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越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

『新潟県史 通史編』作成の上杉氏奉行人一覧(謙信期)

2020-10-18 21:52:09 | 雑考

 『定本 上杉謙信』の一項である広井造氏が執筆された「謙信と家臣団」において、参考史料の表2として取り上げられた『新潟県史』作成の上杉氏奉行人一覧に載っている越後衆の人名を載せておくとともに、謙信政権下での略歴を加えておく。

 本庄実乃:新左衛門尉。新左衛門入道宗緩。旗本衆。長尾景虎の旗揚げ時からの功臣。景虎の初政において大熊備前守朝秀・小林新右兵衛尉宗吉・直江神五郎実綱・新保八郎四郎長重と共に越後国長尾家の三奉行を構成した。本庄実乃と大熊朝秀の二名は固定、残りの一名は小林宗吉・直江実綱・新保長重が交代で務めた(小林と新保は天文年間にだけ見える)。弘治2年に、
三奉行の一人であった大熊朝秀が甲州武田晴信と通じて反乱を起こし、敗北して武田家に仕えると、宗緩は長尾 景繁・長尾 景憲・直江与右兵衛尉実綱・吉江 長資と共に五奉行を構成した。永禄期に入るか入らないかの頃に一線を退いたが、別格の老臣として、非常時には公務に就いたほか、上杉輝虎の遠征中に春日山城の留守居を務めたり、輝虎および越後衆からの相談を受けたりした。謙信期の天正3年まで見える。もとは古志長尾氏の同心であったろう。古志郡栃尾城主。

 下条茂勝:新右衛門尉。長尾景虎が守護代長尾家を継いだ直後に一度だけ取次として見える。旗本衆。名字からして、もとは古志長尾氏の被官であったろう。

 神余親綱:小次郎。旗本衆。謙信晩年に越後国三条城の城将を任される。父親の神余隼人佑(小次郎)と混同されている。隼人佑は、将軍家再興を目指す足利義昭から上杉輝虎が上洛を求められた際、直江大和守政綱・河田豊前守長親と共に取次を務めたが、これは京都の要人たちとのつてがあったことによる特例であり、これをもって越後国(山内)上杉家の年寄や奉行人とはいえるのかは分からない。

 神余実綱 小次郎。隼人佑。隼人入道。隼人佑の父、小次郎親綱の祖父に当たる。越後守護上杉家の在京雑掌を務めていたが、上杉家の断絶によって長尾景虎が越後国主となった頃には本国に戻り、景虎の旗本衆に転身した。景虎の任官運動に際し、幕府の要人との交渉に関与して使者を務めたが、それをもって越後国長尾家の奉行人とはいえるのかは分からない。

 某 景高:名字・通称不詳。長尾景虎期の天文19年に魚沼郡の上弥彦神社に社領を安堵していることからすると、上田長尾氏の一族という可能性があり、越後国長尾家の奉行人であったのかは分からない。

 斎藤朝信:小三郎。下野守。譜代衆。永禄2年に長尾景虎が上洛した際、将軍足利義輝から相伴衆に任じられて大名の家格を得ると、長尾遠江守藤景・柿崎和泉守景家・北条丹後守高広と共に越後国長尾家の四年寄を構成したが、直江与右兵衛尉実綱ら側近系の年寄と比べて職務は限定されていた。永禄3年から翌4年にかけての長尾景虎(上杉政虎)による関東遠征に伴い、四人での年寄としての活動は見られなくなる。永禄5年以降は、関東代官として上野国厩橋城に常駐した北条高広はさておき、長尾藤景と柿崎景家は個別に年寄としての活動が見られるのに対し、
ただ単に史料に見えないだけかもしれないが、朝信は年寄としての活動が見られない。 謙信晩年には揚北衆の新発田尾張守長敦・竹俣三河守慶綱と共に越後国(山内)上杉家の三年寄を構成したが、やはり側近系の年寄と比べて職務は限定された。
 
 大熊朝秀:彦次郎。備前守。もとは越後守護上杉家の譜代家臣で、公銭方の責任者であった。長尾景虎の初政において本庄新左衛門尉実乃・小林新右兵衛尉宗吉・直江神五郎実綱・新保八郎四郎長重と共に越後国長尾家の三奉行を構成した。弘治2年に甲州武田晴信と通じて反乱を起こしたが、敗北して武田家に仕えた。頸城郡箕冠城主であったと伝わる。
 
