越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【9】

2023-04-17 23:59:43 | 雑考


【史料1】天正4年9月朔日付水越左馬助宛織田信長印判状写(歴代古案 巻十一)
至其表謙信就出馬、注進之趣聞届候、即彼備飛脚差遣候、随返事、無事可相談候、不然者、加勢之義〔儀〕、急度可申付候、何篇不可見放候、其間之事、当城堅固可被相踏儀、簡〔肝〕要候、猶権左衛門尉可申候、謹言、
    九月一日                 信長
     水越左馬助殿


 水越左馬助は、かつて越中国中央部の富山地域まで勢力を広げた西部の神保長職(増山城主)の重臣であった水越孫次郎職勝(富山城の築城を任されたと伝わる水越越前守勝重の世子とされる)の一族であろう。水越一族は、元亀3年夏に加賀・越中両国一向一揆が大挙して越後国上杉家に立ち向かってくるまでは上杉方であった神保長職(号宗昌)・同長城(長国)父子が賀・越両一向一揆方に転身すると、小嶋六郎左衛門尉職鎮をはじめとする神保家の重臣たちと共に、主家とは別行動を取って上杉方に留まったが、やがて小嶋職鎮たちとは袂を分かち、主家に復帰したようで、上杉軍の攻勢によって賀・越両一向一揆方が後退を余儀なくされているなかで、水越惣領の職勝は姿が見えなくなり、左馬助が代わって神保長国(長住)を支え、織田信長の後援を受けて上杉軍に抵抗し続けていた。
 信長はその水越から、謙信が神保領内に出馬したとの注進を受けて返書を送り、柴田勝家が率いる北国衆の陣中へ飛脚を遣わして、謙信との無事がまとまるようであれば、交渉を進めさせ、それが達せられなければ、北国衆に必ず加勢を申し付けるので、いずれにしても見放したりはしないので、成り行きが判明するまでの間、守城を堅持するように伝えたもの。副状を取次の佐々権左衛門尉(のちに信長から一字を拝領して長秋を名乗る)が送っている。


【史料2】天正5年3月朔日付織田信長黒印状(福井県 個人蔵文書)
七尾表謙信引退之趣、委細申越候、誠入情〔精〕注進悦入候、猶以実儀承合可申上之段専一候、漸可雪消候条、至賀州進発不可有遅々候、次堅〔海脱ヵ〕苔一桶到来、遥々懇情珍重候、猶武藤宗右衛門尉(舜秀)可申候也、
    三月一日                 (黒印)
                          (馬蹄形、印文「天下布武」)


 宛所を欠いているが、越前国三国湊の商人森田三郎左衛門尉であるらしい。
 天正4年8月中に越中国へ出馬した謙信は、同年9月8日以前に栂尾城(新川郡か)と増山城(砺波郡)を続けざまに攻め落として神保家を没落させ(『上越』1307号)、織田陣営に属する飛州姉小路三木氏の押さえとして飛州口に地利二ヶ所を築き、8日からさほど経ずして、別動隊に攻めさせていた氷見の湯山城(射水郡)も手に入れ、この春に和睦して指揮下に加えた加賀国一向一揆の内紛が起こったので、これを収めるために仲介の労をとり、11月中旬までには、越中国全土の平定と内紛の調停を成し遂げると、11月下旬に能登国へ進んで、能州畠山家の本拠である七尾城以外の要地を攻め落とし、残る七尾城を攻め立てるなか、向城の石動山城を築いて本陣を構え、12月24日には旗本部将の直江大和守景綱・山吉米房丸・吉江喜四郎資賢・河田対馬守吉久・船見衆らに、今後の西進を見据えた能州攻略に向けて、軍役の人数を一騎一人も欠けてはならず、それでも欠員を出した場合には本国から人数を呼び寄せることや、軍役の如何を問わずに御諚次第では、明けて正月10日以内の御用に合わせた増員の人数を呼び寄せることなどを誓わせ(『上越』1315号)、同28日に七尾城下の大寧寺口攻め(「多功勘之丞由緒」)で年内の攻撃を納めると、石動山城で越年したと思われる。
 年が明けて謙信は七尾城攻めを再開し、そうしたなかで奥能登衆が七尾城に入城するとの情報を得て、草の者を主体とした軍勢を待ち伏せさせて阻止する(「多功由緒」)などしており、2月10日に備後国鞆の御所足利義昭の許へ書状を発し、能州攻略が間もなく落着することを知らせ(『上越』1317号)、同17日には、先の増山城攻めや七尾城攻めで活躍した十代半ばの多功勘之丞のように手柄を挙げたものか、近習の荻田孫十郎からの要望を受けて長尾家にゆかりの「長」の一字を与え(『上越』1321号)、3月27日には石動山城に在番する河田窓隣軒喜楽・同対馬守吉久・上田衆からの増員要請に応じ(『上越』1330号)、文意からして謙信は石動山城からそれほど遠くない場所に居るのは確かなので、これより以前に上杉軍本隊は越中国に移陣したと思われるが、それは先の『上越』1317号と、ここに掲げた【史料2】により、七尾表を引き上げたのは2月中旬から下旬にかけての頃であったことが分かる。
 3月以降の謙信の動向は詳らかでないが、6月朔日には、越中国奥郡に在陣して能登国七尾城と対向している旗本部将の河田豊前守長親(越中国東郡代官)・鯵坂備中守長実(同西郡代官)・吉江織部佑景資へ宛てて書状(『上越』1338号)を発し、大吞口放火の報告に対して満悦の意をしたことと、同7日には、前年夏以来の懸案事項である会・佐一和を取り持つため、隣国の奥州会津の蘆名盛氏(止々斎)と関東味方中の佐竹義重の許へ使者として萩原主膳允を遣わしており(『上越』1103・1104号)、盛氏へ送った別紙の覚書(『上越』1340号)では、「上口」からの帰陣後、すぐにでも連絡するべきところ、少し体調を崩していたので、遅れてしまったと弁明していることから、謙信は5月中に帰府していたであろう。
 謙信は5月12日に近習の本田弁丸からの要望を受けて長尾家にゆかりの「長」の一字と、ついでに孫七郎の仮名を与えているが(『上越』1334号)、この一字授与は、北陸在陣中と帰府後のどちらに行われたのかは分からない。


※ 記事を投稿した際には失念していたが、次に挙げる史料により、謙信が4月10日の時点でも越中国に在陣していたことが分かるので、説明を補足する。

【史料3】(天正4年ヵ)4月10日付吉江喜四郎宛直江大和守景綱書状写(『上越』1285号)
昨日御懇趣具奉得其意候、仍鶯儀、被仰付候間、彦三申付候、かこ花桶之事、山相尋申、重上可申由、御心得尤候、然、大呑動仕候由被聞召候段、努々不存儀、惣別去月四日御当地罷移以後、何一騎一人差遣不申、先日参上仕時分、彼口動之儀、御直仰出之旨(無脱ヵ)御座候、弥以致思慮御事候条、不被仰付候処可仕候哉、御次之時分被御申上奉頼候、随、昨日石動罷上見舞申候、各無在女(如在ヵ)稼被申候、目出重可申達候、恐々謹言、
              直和
    卯月十日       景綱
    吉喜
      御陣所


 この書状は『謙信公御書集』が天正4年に置いているもので、能登・越中国境辺りに在陣している直江景綱が、謙信側近の吉江資賢を通じ、仰せ付けられた鶯・鳥籠・花桶などの調達についてのこと、能登国大吞口(鹿島郡。能・越国境に位置する)へ軍勢を動かしたと聞し召されているそうであり、それは全くの事実無根であること、去る4日にこの地への在陣を命ぜられ、移って来て以来、一騎一人も遣わしてもおらず、つい先日、参上した折にも、彼の口へ軍勢を動かすといった命令は仰せ付けられていないにもかかわらず、勝手に遂行したりはしないこと、昨日には石動山城へ上って城衆を見舞ったところ、いずれも抜かりなく任務に励んでいることなどを、書状が翌日には届くほどの地に在陣中の謙信へ申し上げている。4年の4月にはまだ越後国上杉軍の能登国大吞口への進攻が取り沙汰されるような時期ではなく、越後衆が同国石動山城に配備された時期は4年の12月からなので、発給年次は天正5年と考えられる。よって、謙信は4月10日の時点でも越中国に在陣しており、帰国の途に就いたのは、これ以降となるであろう。
 


◆『加能史料 戦国16』(加能史料編纂委員会編)288頁 水越左馬助宛織田信長印判状写、309・310頁 織田信長黒印状
◆ 柴裕之「織田・上杉開戦への過程と展開 ーその政治要因の追究ー」(『戦国史研究』第75号 戦国史研究会)
◆『先祖由緒帳』122齣「多功勘之丞由緒」(米沢市立図書館デジタルライブラリー)
https://www.library.yonezawa.yamagata.jp/dg/pdf/KG014/003r.pdf

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