越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉謙信の側近・吉江景資の無鉄砲な息子たち

2019-07-17 20:20:52 | 謙信にまつらう人々


 越後国上杉謙信の側近である吉江織部佑景資の息子たち(寺嶋六三長資・中条与次景泰)の無鉄砲な行動について述べてみたい。

 まず、吉江織部佑景資とは、〔吉江系譜〕(『越佐史料 巻六』222・223頁)の通りであれば、仮名を与橘と称し、越後国長尾景虎から長尾氏の通字である「長」の一字を与えられたらしく、実名を長資と名乗った(『上越市史 上杉氏文書集』155・162号。以下は『上越』と略す)。永禄3年8月までには官途名を織部佑と称し、天正2年10月までに、やはり長尾氏の通字である「景」の一字を与えられて、実名を景資と改めているが、次男の与次景泰が天正2年6月に越後奥郡国衆の中条氏を継ぐことになる前(元亀4年ではないか)に元服した際、謙信から「景」の一字を与えられているので、それ以前に景資は「景」の一字を与えられていたであろう(『上越』1211・1227・1470号)。
 これも〔吉江系譜〕の通りであれば、謙信とは年齢が近かったらしく、側近家臣のなかでも各別な芳志を受けた人物である『上越』1338号)。
 その息子たちとして、長男は幼名を亀千代丸、元服時に謙信から「長」の一字を与えられ(『上越』1398号)、父の初名であった長資を名乗ったようである。正確な時期は分からないが、謙信による北陸経略の過程で越中国増山の神保氏の重臣であった寺嶋氏の名跡を継いだとみられ、寺嶋六三長資と名乗った(『上越』2359号)。次男は、〔吉江系譜〕によると、幼名を沙弥法師丸といい、謙信から「与次」の仮名と「景」の一字を与えられ、その元服から何年も経ってはいないであろう天正2年6月に謙信の肝煎りで揚北衆の中条氏に入嗣したのは、前述した通りである。
 謙信没後、上杉景勝期に入ってからの景資は、常陸入道宗誾と号した隠居の体であり、三男の与橘が吉江氏を継いでいたが(『上越』2214・2215号 ◆『戦国人名辞典』1032・1033頁)、それでも戦陣には立ち続け、天正10年6月3日、越中国魚津城の在城衆の一員であった宗誾と寺嶋六三長資・中条越前守景泰兄弟(『上越』2344~2346・2348・2359号)は、織田軍との数ヶ月に及ぶ籠城戦の末、ほかの在城衆たちと共に玉砕した。ひとり残った吉江与橘長忠の「長」の一字は、天正9年12月3日に景勝から与えられたものである(『上越』2253号)。
 なお、〔吉江系譜〕と〔御家中諸士略系譜〕(『上杉家御年譜 第二十三巻』391・392頁)では、吉江景資の父を常陸介宗信として、魚津城における籠城戦では宗信、景資、寺嶋長資(両系譜では実名を長秀とする)・中条景泰の三世代が戦死したことになっているが、景資の父は木工助茂高であり、宗信とは景資が号した常陸入道宗誾から作り出された人物である。
 この吉江茂高が所見されるのは、天文年間の後半に限られるが、越後国栃尾城で旗揚げした長尾景虎が古志長尾氏を継いだ頃から仕え、越後守護代を経て越後国主となった景虎の初政を支えた側近家臣であった(『上越』82・95号)。
 前述した通り、謙信は景資の息子たちが元服する際に一字を与えたわけで、なかでも次男の沙弥法師丸には、「吉江杢助」との旧誼を重んじて、吉江父子の要望通りに「景」の一字を与えており、当時すでに茂高は亡くなっていたであろうが、わざわざ孫の名字状に、その名を挙げられるほど、かつての君臣の間柄は親密であったらしい(『上越』1470号)。
 また、同じく両系譜では、やはり謙信旗本の重鎮であった吉江佐渡守忠景(中務丞。両系譜では実名を信清とする)を吉江宗信の弟と記しているが、吉江忠景はもともと、越後守護上杉定実(号玄清)の側近家臣であり(『上越』20号)、定実の死去による越後守護上杉家の断絶に伴い、越後国長尾景虎の直臣となったものである。忠景は上杉輝虎期には、敵方の工作員が横行するなかでの越府の留守衆や、関東の情勢が厳しいなかでの下野国佐野の唐沢山城将を任されたほか、本庄美作入道宗緩(俗名は実乃)・金津新右兵衛尉と並び、輝虎が弱音を吐くことのできる年長の重臣であった(『上越』313・395・544号)。
 それから、長尾景虎が永禄2年の上洛時に召し抱えた新参者のうち、吉江喜四郎資賢(信景。はじめ藤八郎を称したという。前の苗字は伝わらない)を吉江佐渡守信清の養子と記しているが、「資」の字を冠していることと、景資一族とよく行動を共にしていることからすれば、むしろ景資の猶子であったろう。
 このように、景資と忠景を頭とする両吉江氏は、謙信から分け隔てなく重用された一族ではあったが、はやくから上杉家被官と古志長尾氏被官に分かれていた別系となり、両系譜は無理矢理に近親者としてしまったものである。これは、守護代・三河守系の両長尾氏、古志・上田の両長尾氏、村上・栃尾の両本庄氏、いずれも謙信旗本の両村田氏など、長尾・上杉家中の系図類では幾つも見受けられる(『上杉家御年譜 第二十三巻』94~96、233頁、 ◆『上杉家御年譜 第二十四巻』7頁 ◆『越後入広瀬村編年史』68頁)。