 小林宗吉:新右兵衛尉。長尾景虎の初政において本庄新左衛門尉実乃・大熊備前守朝秀・小林新右兵衛尉宗吉・新保八郎四郎長重と共に越後国長尾家の三奉行を構成した。天文18年から天文22年までしか見えない。

 山吉政応:恕称軒政応。丹波入道。政久とは同一人物であり、政応は法号である。旗本衆。蒲原郡司として揚北衆の中条氏と黒川氏の同族間抗争を調停しているが、奉行人としての活動は見られない。天文22年7月に死去した。蒲原郡三条城主。

 山吉政久:孫四郎。丹波守。長尾景虎の実父である越後守護代長尾為景の功臣。景虎期には法体となっていた。

 山吉景盛:孫右衛門尉。山吉一族。長尾為景期に蒲原郡司の山吉政久を補佐している。越後国長尾家の奉行人といえるのかは分からない。

 山吉豊守:孫次郎。旗本衆。山吉丹波入道政応の世子である山吉孫四郎景久が永禄元年9月に早世したので、政応の次男である豊守が兄の名跡を継いだ。上杉輝虎期の永禄9年に若手の側近家臣として現れると、以降は柿崎和泉守景家・直江大和守景綱(政綱)・河田豊前守長親・鯵坂清介長実らと共に越後国(山内)上杉家の年寄衆を構成した。河田と鯵坂がそれぞれ越中国の代官と同国新庄城の城将に転じたのちは、直江と共に両年寄であった。天正5年9月に死去した。蒲原郡三条城主。

 石田定賢 旗本衆の庄田惣左衛門尉定賢のことであり、越府の町人である石田惣(宗)左衛門尉と混同されている。弘治2年に、三奉行の一人で公銭方の責任者でもあった大熊備前守朝秀が甲州武田晴信と通じて反乱を起こし、敗北して武田家に仕えると、新たに吉江 長資らと共に越後国長尾家の公銭方を構成した。永禄4年の信濃国川中嶋の戦いで討死した。名字からして、もとは古志長尾氏の被官であったろう。

 某 長資 吉江織部佑景資の前身。通称は与橘か。旗本衆。弘治2年に、三奉行の一人で公銭方の責任者でもあった大熊備前守朝秀が甲州武田晴信と通じて反乱を起こし、敗北して武田家に仕えると、本庄新左衛門入道宗緩・長尾 景繁・長尾 景憲・直江与右兵衛尉実綱と共に越後国長尾家の五奉行を構成したほか、新たに庄田定賢らと共に公銭方を構成した。父の吉江木工助茂高は長尾景虎の初政において取次を務めた。吉江氏は守護上杉家の被官系と古志長尾氏の被官系の二流があったが、こちらの系統
は後者であったろう。 

 直江景綱:神五郎・与右兵衛尉・大和守実綱 ・政綱。もとは越後守護上杉家の譜代家臣。旗本衆。長尾景虎の初期には本庄新左衛門尉実乃・大熊備前守朝秀・小林新右兵衛尉宗吉・新保八郎四郎長重と共に三奉行、本庄新左衛門入道宗緩・長尾 景繁、長尾 景憲・吉江 長資と共に五奉行、景虎の後期から上杉輝虎の中期にかけては河田豊前守長親と共に両年寄を務め、輝虎の後期からは河田長親・柿崎和泉守景家・山吉孫次郎豊守・鯵坂清介長実らと共に越後国(山内)上杉家の年寄衆を構成し、河田長親と鰺坂長実が北陸戦線に転出したあとは、山吉豊守と共に両年寄を務めた。謙信一世中の側近であり、年齢は謙信と近かったであろう。山東郡与板城主。

 妙雲院妙昭:永正年間の初め頃に越後守護上杉定実・同守護代長尾為景の許で倉俣勘解由左衛門尉実経・関沢伊賀守顕義・長授院妙寿・大熊新左衛門尉政秀・雲興院昌朔と共に奉行衆を構成していた。弘治年間に上野源六家成(中務丞)と下平修理亮吉長(勘助)の波多岐荘の領主間で起こった土地相論の際、上野氏菩提寺の住持という立場により、長尾景虎の奉行衆から上野家成の説得を求められている。越後国長尾家の奉行人としての活動は見られないし、永正年間の妙昭であるのかも分からない。

