越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉輝虎(長尾景虎。号謙信)から「長」の一字を与えられた越後衆について

2020-10-18 21:50:20 | 雑考

  以前、当ブログにおいて、越後国上杉輝虎(長尾景虎。号謙信)から一字を与えられたと思われる関東・北陸の味方中や越後衆を列挙したが、越後国長尾家に由来する「長」の一字を与えられた越後衆のうち、輝虎から与えられたのかどうか、考えあぐねる人物が出てきてしまった。

 上杉輝虎から「長」の一字を与えられたであろう越後衆として(実名が文書では確認できない人物も含む)、外様衆の新発田尾張守長敦、譜代衆の大熊新左衛門尉長秀・甘糟近江守長重、旗本衆の吉江 長資(通称は与橘か。のちの織部佑景資)・新保八郎四郎長重・山田修理亮長秀・三潴出羽守長政・本田右近允長定・河田豊前守長親・鯵坂清介長実・飯田孫右衛門尉長家・三潴左近大夫長能・寺嶋六三長資・荻田孫十郎長繁・本田孫七郎長信・富永清右兵衛尉長綱・岩船彦五郎長忠らの名を挙げたが、長尾景虎期に「長」の一字を与えられたであろう譜代衆の大熊長秀・甘糟長重を除くと、ほぼ旗本衆で占められてしまい(吉江から鯵坂あたりまでは景虎期に一字を与えられたのではないか)、外様衆の新発田長敦だけが浮いて見えることに気が付いた。この新発田は永禄12年から源次郎、天正3年から尾張守長敦として見えるので、長尾景虎期に「長」の一字を与えられたとは考えにくい。

 上杉輝虎は、長尾景虎期には長尾家の通字である「景」と、実父の長尾為景が好んだらしい「長」の一字を越後衆の功労者や希望者などに与えており、なぜか実名の下の字である「虎」の一字は与えず、父の為景に倣ってか、「長」の一字を替わりに与えていた。山内上杉家を継いだのちは、「長」の一字を中小・新参の旗本衆や味方中の陪臣などに与えるものとして、一家・外様・譜代衆、大身の旗本衆に与えた「顕」と「景」の両字とは明確に区別したようであり、新発田長敦は輝虎以外の人物から一字を貰った可能性がある。

とは言え、上杉輝虎と次代の上杉景勝は、一族家中の有力者たちの長男に「景」の一字、次男に「長」の一字を与えていた事例があり、そうなると、新発田長敦の前代である尾張守忠敦には、後継者たる男子がいなかったらしく、近親者の右衛門大夫(のちの新発田因幡守重家)は輝虎の肝煎りによって早々に独立していたからか、外様衆の最有力者である中条越前守の「御舎弟」(『上越市史 上杉氏文書集』624号 以下は上越と略す
)を養子に迎えていたと考えられるので、『中条氏家譜略記』には「謙信公御諱賜景御一字、実名号景資」と書かれており、輝虎(謙信)から兄の中条越前守は「景」の一字、弟の新発田源次郎は「長」の一字を与えられた可能性があるため、長敦の名を一覧から除外するまでには至らなかった。

