小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

政治の本質とは何か――山尾議員疑惑に寄せて

2017年09月12日 15時51分19秒 | 政治




報道によりますと、民進党は、8日、幹部会議で幹事長代行に辻元清美氏を選ぶことに決定しました。
この人選も問題ですが、山尾志桜里不倫疑惑問題の余震をなるべく早く終息させようとの思惑でしょう。まあ、勝手にやってくれというほかはありません。

山尾議員は不倫の事実を認めず、民進党を離党することになりました。
離党でなく議員辞職すべきだとの声もありますが、ここで論じたいのは、その種の議論ではありません。
解体しつつあるいまの民進党に何を期待しても無駄です。
壊れゆく運命にあるものは、自然の勢いに任せよ。

森友学園問題に始まり、加計学園問題、豊田議員暴言問題、稲田元防衛省失言問題、そして今回の山尾議員不倫疑惑問題と、ここのところ政局は、スキャンダルに翻弄されている感があります。
もちろん、ここにはワイドショーや週刊誌など、マスコミの興味本位によるすっぱ抜きや煽動が大いに関係しています。しかし、中央政局がそれらを大真面目に取り上げなければならない社会背景は何かということを見ておくことが大切です。

それは、ひとことで言えば、こうした「話題」にたちまち関心を集中させる国民大衆のどうしようもない空気です。
マスコミもビジネス、そこはちゃんと心得ていて、政治家のスキャンダルを取り上げ続ければ売れるという読みがあるのでしょう。
マスコミだけではなくネットもたちまち炎上します。ネットもビジネスですね。

民主政治では、国民が主権者であるという建前があるので、何となく、自分たち自身が国政とつながっているという幻想が膨らみます。
しかし実際には、国民の意思がよき国政に反映されるというふうにはなっていません。
そこで、なぜ国民はこの種の政治スキャンダルに飛びつくのかと言えば、要するに憂さ晴らしです。ルサンチマンのはけ口です。「パンとサーカス」です。
政府や政党も、この大衆社会のおそるべき動向を無視するわけにいかず、仕方なく「正義の政治、清い公党」を装って、ひたすら対応に追われるという按配。

ところで、じつは多くの人が、こうした成り行きを「くだらない」「何やってんだ」と感じているでしょう。それでも劣情を刺激されてつい視聴者になってしまう。
問題はこの「くだらなさ」の源がどこにあるかです。
民衆とはもともとそういうものだと言ってしまえば、身もフタもありません。
もう少し事の本質をよく見極めてみましょう。

上に挙げた政治スキャンダルには、一つの共通点があります。
それは、「政治に従事する者は道徳的に正しくあらねばならぬ」という金科玉条をタテにして騒ぎを起こしているという事実です。
この金科玉条は、日本の政治では、疑われたことがありません。それどころか、日本の国民のほとんどが、この命題を政治家非難や政治批判のために最優先させるべき武器だと考えているようです。

ここ近年、政治家が引きずりおろされた、または引きずりおろされかけた例を思い起こしてみても、国民大衆のほとんどがこういう発想をとっていることがわかります。
猪瀬直樹元東京都知事、舛添要一前東京都知事、宮崎謙介元衆議院議員、今井絵理子衆議院議員、そして上に挙げた人たち。
非難や批判の内容は、汚職、公金流用、不倫とさまざまですが、一様にこれらを「道徳的な悪」として糾弾し、それをもって「政治家失格」の烙印を押しつけています。

この発想は正しいか。

筆者はこう考えます。
ここには、政治家としての力量、業績、能力によってその適性を評価するという基準がほとんど見られません
政治家としての力量、業績、能力とは、案件を広い視野と公共精神をもって考え、知識と経験を活用して適切な政策を立案し、巧みな実行力を駆使してその政策を実現に導くことです。
そしてその実現された政策が、実際に国民の福利の増進に貢献したかどうかが絶えずチェックされなければなりません。

断っておきますが、筆者は、上に挙げた人たちが、政治家にふさわしいそういう資質の持ち主だったなどと言っているのではありません。
そこそこ能力を持った人もいれば、全然ダメな人もいます。芳しからぬ政策を取った人もいます。
憂うべきは、そういう判断が、該当する政治家たちの評価基準として採用されず、ただ清廉潔白であったかどうかという基準のみによって去就を決定させられてしまうという、おかしな風潮が蔓延してしまっていることなのです。

日本人のほとんどは、近代国家における政治というものの本質がわかっていないのです。
考えてみれば、これは日本の伝統と言ってもよい。
儒教道徳が流布した江戸時代から、孝悌忠信、至誠、質素倹約などばかり尊ばれ、こうした徳義に従わない者は人であるかのようなまなざしを受けてきました。政治家も例外ではありません。
江戸時代に沁み込まされた徳治政治こそ良しとする伝統が、いまなお続いていて、国民性の大きな部分を形づくっています。

ちなみにこういう国民性を戦後になって助長させた「大物」がいます。立花隆氏です。
彼は、田中金脈問題を執拗に追跡し、その名をとどろかせましたが、その膨大な仕事の中で、田中角栄の優れた政治的手腕(特に通産大臣時代の)に触れたことは、ただの一度もありませんでした。

しかしもはや近代百五十年、至誠や清廉潔白などを政治家評価の中心に置くような時代ではありません。複雑多様化したこの先進社会を維持発展させていくために、幅広い知識情報にもとづく的確な処理能力と優れた政治手腕とを結集させることこそが問われているのです。
また修羅場である国際社会に向けては、マキャヴェッリ的な巧智がぜひとも必要とされます。

もちろん、道徳は大切ですし、ことに一般人に比べて公人にはそれが厳しく求められることは論を俟ちません。
しかしそれは、あくまでも政治家としての資格要件の一つであって、政治家という職能の本質要件ではありません。
政治家の職能の本質は、錯綜した社会問題をいかに調整し、国民最大多数の最大幸福をいかに実現するかに求められます。

日本人の多くがこのことに気づかず、いつまでも道徳的判断だけをよりどころにスキャンダル合戦を繰り広げ、政治家降ろしにうつつを抜かしていると、わが国は内憂外患の増大によって確実に亡びの道を歩むでしょう。

言うまでもなく、日本はいま、北朝鮮の核保有問題や中国の不当な圧力の問題など、安全保障にかかわる喫緊の課題を抱えています。しかし日本独自の積極的な国防策は動き出す気配がありません。
また、この数年間、安倍政権の下で、消費増税、電力自由化、労働者派遣法改悪、農協法改悪、TPP批准、無原則な移民受け入れ、みなし残業手当廃止、種子法廃止など、国民のためにならない悪政が、大した議論もなく次々と押し進められてきました。
デフレ脱却のための有効策はちゃんとあるのに、財務省の「緊縮真理教」がこれをずっと阻み続けています。
「パンとサーカス」を求める大衆のどさくさにまぎれて、これらの悪政や政治的不作為が現にまかり通っているのです。

かつて福沢諭吉は繰り返し言いました。愚かな政府は愚民によって支えられると。
私たちが世界から愚民国家の住人と嘲笑されないためにも、政治の王道を外したくだらない「政治家降ろしの風潮」から一刻も早く脱却しましょう。