 松本景繁 永禄年間の中頃から見える旗本衆の松本石見守景繁と混同されており、天文年間に見える景繁は長尾名字であろう。もしも同一人物であったのならば、上杉輝虎期に長尾景繁が越後守護代長尾家以来の古臣である松本氏を継いだのではないか。松本氏は天文年間の後期に河内守、永禄4年に大学助(実名は忠繁と伝わる)が見える。長尾景繁は天文20年に山東郡内の名主に便宜を図ったりしているので、山東郡を基盤とした長尾氏かもしれない。三奉行の一人であった大熊備前守朝秀の反乱後、本庄新左衛門入道宗緩・直江与右兵衛尉実綱・長尾 景憲・吉江 長資と共に越後国長尾家の五奉行を構成した。松本景繁は山東郡の小木城主で、輝虎期に上野国沼田城将を務めた。

 長尾景憲:天文20年に古志郡内の守門神社と諏方神社の間で起こった土地相論を裁定しているので、古志郡司であったのかもしれない。古志長尾右京亮景信の前身か。三奉行の一人であった大熊備前守朝秀の反乱後、本庄新左衛門入道宗緩・長尾 景繁・直江与右兵衛尉実綱・吉江 長資と共に越後国長尾家の五奉行を構成した。

 長尾藤景:遠江守。 譜代衆。長尾景虎の後期に柿崎和泉守景家・斎藤下野守朝信・北条丹後守高広と共に越後国長尾家の四年寄を構成した。永禄3年から翌4年にかけての長尾景虎(上杉政虎)による関東遠征中、柿崎景家が越府留守衆であったことから、四人での年寄としての活動は見られなくなる。長尾藤景は永禄6年に単独で過所状を発給している。同9年頃までは存命であった。蒲原郡下田を地盤とする下田長尾氏。蒲原郡下田城主。

 某 定盛:名字不詳。実名は貞盛が正しい。旗本衆。弘治2年に、三奉行の一人で公銭方の責任者でもあった大熊備前守朝秀が甲州武田晴信と通じて反乱を起こし、敗北して武田家に仕えると、
庄田惣左衛門尉定賢・吉江 長資らと共に越後国長尾家の公銭方を構成した。

 荻原掃部助:実名不詳。のちに伊賀守を称する。旗本衆。長尾景虎の後期から上杉輝虎の中期まで見える。奉行人のうちで名字不詳の貞盛や能信の可能性がある。

 吉江景資:織部佑。初めは長資を名乗った。外交文書を発給しているのが確認できるのは謙信期のみであるが、恐らく上杉輝虎期から年寄衆に列していたと思われる。謙信晩年に越中国西郡の代官と同国増山城の城代を兼務した。

 吉江資堅:喜四郎 。実名は資賢が正しい。三条道如斎信宗と共に謙信晩年の最側近であった。河田豊前守・鯵坂清介長実と同じく、永禄2年に長尾景虎が上洛した際に召し抱えられると、景虎側近の吉江織部佑景資の一族に列した。前名字は伝わらない。もとは江州六角佐々木家の被官であったらしい。

 吉江信景:吉江喜四郎資賢の後身。

 吉江(三条)信宗:三条道如斎信宗。吉江名字は文書では確認できない。初めは越中味方中の長沢筑後守光国に仕えていて、長沢菅(勘)五郎を称していたという。吉江喜四郎信景と共に謙信晩年の最側近であった。

 北条高広 弥五郎。丹後守。安芸守。安芸入道芳林。譜代衆。長尾景虎の後期に長尾遠江守藤景・柿崎和泉守景家・斎藤下野守朝信と共に越後国長尾家の四年寄を構成した。上杉輝虎期以降は関東代官と上野国厩橋城代を兼務した。永禄9年の冬に相州北条・甲州武田陣営に寝返ったが、越・相同盟の成立に伴って越後国上杉家に復帰した。越・相同盟の破談後、息子の弥五郎景広に関東代官と厩橋城代の地位を譲ったが、ほぼ二頭体制であった。

 北条景広 弥五郎。丹後守。譜代衆。北条安芸守高広の世子。謙信期に父から関東代官と厩橋城代を引き継いだが、ほぼ二頭体制であった。越後国(山内)上杉家の奉行人とはいえない。

 柿崎景家:中務。和泉守。 譜代衆。頸城郡司(頸城郡中部)。長尾景虎の後期には長尾遠江守藤景・斎藤下野守朝信・北条丹後守高広と共に越後国長尾家の四年寄、上杉輝虎の後期からは直江大和守景綱(政綱)・河田豊前守長親・山吉孫次郎豊守・鯵坂清介長実と共に越後国(山内)上杉家の年寄衆を構成した。