 最後に、新発田長敦が上杉輝虎以外の人物から「長」の一字を貰っていたとしたら、その人物は誰であったのかを考えてみる。長敦の前代である新発田忠敦は外様衆では一二を争うほどの有力者であり、同じく外様衆の有力者であった本庄弥次郎繁長が上杉輝虎に遺恨があるとして、甲州武田・相州北条陣営と通じて反乱を起こした際、国内の越後衆が越府の春日山城、次いで揚北の村上陣に参集し、輝虎と諸将が誓詞を取り交わしたところ、忠敦の後継者であった長敦(源次郎)は輝虎の傍らでそれを見聞していた。そのなかには、やはり外様衆の有力者であった色部修理進勝長の嫡男である弥三郎顕長と、色部とは同族である鮎川孫次郎盛長がいて、輝虎が外様衆の最有力者であった中条越前守と忠敦のそれぞれへ宛てた書状のなかで長敦(源次郎)は、前者では色部顕長と、後者では鮎川盛長と一緒に現れており(『上越』624・672号)、わざわざ一緒にその名が挙げられていることに、長敦と二人との関係が窺える。そして、元亀2年の時点で新発田領内に鮎川盛長の知行地が存在していたこと(『上越』1030号)、長敦の次代である因幡守重家は鮎川盛長と入魂であったこと(『上越』1882・1953・2543・2549号)、その重家の妹か娘が色部修理大夫長真(顕長の弟で後継者となった)の妻と伝わっていること(『上杉家記』三十 ◆『越後三条山吉家伝記之写』)、これらのことから、佐々木加地一族の新発田氏と秩父本庄一族の色部・鮎川両氏が親しい間柄であったと思われ、長敦は色部勝長・同顕長父子、鮎川盛長のうちの誰かから秩父本庄一族の通字である「長」の一字を貰ったのかもしれない。

※ 黒田基樹氏は、『戦国大名と外様国衆』(文献出版・戎光祥出版)の「那波氏の研究」の註において、まず、本文での上野国衆・那波次郎顕宗の「顕」字は上杉謙信から授与されたものととらえられる点については、栗原修氏の御教示によると断ったうえで、「上杉謙信が家臣や従属国衆に対して授与した一字としては、「景」「輝」の偏諱のほか、「顕」(「反町英作氏所蔵文書」『新潟県史 資料編4』1684~5号)・「長」(「吉江文書」『新潟県史 資料編5』3681号等)の存在が知られる。このうち「顕」字については「当家有謂字」と述べられているように、山内上杉氏の通字の一つ(憲顕・房顕・顕定・顕実)ととらえられる。上野国衆では、那波顕宗の他、館林長尾顕長も同字を授与された人物としてとらえることができよう。」と書かれている。

※ 広井造氏は、『定本 上杉謙信』(高志書院)の「謙信と家臣 〔 2 家臣団の統制・掌握 (仮名・名乗り・官途)〕」において、「幼名岩鶴丸と呼ばれた河田は、仮名を「九郎左衛門尉」、官途名を「豊前守」、名乗りを「長親」といった。若干ではあるが、「仮名」・「名乗り」について、謙信が家臣に与えた例として、色部弥三郎(顕長、永禄7年〔1564〕、県史1684)荻田孫十郎(長、天正5年〔1577〕『越佐史料』巻五、375頁)嶋倉次郎丸(吉三、元亀2年〔1571〕~天正6年〔1578〕の間、県史2436)本田弁丸(孫七郎、長、天正5年〔1577〕、県史4025)安田久千代丸(弥九郎、元亀2年〔1571〕~天正6年〔1578〕の間、県史1572)安田惣八郎(顕、年不詳、県史1685)吉江亀千代丸(長、元亀2年〔1571〕~天正6年〔1578〕の間、県史3681)がある。また、『御家中諸士略系譜』によると、北条景広・直江景綱は、それぞれ元亀元年(1570)、天正初年に謙信から「景」字を与えられたという。謙信が烏帽子親として名乗り一字を家臣に与える場合、「長」字を与える例が多いことは、すでに阿部洋輔氏が指摘している。阿部氏はこれを「謙信が好んで花押にも用いた“長久”に由来する」と分析している。花押での使用例については、阿部氏は別に論文を発表している。また、「長」という字句については、謙信自身の願文類に、しばしば「安全長久」・「長久安全」・「長久無事」・「武運長久」・「無事長久」という文言が見える。こうした事例から考えて、史料上は確認できないが、河田長親についても、「長」字は謙信から与えられた可能性がある。ちなみに、表2(『新潟県史 通史編』作成の上杉氏奉行人一覧のこと。次頁に人名を載せておく)では河田長親の他に、三村・飯田・鯵坂の三人が「長」字を名乗りに用いており、同様の可能性がある。「景」字は長尾家の通し字である。『御家中諸士略系譜』の福王寺景重の項には、「長尾左京亮景明嫡女玉フ故ニ景之一字御免」とみえ、この字を名乗りに用いることの重大さを物語っている。ちなみに、表1(天正三年上杉家軍役帳のこと)では上杉景信・中条・千坂・長尾小四郎の四人、表2では北条・直江の他に、山吉・松本・長尾・吉江・柿崎・長らが使用している。色部弥三郎と安田惣八郎が与えられた「顕」字については、安田宛の書状中に、「当家ニ有謂字之由」とある。色部が与えられたのは永禄七年(1564)であるが、この年は、長尾顕景(上杉景勝)が父政景の急死により、謙信の養子として引き取られた年にあたる。あるいは謙信は、来るべき顕景政権を想定し、その重臣として色部を位置づけようとしたための一字状だったのかもしれない。官途授与については、阿部氏も指摘するように、謙信の代では史料上の確認ができない。しかしながら、たとえば河田長親の官途は「豊前守」であるが、これは謙信が受け継いだ古志長尾家代々の受領名である。おそらく「豊前守」は、長親が謙信から、古志長尾家の継承者として与えられた官途名ではないだろうか。仮名・名乗り・官途の授与による家臣団の統制については、景勝期にも事例がある。謙信期については、現段階において史料上の制約が大きいが、今後の新たな分析視点として有効である。」と書かれている。