※〔吉江系譜〕によると、吉江景資は大永7年生まれで、戦死した時は56歳、寺嶋長資は天文22年生まれで、同じく30歳、中条景泰は永禄元年生まれで、同じく25歳であったという。上杉輝虎が謙信と号するのは元亀元年の8月下旬から9月中旬の間であり、謙信から長資が一字を拝領したのは、同2年以降になるので、19歳以降に元服したことになり、全くあり得ないことではないだろうが、長資の生年には疑問が残る。

※ 吉江景資の息子たちは、謙信から、長男の亀千代丸が「長」の一字、次男の沙弥法師丸が「景」の一字を拝領したわけで、景資の例を見て分かるように、謙信が家臣へ授与する一字は「長」より「景」の方が格が高いようである。ということは、もしかすると兄弟の生母が異なり、沙弥法師丸の生母の方が身分が高かったのかもしれない。それだけではなく、中条景泰は、織田軍の攻勢が強まるなか、天正9年4月以降は父兄と一緒に前線へ派遣され、吉江一族として括られているわけであるが(『上越』2113・2163・2173・2214・2348号)、天正7年2月に高野山清浄心院から謙信逝去への弔意が寄せられると、上杉景勝の取次として、これに答謝したり(『上越』1765・1766号)、魚津籠城中に寺嶋長資が吉江長忠・景泰の妻「おはりこ」へ、中条景泰が吉江長忠と「おはりこ」のそれぞれへ宛てた消息では、長資が自分の妻への言伝よりも、景泰の妻への言伝を優先していたり、兄弟ふたりが他にも連絡したかった人物を、長資が「やかた」と書いているのに対し、景泰は「やはう」と書いていたりすることから(『上越』2335・2344・2345号)、いくら景泰が有力外様衆の中条氏に入嗣したとはいえ、吉江一族における景泰の立場は突出しているように見える。


 ここから本題となるので、まず史料を掲げる。


【史料1】河田重親宛上杉謙信書状(『上越』1170号)
態為音信珎敷具足到来祝着候、仍為越山候間、越中堅固可申付ため半途出馬候、賀州之者共断労兵故、悃望之様候間、半途立馬、彼口手堅一際可付事輙候間、可心安候、上口未落居候て、越山候得、其表張陣不叶、越中捨事候条、留守中手堅申付、心安為可張陣如此候、扨亦弥五郎(北条景広)申越分(北条)氏政向羽生出張之由申越候、弥五郎越候飛脚、南衆出張之儀不知由申候、吾分兎角不申越候、如何実儀候哉、無心元候、東方属一変候上、近日越山前候間、家中付力堅固可防戦由、細々以飛脚羽生可申越候、又帰馬之内、何方之飛脚其地留、此方不越、続飛脚にて可申候、万吉帰陣之上可申候、謹言、
  、織部(吉江景資)子之事、色々申候共、陣召連、可添の無之
  候間、帰陣之上と申候、 身之帰陣申候、無理取可越候、其時追可越候、以上、