 河田長親:九郎左衛門尉。豊前守・豊前入道禅忠。旗本衆。長尾景虎の後期から上杉輝虎の中期にかけて直江実綱(政綱)と共に両年寄であった。その頃は上野国沼田城の城代を任されていたが、常駐ではなかったので、越府で側近としての役目も果たした。上杉輝虎の後期からは直江大和守景綱(政綱)・柿崎和泉守景家・山吉孫次郎豊守・鯵坂清介長実らと共に越後国(山内)上杉家の年寄衆を構成した。その後は、越中国の代官に任ぜられて同国魚津城、次いで松倉城に常駐した。鯵坂長実・吉江喜四郎資賢と同じく、もとは江州六角佐々木家の被官で、永禄2年に長尾景虎が上洛した際に召し抱えられたと伝わる。

 三村長政:名字は三潴が正しい。出羽守。旗本衆。越後国上杉軍が関東へ向けて進軍中、国衆の間で小旗の意匠を巡って相論が起こると、その調停に奔走した一人であったが、奉行の職務に就いていたのかは分からない。

 小野主計助:実名不詳。旗本衆。上杉輝虎期によく使者や横目を務めた。奉行人のうちで名字不詳の貞盛や能信という可能性はあるが、今のところは奉行人であったのかは分からない。

 飯田長家 孫右衛門尉。旗本衆。上杉輝虎の中期から後期にかけて河隅三郎左衛門尉忠清・五十嵐 盛惟らと共に越後国(山内)上杉家の奉行衆を構成した。

 河隅忠清:三郎左衛門尉。旗本衆。上杉輝虎の中期から後期にかけて飯田孫右衛門尉長家・五十嵐 盛惟らと共に越後国(山内)上杉家の奉行衆を構成した。かつて守護代長尾家にも古志長尾家にも河隅名字の者がおり、どちらの系統なのかは分からない。

 某 能信:名字不詳。旗本衆。上杉輝虎の中期から後期にかけて飯田孫右衛門尉長家・河隅三郎左衛門尉忠清・五十嵐 盛惟と共に越後国(山内)上杉家の奉行衆を構成した。

 鯵坂長実:清介。備中守。旗本衆。上杉輝虎の後期に柿崎和泉守景家・直江大和守景綱・河田豊前守長親・山吉孫次郎豊守らと共に越後国(山内)上杉家の年寄衆を構成した。謙信期に越中国新庄城の城将、越中国西郡の代官、能登国の代官と同国七尾城の城代を歴任した。河田長親・吉江喜四郎資賢と同じく、もとは江州六角佐々木家の被官で、永禄2年に長尾景虎が上洛した際に召し抱えられると、旗本衆の鯵坂氏の名跡を継いだ。前名字は伝わらない。

 山崎専柳斎:秀仙。儒者上がりの側近。織田信長の許へ使者として赴いたり、遠征中の謙信から留守衆の一員として見えたりするが、越後国(山内)上杉家の奉行人であったのかは分からない。もとは関東代官の北条丹後守高広の重臣であったらしい。

 関沢掃部助 上杉輝虎期の元亀元年に再燃した揚北衆の中条氏と黒川氏の対立において、中条側の取次を山吉孫次郎豊守が務めたが、その際に使者として各所を往来した山吉一族の山吉掃部助と間違われている。

 堀江玄蕃允:実名不詳。旗本衆の堀江駿河守宗親の嫡男。越後国(山内)上杉家と相州北条家が同盟関係にあった頃、玄蕃允が使者を務めた際の書状が奉行人の文書として間違われている。

 五十嵐盛惟:通称は主計助か。旗本衆。上杉輝虎の中期から後期にかけて飯田孫右衛門尉長家・河隅三郎左衛門尉忠清らと共に越後国(山内)上杉家の奉行衆を構成した。名字と実名からして、もとは古志長尾氏の被官であったろう。

 長 景連:与一。旗本衆。謙信期に濃(尾)州織田家と同盟関係にあった頃、使者を務めたことから、織田方の取次と書状のやり取りをしているが、越後国(山内)上杉家の奉行や取次といった役目に就いていたのかは分からない。

