おはようございます。
本棚の整理をしているといろいろな女装小説・女装コミックが出てきます。
そのなかで鬼畜系の女装アンソロジーを読んでいたら、巻末にコラムがありました。
筆者は山崎邦紀氏。編集者であり、映画監督だった方です。
女装コミックの巻末とは思えない女装を語った硬派のコラムです。
2回に分けて紹介します。
出所は『コミック女装奴隷 vol.1』 2011年 一水社です。
これは成年向けなのでここではリンクは貼りません。
御容赦を。
女装哲学コラム 女装裏通り・第1回
山崎邦紀
わたしもまた、かつて「エリザベス」で女装を試み、鏡の中に現れた身も蓋もないオバサン面(づら)に心底ゲンナリして、二度と女装しようなんて気を起こすことは無いが、憧れのふんわりしたスカート、大島弓子さんや高野文子さんのマンガに出てくるようなスカートをはくことが無いまま一生を終えるかと思うと、やはり無念という気がしてくる。
スカートの下から風が入ってくる感覚は、あれはどんなものなのだろう。初老のオッサンは、蒸し暑い夏はすっかり短パンで押し通しているが、そんな実用性を越えて、脚の間から風が入ってくる感覚を、しきりと妄想してみるものの、現実には女の人のスカートの下から風が入ってくることはないのかもしれない。
以前『クロス・ドレッシング』 (一水社の系列会社の光彩書房)という女装専門誌の編集長をしていた頃、女装者の皆さんとずいぶん交流したが、最近の女装男子といった爽やかな(?)ブームとは対極にある、たっぷりと濃厚でダークな人たちが、世間の隙間にひっそりと、しかし強烈な存在感をもって棲息していた。「彼女たち」の
女装には人生がかかっていて、もしバレたら家庭生活は破綻し、社会的生命も失われるというような逼迫した危機感が絶えず背後に迫っているので、対抗上、理論的にも武装している人が少なくなかった‥
当時の記念碑的な本として、その後は死生学に転じた渡辺恒夫教授の「脱
男性の時代~アンドロジナスをめざす文明学』 (勁草書房)がある。ちょっとした楽しみで女装してみる時代が、いつか来ることを夢想しながら、社会的圧迫に抗すべく理論武装していたような気がする。
親しく付き合ったキャンディ・ミルキィさんのように、キャンディ・キャンディの真似をした手製のフリフリの衣裳を着込み、オフロードバイクに乗って原宿の歩行者天国に乗り込むような奇矯な実践もまた、女装者の強烈なイメージを増幅したことだろう。
「彼女」は『ひまわり』という女装誌の編集長でもあって、奮闘する女装ゲリラといった趣だった。
最近、ある筋から聞いて驚いたのだが、キャンディ・ミルキィさんは女装の世界で頭角を現す以前は、新左翼の活勣家だったというのである。真偽は分からないが、ガセネタを流すような相手ではない。わたしとキャンディさんの付き合いは『クロス・ドレッシング』を編集していた頃だけでなく、その後ピンク映画や薔薇族映画を手がけるようになってから、何度か出演もしてもらった。
かつては写植で生計を立てていたが(自分のアパートでやってる人も多かった)、印刷業界の構造変化で仕事が減り、空港で積み荷の運搬のバイトをしているとか、子供もいた奥さんと離婚したとか、そんなプライベートの話は聞いていたが、政治的な活動歴についてはいっさい耳にしたことが無かった。しかし、その一方で奇異な感じがしなかったのも事実である。キャンディさんの政治の季節が終わりを告げ、女装の世界のゲリラ戦士として新たな戦いを繰り広げたと考えると、符帳が合うような気もするのだ。
本棚の整理をしているといろいろな女装小説・女装コミックが出てきます。
そのなかで鬼畜系の女装アンソロジーを読んでいたら、巻末にコラムがありました。
筆者は山崎邦紀氏。編集者であり、映画監督だった方です。
女装コミックの巻末とは思えない女装を語った硬派のコラムです。
2回に分けて紹介します。
出所は『コミック女装奴隷 vol.1』 2011年 一水社です。
これは成年向けなのでここではリンクは貼りません。
御容赦を。
女装哲学コラム 女装裏通り・第1回
山崎邦紀
わたしもまた、かつて「エリザベス」で女装を試み、鏡の中に現れた身も蓋もないオバサン面(づら)に心底ゲンナリして、二度と女装しようなんて気を起こすことは無いが、憧れのふんわりしたスカート、大島弓子さんや高野文子さんのマンガに出てくるようなスカートをはくことが無いまま一生を終えるかと思うと、やはり無念という気がしてくる。
スカートの下から風が入ってくる感覚は、あれはどんなものなのだろう。初老のオッサンは、蒸し暑い夏はすっかり短パンで押し通しているが、そんな実用性を越えて、脚の間から風が入ってくる感覚を、しきりと妄想してみるものの、現実には女の人のスカートの下から風が入ってくることはないのかもしれない。
以前『クロス・ドレッシング』 (一水社の系列会社の光彩書房)という女装専門誌の編集長をしていた頃、女装者の皆さんとずいぶん交流したが、最近の女装男子といった爽やかな(?)ブームとは対極にある、たっぷりと濃厚でダークな人たちが、世間の隙間にひっそりと、しかし強烈な存在感をもって棲息していた。「彼女たち」の
女装には人生がかかっていて、もしバレたら家庭生活は破綻し、社会的生命も失われるというような逼迫した危機感が絶えず背後に迫っているので、対抗上、理論的にも武装している人が少なくなかった‥
当時の記念碑的な本として、その後は死生学に転じた渡辺恒夫教授の「脱
男性の時代~アンドロジナスをめざす文明学』 (勁草書房)がある。ちょっとした楽しみで女装してみる時代が、いつか来ることを夢想しながら、社会的圧迫に抗すべく理論武装していたような気がする。
親しく付き合ったキャンディ・ミルキィさんのように、キャンディ・キャンディの真似をした手製のフリフリの衣裳を着込み、オフロードバイクに乗って原宿の歩行者天国に乗り込むような奇矯な実践もまた、女装者の強烈なイメージを増幅したことだろう。
「彼女」は『ひまわり』という女装誌の編集長でもあって、奮闘する女装ゲリラといった趣だった。
最近、ある筋から聞いて驚いたのだが、キャンディ・ミルキィさんは女装の世界で頭角を現す以前は、新左翼の活勣家だったというのである。真偽は分からないが、ガセネタを流すような相手ではない。わたしとキャンディさんの付き合いは『クロス・ドレッシング』を編集していた頃だけでなく、その後ピンク映画や薔薇族映画を手がけるようになってから、何度か出演もしてもらった。
かつては写植で生計を立てていたが(自分のアパートでやってる人も多かった)、印刷業界の構造変化で仕事が減り、空港で積み荷の運搬のバイトをしているとか、子供もいた奥さんと離婚したとか、そんなプライベートの話は聞いていたが、政治的な活動歴についてはいっさい耳にしたことが無かった。しかし、その一方で奇異な感じがしなかったのも事実である。キャンディさんの政治の季節が終わりを告げ、女装の世界のゲリラ戦士として新たな戦いを繰り広げたと考えると、符帳が合うような気もするのだ。
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