聖徳太子の現身といわれる救世観音の「救世」とは「ぐせ、くせ、くぜ、ぐぜ」と読み仏教で
苦悩の多い一般の人を救うことをあらわします。今から20年ほど前に法隆寺の塔頭(高僧
の墓所に建てられた塔)の屋根裏から香木(白檀、栴檀、沈水香)3点が発見され、この内
の2点にはパフラヴィー文字(中世ペルシャ語)とソグド語の文字が刻印されていました。
この刻印されている文字を当時大阪大学の東野教授は「ボーイトーフ」と読みメーカー名か
人名とされ、大阪外大の井本教授は「サオシャヤント」の方言形と読まれ、その意味をゾロ
アスター教(拝火教)でいう<救世主>仏教なら<弥勒>ということであろうといいました。
このような香木発見や日本書紀の推古紀にペルシャ人来訪の記事があるために、聖徳太子や
その周辺にはゾロアスター教の信者がいたのではという説が流布しています。
ゾロアスター教とは紀元前1200年頃、古代ペルシアの宗教家であるゾロアスターを開祖と
する宗教で寺院の聖所に置いた火を礼拝することから拝火教ともいう。
はじめインド、イラン語族に広まり紀元前6世紀古代ペルシア帝国の王家や中枢をなす人々に
信仰されたが、7世紀にイスラムが台頭するまでイランから西域地方、中国(唐)まで広く信仰
され、ユダヤ教、キリスト教、仏教に多大な影響を与えた。しかし風葬や親や子、兄弟姉妹と
交わる最近親婚が最上の善徳であるとされ古代ペルシアでは王族、貴族、僧侶、一般人まで階
級に関係なく近親婚が行われたという。
聖徳太子の理想化肌の思想とは相いれないように思われます。しかし聖徳太子には西域につな
がる謎があり、その為に<白(シロ・シラ)>というメッセージが発せられているのではない
かと思います。
我が国に仏教が伝来したのは聖徳太子(厩戸皇子)の祖父・欽明天皇の頃(538年)ですが、
これまでの神祇を守りたい物部氏(排仏派)に対し崇仏派の蘇我氏がおり、対立していました。
ところが皇室の外戚となった蘇我氏は勢力を伸ばし、馬子が諸皇子や群臣に図って物部氏を滅
ぼします。(587年)
この時14~15歳の厩戸皇子は白膠木(ぬるでのき)で四天王の像を刻み、頭髪に置いて崇
仏派の勝利を祈ったと伝承され、勝利したお礼に難波の四天王寺を創建しました。
ヌルデはうるし科の木で白い樹液が古代には塗料として用いられたという。
<秋の七草>の暗号の<萩>は古今伝授三木三鳥では<めどに削り花>に対応しましたが、削り
花に用いられた木は白い木肌を持つこしぶら、柳、ヌルデ等でした。このうちの<こしあぶら>
の樹液を金漆(ゴンゼツ)といい古代には刀剣の錆び止めの塗料として用いられたが、<こしあ
ぶら>は越油で越の蝦夷の呼称であったという。ヌルデの樹液にも謎解きのヒントが隠されてい
る可能性がありそうです。
仏教受容を巡る戦いに際して、日本では厩戸皇子が四天王像を作るため白い樹液の出るヌルデの
木を用いた説話が伝えられていますが、新羅が仏教を受容するにあたり同工異曲の説話がありま
した。
仏教を国をまとめる要にしたいと思っていた新羅王の元には6人の部族長(貴族)がいましたが、
皆が強固に反対するため困っていると、王の側近の一人・異次頓(イチャドン)が「仏教を広め
るためには私が犠牲になりましょう。」と申し出ますが、王は罪のない命を奪うわけにはいかな
いと反対します。イチャドンは王さまの命令と偽って大規模な寺院建設を始めます。王は偽り
の命令を出したイチャドンを裁き死刑の宣告が下されます。イチャドンは「私が死ぬ時に奇跡が
おこるだろう。それがお釈迦さまが存在する証です」と言います。
イチャドンの首が切られると牛乳のような白い血が流れ、周囲が暗くなり、地震が起こり、空か
ら花びらが降って来たという事です。
自分の命を犠牲にした姿を目の前にし貴族たちは感動し、国王の仏教公認の決意を認めました。
新羅は527年仏教を公認し、法興王は仏教によって王の権威を高め、貴族や有力部族をけん制し
体制の整備をし中央集権的な政治力を発揮します。
新羅を日本では新羅城と表記しますが、その民は<白衣の民>と称されるほど白を大切にしてい
ました。仏教受容の説話の白い血といい白が重要な意味を持っていると確信しました。
聖徳太子の現身といわれる救世観音像の手にするのは摩尼宝珠。
摩尼宝珠とは梵語の音訳で「竜王の脳の中から出る珠でこれを手にいれれば欲しい宝を何でも出す
ことができる」という珠です。仏教ではお地蔵さまの手に載っています。
