これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(16)
ジャズの最盛期は60年代に終わってしまった――そういう意味のことをこの前書きました。これについて共感するコメントを寄せてくれた人もいました。しかしそのオーソドックスな流れが途絶えてしまったわけではありません。
日本では、この正統派ジャズはけっこう人気が高く、ちょっとそのへんの飲み屋などに入ると、BGMとしてジャズを流している店が圧倒的に多いのに気付きます。ジャズをバックに友人と静かに語らいながら日本酒を傾ける――これってとてもいい雰囲気ですね。一つの定着した文化といってもいいくらいです。若者にも受けがいいようです。
またお茶の水に「NARU」というライブバーがあり、ここでは連日、ジャズメンが出演して真剣な演奏に力を注いでいます。若手もどんどん輩出していますが、往年活躍した大野雄二(p)、辛島文雄(p)、峰厚介(ts,ss)といった人たちもベテランの味を披露してくれます。私は残念ながら聴き逃したのですが、いまは亡き迫力ある個性派ピアニスト、本田竹広もかつてはここで演奏していました。息子さんはドラマーの本田珠也で、彼もこの店によく出ているようです。
ちょっと長くなりますが、この親子のライブ版を聴いていただきましょうか。特に二曲目は、はじめの部分、日本唱歌の「浜辺の歌」のように聴こえますが、たいへん情緒豊かな曲で、まさに「ジャズ・バカ」というニックネームを本田に進呈したくなるような情熱のこもった演奏です。
さて、アメリカで生まれたジャズは、その精神がヨーロッパに受け継がれ、この伝統的な文化風土にふさわしい、独特な開花の仕方をします。それについて語りましょう。
このシリーズの初めのほうで、MJQ(モダン・ジャズ・カルテット)をご紹介しましたが、たたずまいが端正で、とても長続きしたこのグループは、早い時期からジャズとクラシックとの橋渡しに大きく貢献しました。リーダーのジョン・ルイス(p)がもともとクラシックへの憧れが強く、ヨーロッパ風の典雅な曲をいくつも作曲しています。しかもメインプレイヤーのミルト・ジャクソンのビブラフォンの調べがブルース調でありながらとても気品ある音色を奏でるという点も手伝って、クラシックファンにも大いに人気を博しました。
その代表作、ユニークなギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトを偲んで作られた「ジャンゴ」をお聴きください。パーソネルは、二人のほかに、パーシー・ヒース(b)、コニー・ケイ(ds)。
MJQはアメリカの黒人グループですが、ジャズとクラシックの融合という役割を果たしたヨーロッパのミュージシャンといえば、ドイツ人のオイゲン・キケロ(p)と、フランス人のジャック・ルーシエ(p)の二人を挙げなくてはならないでしょう。
二人とも、バッハやショパンなどクラシックの名曲をテーマにしながら、それをジャズの感覚やリズムで処理していくところに共通の特徴があります。
まずキケロから。ショパンの「24の前奏曲 作品28の4 ホ短調」
ソロパートで彼はボサノバ調の8ビートを採用しています。なかなか心地よい演奏ですが、ショパンのあの小曲の消え入りそうな雰囲気をうまく活かしたのかというと、少し疑問が残ります。なぜなのだろうと考えたのですが、彼の演奏には、クラシックの名曲なら必ず持っている「翳り」というものがあまり感じられないのですね。これは、バッハの有名な「トッカータとフーガ ニ短調」を冒頭に使った「ソフトリー サンライズ」では、さらにはっきり言えることで、生真面目に鍵盤をたたいている印象があり、いまいち深みに欠ける憾みが残ります。興味のある方は聴いてみてください。
http://www.youtube.com/watch?v=uKYEg2t0dxA
