ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

古代からの暗号 八幡信仰の真実の祭神は「天之日矛」?そして「弥秦神」?

2022-06-28 08:35:46 | 日本文化・文学・歴史

前回のブログでは田道間(但馬)守が常世に遣わされて持ち帰った物は<非時香果(橘)・八竿(やほこ)八縵(やかげ)>ですが、
<八竿八縵>とは竹竿につけられた旗つまり八幡のことと思われ、秦氏の祀る八幡神を指しているのではと推量しました。
(八幡信仰については当ブログ2009年10月9日から12日まで「伏見稲荷神符28〜31」に取り上げていますので今回は省略します。)
しかし記紀によると竹ざおを指す<竿>は<矛・ほこ>とルビがふられている上、記紀には八幡信仰の発祥を全く記していないのです。
八幡信仰の始まりは『豊前国風土記』逸文に記された香春神社の記事によってそこがスタート地点と認識されています。
『豊前国風土記』逸文の「昔、新羅の国の神、自ら度り来たりて、比河原に住みき。名づけて鹿春の神という。」と記された香春神社の
祭神「辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおめのみこと)」に込められた想いを深掘りしたいと思います。

 辛国とは「韓国・からこく」に通じ、風土記では「新羅の国の神」と明言しているので豊前国の秦氏族(赤染氏や鶴賀氏)も新羅から
の渡来民でした。香春神社の祭神は平安時代初期までは<忍骨命><豊比咩命><辛国息長大姫大目命>の三柱が祀られていましたが、
現在は<応神天皇><比売大神><神功皇后>となっています。忍骨命とはおどろおどろしいイメージですが、天照大神の子・天忍穂
根命(天忍穂耳命)から「天」を取ったもので、息長大姫(神功皇后)を天照大神に見立てたので、その子神である忍骨命は応神天皇
とされたのです。豊比咩命は香春岳にある採銅所の神であると考えられています。
現在の八幡神社には<矛>のイメージは全く感じられませんが『古事記』の応神天皇条に「天之日矛の渡来」という説話が記されており
神名に<ホコ>が含まれているので要約します。

 昔、新羅に<天之日矛>という王子がいたが日本へ渡り来た。その訳は新羅のアグ沼のほとりに賎の女が昼寝をしていたところ太陽の
 光が女の陰部を射し、その女は妊娠して赤い玉を産んだ。その様子を覗きみていた賎の男は赤い玉を所望して女からもらい受け、布に
 包み腰に付けていた。この男は谷あいに田を持っており、耕作する人夫たちの食料を牛に背負わせて運ぶ途中で天日矛に出会った。
 日矛は「お前はどうして牛に背負わせて谷へ下るのか、きっとこの牛を殺して食べるつもりだろう」と疑って男を捕え、牢にいれよう
 とした。男は「牛を殺すのではなく、農夫の食料を運ぶだけです。」と言ったが赦されず腰につけた赤玉を日矛に差し出しようやく
 赦された。日矛は赤玉を床の側に置いていたが、やがて美しい乙女に姿を変える。日矛はその乙女と結婚して正妻とした。
 乙女は常々美味しい料理を用意して日矛に食べさせていたが、思い上がって妻をののしるようになった。怒った妻は「私はあなたの妻
 になるような女ではありません。私の祖先の国に行きます。」と言って小舟に乗って難波に渡って来てとどまった。
 これは難波の「比売碁曾神社にいます<アカルヒメ>という神である。
 そこで日矛はただちに妻の跡を追って海を渡り、難波に着こうとしたが、渡しの神にさえぎられて難波に入れなかった。それで又
 戻って但馬の国に停泊した。日矛はそのまま但馬の国にとどまり、但馬のマタオの娘のマエツミと結婚して生まれた子がタジマ
 モロスクである。モロスクの子はタジマヒネ、その子はタジマヒナラキ、さらにその子はタジマモリ、次にタジマヒタカ、次に
 キヨヒコの三人である。このキヨヒコがタギマのヒメと結婚して生まれた子がスガノモロオ、次にスガノユラドミである。そして
 上に述べたタジマヒタカがその姪のユラドミとけっこんして生まれた子が葛城のタカヌカヒメノ命である。この人はオキナガタラ
 シヒメ(神功皇后)の母である。


この説話は新羅王子という<天日矛>が主人公で、日本へ渡って来た後に但馬の女性を妻とし、その子孫が<常世>へ行き常世物を
持ち帰った<但馬(田道間)守>でした。そして田道間守の兄弟から息長帯日売へと血統が受け継がれていました。

