小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日本語を哲学する27

2015年09月24日 22時45分09秒 | 哲学




 また、言語主体の存在状態を、身体行動から論理的言語の表出までをも含む最広義の意味での個人の「行為=ふるまい」のあり方という角度からとらえ直せば、以下のような段階の違いとして整理することができる。あくまで便宜的な整理ではあるが。


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|行為の段階 | 1   | 2     | 3      | 4     |
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
|原理    | 身体  | 情緒    |感情言語    |論理言語   |
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|現実的表現 | 行動  | 情動・表情 |直接表出的発語 |対象化的発語 |
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|例     |乳幼児のふ|泣く・怒る・小|やあ! えっ? | 命題・陳述 |
|      |るまい・暴|踊り・満面の笑|すてき! やだ!| 文章記述  |
|      |力・握手 |み      |いいね!    |       |
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
  
 この整理にしたがって「沈黙」がどの行為(ふるまい)の段階をどのようにフォローするかについて重ね合わせを行ってみると――
 1の場合は、文字通り言葉はまったくか、ほとんど発せられない。言語表現としての沈黙が行動に置き換わっている状態ととらえられる。
 2の場合は、一般的には、感情の昂揚が言語の構成を困難にしている場合と考えられる。しかし単純にそう決めつけることもできない。これらの情動表現の結果として、沈黙が破られる場合もあれば、逆に饒舌な言葉を表出しているうちに、その流れの延長上で激しい情動の表現に移り行く場合もあるからである。
 3の場合は、とりあえず間投詞的な表現ばかりを例示した。これらの場合には、余計なことを言っていない、言う必要がないという発語主体の心境がまさに多くの「沈黙」を現出させているのだが、じつはこの範疇には、前に掲げた豊饒な文学的言語のほとんどが含まれることになる。そこではしたがって、実際に発語された言葉とその陰に当たる部分とがひっきりなしのせめぎ合いを演じているのである。
 4の場合は、一見「沈黙」の役割は後景に退いてしまっているように思える。しかし論理言語の場合でも、「沈黙」の効果というのはおおいに発揮されているのである
 それはまず、ある抽象レベルがどうしても必要とされるという意味においてそうである。論理的命題を述べるためには、そこで使われる語彙があらかじめ多くの外延(その語彙の概念に含まれる個々の物事)を含むので、その外延のひとつひとつにいちいち言及しているわけにはいかず、それらははじめから捨象されざるを得ない。またそれぞれの語彙の定義について、必ず一致した共通了解のもとに使われるとは限らない(むしろ人によって受け取り方が違うことの方が多い)ので、厳密に考えれば、一つ一つの語彙の定義から始めなくてはならないはずだが、論述が長くなれば、そんなことは事実上不可能である。つまり定義は、議論が混乱して袋小路に入った時にようやく呼び出されるが、ふだんはだいたい見捨てられている。それでも漠然たる理解が共有されていれば、語彙の連結のさせ方、文脈の構成の仕方によって、ほぼ誰にとっても納得のいくような論理命題に収斂させることは可能なのである。
 たとえば、三段論法の例として有名な次の論述を取り上げてみよう。

