食道がんと闘う自然爺の活動

自然の中での暮らしに憧れ、自作の山小屋を起点に自然と戯れていたが、平成21年10月、食道・胃がんが見つかり手術。

『回想旅行記、第3トンネル』

2013年11月21日 17時18分54秒 | 旅行

第3と言う事は1も2もあることになるが、実際には確認がとれないから幾つあるのか分か

らないのが本当。第3は観光客も体験できるように整備されており、敵の戦闘侵略行為

にも近い結果から生まれた異色の観光スポット。でも、それは表面上だけのことで実態

を知ると観光スポットではなく、北朝鮮の恐怖と韓国征服の鬼気を感じざるを得ない。

私たちはTVのニュースで北朝鮮のことを知るが、それは言葉や一部の映像だけのこと、

その恐ろしさ執念深さはここのトンネルを見れば、百聞は一見にしかず。

トンネル入口からトロッコ列車が出ており、約70m下にあるトンネルまで連れて行ってく

れ、そこから徒歩でトンネル内を見学する。入口はDMZから500mくらいの所にある。つ

まり国境を越えて韓国側に侵入してきている。どこまで掘り続ける計画だったのか知る

由はないが、このトンネルは1時間に約7000人の兵士を韓国側に送り込むことができ、

ソウルまで1時間ほどだから、他のトンネルが完成すれば大型武器や兵站、車なども運

ぶことも可能になり、本格的にソウル制圧の絵図面でも描いていたろう。

トロッコで下に降りると、高さ2m弱のトンネルが続いている。音が漏れないように全て手

作業、壁には石ノミで削られた跡がそのまま残されており、何かで黒く塗られている。こ

れはばれた時に炭鉱だと言い逃れをする口実に使う為ではなかったのかと推測されて

いる。トンネルは韓国側の最終、北との国境で閉じられており、そこから折り返して出口

に戻る。歩いたトンネルの行程は全て岩石の部分だから、工事は大変困難だったと思

われる。少しの区間は硬くて人手では無理だったらしく、少量の発破が行われたらしい。

その際、発破音が聞こえなくするために地上では大音量の音楽を流して作業を進めた

と推察される。

あの手、この手で掘り続けたが、韓国にとっては運のいいことがあり発見に至った。それ

は何かの調査中に穴があり、そこに石を落したら深い位置までいったことが手掛かりに

なった。その後、脱北者の証言や地質調査で10本ほどのトンネルを確認できたが、正確

には幾つのトンネルがあるのかは分からない。

こうした危ないエリアの見学が終わり、帰りにあるDMZショップに行くと今まで、サングラス

をして怖そうな付き添いだった兵士と一緒に写真を撮ることができた。サングラスを外すと、

あどけない顔をした若い兵士で急に親しみを覚える。

ここは休戦協定で休戦している緊張のエリア、過去に何度も銃撃戦や殺し合いになった

歴史がある。トンネルを掘る執念、休戦から停戦に向かうような気すらしなくなった。


『やまとミュージアム』

2013年11月21日 17時16分45秒 | 回顧録

昨日、所属する炭焼きクラブの年に1度のレクリエーションがあり、呉市のやまとミュージ

アムに出かけた。集合が7時50分ということだから、私にとってはいつもよりずっと早起き

の6時半に布団から抜け出す。折角のレクなのに生憎の雨模様だが目的地の天気予報

は曇り後晴れとなっているから

、現地での行動に不自由することはなさそうだった。小雨の降りしきる中、総勢26名人で

バスに乗り込み、夏前だったか開通した松江自動車道路を走って三次東経由で呉市を

目指す。この道路、途中までは走ったことはある三次までの全線を通しては初めてのこと。

少々前のこと、妻とこの道の開通で広島空港に車で行くのに随分と楽になりそうだから、

どんなものか走ってみるかと話していた。そして今回は三次までの検証が出来るので、そ

の状況確認も兼ねていた。以前のように大回りしないで自動車道で三次に約1時間で行

けるから、これだと岡山空港に行くのとあまり変わりなくなり、私たちにとっては大幅な改善

になる。海外旅行に行くことが簡単になったが、今度は出発地の選択が広がり更に便利

になり益々、楽しみになって来た。頓原から長いトンネルに入りトンネル内で県境を渡り、

広島県側に出ると真っ白な雪景色に一同、ビックリ仰天。島根県側でその兆候があり広

島もその延長なら話は分かるが、その逆だから驚きは倍増する。

空は山陰の冬に見られるどんよりとした厚い雲、水分を含んだ重い雪がボタボタと降って

いる。暫くの間、雪景色を見ながら中国山脈を下ると、やっと山陽側の天気に戻り日差し

も差してきた。

呉には昼食を摂るタイミングで走行することになっていたらしいが、雪はあったものの余り

にも順調で、安佐PAで臨時の休憩をとり時間調整をする。食後向かったやまとミュージア

ムは日本人なら誰でも知っている、第2次世界大戦に造られた世界最大級の戦艦。機能

や規模は他国の軍艦を大きく凌ぐものを持ちながら、これを活用する戦術を展開できず、

最後は哀れな結末を迎えることになった。

戦艦大和のうんちくは別として、当時の資料や残されたものを組み合わせ戦艦の能力を

説明している。どこの国でもそうだが、軍事に関する技術開発は後々の民需品に応用さ

れることが多く、ある意味ではそうしたものの先駆けになっている。やまとの技術は現代に

引き継がれ実用に寄与しているものもたくさんあるが、同様のものを製作しようとするとコス

トがかかり過ぎて叶わない物もあるそうだ。過去のこと、現在との比較で物を考えないと、戦

艦大和は素晴らしかった。日本の技術で新しい戦艦大和を作ろう・・・・と宣伝することも可

能、一方ではこんな悲惨な経験はすべきではないとの反面教師の役割を持っているのか

しれない。

 

 

 


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