越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

謙信が鎮圧した「越中寺嶋」の逆心について

2023-04-07 23:59:29 | 雑考


 越後国上杉謙信が北陸で攻勢を強めるなか、天正3年6月中に起こったとされている「越中寺嶋」の逆心とその鎮圧について、当ブログの『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【2】に掲げた徳川家康宛謙信書状により、6月6日の時点で謙信が在府していることと、これまで同年8月中とされていた謙信の越中国攻略と加賀国放火は、同じく『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【5】に掲げた沼田城衆宛謙信書状写により、
7月中であったことが明らかとなったので、再考の余地があるように思われたので検討してみた。


【史料】天正3年6月28日付直江大和守宛江馬輝盛書状(『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』1257号 以下は『上越』と略す)
  猶々、折々可申儀、因無差儀、乍存疎意候、意外候、有御心得、御取合頼入候、
当年未申通、疎遠背本意条、貴殿捧書状候、軈雖可令啓候、越中表可有御出馬之旨承、矯遅候、併無沙汰之至候、可然御取成任入候、就中、関左平均之由、珍重候、越中寺嶋雖逆心候、早々被相静満足候、次上方信長・勝頼、於三州去月廿一日、一戦、甲衆失利敗北候、於時宜、従信長注進之条、不能詳候、仍雖徴乏候、苦茗一箱進入候、表一儀候、尚使僧可申候、恐々謹言、
    六月廿八日      輝盛(花押)
   直江大和守殿
         御宿所


 この書状には、飛州高原の江馬輝盛から謙信側近の直江景綱へ宛てられたもので、輝盛は謙信に対し、年明けからの無沙汰が不本意なので、適切に直江景綱を通じて挨拶しなければならないと思っていたところに、このたび謙信が越中表に出馬するとの知らせを受けて、遅まきながら書状を送ったこと、謙信による「関左平均」と「越中寺嶋」の叛乱鎮圧をそれぞれ「珍重」と「満足」の意を表したこと、織田信長と武田勝頼が三河国で5月21日に戦い、武田軍が敗れたことなどが書かれており、この日付で織田軍に武田軍が撃破されたのは三河国長篠の戦いであるから、年次は天正3年に比定されている。
 謙信による「関左平均」は天正2年春夏と冬の二度にわたって行われた関東遠征、同じく「越中寺嶋」の叛乱鎮圧は天正3年6月に行われたと考えられており、さらに8月、再び越中国へ出馬し、彼の国の情勢を一変させるほどの戦果を挙げたばかりか、加賀国へ進んで国中に火を放った(『上越』1266・1267号)ことから、謙信による天正3年の北陸遠征も二度にわたって行われたと考えられている。

 ところが、『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【2】と【5】に掲げた天正3年6月6日付徳川三河守宛謙信書状と同年7月24日付河田伯耆守ほか4名宛謙信書状写により、謙信が6月中に寺嶋の逆心を鎮めたとなると、6月6日の時点で在府していた謙信が7月12日には越中国砺波郡の増山城を攻めているわけで、かなり厳しい日程となってしまい、本当に謙信が6月中に寺嶋の逆心を鎮めたのかという疑問が湧いてきた。すると、思い起こせば沼田城衆宛謙信書状写における戦況報告は時系列で書かれていない箇所があることから、江馬輝盛書状における謙信の関東遠征と寺嶋逆心の鎮圧も時系列で書かれたものではない可能性に気が付いたので、天正3年の5月から7月における謙信の動向を見直してみた。

 6月13日付けで織田信長が越後国上杉家へ宛てた書状(『上越』1255号)によると、謙信は5月19日付の書状を信長へ宛てて発している。
 この書状を信長は謙信への返書を発した当日となる6月13日に読んだもので、それ以前の5月21日に甲州武田軍を撃破した信長は、その直後に謙信へ書状を送って戦勝を報告し、自身は帰陣したが、嫡男の信忠に武田方の美濃国岩村城を攻めさせ、5月25日から6月13日に至るまで本拠の岐阜城に居て、謙信の武田領への出馬を待っていたところ、謙信はこの間に届いていたであろう信長が長篠の合戦場から送った書状には返書を出しておらず、もはや信長と通交する気が無かったようであり、5月中の謙信は、信長と連動する手筈の甲州武田領へ出馬しなかったのは勿論だが、寺嶋逆心を鎮めるために出馬した様子も窺えず、在府していたと思われる。
 6月中の謙信は、6日に遠(三)州徳川家康へ宛てて書状を発し、このたび家康から伝達された長篠における戦勝を称えるとともに、この上は当方も信州へ出馬することを伝え、28日には越後国魚沼郡浦佐の普光寺に土地を寄進し(『上越』1256号)、どちらの時期も謙信が在府していたのは明らかであり、実際に謙信が越中国へ出馬して寺嶋の逆心を鎮めたのだとすると、この6日から28日の間のことになる。
 7月に入って謙信が12日以前には越中国へ向けて出馬したことは確かであり、15日に京都から岐阜に帰城した信長は、それから間もない20日に越後国上杉家の重臣である村上国清(徳川氏に対する取次ではあるが、本来は織田氏との取次ではない)へ宛てて朱印状(『上越』1259号)を発し、累年の盟約に従い、息子の信忠を先勢として甲・信境目に在陣させて、謙信の出馬を今か今かと待っているにもかかわらず、謙信が武田領ではなくて「越中へ被相働」てしまったことを非難しているのは、長篠合戦直後から今に至っても信忠に美濃国岩村城を攻囲させている間に、謙信はどこへも出馬しておらず、7月に出馬したと思ったら、信州ではなくて越中国へ攻め入った状況に他ならないので、謙信による越中国出馬が天正3年夏から秋にかけて二度も催された事実は確認できず、謙信が寺嶋の逆心を鎮めた戦いは、江馬輝盛書状に見える「関左平均」と同じく天正2年に行われたという考えに至った。
 天正2年の謙信による北陸遠征といえば、上杉軍が激しい放火にさらされたことで知られる8月初旬の「あさひ」要害攻めとなる(『上越』1168号 )。 この「あさひ」要害攻めは、主に天正元年とされているが、「中条越前守藤資伝」(山形大学・中条家文書)の記述に従って、天正2年に行われたと考えるべきであろう。
 つまりは、天正2年の謙信による「あさひ」要害攻めこそが、寺嶋逆心を鎮めるための戦いであったのではないか。