一方でこの摩尼を冠した摩尼教という宗教があります。
摩尼教(マニ教)とは
ササン朝ペルシアのマニ(216年~276年)を開祖とする二元的な宗教。ユダヤ教、ゾロアス
ター教、キリスト教、仏教、道教などの影響もふくむ経典宗教。アフリカ、イベリア半島から中国
まで、ユーラシア大陸に広く信仰された世界宗教で、8世紀のウイグル(トルコ族)では国教と
されたがその後イスラム化が進み、中央アジアはイスラム圏となった。
儀式や祭祀
マニ教では白い衣服を身につけ五感を抑制することが求められ一日一食、菜食主義、週に一度の断
食を行うという禁欲的な要素が濃厚でありゾロアスター教より仏教的である。
4世紀には西方で隆盛したが6世紀以降は東方へもひろがった。
唐の時代、則天武后は官寺として「大雲寺」という摩尼教寺院を建立している。
上図1はタリム盆地の高昌故城出土のマニ教経典断簡のミニアチュール(古代、中世の絵つき写本
に収録された挿絵の彩色、細密画をいう)。この図の後方には「3本の木」が描かれていたと推測
され、この木は西アジア起源の宗教において生命の象徴の意味を持っている。
また十層の天と八層の大地からなる宇宙観を持っていたがこの宇宙図が2010年日本にあること
が判り世界にひとつしかない貴重なものと話題になった。
宗祖マニは経典を各言語に翻訳させ西方ではイエスキリストの福音を全面に出し、東方の布教には
仏陀の悟りを全面に据えて教えたために世界的宗教へと発展した反面、教義の一貫性が保持されず
各地で既存宗教の異端として迫害され現代には」消滅してしまった。
私は摩尼宝珠を手にした救世観音から聖徳太子の仏教は新羅系でマニ教の影響を強く受けているの
ではないかと思いました。
わずか14~15歳の厩戸皇子がいかに天才であっても西方アジアの宗教に精通していたとは思え
ませんから、太子の廷臣であった秦河勝(秦氏は応神天皇の頃に伽耶から大挙して渡来したと伝え
られる新羅系渡来人の本宗家の人物か)主導で受け入れたのが新羅仏教(あるいはマニ教)だった
ことでしょう。
太子の子・山背大兄王の一族は蘇我入鹿によって滅亡してしまいますが、蘇我氏の百済仏教と太子
の新羅仏教の対立があった可能性もありそうです。
厩戸皇子が戦勝祈願のために作った四天王像ですが何故に四天王か?次回に
苦悩の多い一般の人を救うことをあらわします。今から20年ほど前に法隆寺の塔頭(高僧
の墓所に建てられた塔)の屋根裏から香木(白檀、栴檀、沈水香)3点が発見され、この内
の2点にはパフラヴィー文字(中世ペルシャ語)とソグド語の文字が刻印されていました。
この刻印されている文字を当時大阪大学の東野教授は「ボーイトーフ」と読みメーカー名か
人名とされ、大阪外大の井本教授は「サオシャヤント」の方言形と読まれ、その意味をゾロ
アスター教(拝火教)でいう<救世主>仏教なら<弥勒>ということであろうといいました。
このような香木発見や日本書紀の推古紀にペルシャ人来訪の記事があるために、聖徳太子や
その周辺にはゾロアスター教の信者がいたのではという説が流布しています。
ゾロアスター教とは紀元前1200年頃、古代ペルシアの宗教家であるゾロアスターを開祖と
する宗教で寺院の聖所に置いた火を礼拝することから拝火教ともいう。
はじめインド、イラン語族に広まり紀元前6世紀古代ペルシア帝国の王家や中枢をなす人々に
信仰されたが、7世紀にイスラムが台頭するまでイランから西域地方、中国(唐)まで広く信仰
され、ユダヤ教、キリスト教、仏教に多大な影響を与えた。しかし風葬や親や子、兄弟姉妹と
交わる最近親婚が最上の善徳であるとされ古代ペルシアでは王族、貴族、僧侶、一般人まで階
級に関係なく近親婚が行われたという。
聖徳太子の理想化肌の思想とは相いれないように思われます。しかし聖徳太子には西域につな
がる謎があり、その為に<白(シロ・シラ)>というメッセージが発せられているのではない
かと思います。
我が国に仏教が伝来したのは聖徳太子(厩戸皇子)の祖父・欽明天皇の頃(538年)ですが、
これまでの神祇を守りたい物部氏(排仏派)に対し崇仏派の蘇我氏がおり、対立していました。
ところが皇室の外戚となった蘇我氏は勢力を伸ばし、馬子が諸皇子や群臣に図って物部氏を滅
ぼします。(587年)
この時14~15歳の厩戸皇子は白膠木(ぬるでのき)で四天王の像を刻み、頭髪に置いて崇
仏派の勝利を祈ったと伝承され、勝利したお礼に難波の四天王寺を創建しました。