いっぽうのジャック・ルーシエですが、彼は59年にバッハをジャズで演奏して一躍名を馳せました。「プレイ・バッハ」シリーズを立て続けに3枚、5年後にまた2枚出して一世を風靡します。これは、ジャズファンにとってまさに新鮮な驚きでした。じつに画期的な試みだったと思います。そもそもバッハとジャズとがこれほど相性がいいということ自体、大きな発見であり、「コロンブスの卵」ともいうべき快挙でした。
しかし、いま聴きなおしてみると、やはり何というか、実験的な試みに伴いがちな一種の硬さが取れていず、本当に融合に成功しているとは言い難い部分もあります。
ところがそれから約20年後、彼は第二期トリオを組み、もう一度バッハの多くの曲のアレンジメントに挑み、「デジタル・プレイ・バッハ」2枚組(「ザ・プレイ・バッハ」とも銘打たれています)その他を出します。これは成熟を物語る素晴らしい出来栄えで、メンバーとの呼吸の合い方もよく、録音もとても優れています。私は何度このCDを聴いたかわからず、友人にも勧めたり貸したりしました。
ではその中から続けて2曲。パーソネルは、ヴァンサン・シャルボニエ(b)、アンドレ・アルピノ(ds)。
1曲目。平均律クラヴィーアから「前奏曲第1番 ハ長調」。
原曲からは一見飛躍したようなジャズのノリになりながら、随所に原曲のあの、人をかぎりなく和ませるモチーフが織り込まれているのが感じられます。後半、急速調で展開しますが、それがそのまま、最後に至ってちゃんと座るべきところに落ち着くという流れになっています。
2曲目。例の「トッカータとフーガ ニ短調」。
この曲でルーシエは、さまざまにテンポを変えたり、多様な奏法を繰り広げたりと、起伏のある構成の妙を楽しませてくれます。それでいてそこにはある種の統一性が流れており、原曲の気高い雰囲気を失ってはいません。ルーシエは相当工夫したのだろうなあ、と想像されます。
ご存知のように、原曲はパイプオルガンによって演奏される教会音楽です。もちろん原曲にも様々な変化の工夫がなされてはいますが、残念ながら、オルガンという楽器はもともと細やかな表情を表現するには適していない楽器です。肉声からははるかに遠く、天上から降りて来る響きのようで、生身の人が弾いているという感じがしないのですね。
それもそのはず、もともと教会音楽というものは、神が創りたもうたこの宇宙の偉大さをいかに表現するかというモチーフに裏付けられています。オルガンはこのモチーフにとってはまことにふさわしい楽器であり、その荘厳な響きは、教会のなかでこれを聴く信者にとっては、天空の広大さや創造神の崇高さを身に沁みてわからせてくれる絶大な効果を持っているのでしょう。
ところでこのことは、現代人である私たちから見ると、あまり人間味ののない、ただ理性と秩序のみが支配する冷たい世界の表れのように感じられてしまう要因にもなっているようです。試みに原曲を掲げておきましょうか。演奏は吉田美貴子。
さてルーシエの演奏は、ピアノという楽器のせいもあり、たいへん表情に富んだものとなっています。あるいは、ジャズでないとこれだけの身近さを演出するのは難しかったかもしれません。
総じて、彼の演奏には、先に例示したオイゲン・キケロなどとは異なり、とてもオシャレな雰囲気、余裕とヒューマニティと洗練された味わいが感じられます。やっぱりフランス人って、そういう柔軟なところがあるのかなあ、と思います。
いずれにしても、彼の存在が、クラシックとジャズの融合という課題を果たすのに大きく寄与したことは疑いがないでしょう。ここには、ただの無雑作なフュージョン一般とはちょっと次元が違って、かなり高度な新しい音楽的境地の達成が見られると思うのですが、いかがでしょうか。
次回、いま少しヨーロッパのジャズについて語りたいと思います。
ジャズの最盛期は60年代に終わってしまった――そういう意味のことをこの前書きました。これについて共感するコメントを寄せてくれた人もいました。しかしそのオーソドックスな流れが途絶えてしまったわけではありません。
