日本書紀の允恭天皇条は当ブログの原点である万葉集の山上憶良詠<秋の七草>の<藤袴>を解く鍵である<アララギ>を提供してくれた思い出深い巻である。それは允恭天皇の皇后となった忍坂大中姫の娘時代に起きた出来事として記されていた。「初め、皇后、母に従ひたまひて家に在しますときに独苑の中に遊びたまふ。時に闘鶏の国造、傍の径より行く。馬に乗りて籬にのぞみて皇后に語りて嘲りて曰はく。「能く薗を作るや、汝」とい . . . 本文を読む
難波に新王朝を開いた仁徳天皇の後継として長男とされる履中天皇が皇位を継いだものの、都は日向から東征した神武天皇の都と同じ奈良の磐余であった。現在磐余の地には九州の日向地方特有の柄鏡式古墳と全く同じ形式の茶臼山古墳とメスリ山古墳が現存し、又日向の生目古墳出土の二重口縁壺の底部穿孔土器と同型の物が出土しているという。履中天皇は日向と深い繋がりのある事は明白であろう。記紀の系図では仁徳天皇と磐之媛皇后 . . . 本文を読む
日本の正史とされる『日本書紀』には第16代仁徳天皇(大雀天皇)の次は履中天皇(去来穂別天皇)と記されている。父は仁徳天皇、母は葛城襲津彦の娘である磐之媛と記されている事を誰もが信じ疑いの目を向ける者はいなかった。ところが、応神天皇の太子だった菟遅稚郎子が都祁の星川建彦の起こした乱により命を落とし仁徳王朝(新羅系秦氏系)が成立したとする秘伝が存在していた。私は仁徳朝の事績や都祁の星川氏との関わりな . . . 本文を読む
日本の皇統は万世一系と伝えられていたが、図らずも仁徳天皇は簒奪王朝とする秘伝が存在していました。確かに都が難波に移り、天皇の陵墓も奈良の佐紀から難波や河内に築かれるという大きな変化がありましたし、日本書紀の仁徳天皇条には「天皇の皇子と同日に生まれた建(武)内宿禰の子供の名を、産屋に飛び込んできた鳥の<木菟(みみずく)と鷦鷯(みそさざい)>の名前をお互いに交換し、太子は大鷦鷯皇子、大臣の子は木菟宿 . . . 本文を読む
『日本書紀』仁徳天皇67年10月条には不思議な伝承が記されている。「河内の石津原に幸して陵地を定めたまふ。丁酉に始めて陵を築くこの日に、鹿有りて、忽ちに野の中より起こりて、走りて役民の中に入りて仆れ死ぬ。時に其の忽ちに死ぬることを異びて、そのきずを探む。則ち百舌鳥耳より出でて飛び去りぬ。因りて耳の中を視るに、悉に咋ひ割き剥げり。故、其の処を号けて、百舌鳥耳原と曰ふは、其れ是の縁なり。」 この説話 . . . 本文を読む