ヌルデはうるし科の木で白い樹液が古代には塗料として用いられたという。
<秋の七草>の暗号の<萩>は古今伝授三木三鳥では<めどに削り花>に対応しましたが、削り
花に用いられた木は白い木肌を持つこしぶら、柳、ヌルデ等でした。このうちの<こしあぶら>
の樹液を金漆(ゴンゼツ)といい古代には刀剣の錆び止めの塗料として用いられたが、<こしあ
ぶら>は越油で越の蝦夷の呼称であったという。ヌルデの樹液にも謎解きのヒントが隠されてい
る可能性がありそうです。
仏教受容を巡る戦いに際して、日本では厩戸皇子が四天王像を作るため白い樹液の出るヌルデの
木を用いた説話が伝えられていますが、新羅が仏教を受容するにあたり同工異曲の説話がありま
した。
仏教を国をまとめる要にしたいと思っていた新羅王の元には6人の部族長(貴族)がいましたが、
皆が強固に反対するため困っていると、王の側近の一人・異次頓(イチャドン)が「仏教を広め
るためには私が犠牲になりましょう。」と申し出ますが、王は罪のない命を奪うわけにはいかな
いと反対します。イチャドンは王さまの命令と偽って大規模な寺院建設を始めます。王は偽り
の命令を出したイチャドンを裁き死刑の宣告が下されます。イチャドンは「私が死ぬ時に奇跡が
おこるだろう。それがお釈迦さまが存在する証です」と言います。
イチャドンの首が切られると牛乳のような白い血が流れ、周囲が暗くなり、地震が起こり、空か
ら花びらが降って来たという事です。
自分の命を犠牲にした姿を目の前にし貴族たちは感動し、国王の仏教公認の決意を認めました。
新羅は527年仏教を公認し、法興王は仏教によって王の権威を高め、貴族や有力部族をけん制し
体制の整備をし中央集権的な政治力を発揮します。
新羅を日本では新羅城と表記しますが、その民は<白衣の民>と称されるほど白を大切にしてい
ました。仏教受容の説話の白い血といい白が重要な意味を持っていると確信しました。
聖徳太子の現身といわれる救世観音像の手にするのは摩尼宝珠。
摩尼宝珠とは梵語の音訳で「竜王の脳の中から出る珠でこれを手にいれれば欲しい宝を何でも出す
ことができる」という珠です。仏教ではお地蔵さまの手に載っています。
一方でこの摩尼を冠した摩尼教という宗教があります。
摩尼教(マニ教)とは
ササン朝ペルシアのマニ(216年~276年)を開祖とする二元的な宗教。ユダヤ教、ゾロアス
ター教、キリスト教、仏教、道教などの影響もふくむ経典宗教。アフリカ、イベリア半島から中国
まで、ユーラシア大陸に広く信仰された世界宗教で、8世紀のウイグル(トルコ族)では国教と
されたがその後イスラム化が進み、中央アジアはイスラム圏となった。
儀式や祭祀
マニ教では白い衣服を身につけ五感を抑制することが求められ一日一食、菜食主義、週に一度の断
食を行うという禁欲的な要素が濃厚でありゾロアスター教より仏教的である。
4世紀には西方で隆盛したが6世紀以降は東方へもひろがった。
唐の時代、則天武后は官寺として「大雲寺」という摩尼教寺院を建立している。
上図1はタリム盆地の高昌故城出土のマニ教経典断簡のミニアチュール(古代、中世の絵つき写本
に収録された挿絵の彩色、細密画をいう)。この図の後方には「3本の木」が描かれていたと推測
され、この木は西アジア起源の宗教において生命の象徴の意味を持っている。
また十層の天と八層の大地からなる宇宙観を持っていたがこの宇宙図が2010年日本にあること
が判り世界にひとつしかない貴重なものと話題になった。
宗祖マニは経典を各言語に翻訳させ西方ではイエスキリストの福音を全面に出し、東方の布教には
仏陀の悟りを全面に据えて教えたために世界的宗教へと発展した反面、教義の一貫性が保持されず
各地で既存宗教の異端として迫害され現代には」消滅してしまった。
私は摩尼宝珠を手にした救世観音から聖徳太子の仏教は新羅系でマニ教の影響を強く受けているの
ではないかと思いました。
わずか14~15歳の厩戸皇子がいかに天才であっても西方アジアの宗教に精通していたとは思え
ませんから、太子の廷臣であった秦河勝(秦氏は応神天皇の頃に伽耶から大挙して渡来したと伝え
られる新羅系渡来人の本宗家の人物か)主導で受け入れたのが新羅仏教(あるいはマニ教)だった
ことでしょう。
太子の子・山背大兄王の一族は蘇我入鹿によって滅亡してしまいますが、蘇我氏の百済仏教と太子
の新羅仏教の対立があった可能性もありそうです。
厩戸皇子が戦勝祈願のために作った四天王像ですが何故に四天王か?次回に