日本では、この正統派ジャズはけっこう人気が高く、ちょっとそのへんの飲み屋などに入ると、BGMとしてジャズを流している店が圧倒的に多いのに気付きます。ジャズをバックに友人と静かに語らいながら日本酒を傾ける――これってとてもいい雰囲気ですね。一つの定着した文化といってもいいくらいです。若者にも受けがいいようです。
またお茶の水に「NARU」というライブバーがあり、ここでは連日、ジャズメンが出演して真剣な演奏に力を注いでいます。若手もどんどん輩出していますが、往年活躍した大野雄二(p)、辛島文雄(p)、峰厚介(ts,ss)といった人たちもベテランの味を披露してくれます。私は残念ながら聴き逃したのですが、いまは亡き迫力ある個性派ピアニスト、本田竹広もかつてはここで演奏していました。息子さんはドラマーの本田珠也で、彼もこの店によく出ているようです。
ちょっと長くなりますが、この親子のライブ版を聴いていただきましょうか。特に二曲目は、はじめの部分、日本唱歌の「浜辺の歌」のように聴こえますが、たいへん情緒豊かな曲で、まさに「ジャズ・バカ」というニックネームを本田に進呈したくなるような情熱のこもった演奏です。
さて、アメリカで生まれたジャズは、その精神がヨーロッパに受け継がれ、この伝統的な文化風土にふさわしい、独特な開花の仕方をします。それについて語りましょう。
このシリーズの初めのほうで、MJQ(モダン・ジャズ・カルテット)をご紹介しましたが、たたずまいが端正で、とても長続きしたこのグループは、早い時期からジャズとクラシックとの橋渡しに大きく貢献しました。リーダーのジョン・ルイス(p)がもともとクラシックへの憧れが強く、ヨーロッパ風の典雅な曲をいくつも作曲しています。しかもメインプレイヤーのミルト・ジャクソンのビブラフォンの調べがブルース調でありながらとても気品ある音色を奏でるという点も手伝って、クラシックファンにも大いに人気を博しました。
その代表作、ユニークなギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトを偲んで作られた「ジャンゴ」をお聴きください。パーソネルは、二人のほかに、パーシー・ヒース(b)、コニー・ケイ(ds)。
MJQはアメリカの黒人グループですが、ジャズとクラシックの融合という役割を果たしたヨーロッパのミュージシャンといえば、ドイツ人のオイゲン・キケロ(p)と、フランス人のジャック・ルーシエ(p)の二人を挙げなくてはならないでしょう。
二人とも、バッハやショパンなどクラシックの名曲をテーマにしながら、それをジャズの感覚やリズムで処理していくところに共通の特徴があります。
まずキケロから。ショパンの「24の前奏曲 作品28の4 ホ短調」
ソロパートで彼はボサノバ調の8ビートを採用しています。なかなか心地よい演奏ですが、ショパンのあの小曲の消え入りそうな雰囲気をうまく活かしたのかというと、少し疑問が残ります。なぜなのだろうと考えたのですが、彼の演奏には、クラシックの名曲なら必ず持っている「翳り」というものがあまり感じられないのですね。これは、バッハの有名な「トッカータとフーガ ニ短調」を冒頭に使った「ソフトリー サンライズ」では、さらにはっきり言えることで、生真面目に鍵盤をたたいている印象があり、いまいち深みに欠ける憾みが残ります。興味のある方は聴いてみてください。
http://www.youtube.com/watch?v=uKYEg2t0dxA
いっぽうのジャック・ルーシエですが、彼は59年にバッハをジャズで演奏して一躍名を馳せました。「プレイ・バッハ」シリーズを立て続けに3枚、5年後にまた2枚出して一世を風靡します。これは、ジャズファンにとってまさに新鮮な驚きでした。じつに画期的な試みだったと思います。そもそもバッハとジャズとがこれほど相性がいいということ自体、大きな発見であり、「コロンブスの卵」ともいうべき快挙でした。
しかし、いま聴きなおしてみると、やはり何というか、実験的な試みに伴いがちな一種の硬さが取れていず、本当に融合に成功しているとは言い難い部分もあります。
