小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

守るべきは「日本文化の型」

2018年09月15日 16時47分54秒 | 思想


1年半ぶりに復帰した横綱・稀勢の里が、序盤、五連勝していたのに、昨日(9月14日)、ついに一敗を喫してしまいましたね。今日もかろうじて勝ったものの大苦戦。これから先が思いやられる取り口でした。
ところで、あえて憎まれ口をたたきますが、筆者は、この稀勢の里という力士を、ずっと以前からあまり評価していません。腰高で取り口が不安定、モンゴル力士に比べてメンタル面に弱さが見られ、早く横綱に、早く横綱にと、ファンの期待をよそに、いつまでも大関にとどまっていました。
在籍31場所(5年超)という長丁場の最後の1年で好成績を残し、ようやく初優勝して横綱に昇進しますが、大関時代の勝率は七割ちょっと。
昇進後初の場所で左肩を強く痛めながら強行出場して劇的な逆転優勝を収めたため、いやが上にも人気は高まりました。しかしこの怪我がたたって八場所連続の休場となりました。
本人にしてみれば横綱になって一場所しか完全出場していないのだから、ここでやめるわけにいかないという気持ちなのでしょう。それはよくわかりますが、横綱の威信を守るという角界の公的な建前からすれば、もっと早い時点で引退すべきでした。

稀勢の里は、なぜあんなに人気があるのでしょうか。
もちろんあの劇的な逆転優勝がそれを支えていますが、それ以前からこの力士への期待感は実力に見合わないものがありました。思うにそれは、最高位をモンゴル力士に独占され続けたという、日本人にとって悔しい事情が背景にあったからでしょう。

日本人に特徴的な国民性に、判官びいき精神論的な(つまり合理的でない)ナショナリズムとが数えられます。この心情的な同質性の高さは、状況に応じて強さとして現れることがありますが、おおむね、緻密で強靭な戦略と、目的合理的な思考と、長いスパンや総合的な視野でものを見る力の前に敗北することが多いと言えます。稀勢の里人気は、そういう日本人の弱点を象徴している気がして仕方ないのです。

筆者は、相撲が好きですが、モンゴル力士が上位をいくら支配し続けようと、悔しさなど感じたことは一度もありません。ちなみにかつては、関脇時代から一貫して日馬富士(当時は安馬という四股名)のファンでしたし、いまは栃ノ心と御嶽海を応援しています。栃ノ心はジョージア出身、御嶽海は、フィリピン人とのハーフです。
筆者が彼らを好きなのは、それぞれ理由がありますが、共通しているのは、その相撲内容がきわめて個性的で優れているからです。要するに、本当の強さというものがそこにはあるのです。

話は変わりますが、九月場所開始の前日、大坂なおみが全米オープンでランク1位のセリーナ・ウィリアムズをストレートで破って見事優勝を果たしました。今に至るまで、メディアの一部ではこの話題でもちきりです。
日本人の二十歳の女性がランク1位の選手を破って優勝した!
このニュースは、筆者も素直にうれしい、と言いたいところなのですが、またもやへそ曲がりの虫が頭をもたげてくるのを抑えることができません。

大坂なおみは果たして日本人と言えるのだろうか?
彼女はハイチ人とのハーフですし、三歳の時アメリカに渡り、母語は英語です。国籍も日本とアメリカの二重国籍。大会には日本国籍者として出場することを表明してはいますが、その大柄な体躯や肌の色、素晴らしい身のこなしを見ていると、どう見ても中米系の血が濃厚に出ています。

そんなことはどうでもいいじゃないか、という声が聞こえてきそうです。
君はさっき、相撲を論じながら、日本人であるかどうかになど、少しもこだわらないと言ったばかりじゃないか、それと矛盾していないか、と。

矛盾していないのです。

筆者が気になるのは、日本で起きている「なおみフィーバー」では、彼女が人種的に中米系の血が濃厚であり、育ちがアメリカであり、母語が英語であり、二重国籍者であり、現在もアメリカ在住者であるという事実を、まったく気に留めず、ひたすら日本人としてしか扱っていないという点なのです。
つまり、そこに、はしゃいでいる日本人たちの強引さを感じるわけです。このフィーバーの背景には、彼女は何が何でも根っからの日本人、と思いたがっている日本人たちの深層心理が作用してはいないか。

テニスはヨーロッパで生まれたスポーツです。
そこにはそのスポーツ特有の文化の型というものがあります。
アメリカで育ち母語も英語でアメリカ在住者なら、この文化の型に適応することは、普通の日本人に比べればはるかに容易でしょう。
そのことに日本人のほとんどだれも気づいていない、気づこうとしない点に違和感をもつのです。

この傾向は、自国の文化や存在感が世界にあまり認めてもらえないので、無理にでも国際的日本人を作り出そうとする、一種の「弱さのナショナリズム」ではないでしょうか。
またこれは、日本人力士を、その実力のほども正確に見積もらずに、彼がただ日本人であるという「観念」だけで熱狂的に応援する心理と、じつは背中合わせではないでしょうか。