※ 長尾景虎が山内上杉家を継いで上杉輝虎(政虎)となってからは、それまでの「景」と「長」の両字に加え、山内上杉家にゆかりの「顕」の一字を関東味方中や越後衆へ与えるようになり、この一字が最も格上になったと思われるが、永禄13年に養子の上杉景虎に自分の初名を、天正3年に同じく上杉景勝に「景」の一字を与えたことにより、「景」の一字が最も格上になったと思われる。

※ 大熊長秀は、越後上杉氏の家臣で、段銭所・公銭方奉行人であった大熊朝秀の子。父に従って上杉氏(長尾氏)を離反し、甲斐武田氏に仕えた(『戦国人名辞典』の大熊朝秀・大熊長秀の項による)。

※ 謙信一家の山本寺伊予守定長には嫡男の松三景長のほか、次男に又四郎長定がいたようであり、もしこの通りであれば、謙信は兄弟のそれぞれに「景」と「長」の一字を与えた可能性がある。また謙信は、最側近の吉江織部佑景資の長男に「長」の一字、次男に「景」の一字を与えており(『上越』1398・1470号)、むしろ逆であるから、これでは事例に当たらないと思われるかもしれないが、この場合は兄弟の生母が違い、次男の生母の方が身分が高かったからではないだろうか。謙信の次代である上杉景勝は、信濃衆の須田相模守満親の長男である右衛門大夫景実に「景」の一字、次男である大炊助長義(初めは又太郎長実を名乗ったらしい)に「長」の一字を与えたようであり、系図の通りであれば、一家衆の上条入道宜順(弥五郎政繁)の長男は弥五郎景広、次男は源四郎長員を名乗ったといい、侍中の千坂対馬守景親の長男は太郎左衛門尉景明、次男は与一長朝(『家督先後録』によると、初めは長親を名乗ったらしい)を名乗ったというから、彼らの息子たちにも両字を与えた可能性がある。

