【史料】知恩寺岌長副状(『栃木県史』576号)
(封紙ウハ書)
「 知恩寺
謹上 千手院 岌長
御報 」
就御当城御鎮座之儀、急度従御衆中御祈祷之巻数并御樽一荷、御肴三種、進納、珎重之義(ママ)候、并従貴院扇子両金、抹茶一壺、別而御進上之段、条〻目出被思召候、将又愚所へ扇子両金、被懸御意候、毎事御懇志之至候、自 上意御内書被成之候間、可為御祝著(ママ)候、猶期後音候、恐〻謹言、
八月廿八日 岌長(花押)
謹上 千手院
御報
当ブログの『越後国上杉輝虎の略譜』で引用しました知恩寺岌長副状ですが、岌州以前の知恩寺住持に岌長が存在し、岌州だけではなくて岌長も関白近衛前嗣(前久)の関東下向に同行したことを知らず、この副状の岌長は岌州の誤記であろうと思い込み、岌州として扱ってしまいました。
「知恩寺長老」が越後国へ下向するという元亀4年5月8日付けの濃(尾)州織田信長の重臣である細川藤孝が越後国上杉家へ宛てた書状(『上越市史 別編1 上杉家文書集一』1154号)を見掛け、当時の岌州の動向が気になって調べていたところ、以下の論考に接しまして、岌長の存在を知ることになったわけです。
加澤昌人『上杉謙信の法体について』によりますと、京都百万遍知恩寺二十八世の岌長は、天文22年6月に知恩寺の住持となるまでは越後国直江津の善導寺の住持であり、同年冬における越後国長尾景虎の上洛に大きな役割を果たしたということでした。そして、藤本顕通『知恩寺岌州伝新考』には、まさしく「前久の関東滞在中に知恩寺長老岌長(同寺廿八世)が鑁阿寺千手院に対して前久への進物の礼を述べている。」と記されていました。
略譜に引用した当時、少しの手間を惜しんだがゆえに、これらの論考に辿り着くことができませんでした。というわけで、『越後国上杉輝虎(上杉政虎)の略譜【13】』の岌州を岌長に改めさせてもらいます。
◆ 加澤昌人「上杉謙信の法体について ー高野山無量光院清胤とのかかわりからー」(『鷹陵史学』1号)
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/ОS/0016/ОS00160R255.pdf
◆ 藤本顕通「知恩寺岌州伝新考」(『印度學佛教學研究』第41巻第2号)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/41/2/41_2_665/_pdf/-char/ en
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