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荻原掃部介について (須藤章二)
2021-08-24 12:41:28
代々庄屋の実家初代先祖が、萩原掃部介/藤原重親(しげちか)というものです。慶弔八癸卯年四月二十七日八十七歳卒(1517~1603.3.3)・玉寶院殿實相秀本居士の戒名。お墓は小ぶりの万年塔タイプ。家系図には「任甲州勝頼公生害之砌 来于上野國碓氷郡礒部郷小名田中 而沈淪民家為村長」と書かれており誰もが武田家家臣だったと思っていました。最近見つけた別の古い家系図によると、元々は荻原掃部介と言っていたが後に萩原に改姓したとありした。また、近隣の安中忠政と一緒に越後から安中に来た家臣須藤右衛門光吉(のち武田信玄に敗北し武士をやめ農民となる1616  .11.9没)の家系図にも、「萩原掃部殿は同郡北之郷に住んでいたが、願い出によって息子の須藤光信(1568~1653.11.24)が磯部村稲荷森の召任い用の屋敷に引取り、召任いがいなかったのでそのまま引き渡した。その後同村田中に屋敷を見立て転居した。召任いもそのまま譲った。この事の由来を記録し掃部方に渡し保管するよう約束した」との記載があります。想定するに、先祖は上杉家臣の荻原掃部介で、佐野唐沢山城に派遣されたあと越後に戻れずどこかで武田・北条川に捕まり武田家臣(武将でない)となり、武田家滅亡後、1582年(65歳)に農民となり新しい生活を築いたのではと思います。掃部介を調べており、参考となる情報がありましたらご教示願います。上越市史別編1,上杉家御年譜1は所有しています。ブログ記載の「天文22年5月8日に親族死去により供養を高野山清浄心院に依頼」とはどの資料に在りますでしょうか。長くなりましたが、よろしくお願いいたします。
返信する
荻原掃部介についてのお返事 (こまつ)
2021-08-24 20:43:24
 コメントありがとうございます。ご先祖についてのお話を興味深く拝読しました。

 早速ですが、荻原掃部助については、まず、出自に二つの説がありまして、どちらも出典はよく分からないのですが、一つ目は、上杉頼成の息子の一人である荻原氏明の子孫というもの、二つ目は、親鸞が越後国へ配流された頃、国府の代官であった荻原民部少輔敏景の子孫というものです。後者に関しては、井上鋭夫著『一向一揆の研究』によります。残念ながら、荻原敏景の出自については記載がありません。そして、掃部助の事跡ですが、ご存じ通り、長尾景虎・上杉輝虎期に活動していた側近の一人で、永禄2年の景虎の上洛に随行したこと、同3年から4年かけての景虎(上杉政虎)による関東遠征時には、留守将の横目付として本国に残り、同年から5年にかけての輝虎による関東遠征では留守将の一人として本国に残ったこと、永禄10年に佐野唐沢山城の在番衆に増員として加えられたこと、同年中に唐沢山城の番城体制が解消された以降は、越後国上杉氏関連の文書から見えなくなってしまったこと、自分にはそれぐらいしか分かっておりませんので、お伝えできる情報がこれといってないのが現状です。お役に立てず、申し訳ありません。
 
 当ブログに記載しました荻原掃部助が高野山清浄心院に親族の供養を依頼したことが分かる史料は、山本隆志氏の史料紹介による「高野山清浄心院 越後過去名簿(写本)」(『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』)であります。

 ご先祖の萩原掃部介重親は、安中の須藤氏と関係が深いようですね。そうなりますと、甲州武田家に従属する上野国衆たちも提出した、いわゆる永禄10年の「生島足島神社起請文」において、簗賀縫殿助吉久らと共に連署した荻原民部定久・同図書助長久・同玄蕃允重吉と「上州須藤」衆として松本総右衛門尉重友らと連署した須藤縫殿助久守といった人物たちが気になるところです。

 もし、まだお調べになっていないようでしたら、こうした人物たちを深掘りしてみてはいかがでしょうか。荻原掃部介についての調査、大いに期待しております。
 
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荻原掃部介重親 (須藤)
2021-08-25 21:07:52
 コメントありがとうございました。
『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』調べてみます。
 安中越前守忠政と忠政家臣の須藤光吉は武田に敗北後隠居在野となり武田家臣にはならなかったようです。忠政の息子は武田家臣(起請文あり)となり武田先方衆として長篠の戦で一族全滅とのこと。掃部介も高齢かつ一人身(土地・部下なし)のようで、武将の価値もなく本人の起請文もないようです。
 引き続き荻原掃部介の周辺資料を探してみます。また情報ありましら宜しくお願いいたします。
返信する
Unknown (こまつ)
2021-08-26 19:48:49
 こちらこそ、貴重な系図の内容を教えて下さり、感謝してもしきれません。

 荻原掃部助について新事実が見つかりましたら、当ブログにてお知らせします。

 本当にありがとうございました。
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