    八月十八日      謙信(花押a)
         河田伯耆守殿


【史料2】吉江景資・中条景泰老母宛上杉謙信書状(『上越』1168号)
へつし(別紙)をもつて申候、あさひ(朝日)とりつめせめ候へは、いつれもとも(供)候なかれいの与次(中条景泰)、いろ/\き四郎(吉江資賢)、身の事いけん(意見)申候共、もちい(用)す、ひとりてつはう(鉄炮)のさきへかけ(駆)りある(歩)き候、身の事ふたつしや(不達者)ニ候間、こしま(小嶋)をたのひきすりかへし、いまにお(押)しこ(込)め候、さためてあん(案)すへく候へ共、身の見あい(合)なから、てつはうのさきへこし、て(手)をお(負)わせ候共、うちころ(殺)させ候とも、さためてそのときこの入道をならてうらましく候間、一たん(一旦)おいこめ候事くる(苦)しからす候とおもひ、そのためおしこめき(決)め申候、よう/\とおもふへく候、かきさきけん三(柿崎源三)もゝ(腿)をうらおもて(裏表)へうちぬ(抜)かれ、やゝよは(呼)りかへ(返)し候、又ちうけん(中間)まこ(孫)四郎、てつはううちころされ候、いつれもかく(隠)し候間、このほか(知)らす候、このことく候間、て(手)をお(負)い候とも、いまきめ候よりふうふ(夫婦)のものとも(者共)うら(恨)むへく候間、このたん申候、せいし(制止)を申候へとも、なか/\身のいけんニハつかす候間、きやうこう(向後)ハおりへ(織部)そばおくよりほかあるましく候、かへ(帰)り候ハヽ、ふうふなからふひん(不便)ニハヽ、まつ/\あ(会)ふましく候、あやまち候ハヽ、ほへ(吠え)まわり候とも、よう(用)ニ(立)つましく候、このことはかり申へきため、ふうふかた一しゆ(一緒)ニ申候、めてたくかさねて、以上、
    八月七日       謙信(花押a)
      よし江おりへ殿
      与次らうほへ


 どちらの史料も天正元年に比定されており、【史料1】の追而書部分で、恐らく元服を迎えてから、さほど経っていないと思われる、吉江織部佑景資の息子たち(のちの寺嶋六三長資・中条与次景泰。三男はまだ幼少であったろう)、【史料2】の全般で、吉江景資の次男である中条景泰、彼らの無鉄砲ぶりに謙信が困っていたことが分かるものである。
 ただし、【史料2】の年次については、この時に謙信が攻めた朝日要害は、加賀・越中国境の加賀国河北郡と越中国射水郡の両地に存在しており、どちらであったにしても、当時の謙信は越中国富山城を攻め落とすと、その周辺で加賀一向一揆の残党と戦っている最中であり(『上越市史 上杉氏文書集』1124号)、とても加賀国や越中国奥郡まで進攻するような状況ではなかったことと、〔中条越前守藤資伝〕(『中条町史 資料編』726・727頁)に「此書ハ中条ニ於テかなかき之ふみト称シ最モ尊重シ居ルモノ」と特記され、天正2年の文書として内容が語られていることから、同年に比定した方が良いであろう。

以前、【史料1】の追而書である「織部子之事、色々申候共、陣召連、可添の無之候間、帰陣之上と申候、身之帰陣申候、無理取可越候、其時追可越候、」について、吉江景資の息子たちに色々と言って聞かせても、聞き分けがないようなので、近侍が不足している折でもあり、何れも戦陣に召し連れはするが、それは北陸遠征から帰陣し、引き続き挙行する関東遠征からであること、謙信が帰陣するのを知った途端に、景資の息子たちは無理やりにでも越府から押し掛けてきてしまうので、何とか適切な時期に越させたいこと、というような解釈をしたが、当文書の原本の写真(『上越市史 上杉氏文書集 別冊』1170号)を見たところ、赤字で示した箇所は「其時迄不可越候」と読んだ方が良いように思われた。
 もしこれで間違いがなければ、北陸遠征中の謙信が上野国沼田城将の河田伯耆守重親に対し、自分が関東に着陣するまでは、沼田城にいる景資の息子たちが勝手に来ることがないように注意を促したのではないだろうか。
 これに気が付くまでは、なぜ謙信が景資の息子たちの動向について、わざわざ河田重親に知らせているのか、漠然と疑問を感じていたのだが、どういうわけで景資の息子たちが上野国の沼田城に滞在していたのかはさておき、あのように河田へ注意を促したのであれば、十分に納得がいく。
 その後、景資の息子たちが謙信の意向に大人しく従ったのかは分からないが、【史料2】に「れいの与次」とあるからには、何らかの前例が景泰にはあったのであろうし、彼らが謙信に対して、自分たちを戦場へ伴うように散々駄々をこねていたであろうことは、想像にかたくない。

