越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【15】

2023-05-13 18:56:57 | 雑考


【史料】天正3年7月19日付越後国上杉家宛今川氏真書状写(徳川林政史研究所所蔵古案第六冊義元所収)
急度啓達、駿州家康依出張、令同心、即向敵城候、累年申通之入〔処ヵ〕、此節候歟
、自家康定委細雖可被申候、別而自分御合力、此時相極候、早々信州表御出馬、所希候、猶権現堂可有才覚候、恐々謹言、
 七月十九日         宗誾(花押影)
 上杉殿


 すっかり忘れていたが、
『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【2】 - 越後長尾・上杉氏雑考で取り上げなければならなかった文書であり、越後国上杉謙信が遠(三)州徳川家康から天正3年5月21日の三河国長篠合戦直後に寄せられた戦勝報告と自身への信州出馬の要請を受け、同年6月6日付けの返書において、家康の戦勝に満悦の意を表するとともに、自身への出馬要請に心得た旨を伝えたのに対し、駿州在陣中の家康と今やその庇護のもとにある今川氏真(号宗誾)が改めて謙信へ信州出馬を求めたもので、双方の書状に家康の使僧である権現堂叶房光播が見えることから、権現堂はとんぼ返りで駿州陣から越府へ向かったことになる。
 濃(尾)州織田信長が謙信に対して長篠合戦直後と岐阜から、徳川軍と共に戦って武田軍を破った戦勝報告と謙信への信州出馬の要請をしたが、いずれも応答はなかったので、ここに掲げた今川氏真書状写と天正3年7月20日付村上源五宛信長朱印状写(『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』1259号)の日付から考えても、やはり信長は家康の手筋を用いて、上杉家と徳川家の間の取次を務める謙信一家の山浦(村上)国清に接触を図るしかなかったのであろう。


◆ 久保田昌希・大石泰史・糟谷幸裕・遠藤英弥編『戦国遺文 今川氏編』(東京堂出版)2572号 今川氏真書状写

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