ところがそれから約20年後、彼は第二期トリオを組み、もう一度バッハの多くの曲のアレンジメントに挑み、「デジタル・プレイ・バッハ」2枚組(「ザ・プレイ・バッハ」とも銘打たれています)その他を出します。これは成熟を物語る素晴らしい出来栄えで、メンバーとの呼吸の合い方もよく、録音もとても優れています。私は何度このCDを聴いたかわからず、友人にも勧めたり貸したりしました。
ではその中から続けて2曲。パーソネルは、ヴァンサン・シャルボニエ(b)、アンドレ・アルピノ(ds)。
1曲目。平均律クラヴィーアから「前奏曲第1番 ハ長調」。
原曲からは一見飛躍したようなジャズのノリになりながら、随所に原曲のあの、人をかぎりなく和ませるモチーフが織り込まれているのが感じられます。後半、急速調で展開しますが、それがそのまま、最後に至ってちゃんと座るべきところに落ち着くという流れになっています。
2曲目。例の「トッカータとフーガ ニ短調」。
この曲でルーシエは、さまざまにテンポを変えたり、多様な奏法を繰り広げたりと、起伏のある構成の妙を楽しませてくれます。それでいてそこにはある種の統一性が流れており、原曲の気高い雰囲気を失ってはいません。ルーシエは相当工夫したのだろうなあ、と想像されます。
ご存知のように、原曲はパイプオルガンによって演奏される教会音楽です。もちろん原曲にも様々な変化の工夫がなされてはいますが、残念ながら、オルガンという楽器はもともと細やかな表情を表現するには適していない楽器です。肉声からははるかに遠く、天上から降りて来る響きのようで、生身の人が弾いているという感じがしないのですね。
それもそのはず、もともと教会音楽というものは、神が創りたもうたこの宇宙の偉大さをいかに表現するかというモチーフに裏付けられています。オルガンはこのモチーフにとってはまことにふさわしい楽器であり、その荘厳な響きは、教会のなかでこれを聴く信者にとっては、天空の広大さや創造神の崇高さを身に沁みてわからせてくれる絶大な効果を持っているのでしょう。
ところでこのことは、現代人である私たちから見ると、あまり人間味ののない、ただ理性と秩序のみが支配する冷たい世界の表れのように感じられてしまう要因にもなっているようです。試みに原曲を掲げておきましょうか。演奏は吉田美貴子。
さてルーシエの演奏は、ピアノという楽器のせいもあり、たいへん表情に富んだものとなっています。あるいは、ジャズでないとこれだけの身近さを演出するのは難しかったかもしれません。
総じて、彼の演奏には、先に例示したオイゲン・キケロなどとは異なり、とてもオシャレな雰囲気、余裕とヒューマニティと洗練された味わいが感じられます。やっぱりフランス人って、そういう柔軟なところがあるのかなあ、と思います。
いずれにしても、彼の存在が、クラシックとジャズの融合という課題を果たすのに大きく寄与したことは疑いがないでしょう。ここには、ただの無雑作なフュージョン一般とはちょっと次元が違って、かなり高度な新しい音楽的境地の達成が見られると思うのですが、いかがでしょうか。
次回、いま少しヨーロッパのジャズについて語りたいと思います。
少し、関係ないところからお話します。昔から、新興宗教に入る人や、また、逆に変に反宗教を唱える人は、芸術作品に触れていない、あるいは、分からない人なのだなあ、と思うことがあります。
芸術作品は、まあ、キリスト教風に言えば「奇跡」のような心理的効果を与えます。今までの見方、感じ方を裏切る新しい経験を私たちに与えてくれる経験です。そういう経験をした人は、教祖の言う「奇跡」など、何が面白いの、という印象しか受けません。空飛ぶ円盤の類もそうでしょう。優れた芸術作品に触れた印象は、UFOの比ではありません。もっとも、宇宙人が私たちの生活に影響を及ぼす可能性があるのなら、話は別ですが...。