 以上、謙信から格別な芳志を受けた側近家臣である吉江景資の息子たちの無鉄砲な行動について述べてみた。因みに、『越佐史料 巻五』では当該箇所を「無理取可越候之時、迎を可越候」と読んでいる。いずれが正しいとしても、景資の息子たちが、勝手に滞在先から戦陣にいる謙信の許へ来ようとしていたことには変わりはないであろう。
 長資・景泰兄弟が謙信の許へ勝手に馳せ参じようとしたり、景泰が戦場で砲火の飛び交う最前線に身を晒したりといったような無鉄砲な行動で謙信を困らせていた様子は、少々微笑ましくさえ思える。


※ 元亀3年9月、越中国富山陣の謙信は、越府に留守居させている旗本部将たちに対し、「一人爰元越、留守中何事も候旁々如何様之奉公候共、崩備、口惜候」「身之背下知、一人爰元越候口惜候、其元之用心、千言万句候」と戒めており、今回、取り上げた吉江景資の息子たちに限らず、謙信子飼いの旗本部将たちのなかには、そこそこの年齢に達した者であっても、謙信を心配してのことなのか何なのか、留守中、戦陣の謙信の許へ勝手に駆け付けてしまうような傾向があったらしい(『上越』1121・1122号)。


〔御家中諸士略系譜〕(米沢温故会『上杉家御年譜 第二十三巻 上杉氏系図 外姻譜略 御家中諸士略系譜1』『上杉家御年譜 第二十四巻 御家中諸士略系譜2』原書房)◆〔吉江系譜〕(高橋義彦(編)『越佐史料 巻六』名著出版)◆〔上田長尾系図〕(瀧澤健三郎『越後入廣瀬村編年史 中世編』野島出版)◆〔中条越前守藤資伝〕(『中条町史 資料編 第一巻 考古・古代・中世』)◆『上越市史 別編Ⅰ 上杉氏文書集一』19・20号 本庄実乃書状(写)、300号 上杉政虎感状(写)、301号 吉江忠景宛行状(写)、313号 上杉輝虎書状、395号 上杉輝虎書状(写)、487号 上杉輝虎印判覚(写)、544号 吉江忠景書状、1121号 上杉謙信書状(写)、1122号 上杉謙信書状、1230号 佐竹義重書状、1231号 佐竹義重書状(写)、 1313号 直江景綱・吉江資賢連署状(写)、1347号 上杉謙信書状、1439号 上杉謙信書状(写)、1447号 上杉謙信書状 ◆『上越市史 別編Ⅰ 上杉氏文書集一 別冊』1170号 上杉謙信書状 ◆ 福原圭一「中条景泰」「吉江景資」 山田邦明「吉江長忠」片桐昭彦「吉江信景」「吉江宗信」(戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』吉川弘文館)◆ 市立米沢図書館デジタルライブラリー〔先祖由緒帳〕PDFファイル3冊目



〔吉江茂高・吉江景資・吉江長忠・寺嶋長資・中条景泰関連文書一覧〕

 1.天文18年6月20日付平子孫太郎宛吉江木工助茂高書状(写)〔署名:吉杢 茂高〕(『上越』82号)
 ※ 当文書を『上越市史』は『越佐史料』に倣って天文21年に比定し、書中における出陣予定の「御屋形様」を関東管領山内上杉憲当(憲政)としているが、憲当は「関東之屋形様」であり、越後守護上杉入道玄清(俗名は定実)のことであろうから、山内上杉憲当の要請を受け、越後守護代長尾平三景虎が上杉玄清を奉じて関東へ出陣しようとしていた天文18年6月20日・7月4日付平子孫太郎宛庄新左衛門尉実乃書状(『上越』19・20号)と関連付けて、当年に移動した。

 2.天文21年8月10日付平子孫太郎宛吉江木工助茂高書状(写)〔署名:吉江木工助茂高〕(『上越』95号)

