海人部氏勘注系図では火明命の婚姻相手は大半が出雲の大国主系の女性であった。
* 日子坐王の子孫の系譜中に息長帯比売(神功皇后)と品陀和気命(応神天皇)が皇位についてい
  る。息長帯比売の夫は崇神皇統の5代目・仲哀天皇であるが、父は倭建命・母は布多遅能伊理毘
  売であり、さらに祖父は2代目・垂仁天皇で言わば皇室のサラブレットのような立場であったと
  思われるが武内宿禰に殺されている。ふたつの系譜上では同じ5代目の世代と思われるが、息長
  系の神功皇后が夫を殺して皇子の品陀和気命を息長系の皇統に戻したいと願ったのではないか?
  しかし思いもかけずに<星川建彦の乱>によって応神朝は後世に続かず仁徳天皇の新王朝が生ま
  れたと思われる。
* 開化天皇をトップに据えてその皇子の一方を崇神天皇、もう一方を日子坐王とする系図を私は正
  しい系図とは思わない。何故なら日本の史書にはもう一人の初代天皇とされる神倭伊波礼毘古命
  (かんやまといわれびこ命)またの名は大和の磐余を都に定め「神武天皇」がいるのです。
  日本の神話の始まりは九州の日向でありその地を統治したのが神武天皇と思われ大和に東遷した
  とされるが、日向王朝の王者であろうが大和とは異なる民族(隼人族)であった可能性があり、
  その民族を滅ぼした負い目もあって鎮魂の意味からも史書に「始駆天下之天皇(はつくにしらす
  すめらみこと」と記したのではないかと思う。
* 現在では上代の日本列島には様々な民族が住み着いていて、それぞれの小国から地方政権が生ま
  れていって、北九州、出雲、吉備、大和、尾張、筑波、埼玉、高志などに王権が生まれていった
  と推測されています。その上で8世紀になると古事記や日本書紀という歴史書が編まれました。
  崇神天皇の支配地は近畿、東海、北陸、四国などの一部、紀伊などまだまだ狭い範囲だったは
  ずです。

今回作成した崇神天皇の系譜と日古坐皇子の系譜と天日矛の系譜を眺めている内に崇神天皇が「初国
知らしし御真木天皇」と呼ばれた原因が見えてきました。次回に


  
  




 

 

 

 

 

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