※ 『中条氏家譜略記』によると、中条越前守(弥三郎)は上杉輝虎から一字を与えられて景資を名乗ったという。これは文書では確認できないが、越前守の家柄と実績からして、十分あり得ることなのだろう。ただし、年次未詳7月15日付築地彦七郎宛某房資書状(『新潟県史 資料編』1446号 以下は『新潟』と略す)からすると、初名は房資で、のちに景資を名乗ったようである。この書状には「直和家風小柴下人之儀、其元退散候処、相拘不返之由候間、其身参府之上、従和州房資方、色々理之旨候間、書中差越候、彼才覚之様於爰元承届候、子細不可入候、早々彼者方可被渡返事、不可移時日候、尚重而可申越候間、不具候、謹言、」と記されている。まず、書中に現れる「直和」「和州」は、『新潟県史』では直江大和守とされており、これに異論はないであろう。受給者の築地彦七郎が所見されるようになったのは天文8年からで(『戦国人名辞典』築地資豊の項)、その頃に直江氏の当主といえば、天文15年に初見される直江掃部入道酒椿と思われ、輝虎の最側近であった直江大和守景綱(実綱・政綱)の前代に当たる。この酒椿は、直江氏の系図などでは大和守親綱に相当する人物となるが、終見の天文23年においても掃部入道であり(『上越』119号)、大和守を称した形跡はないので、ここでの「直和」「和州」とは直江景綱のことであろう。そうなると、景綱が通称を与右兵衛尉から大和守に改めたのは永禄4年中であり(『上越』253・291号)、書状の年次は特定できないが、永禄年間の中期から後期にかけて発給されたものと思われる。そして、発給者の某房資は、文意と書式からして築地氏の主筋に当たる中条氏であろうから、長尾景虎期の天文末年から現れ、謙信期の天正元年に死去したとされる中条越前守(弘治元年頃に弥三郎から越前守に改めた)ということになる。越前守が死去した年次は系図によるものであるが、天正2年に謙信の近習であった吉江与次景泰が中条氏を継いでいるから、正しく伝わっているのだろう。

※ 新発田長敦が色部勝長父子か鮎川盛長のうちから一字を付与されたのだとしたら、仲間内で偏諱のやり取りをしているわけである。こうした事例としては、天正3年に、長尾景虎の旗揚げ時から謙信とは繋がりが深かった譜代衆の上野中務丞家成の次男である上野彦九郎は、謙信側近の吉江景資に頼んで「資」の一字を付与されている(『新潟』1603号 )。それから、永禄年間の中頃、譜代衆で関東代官の北条丹後守高広(安芸守。安芸入道芳林)の一族である北条右衛門尉親富(長門守)は、北条高広の娘婿で輝虎の寵臣であった河田長親から一字を付与されたのではないだろうか。諸史料集では上野彦九郎に宛てられた名字状の発給者を中条景資としているが、
『石井進氏蒐集史料細目録』によれば、花押形からして吉江景資であることが示されている。また、上野氏系図(『新潟』1599号)は、上野家成の長男である源五郎(『上越』1625号)を資家としているが、恐らく彦九郎と取り違えられたのであろう。『御家中諸士略系譜』における上野嘉右衛門家秀(『上杉家御年譜 三 景勝公』と『寛永八年分限帳』では喜右衛門と記されている)の項と『先祖由緒帳』における五十騎組の上野次郎右衛門由緒によれば、景勝期に上野氏の当主であった中務丞秀家には男子がなかったので、上田衆の泉沢河内守久秀の甥である次郎右衛門を養子に迎えたというから、源五郎は秀家を名乗った可能性がある。

※ 『越佐史料 巻五』に収録されている新発田氏の系図では、伯耆守綱貞 ー 尾張守長敦(源次郎)ー 因幡守重家(五十公野源太)と続くが、文書では、源次郎能敦 ー 伯耆守綱貞 ー 尾張守忠敦(源次郎)ー 尾張守長敦(源次郎)ー 因幡守重家(初めは新発田助次郎(『上越』247号)か、新発田右衛門大夫(実名は綱成か)、五十公野右衛門尉・因幡守重家)と続いている。色部長真の妻は新発田重家の妹か娘とされており、『上杉家記』は重家の妹(『越後入廣瀬村編年史』161頁)、『三条山吉家伝記之写』は重家の娘(『三条市史 資料編』317頁)としているわけで、前者が正しい場合、忠敦の前代である新発田伯耆守綱貞は、その実名と受領名からして、能敦の実子でも忠敦の実父でもなく、本来は当主となる人物ではなかったように思われ(能敦の弟あたりか)、能敦の実子が忠敦で、綱貞の実子は重家という可能性があるため、長真の妻は綱貞の娘なのか忠敦の娘なのかが分からない。