かたや、相撲の場合は、日本特有の国技であって、そこにも他のスポーツには替えがたい文化の型があります。
この型に参加してくる力士たちは、モンゴル人だろうと、ジョージア人だろうと、ブラジル人だろうと、ブルガリア人だろうと、みな、その型に忠実に従い、言葉までも短い期間に日本語を流暢にしゃべれるようになります。
これは、彼らが人種や民族として「日本人」になったのではなく、日本文化の一つの「型」に、自分のアイデンティティを、それこそ命を懸けて適応させた結果を表しています。
だからこそ、筆者はそのことを喜ばしいと思いこそすれ、彼らが何人であろうと気にならないのです。

つまり私たちが守るべきなのは、あくまでもそれぞれの伝統に根差した文化の型であって、異文化の型を如実に表現している個人を、血筋が半分こちらに属するからといって、強引に「日本人」だと思い込んでしまうことではありません。

一方には、こういうことがあります。

このブログを始めたころにも触れたのですが、敗戦後、いまなお残っている、いわれなきアメリカ化を象徴する事象として、国際的なスポーツ大会などで日本選手が出場してその名をアナウンスされると、決まって欧米風に、名、姓の順で呼ばれるというのがあります。
「ユズル・ハニュー」「マオー・アサーダ」というやつですね。

筆者は以前からこれを不快に思ってきました。
個人名は、母国において、母国人の両親によってつけられたものです。
多文化共生主義とか異文化尊重主義とかを、普遍的思想であるかのように掲げるなら、まず何よりも、各個人のアイデンティティとして最も大切な姓名を、その名付けられたとおりに呼ぶのが適切なのではありませんか。

ちなみに、ほとんど指摘する人がいなくて困ったことなのですが、東アジア文化圏の他の国、中国や台湾や韓国(もちろん北朝鮮も)の選手で、こんな呼ばれ方をされることはけっしてありません。
キム・ヨナは「ヨナ・キム」などとは呼ばれず、ちゃんと「キム・ヨナ」と呼ばれます。
出場選手の表示でも、日本だけがひっくり返されて表示されるのです。
私が不快を感じるのは、「ユズル・ハニュー」と呼んだり「Yuzuru Hanyu」と表示したりする主催団体に対してではありません。
そういうことを何の疑問もなく受容している日本人に対してなのです。
誰もこれに抗議しないのは、戦後、アメリカによって魂を抜かれてしまったからです。
この魂を抜かれた日本人の情けない精神状態に対して憤りを覚えるのです。

筆者は名刺のローマ字表記部分には「Kohama Itsuo」と刷ってありますし、たまに日本語の話せない西洋人と下手な英語で会話しなくてはならない時、日本人の名前が出てくる場合には、必ず姓を先に言うことにしています。

こういうこともあります。

車内放送が英語で流れます。
それ自体は、国際通用語としての英語を尊重している態度の表れですから、大いにけっこうなことです。
ただ気になるのは、路線によって、駅名をネイティブスピーカーの発音で流している場合があることです。
初めはほとんどの路線でそうでした。
最近ではやや改善されて、駅名の部分だけをきちんと日本語発音でやるようになったところがけっこう増えてきました。
おそらくかつてはネイティブスピーカーを使っていたのでしょう。
しかし最近は、日本人もきれいな発音で(あくまで国際通用語として)英語を話す人が増えてきたので、この変化が可能となったのでしょう。
しかしまだ残っています。「ヨコハーマ」「シブーヤ」といったたぐいですね。
地名もまた、その土地に根差して生活する人たちのもので、固有のアイデンティティを持っています。
それを尊重してこそ、文化が生きるのです。

筆者はかつて横浜市の教育委員をしていたことがあります。
その当時、横浜市営地下鉄が「ヨコハーマ」「アザーミノ」とやっていたので、教育委員の地位を傘に着て、市の交通局に、「あれは教育上もよくないので、正しい日本語発音に変えるべきではないか」と抗議に赴いたことがあります。
担当者は「ごもっともですが予算の関係で」などと理由にならないことを言って抗議を退けました。

市営地下鉄は路線が二つあります。
その後知ったのですが、新しくできた方の車内放送は、ちゃんと日本語発音になっていたのです! 
なんで古い方も変えないのか。
そんなにお金がかかるはずはありません。

いつまでも杉原千畝の美談に酔いしれていたり、大東亜戦争初期段階での日本軍の強さを力説する一部の保守派がいます。
国際社会のだれも、そんなことは認めてくれません。
だれもと言っては語弊があるので、ほとんど、と言い換えておきましょう。
こういうただの心情ナショナリズムの高揚は百害あって一利なしです。
いま求められているのは、いろいろな領域で危機に瀕している日本にあって、さまざまな文化の個性的な型がどんな質のものであるかをよく見直し、そこに他国にはないよきものが再発見されるなら、それをいかにして守るかに心を砕くことです。



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