 3.弘治3年10月18日付広泰寺宛本庄宗緩・長尾景繁・同景憲・直江実綱・吉江長資連署状(写)〔署名:長資〕『上越』155号)

 4.永禄元年10月晦日付山田帯刀左衛門尉宛吉江長資」・庄田定賢・某貞盛連署段銭請取状(写)〔署名:景資(長資が正しい)〕(『上越』160号)

 5.永禄2年2月23日付飯田与七郎宛吉江長資・庄田定賢・某貞盛連署段銭請取状〔署名:長資〕(『上越』162号)

 6.永禄3年8月25日付桃井右馬助義孝・長尾小四郎景直・黒河竹福・柿崎和泉守景家・長尾源五宛長尾景虎掟書 「吉江織部助(佑)」(『上越』211号)

 7.永禄7年3月15日付金津新兵衛尉・本田右近允・吉江織部佑・高梨修理亮・小中大蔵丞・吉江民部少輔・岩船藤左衛門尉・吉江中務丞忠景宛上杉輝虎書状〔宛名:吉江織部佑殿〕(『上越』313号)
 ※ 当文書を諸史料集は永禄5年に比定しているが、その内容は外征中の越後国上杉輝虎が越府留守衆に警戒任務を怠らないように指示したものであり、この輝虎の旗本たちで構成された留守衆のうちの吉江中務丞忠景は、当該期には永禄4年冬から翌5年春にかけて輝虎(政虎)が挙行した関東遠征に従軍して某城を守っていたか、前回の遠征で関東に残留を命じられて某城を守っていたか(『上越』300・301号)、そのどちらかであったことから、別の年であると考え、同じく留守衆のうちの金津新右兵衛尉と留守居していたことが分かる永禄7年3月13日付本庄美作入道宗緩・金津新右兵衛尉・吉江中務丞忠景書状(『上越』395号)と関連付けて、当年に移動した。

 8.元亀2年7月29日付鮎川孫次郎盛長宛上杉謙信書状 「吉江織部佑」「織部佑」(『上越』1447号)
 ※ 年次未詳とされている当文書の内容は、謙信が揚北衆の鮎川孫次郎盛長に証人として差し出させた鮎川家中のうち、吉江景資に預けられていた菅原某が吉江家中の佐山某の妻と密通騒動を起こしたところ、謙信は忠信者の鮎川盛長に免じて菅原の罪を許し、鮎川とは同族である揚北衆の色部弥三郎顕長を頼み、越府における色部屋敷で預かってもらったが、不心得者の菅原がまた問題を起こしでもしたら、色部顕長に迷惑を掛けてしまうと考え直して、鮎川の所へ戻すことを伝えたものであり、謙信の署名から元亀2年以降に発給された文書となる。やはり年次未詳とされている6月27日付鮎川宛謙信書状(『上越』1439号)に書かれている「菅原証人…殊に菅原兄之子去年徒を申候共、免之分差置候、」とは、鮎川家中の菅原某と吉江家中の佐山某の妻が起こした密通騒動を指す。そして、謙信は「大途之弓箭」を控えていたとも書かれており、これは、甲州武田信玄と連動して加賀・越中一向一揆が攻勢に出てきたので、越後国上杉家は大きな危機に見舞われてしまい、総力を挙げて戦わなければならなかった元亀3年秋から翌4年夏にかけて謙信が挙行した北陸遠征に当たるであろう。この元亀3年に比定できる文書には、当文書の密通騒動が「去年」とあることから、当年に比定した。

 9.元亀4年4月20日付上杉十郎・上条弥五郎政繁・山本寺伊予守定長・琵琶嶋弥七郎・石川中務少輔・柿崎和泉守景家・斎藤下野守朝信・新津大膳亮・加地彦次郎・平賀左京亮重資・本庄清七郎・船見宮内少輔・吉江織部佑・松本鶴松代 板屋修理亮・本庄弥次郎繁長代宛上杉謙信書状(写)〔宛名:吉江織部佐(佑)〕「織部」(『上越』1149号)

 10.天正元年8月18日付河田伯耆守重親宛上杉謙信書状「織部子」(『上越』1170号)

 11.(天正2年ヵ)2月7日付斎藤大和守宛吉江織部佑景資・吉江喜四郎資賢連署状(『足尾地域歴史資料集 中世』ニ 古文書(足尾原文書)5号)