※ 上杉景勝に反逆した新発田重家と鮎川盛長は、その死後には色部長真によって供養された。新発田は天正15年に敗亡し、鮎川はどのような最期を迎えたのかは不明だが、天正16年以前に死去したのは確かである(『新潟』1983号)。


※ ここで名前の挙がった越後衆のうち、本文と注記では文書番号を付していない人物、文書では実名が分からない人物、通称や実名の変遷が分かる人物などを確認できる史料を示しておく(登場順。謙信養子の上杉三郎景虎と上杉弾正少弼景勝は除く)。

 新発田源次郎(『上越』624号)
 新発田尾張守長敦(『上越』1246・1369・1527・1571・1753・1818・3795号)

 大熊新左衛門尉長秀(『上越』1693号)

 甘糟近江守長重(『上越』2733・3542号)

 吉江与橘長資(『上越』155・162号 ◆ 通称の与橘は『越佐史料』所収の甘糟継成編〔吉江系図〕(巻五は291頁、巻六は222頁)による)
 吉江織部佑景資(『上越』1227・1243・1338・1375号

 吉江常陸入道宗誾(『上越』2163・2215・2359号)

 新保八郎四郎長重(『上越』234号)

 山田修理亮長秀(『上越』1164・1651・2153号)

 三潴出羽守長政(『上越』365・640号)

 本田右近允長定(『上越』286・560・1369・1419号 ◆ 実名の長定は『謙信公御書集』の永禄4年9月13日付本田右近允宛上杉政虎感状の綱文による。同書の永禄2年11月28日条と『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の本田石見守重政の項では実名は重政となっているが、嫡男の孫七郎は謙信から「長」の一字を与えられているのは確かであるにもかかわらず、同系譜の本田源右衛門重方の項では実名が重方となっていることからして、右近允(石見守)が重政を名乗ったというのは大いに疑問である)
 本田石見守長定(『上越』2099・2388号)

 河田九郎左衛門尉長親(『上越』471号)
 河田豊前守長親(『上越』264・268・274・303・311・316・334・341・353・361・363・440・478・484・600・616・825・826・832・833・834・867・916・918・919・934・935・1023・1073・1085・1096・1153・1197・1294・1310・1338・1369・1370・1417・1453号)
 河田豊前入道禅忠(『上越』1566・1580・1588・1607・1788・1789・1883・2068・2079号)

 鯵坂清介長実(『上越』309・623・624・1101・1102・1109・1294・1446号)
 鰺坂備中守長実(『上越』1338・1369・1421・1476・1799号)

 飯田孫右衛門尉長家(『上越』409・513・995・1128・1494・1814・2336・3069・3378号)
 飯田出羽守長家(通称の出羽守は、誤りの多い史料ではあるが『古代士籍』による)

 三潴左近大夫長能(『上越』614・1030・2814・3119号 ◆『日本城郭大系7』の上関城・笹平城の項からすると、実名の長能は『三潴氏系図』によるものらしい)

 吉江亀千代丸(『上越』1398号)
 吉江 長資(同前)
 寺嶋六三長資(『上越』2359号)

 荻田孫十郎長繁(『上越』1321・1590・1627号)
 荻田主馬允長繁(『上越』3262・3263号)

 本田弁丸(『上越』1334号)
 本田孫七郎長信(同前。実名の長信は『上杉家御年譜 一 謙信公』の天正5年5月12日付本田弁丸宛上杉謙信一字書出の綱文による。謙信から「長」の一字を与えられたのは確かであるにもかかわらず、なぜか『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』では実名が重方と記されている)
 本田源右衛門尉長信(通称の源右衛門尉は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の本田源右衛門重方の項による)