『古事記』では日矛の渡来地を難波としていますが『日本書紀』には「崇神天皇の世に額に角の生えた人が船に乗って高志の国の気比
の浦に着いたのでその地を角鹿(つぬが。今の敦賀)と名づけた。「どこの国の人か」と尋ねると「大加羅の国の王子・ツヌガアラシ
ト又の名はウシキアリシチカンキという。」と日矛とは別人の如き扱いですが、赤玉の説話を続いて載せており、牛の角に見える冑を
着用していたので「角が生えている人」をもじって「角がある人→ツヌガアラシト」と名づけたのではと推量されています。


上図は『秦氏の研究』(大和岩雄・1993年・大和書房)に掲載されている「アメノヒボコとオキナガタラシヒメの伝説地」ですが、
神功皇后の祖先が天日矛であると『古事記』にあることに関連して研究者の発言は興味深い。
三品彰英氏は「天日矛→息長帯日売」の系譜が必然的である事を示唆するものとして、上図を示し「二者の伝説地は、その地理的
分布において驚くほど一致している」と述べ、平野邦雄氏は『播磨国風土記』によれば、天日矛の説話を有する地域と秦氏の居住
区域はほぼ完全に重複している」と書き「喜田貞吉氏が、天日槍をもって秦氏族最初の日本移住者とされたのは鋭い指摘である」
と述べているという。天日矛と秦氏のを関連性を指摘する研究者の発言にファイトが湧きました。
『播磨国風土記』には出雲神族とヒボコ族の戦闘が描かれているそうですが、今回の目的は<常世・秦氏>と<八幡神>と<神功
皇后・応神天皇>と<天日矛>の繋がりの有無を考察することなので省略します。

常世物の<八竿>に<ヤホコ>とルビがあったことに端を発した謎解きで神功皇后(息長帯日売)の始祖は<天日矛>であり、矛
そのものとは驚きました。ならば息長帯日売の御子である応神天皇にも<ホコ>に纏わる説話が用意されてあれば、<常世(秦氏)
・八幡神>の結びつき(関連性)がある事を納得して頂けると思います。

 応神天皇は品陀和気命(ホムダワケノミコト)。父は仲哀天皇。母である神功皇后は新羅出征の時に身ごもっていたので、出産を
遅らせようと石を腰につけて臨み、帰国後無事出産しましたが、その地を宇美と名付けたと伝えられています。

『古事記』には品陀和気命が神と名前を変える説話があります。
「品陀和気命が皇太子になった時に建内宿禰と若狭国から角鹿を巡り仮宮に滞在していました。ある夜宿禰の夢に、角鹿に坐す<伊
奢沙和気(いざさわけ)の大神>があらわれ、私の名を御子の御名に変えたいと思う。と仰せになった。そこで皇子はその神を祝福
して「仰せの通りに御名を頂いて名前を変えましょう」と申しあげた。翌朝皇太子が浜に行くと鼻の傷ついた海豚(イルカ)が浦
いっぱいに集まっていたので「神が私に食料の魚を下さった」と仰せになり神に<御食つ大神(みけつおおかみ)>と名をたたえた。
それで今に<気比(けひ)の大神>というのである。」

*気比大神すなわち伊奢沙和気大神がどういう神であったか明確ではないが『神祇志料』では<天日矛>と伝えられているといい、
 母系の始祖とされる天日矛は自分の名前を応神天皇に継がせたのです。
*応神天皇の誕生地とされる宇美(旧怡土郡長野郷)には宇美八幡宮(古名・長野八幡宮)があり、祭神は新羅の神(清滝権現・
 神功皇后)と気比大神(神社は天日矛尊と表記しているという。)である。

現在、八幡神社の祭神は神功皇后と応神天皇と豊比咩ですが、鹿春の神から国家鎮護の神となる宇佐八幡大神になる過程で祭神は
大きく変容していった可能性がありそうです。何故なら天日矛の子孫である但馬(田道間)守が常世へ行き八竿(ヤホコ)を持ち
帰ったのは息長帯日咩命の3世代前の事であり、神功皇后や応神天皇を祭神に据える事は不可能なのです。

但馬(田道間)守が常世から持ち帰った物を記紀は<ホコ>とルビをふって伝えようとしたのは<天日矛>であり、<弥秦の神>
と彼らの祖神を称える事が始まりだったと確信します。












 

 

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