越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【10】

2023-04-22 16:56:26 | 雑考


【史料1】(天正4年ヵ)正月28日付寺崎民部左衛門尉宛上杉謙信書状(弘文荘侍賈古書目)
急度申遣候、旧冬如見聞者、賀州一向無正体候間、来月中与風出馬可成之候、連々労兵雖痛間敷候、如何共相嗜、一際走廻肝心候、賀州凶事出来候者、慥可為北国敗候、為其可伐先手心中候、今度之調儀、越・賀・能州初而之差合候間、可為倩候歟、相嗜、且身之方へ之奉公、且可為自由候、目出弥可申候、穴賢々々、
    正月廿八日                謙信(花押)
     寺崎民部左衛門〔尉脱ヵ〕とのへ


【史料2】天正6年2月9日付吉江喜四郎・三条道如斎宛小嶋六郎左衛門尉職鎮書状写(『上越市史 上杉氏文書集』1373号 以下は『上越』と略す)
為御両所様御承、近々南方表可被成御進発 御書頂戴、忝奉存候、就其自分嗜之儀、聊不可存由(油)断之旨、及御稟候、弥可然様御取成奉憑候、恐惶謹言、
    二月九日   小六左 職
     三道
     吉喜
       参人々御中


【史料3】天正6年2月12日付三条道如斎・吉江喜四郎宛吉江織部佑景資書状写(『上越』1375号)
急度令啓達候、仍当国衆へ御陣触之御書、并去月廿八日之御書中、今月九日午刻参着候、河豊・某為両人可申届之旨、御先書ニ示預候、同卅日之御書中ニ拙者為壱人可申触旨蒙仰候条、任其儀、各へ相届則御請共奉進上候、将又、御書札河豊へも申越候、我等手前之儀、聊無油断致御陣用意候、可然様御取成奉頼存候、恐々謹言、
             吉織
    二月十二日      景資(花押影)
     吉喜
     三道
       参 御報


 【史料1】の発給年次は『加能史料 戦国16』では天正4年に仮定されている。
 この書状は、謙信が越中衆の寺崎民部左衛門尉盛永(越中国木船城主。謙信に敗れて没落した神保氏の旧臣)に対し、旧冬に見聞きしたところでは、加賀国での形勢が一向に安定しないため、来月中に急遽、彼の表へ出馬するつもりなので、戦陣が続いて労兵にはいたわしいが、何としても心構えを高め、さらなる奮闘が肝心であることと、加賀国に凶事が起こりでもしたら、北国での敗退を余儀なくされるので、先手を打つ考えであり、このたびの戦陣は、越中・加賀・能登三ヶ国の軍勢が初めて軌を一にするので、念入りに具合を見ておくべきかもしれず、心構えさえしっかりしていれば、謙信への奉公においても、寺崎自身のためにも思いのままに実力を示せるとして、心構えを強く持つべきことを繰り返し求めたものであるが、【史料2・3】の通り、天正6年に入って謙信が越中衆に対し、「南方表」すなわち関東へ出馬するための「御陣触之御書」と正月28日付けの「御書中」を発していて、両書は同じ9日に、謙信の側近で越中国西郡代官を任された吉江織部佑景資や、もとは神保氏の重臣であった小嶋六郎左衛門尉職鎮の許へ到着していることからすると、正月28日付けの「御陣触之御書」を発した直後に、関東への越山に先んじて加賀国への出馬を思い立って発した同日付の「御書中」こそが【史料1】に当たるであろうから、この年に比定できると思われる。


※ 「御陣触之御書」に正月28日付けの「御書中」が追いついて、2月9日に同着したのだとしたら、陣触れの日付はもう少し前になるのだろう。


 謙信としては、加賀国の形勢もさることながら、新たに配下とした賀・能・越三ヶ国からなる軍勢をいきなり関東遠征に動員するよりも、馴染みある北陸の地で、自分の指揮を前もって経験させておきたいという考えが浮かんだのかもしれない。
 それはさておき、こうして新たな動員が増えたことにより、常州太田の佐竹家の客将である太田美濃入道道誉・梶原源太政景父子宛2月10日付謙信書状(『上越』1374号)では、正月19日から陣触れを始め、越後衆へ油断無く支度するように申し付けたといい、上野国女淵城将の後藤左京亮勝元・同新六父子宛2月5日付謙信書状写(『上越』1186号)では、正月26日の吉日を選んで関東衆へ陣触れを発したといい、そして【史料1・3】では、正月28日あるいはその数日前に越中衆(当然ながら加賀国・能登衆に対しても)へ陣触れが発せられているといったように、陣触れは各方面へ段階的に発せられた様子が見て取れる。