 富永清右兵衛尉長綱(『上越』1651・1863号 ◆ 実名の長綱は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の富永備中守長綱の項による)
 富永備中守長綱(『上越』2424・2959・2960・3030・3031・3075・3315号)

 岩船彦五郎長忠(『上越』1660号 ◆ 実名の長忠は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の岩船藤左衛門豊秀の項による。初めは彦五郎長忠または豊広を名乗ったという)
 岩船藤左衛門尉豊秀(『文禄三年定納員数目録』に越後侍中の五十番目、『会津御在城分限帳』に御馬廻衆の二百五十一番目に見える)

 新発田源次郎忠敦(『新潟』1057号)
 新発田尾張守忠敦(『上越』663・788・800号)

 新発田右衛門大夫綱成(『上越』456・535・591・946号 ◆ 初名の可能性がある綱成は『謙信公御書集』の永禄12年(ママ)4月6日付松本石見守・小中大蔵丞・新発田右衛門大夫宛上杉輝虎書状の綱文(305頁)による)
 五十公野右衛門尉重家(『上越』1527号)
 五十公野因幡守重家(『上越』1753・1944号)
 新発田因幡守重家(『上越』1246・1281・1369・1882・1896・1939・3154・3158・3759号)

 中条弥三郎房資(『上越』83号)
 中条越前守房資・景資(『新潟』1446号 ◆『上越』130・131・132・287号 ◆『中条氏家譜略記』の中条景資の項によれば、景資は幼名を市満丸、仮名を弥三郎、受領名を山城守・越前守を称したというが、山城守を称した形跡はない)

 本庄千代猪丸(『新潟』2357号)
 本庄弥次郎繁長(『新潟』1110・1119・1985・2353・2354号 ◆『上越』424・630号)
 本庄雨順斎全長(『上越』884・915・1490・1760・1892・2116号)
 本庄弥次郎繁長(『上越』2574号)
 本庄越前守繁長(『新潟』1119
号 ◆『上越』2775・2781・2813・3285・3416・3864号)

 色部弥三郎勝長(『新潟』1087・1108号 ◆『上越』84号)
 色部修理進勝長
『上越』359号)

 色部弥三郎顕長(『上越』445・1058・1182・1246号)

 鮎川市黒丸(『新潟』1083号)
 鮎川孫次郎盛長(『新潟』1981号 ◆『上越』912・1837~1840号)

 色部惣七郎長実(『新潟』2052・1527号)
 色部惣七郎長真(『新潟』2073号)
 色部修理大夫長真(『上越』1281・1369・3344・3345・3403・3405・3463・3474・3522号)

 山本寺伊予守定長(『上越』280・1108・1246・1369号)

 山本寺松三景長(『上越』1779・2064・2257・2359号)

 山本寺又四郎長定(実名の長定は『文禄三年定納員数目録』に西浜・琵琶嶋両衆の物頭として載る山本寺九郎兵衛尉定方に付された注記による)

 吉江与次景泰(『上越』1470号)
 中条与次景泰(『上越』1527・1663号)
 中条越前守景泰(『上越』1766・1211・1246・1369・1470・2359号)

 須田相模守満親(『上越』2201・2282・2424・2916・3047・3048・3165・3326(要検討文書)・3333・3339・3340・3828号 ◆『文禄三年定納員数目録』に信州侍中の筆頭として見える)

 須田右衛門大夫景実(『上越』2916・3374・3752号 ◆『文禄三年定納員数目録』に越後
侍中の五番目に見える)

 須田又太郎長実(『上越』3326号 この要検討文書によるものではあるが、初めに又太郎長実を名乗ったことは確からしい)
 須田大炊助長義(『会津御在城分限帳』に侍中(一組目)の十一人のうちで四番目に見え、実名の長義は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の須田大炊助長義の項による)

 上条弥五郎政繁(『上越』1527・1783号)
 上条入道宜順(『上越』1149・1222・1246・1358・1369・1831・1931・1941・2294・2320・2408・2541・2642・2668・2722・2873・3862号)