※ あれこれ考えているうちに、ネット上で「あさひ」要害に関連する興味深い記述に出くわしました。『赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!』さんの「富山県高岡市赤丸村の古城「赤丸浅井城城主 中山直治」(寺嶋牛介の甥)の子孫達の今⇒ 「敦賀市立博物館」に残る「中山正弥家文書」に見る赤丸村での中山氏の足跡!!」によりますと、越中国砺波郡の浅井(朝日)城には寺嶋牛介の姻族であるらしい中山治部左衛門尉国松(次左衛門尉直治の先代に当たる)という人物が拠っていたとのことです。

 寺嶋牛介は赤丸浅井城から近い柴野城に拠っていたと伝わっており、謙信が攻めた「あさひ」要害とは、加賀国朝日山城とされているが、そうではなく、越中国で安養寺・瑞泉寺の両一向一揆や神保氏との戦いが続いているなかでは、越中国浅井(朝日)城と考える方が妥当ではないだろうか。
 羽州米沢上杉家の『先祖由緒帳』における御馬廻組の庄田甚五右衛門由緒には、「謙信様加州御出陣之砌…越中となミ之郡柴野五郎左衛門城御責之時…
」と記されており、謙信が越中国砺波郡の柴野城を攻めた形跡もあるので、天正2年と考えられる寺嶋の逆心とは、氷見方面の二上山(守山城を擁する)へと通ずる街道沿いの山々に並びで築かれた柴野城ヶ平城・浅井城・赤丸城に拠って立つ寺嶋一党によるもので、謙信の攻撃も大掛かりであったと思われる。
 なお、巷間で言われているように、天正5年11月23日付上杉謙信制札(『上越』1360号)と同年12月23日付上杉家中名字尽(同前1369号)に寺嶋牛介の名が見えるので、牛介は謙信に滅ぼされることなく、降伏が認められたのであろう。

※ 寺嶋牛介の実名は盛徳とされる。しかし、天正5年2月13日付小嶋甚助国綱・「寺嶋牛助綱」連署状写(『上越市史別編1 上杉氏文書集一』1319号)、天正9年9月18日付槻尾(小嶋)秀安・「寺嶋盛徳」連署状写(『上越市史別編2 上杉氏文書集二』2188号)、天正11年ヵ2月10日付寺嶋「盛徳」書状写(同前2659号)、天正11年2月14日付神保宗次郎昌国・神保民部大輔広胤・塩井宗八郎職清・唐人丹後守広・池田九郎右衛門尉師宗・寺嶋平九郎信鎮・「寺嶋与(牛)介盛」連署状写(同前2664号)といったように、発給文書はいずれも写しで、そのうちの二つは「綱」「盛」と一字しか書かれておらず、はっきりしない。盛徳が有力だとは思われるが、本来は兄の小嶋(槻尾)甚介国綱と同じく「綱」の字が付いた実名であったか、途中での改名や法号の可能性もあろう。

 最後に、謙信による天正2年秋の北陸遠征が原因によるものか、その秋に予定されていた織田信長・徳川家康との盟約による三者が連動しての武田領進攻は実行されていない。また、天正3年
7月中に越中国砺波郡を席巻して加賀国まで放火して回った謙信が沼田城衆に対し、月末に帰陣して、そのまま関東へ向かうとしていたにもかかわらず、春日山城を経て関東へ向かったのは8月22日以降のことであり、8月半ば頃まで越中国に留まっていたのは、この時期に越前国を再平定中であった織田信長の動向が気になったからではないか。


◆ 奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記』(角川日本古典文庫)
◆『中条町史 資料編 第一巻(考古・古代・中世)』13号 「中条越前守藤資伝」(山形大学・中条家文書)
◆『赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!! 「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ』「富山県高岡市赤丸村の古城「赤丸浅井城城主 中山直治」(寺嶋牛介の甥)の子孫達の今⇒ 「敦賀市立博物館」に残る「中山正弥家文書」に見る赤丸村での中山氏の足跡!!」
https://blog.goo.ne.jp/magohati35/e/5dfb0f90aa0d66c57a050ff883e3c57c

◆『先祖由緒帳』102齣「庄田甚五右衛門由緒」(米沢市立図書館デジタルライブラリー)

https://www.library.yonezawa.yamagata.jp/dg/pdf/KG014/001r.pdf

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