一度私たちの精神を震撼させた芸術作品は、今度は、私たちの精神に深く入りこみ、精神の一部を形成します。J.S.バッハの音楽を経験すれば、バッハを知らない音楽的感性、また、バッハを知らない世界は、想像もできません。ここのところが、芸術家と、科学者の違いかもしれません。偉人伝には、バッハもキューリー夫人も同じように並んでいますが、ラジウムはキューリー夫人がいなくても、遅かれ、早かれ発見されたでしょう。しかし、バッハという芸術家は誰にも置き換えることができません。
ところで、芸術作品が、このような特質を得る条件は何かと、分けて考えると、三つあるように思います。①快楽、②新しさ(創造性?)、③快楽を超えたある種の価値(精神性?)。
その三つの条件を、オイゲン・キケロとジャック・ルーシェに当てはめてみると、キケロには、①はあるでしょう。②も最初は多少あったかもしれません。しかし、③となると...、ちょっとない。どの演奏を聴いても同じような印象を受けます。そうは言っても、キケロが聴く価値がない、ということではありませんが。それはそれで、楽しいものです。
一方、ジャック・ルーシェは、①、②、③ともに備えていると思います。小浜さんが言っておられるように後期、おおむね60歳過ぎのルーシェにはそれを感じます。世間では「バッハをジャズ風に弾いた」ということで片付けられがちですが、そんなものではなくて、ジャズの表現法でバッハを解釈しなおしているのです。細部と全体を、よおく考えた末で、しかも高いテクニックで表現していると思います。
最初、ルーシェを聴いたころ、音がこもった感じで、シャープな感じを受けず、むしろ、フランスのジャズ・コーラスグループ、スイングル・シンガーズの方が感覚的に訴えるものがありましたが、スイングル・シンガーズが、二作目のモーツアルト版を聴いて、面白くないので、驚いた覚えがあります。①と、②の鳥羽口までは表現できたのですが、そのあとは、③ではなく、お金だったのですね。
ジャック・ルーシェについても、ヘンデル、ショパンなどを手がけているので、恐る恐る聴いてみました。バッハほどの強い印象はありませんが、見事、世界を切り開いているではありませんか。レコード会社はお金のために、あれをやれ、これをやれとせっついたと思います。しかし、ルーシェは自分の中に必然性を感じ取れるまで待って、その上で試みたのではないかと思えます。この間、バッハについても表現を深め、60代以降の表現につながったのでしょう。
最後に、ルーシェがショパンの『子犬のワルツ』を弾いているのを引用します。「なんだ、こりゃ」と思われる方もあるでしょうが、私は、クラシックの伝統のど真ん中で育った人が、ジャズという新しい言語で創作をする意思を持ったからこそ、このような「崩し方」はできるのではないかと思います。
そのことを、日本人ジャズ・ピアニストがジャズ風に弾いた『子犬のワルツ』と区rべて見てください。05:44から30秒ほど聴けば分かります。
ジャック・ルーシェによる『子犬のワルツ』 Minutes Walltz
http://www.youtube.com/watch?v=XnO7prfESyU
日本人、ジャス・ピアノストによる『子犬のワルツ』 (05:44のところから30秒ほど)
http://www.youtube.com/watch?v=vErSdnEYnHk
YO
こういう本質的な論に触れると、自分がジャズ論をやってきた意味が確認できてとてもうれしくなります。
芸術の三条件説、なるほどと唸りました。それをキケロやルーシエ、スウィングル・シンガーズに適用して的を射ているところが素晴らしい。
ルーシエのショパンでは、「ノクターン集」が独特な境地を開いていますね。ヘンデルはまだ聴いたことがありませんが。
「子犬のワルツ」聞き比べ、ありがとうございます。
ルーシエのそれは音程を微妙にずらして、まさにジャズ的な解釈。とても面白いと思いました。②の創造性を感じます。
小曽根クンの演奏は、昔少し聴いたことがありますが、遠慮なく言えば、ただの優等生という印象だけがあり、少しも感心した覚えがありません。驚きがないのですね。
またよろしく。