 上条弥五郎景広(『会津御在城分限帳』に侍中(三組目)の九十三人のうちで六十五番目に見え、実名の景広は『上杉家御年譜 外姻譜略』の源姓畠山氏系譜による)

 上条源四郎長員(実名の長員は『上杉家御年譜 外姻譜略』の源姓畠山氏系譜による)

 千坂対馬守景親(『上越』1246・1369・1542・2301・2328・2332・2831・3106・3274・3629・3630号 ◆ 『文禄三年定納員数目録』に伏見御留守居の筆頭として、『会津御在城分限帳』に侍中(三組目)の九十三人のうちで四番目に見え、実名の景親は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の千坂対馬守景親の項による


 千坂太郎左衛門尉景明(『文禄三年定納員数目録』には見えず、『会津御在城分限帳』に侍中(三組目)九十三人のうちで二十一番目に見え、実名の景明は『中条氏家譜略記』の中条景泰の項による)

 千坂鶴寿丸(『上越』3260号)
 千坂与一長朝(『上越』3273号 ◆『文禄三年定納員数目録』に越後侍中の十六番目、『会津御在城分限帳』に侍中(三組目)の九十三人のうちで三十九番目に見え、実名の長朝は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の千坂対馬守長朝の項による )

 直江神五郎実綱(『上越』98号)
 直江与右兵衛尉実綱(『上越』106・122・164・253号)
 直江大和守実綱(『上越』291・293号)
 直江大和守政綱(『上越』433・477・623・624・984・987号)
 直江大和守景綱(『上越』650・703・793・933・987・1110・1111・1128・1285・1310・1313・1315・1369号)

 上野源六家成(『上越』10~12・109・110・115・117・229号)
 上野中務丞家成(『上越』137・632・692・775・1282号)

 北条弥五郎高広(『新潟』2257・2258・2264号 ◆『上越』9号)
 北条丹後守高広(『上越』118・144・159・200・207・220・303・331・338・380・421・491・539・542・543・545・583・720・808・850・925・926・938・971・979・1042・1094・1123・1190号)
 北条安芸守高広(『上越』1231・1267・1272・1282・1316・1339・1347・1365・1369・1388号)
 北条安芸入道芳林(『上越』1480・1482・1528・2721・2998号)

 北条源八郎(『上越』338号)
 北条右衛門尉親富(『上越』549号 ◆『戦国遺文 後北条氏編』4112号)
 北条長門守親富(『上越』817・1378号)

 新発田伯耆守綱貞(『新潟』269号)

 新発田源次郎能敦(『越佐史料 巻三』596頁)

◆『新潟県史 資料編3 中世一』◆『新潟県史 資料編4 中世二』◆〔文禄三年定納員数目録〕〔古代士籍〕『新潟県史 別編3 人物編』 ◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』◆『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』◆『謙信公御書集』(臨川書店)◆『上杉家御年譜 三 景勝公』◆『上杉家御年譜 二十三 系図・外姻譜略・御家中諸士略系譜』(原書房)◆『越佐史料 巻5』(名著出版)◆『中条町史 資料編 第一巻 考古・古代・中世』◆『三条市史 資料編 第二巻 古代中世編』◆ 瀧澤健三郎『越後入広瀬編年史 中世編』(野島出版)◆『戦国遺文 後北条氏編 第五巻』(東京堂出版)◆ 木下聡「日本史学研究室寄託の石井進氏蒐集史料細目録:米沢藩関係古文書の中世史料」(『東京大学日本史学研究紀要』16巻)◆『日本城郭大系7 新潟・富山・石川』(新人物往来社)◆ 黒田基樹『戦国大名と外様国衆』(文献出版・戎光祥出版)◆ 池享・矢田俊文編『定本 上杉謙信』(高志書院)◆『戦国人名辞典』(吉川弘文館)◆『会津御在城分限帳』『家督先後録』『先祖由緒帳』(米沢市立図書館デジタルコレクション)

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