 12.天正2年6月20日付中条与次景泰宛上杉謙信軍役状〔宛名:中条与次殿〕(『上越』1211号)

 13.天正2年8月7日付吉江織部佑景資・与次老母宛上杉謙信書状〔宛名:よし江おりへ殿 与次らうほへ〕「与次」「おりへ」(『上越』1168号)

 14.天正2年10月10日付若林九郎左衛門尉宛吉江景資軍役覚(写)〔署名:吉江 景資〕(『上越』1227号)

 15.天正3年正月18日付上野彦九郎宛吉江景資名字状〔署名:景資〕(『上越』1243号)

 16.天正3年2月16日付中条景泰軍役帳写 「中条与次」(『上越』1245号)

 17.天正3年2月16日付上杉家軍役帳「中条与次」(『上越』1246号)

 18.天正3年2月16日付上杉家軍役帳「中条与次」(『上越』1267号)

 19.(天正3年10月下旬頃)多功源之丞由緒「吉江織部」(〔先祖由緒帳〕123齣)
 ※ 当由緒の内容は、謙信が上野国五覧田城を攻め落とした際、戦功を挙げた近習の多功勘之丞を忠賞し、吉江景資を通じて褒美の金子を与えたものである。そして、謙信が皿窪城を攻め落とすと、次に同国五覧田城を攻め落としたのは同じ年であると記されており、越後国上杉軍が上野国桐生領の皿窪(猿窪)城を攻め落としたのは天正3年であることから(『上越』1230・1231号 ◆ 黒田基樹「上杉謙信の関東侵攻と国衆」(『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院)385頁)、当年に比定した。

 20.天正4年12月28日 多功勘之丞由緒 「吉江織部」(〔先祖由緒帳〕124齣)
 ※ 当由緒の内容は、謙信が能登国七尾城を攻めた際、大念寺口で戦功を挙げた多功勘之丞を忠賞し、吉江景資を通じて褒美の小袖を与えたものである。謙信が最初に七尾城を攻めたのは天正4年11月、ついに攻め落としたのは翌5年9月15日であり(『上越』1313・1347号)、当由緒の日付によって年次は明らかであるから、当年に比定した。

 21.天正5年6月7日付河田豊前守長親・鯵坂備中守長実・吉江織部佑景資宛上杉謙信書状(写)〔宛名:吉江織部佑殿〕(『上越』1338号)

 22.天正5年11月23日付上杉謙信制札(奉者 三条道如斎信宗・吉江喜四郎信景) 「吉江織部佑」(『上越』1360号)

 23.天正5年12月23日付上杉家家中名字尽手本「中条与次」「吉江織部佑」(『上越』1369号)

 24.天正6年2月12日付三条道如斎信宗・吉江喜四郎信景宛吉江織部佑景資書状(写)〔吉織 景資〕(『上越』1375号)

 25.年次未詳正月28日付吉江亀千代丸宛上杉謙信一字書出(写)〔宛名:吉江亀千代丸殿〕(『上越』1398号)

 26.年次未詳4月11日付栗林次郎左衛門尉宛上杉謙信書状 「吉江織部佑」(『上越』1420号)

 27.年次未詳6月18日付吉江織部佑景資宛糟谷織部佑通綱書状(写)〔宛名:吉江織部佐殿〕「吉江方」(『上越』1436号)

 28.年月日未詳上杉謙信名字状(写)「吉江杢助」「与次」(『上越』1470号)

 29.天正6年3月28日付三条道如斎信宗・吉江喜四郎信景・北条下総守高定宛神余小次郎親綱書状(写)「吉江織部佐(佑)方」(『上越』1483号)

 30.天正6年6月7日付上条弥五郎政繁・中条与次景泰・新発田尾張守長敦・竹俣三河守慶綱・安田治部少輔堅親・五十公野右衛門尉重家・加地安芸守・吉江喜四郎信景・毛利惣八郎顕元・色部惣七郎長真・斎藤下野守朝信宛跡部大炊助勝資書状(写)〔宛名:中条与次殿〕(『上越』1527号)

 31.天正6年8月22日築地清三宛中条景泰判物(写)〔署名:景泰〕(『上越』1618号)

 32.天正6年9月2日付築地修理亮資豊宛上杉景勝書状「与次」(『上越』1649号)