※ 諸史料集で天正2年に置かれている2月10日付後藤勝元父子宛謙信書状を天正6年に移したのは、天正2年に謙信は正月18日に関東へ向けて出府し、2月5日には上野国沼田城に到着しており(『上越』1187号)、謙信が後藤父子に対し、父子の新田表での戦勝を伝える関東代官の北条丹後守景広と父子からの書状が到来し、いずれも披見したこと、父子の心馳せのほどに感じ入っていること、相州北条軍の動向を昼夜案じており、目付を放ち、異変があった場合の注進を待っていること、そして、当春の越山を企図し、正月26日に陣触れをしたので、その間の稼ぎが肝要であると伝えているからには、2月5日の時点で謙信が在府していたのは明らかであるため、天正2年の発給文書とは考えられない。
 では、なぜ天正6年に比定できるのかといえば、越・相同盟破談後における謙信の各年春の動向を追うと、元亀3年は前年から関東在陣中、同4年は同じく北陸在陣中、天正2年は前述の通りで、同3年は在府しているが、正月21日に甥の上田長尾喜平次顕景改め上杉弾正少弼景勝を養子に迎えたので、同人の軍役を改定するところとなり(天正2年6月20日の吉江与次改め中条与次景泰の軍役改定の事例による)、これを機に2月9日から同16日にかけて越後衆の軍役を見直し、軍役帳に取り纏めていたり、同19日には連歌百韻を催したりしていて(『上越』1211・1241・1243・1244・1245・1247・1248号)、この春に謙信がどこかへ出馬しようとしていた様子は窺えず、同4年も在府しているが、前年以来、能州畠山家の年寄衆からは越中・加賀表への出馬を勧められ続けており、勧めに応じていれば、2月20日に畠山年寄衆から北陸在陣中の越後衆へ宛てられた書状(『上越』1281号)はそれに相当する内容となったはずだが、そうではなく、越後衆に対し、謙信の出馬について、まだ知らされてはいないのかどうかを尋ねるとともに、この好機を逃さずべきではないと出馬を勧めている内容であり、一方、2月17日に謙信が佐竹義重主従へ宛てた書状(『上越』1024・1025号  『戦国遺文 下野編』1107・1108号)にも越山についての記述は一切無く、謙信が北陸にも関東にも出馬を企てていた様子は窺えず、同5年は前年の秋から越中国へ出馬して平定を成し遂げたのち、11月から当春中にかけては能登国の攻略に取り掛かっていたわけで、春中に陣触れを発していたことが明らかなのは同6年のみだからである。
 それから、吉日という観点からすると、陰陽道では極上の吉日となる天赦日が春は戊寅といい、天正6年の正月26日が戊寅に当たるそうなので、年次比定の根拠のひとつに加えられるかもしれない。


【史料4】天正5年2月10日付吉江喜四郎宛神保安芸守氏張書状写(『上越』1318号)
御書致拝見候、賀州未落居付、可被進御馬之由、尤奉存知候、手前之儀、分際相当嗜、不可存油断候、此等之趣可預御披露候、恐々謹言、
            神保安芸守
    二月十日         氏張居判
       吉江喜四郎殿


 この【史料4】もまた神保氏旧臣である神保安芸守氏張(越中国守山城主)から、謙信最側近の吉江喜四郎資賢(信景)へ宛てられた書状であり、諸史料集では天正5年に置かれているが、同じく小嶋職鎮が吉江資賢・三条道如斎信宗へ宛てた【史料2】と通ずる内容であるし、日付もほぼ同じであるから、これも天正6年に移した方が良いと思われる。
 ただし、【史料2】には関東への「御進発」と見えるにもかかわらず、【史料4】では触れられていないのは、正月30日付けの「御書中」で謙信の加賀国への出馬は撤回されたのだと思われるが、越中西郡衆に同書の内容を申し触れる立場にあった吉江景資との在所の距離的な事情によって神保氏張にはまだ伝わっていなかったからではないか。


◆『加能史料 戦国16』(加能史料編纂委員会編)247頁 寺崎民部左衛門尉宛上杉謙信書状

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする