【史料1】天正4年9月21日付国司右京亮・児玉三郎右衛門尉宛常在院日珠・大館藤安連署書状(山口県 毛利博物館所蔵 毛利家旧蔵文書)
(封紙ウワ書)
「 常在院
国司右京亮殿 大館兵部少輔
児玉三郎右衛門尉殿 藤安」
越・甲・相三和之儀、上意之趣対上杉謙信申渡候処、彼存分条々言上候、就其公儀江御注進申上候、随而謙信出馬之儀、被応御下知、既至賀州境目居陣候、然者貴国御出勢待合、上表へ可有出張由候条、弥急度御行簡〔肝〕要令存候、猶委細佐々木源兵衛尉・長巻軒へ申渡通、可然様可被申入候、恐惶謹言、
九月廿一日 藤安(花押)
日珠(花押)
国司右京亮殿
児玉三郎右衛門尉殿
越・甲・相三和について、足利義昭が東国へ使者として常在院日珠と大館藤安を遣わすと、その両使が芸州毛利家の重臣である国司元武と児玉元良へ宛てて書状を送ったもので、上意の趣を「上杉謙信」に申し渡したところ、謙信が条々をもって存分を言上したこと、謙信はすでに「賀州境目」へ出馬し、毛利軍の出勢に待ち合わせ、「上表」へ進むつもりでいるので、いよいよ迎えたこの機会に必ず毛利家も戦陣を催されるべきこと、これについては同行した毛利家の使者である佐々木源兵衛尉と長巻軒に申し渡したので、両人からも申し入れられることを伝えており、『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【7】に掲げた【史料4・5】で、謙信が反織田信長陣営の各所へ伝えていたように、謙信は「越前口」・「越前表」へ進むことを見込んで、この秋に「賀州境目」へ出馬したことが分かる。
※ 当ブログの『芸州毛利家からの使者』において、毛利家から越後国へ遣わされたであろう使者の佐々木源兵衛尉は、必ずしも毛利氏あるいは吉川氏の家臣とは限らない、としましたが、『吉川史料館たより』第70号(2)「部屋住み時代の頃」によりますと、吉川元春の三男で、兄の元長の跡を継いだ広家(経言)が部屋住み時代であった頃の奉公衆にその名が見えますので、もとは元春に仕えていた人物のようです。
https://www.kikkawa7.or.jp/hokanko/70_2.pdf
【史料2】天正4年9月15日付河田長親・直江景綱連署覚書写(『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』1310号)
覚
一、謙信於心馳者、毛頭不被存油断候、淵底御使者中御見聞之事、
一、今日迄者存分之侭ニ候、三ヶ国無事之儀、是者謙信存分之旨候間、於越・甲計者可応 上意候歟、相州於可被差添者、被致滅亡候共、亦得御勘当候共、無二存切候事、
一、此度御入洛至御延引者、末々之御本意不及分別候由之事、
一、西御行於御遅延者内意之事、
一、手前々々御奉公被仰付、其上真 上意申処可被御覧望由之事、
以上、
九月十五日 景綱
長親
ここに掲げた【史料2】は、謙信が足利義昭に対し、義昭から勧告されている越・甲・相三和について、越・甲無事は上意に応じたとしても、これに相州が加わることは、自分が滅亡しようとも、また義昭から勘当されようとも、絶対に応じられない覚悟であるといった存分などを、重臣の河田長親(越中国代官)と直江景綱をもって申し上げたもので、近年は天正3年に発給された文書として扱われているが、【史料1】に見える謙信が義昭に存分を言上した「条々」とは、この条書に当たる可能性があり、発給年次は『上越市史 上杉氏文書集』に置かれている天正4年のままで良いのかもしれない。
◆『加能史料 戦国16』(加能史料編纂委員会編)289頁 国司右京亮・児玉三郎右衛門尉宛常在院日珠・大館藤安連署書状
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