 33.天正6年9月16日付中条与次景泰宛上杉景勝感状(写)〔署名:中条与二殿〕(『上越』1663号)

 34.天正7年2月14日付清浄心院宛上杉景勝書状「中条越前守」(『上越』1765号)

 35.天正7年2月14日付清浄心院宛中条越前守景泰副状〔署名:中条越前守景泰〕(『上越』1766号)

 36.天正7年4月朔日付佐藤新左衛門尉宛中条景泰判物(写)〔署名:景泰〕(『上越』1806号)

 37.天正7年4月8日付築地修理亮資豊宛上杉景勝書状「越前守」(『上越』1809号)

 38.天正7年4月21日日付築地修理亮資豊宛上杉景勝書状「越前守」(『上越』1811号)

 39.天正9年4月8日付山本寺松三景長・中条越前守景泰・竹俣三河守慶綱・吉江常陸入道殿宗誾宛上杉景勝書状(写)〔宛名:中条越前守景殿 吉江常陸入道殿〕(『上越』2113号)

 40.天正9年7月17日付樋口与六兼続宛吉江常陸入道宗誾書状「越前」(『上越』2163号)

 41.天正9年8月17日付長尾平太・村山善左衛門尉慶綱・新保孫六・一騎合衆宛上杉景勝書状(写)「中条越前守」(『上越』2174号)

 42.天正9年11月晦日付吉江常陸入道宗誾宛上杉景勝判物(写)〔宛名:吉江常陸入道殿〕(『上越』2212号)

 43.天正9年11月晦日付吉江与橘宛上杉景勝判物(写)〔宛名:吉江与橘殿〕(『上越』2213号)

 44.天正9年11月晦日付中条越前守景泰宛吉江常陸入道宗誾書状〔宛名:越前守殿 参御宿所 署名:常陸入道宗誾〕(『上越』2214号)

 45.天正9年11月晦日付吉江与橘宛吉江常陸入道宗誾書状〔宛名:与橘殿  署名:常陸入道宗誾〕(『上越』2215号)

 46.天正9年12月3日付吉江与橘長忠宛上杉景勝一字書出(写)〔宛名:吉江与橘殿〕(『上越』2253号)

 47.天正9年12月3日付吉江与橘長忠宛上杉景勝朱印状(写)〔宛名:吉江与橘殿〕(『上越』2254号)

 48.天正10年4月4日付吉江与橘長忠・おはりこ(中条景泰室)宛寺嶋六三長資書状〔宛名:与きちとの おはりこ 署名:六三〕「ゑちせん」(『上越』2335号)

 49.天正10年4月9日付吉江与橘長忠宛中条越前守景泰書状〔宛名:与きちとのへ  署名:越前守〕(『上越』2344号)

 50.天正10年4月9日付おはりこ宛中条与次景泰書状〔宛名:おはりこ 御中 署名:与次〕「六三」(『上越』2345号)

 51.天正10年4月9日付お二郎宛蓼沼掃部助泰重書状 「なかちうとの」(『上越』2346号)

 52.天正10年4月13日付山本寺松三景長・中条越前守景泰・長与次・亀田小三郎長乗・蓼沼掃部助泰重・寺嶋六三長資・竹俣三河守慶綱・安部右衛門尉政吉・吉江常陸入道宗誾・藤丸新介勝俊・石口采女正広宗・若林九郎左衛門尉家吉宛上杉景勝書状(写)〔宛名:中条越前守殿 寺嶋六三殿 吉江常陸入道殿〕「織部父子三人」(『上越』2348号)

 53.天正10年4月23日付直江与六兼続宛山本寺松三景長・中条越前守景泰・吉江常陸入道宗誾・竹俣三河守慶綱・安部右衛門尉政吉・吉江喜四郎信景・石口采女正広宗・寺嶋六三長資・若林九郎左衛門尉家吉・蓼沼掃部助泰重・亀田小三郎長乗・藤丸新介勝俊連署状〔署名:中条越前守景泰 吉江常陸入道宗誾 寺嶋六三長資〕(『上越』2359号)

 54.天正10年8月15日付吉江与橘殿長忠宛上杉景勝判物(写)〔宛名:吉江与橘殿〕「亡父織部佑 同六三」(『上越』2536号)


番号は年次を比定、移動したもの。

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