いつまでも長くこの話を続けていきたくはありません。
早く終わりにしたいのであとは簡潔に書くことにします。
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良いことは長く続かぬものです。
心の支えを相次いで失いました。
小学校6年生の時にまゆみちゃんが転校しました。
その何年か前に、近くに大型店が進出してきていて、ご商売の方がうまくいかなくなったので、お店をたたんだのです。
まゆみちゃんの家のお店ばかりでなく、個人のお店は次々と消えてゆき、地域の商店街そのものが壊滅してしまいました。
それまでゆっくりだった時代が急速に変わり始めたのです。
電電公社や国鉄が消えていった時代の転換期の始まりだったのかも知れません。
かよちゃんは中学1年生の時は隣のクラスで心強かったのですが、1年生が終わるときに、お父さんの転勤で、転校してゆきました。
中学2年の時に、小学生時代にわたしをいじめていた連中と同じ組になり、またもいじめられるようになりました。小学生の頃よりさらに陰湿でした。このときは公になって大騒ぎになり、わたしはさらし者のようになりました。
以降、だれにもいじめられなくなりましたが、無視されてだれにも相手にされなくなったということでもありました。
幸いにも3年生でまたクラス替えがあっていじめの当事者がいなくなったのですが、腫れ物に触るような扱いで、肩身の狭い思いでした。
それでも、わたしには絵を描くという楽しみがありました。
それが唯一の生きるよすがでした。
しかし、それもある日突然失うことになります。
中学3年生の時、父親がわたしの描いた絵をすべて出すように命じました。
何をするかと思ったとたん、それをすべて破り捨てたのです!
わたしは震えながら、ただそれを見ていることしかできませんでした。
そして、わたしに絵を描くことを禁じたのです。
理由はよくわかりませんでしたし、今でもわかってはおりません。
「絵ばかり描いているから学校の成績が悪い」ということだったのか、あるいは「わたしが絵を描いていること」自体が気に入らなかったのかも知れません。
父は絵や音楽というものが嫌いで、心の豊かさを認めない人です。
お金や物質的な価値しか認めません。
母が植えて大切にしていたお花を、父がすべて勝手に掘り起こしてトマトを植えるという暴挙は日常のことです。
見て楽しむお花には何の価値もなく、実が成るトマトなら良いという価値観です。
常に何事も絶対命令で問答無用です。わたしは物理的にも精神的に逆らえる状態にありませんでした。
しかも、さらに無茶苦茶なのは、当時妹が絵画教室に通っていたという矛盾です。
高価で良い道具を買いそろえてもらったり、画家の先生に才能を認められたなどという妹の話を聞くということの、悲しさは筆舌に尽くしがたいことです。
(妹の絵は今でもすべて大切に保管されているのに、わたしの絵は廃棄されて残っておりません。飽きっぽい妹は結局、絵を1年も続けられませんでしたが。)
それから、わたしは絵を描けなくなりました。
時々は描いてみたこともあります。けれども苦しいばかりで少しも楽しくありません。物理的には描けても、精神的に描けなくなったのです。
絵を失って以降のわたしの人生は、絶望状態から脱出するための闘いでした。
それから約20年後、あるきっかけから絵を再開することにしたのは去年のことですが、今でも決して無条件に楽しく描いているわけではありません。
楽しさ1割、苦しさ9割かもしれません。
それでも、絵を描きたいという抑えがたい気持ちがあり、描かなければなお一層苦しいから描き続けています。
わたしにとって絵を描くと言うことは失われた自分を取り戻すための旅であり、苦しみを脱し安息の地にたどり着くための苦行なのです。
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わたしが望むのは、ただ子どもの頃のように楽しく絵を描きたいと言うことだけです。
これまでこのブログで自分の絵についてあれこれ評してきましたが、これは絵の作品の出来や技術云々のことではなくて、わたし自身の心の状態について評していたのです。
技術的なことは枝葉に過ぎず、心のありようが絵の根本要素です。
当ブログを長くご愛読くださいますみなさんには、わたしの不安定な言動を不可解に感じている方も多数いらっしゃったことでしょう。その疑問が解決されて、より深くわたしの絵を理解していただけたなら幸いです。
わたし自身も、心の重荷が少しでも軽減できることを期待して、過去の恥をさらすことにしました。
長い話を最後まで読んでいただきましてありがとうございました。
おわり