 すべての人間は死ぬ。ソクラテスは人間である。ゆえにソクラテスは死ぬ。

 まずこの論述では、使われている言葉について、少なくとも四つの語彙の概念が自明の前提とされている。すなわち、「すべて」、「人間」、「死」、「ソクラテス」がそれである。
 しかし「すべて」という概念は果たして自明だろうか。その対象となっているものが含まれるある範囲や境界を想定しなければ、「すべて」という概念は使えないのではないか。「この箱の中にあるすべてのモノ」「人間社会で起きるすべてのコト」というように。
 また、「人間」とはどういう存在を指しているのか。ごくありていに言って、この言葉は、生物としてのヒト、社会的政治的存在としての人間、ひとりひとりの個人というように、いくつにも使い分けられる。そうした使い分けはここでは意識的に捨象されている。そもそも人間とは何かというのは、私たちにとっての最大の謎である。
 また、「死」という言葉も、生物的な個体としての解体を意味するのか、共同存在としての人間の崩壊を意味するのか、もっと一般的に、諸物の解体・滅亡を指しているのか、必ずしも明らかでない。そもそも人間の死に限ったとしても、それをどう解釈すべきかには、いくつもの考え方があるだろう。
 さらに、「ソクラテス」とは誰のことか。その人は存在しているのか、したのか。歴史の知識を信じるのでない限り、その存在は保証されない。保証されなければ、論理言語の道具として使うことは出来ないだろう。あるいは、ある人にとっては、それは固有名を持った生身の個人を指すかもしれないし、別のある人にとっては、人間の一サンプルを指すだけかもしれない。また別のある人にとっては、「こういうことを言ったりしたりした人」を指すかもしれないし、またまた別のある人にとっては、特定の「思想」を指すかもしれないのである。
 こうした理屈を述べ立てているかぎり、上記の論理命題は成り立たなくなってしまう。という意味は、いくらでも疑義を申し立ててその言い分を混乱させる余地が残されているということである。
 だがそれではもちろん、論理言語は有効に作用しない。その中で使われている語彙の概念が、それを流通させる人々の間ですべて自明であるという前提が必要なのだ。しかしその事実はいちいち語られない。ある言葉についての知の一般性と、それぞれの言葉のもつ抽象の水準と、それらが一定の文脈のなかでどういうニュアンスや強意を込めて使われているかということについての共通了解がなければ、論理言語ははたらかないのである。そこには暗黙の了解が生き生きと動いている。つまりは「沈黙」が作用しているのである。
 加えて、もっと大事なことは、この論理の要をなす「ゆえに(だから)」という結合辞自体が、一つの大きな飛躍を含んでいるという事実である。
「ゆえに」という言葉はもともと、「水をまいたのでもないのに庭が濡れている。ゆえに雨が降ったに違いない」とか、「信号が青になった。ゆえに進んでよろしい」というように、過去の経験則から導き出された認識と判断であって、それ以上のものではない。「三角形の内角の和は二直角である。ゆえに直角三角形の直角以外の二角は鋭角である」というような数学的な論理の場合でも、これを聴いた人が、典型的な図形を思い描きつつ観念の中でその言明の進行をなぞる(行動する)のでなければ、けっして納得されないだろう。
 本来この言葉は、行動指針のために使われるようになった結合辞で、多くの人の共通の行動に役立つなら、時と場合に応じていくらでも呼び出されるし、またその結合される二つの材料はいくらでも恣意的に選択されうるのである。だからヒュームのような懐疑論者が皮肉たっぷりに「あれの後にこれが起きた。ゆえにあれがこれの原因である」という言葉を持ち出すこともできたのである。
 ソクラテスの例の場合も、もしかしたら死なないソクラテス(なる人物)がいるかもしれないという論理的可能性は、あらかじめ排除されている。ソクラテスが死ぬという結論を導くために、二つの前提が必要だったのだが、「ゆえに」がそれらを選び出して結合しなかったら、両者はそれぞれバラバラな命題として投げ出されていただけで、そもそも「前提」とはなりえず、論理的筋道の構成要件となることはなかった。したがって、ここには、二つのものの因果的総合という飛躍的な「言語行為」が沈黙のうちにひそんでいるのだ。
 以上のようにして、論理言語もまた「沈黙」によって大きく支えられていることがわかる。

 また、感情言語と論理言語という区分は、明瞭には成り立たない。感情が何もこもらない論理表現というのはないし、一定の形式さえ具えていれば逆もまた真で、論理が何もない感情表現というのもない。
 たとえばあなたは、「一足す一は二である」という論理命題には何の感情もこもっていないではないか、というかもしれない。
 しかし第Ⅰ章の「言語の本質」のところで述べたように、そもそも言語とは、関係の創造や維持や破壊を目指した自己投企なのであるから、「一足す一は二である」という発語そのもののうちに、それを知らない人を、その知を共有する人々の世界へといざなう意味、話の参加者をして次の論理へ進ませるための共通確認の意味、論理の自己確認を通して共同世界への参入が保証され、それによって自らを安心させる意味、等々が含まれているのである。これはじゅうぶん感情的なことである。感情が沈黙の様態を取って論理を支えているのである
 あるいはあなたは、「悲しくて悲しくてやりきれない」という感情表現にはどんな論理が含まれているのだと問うかもしれない。
 しかしここには、「私」の状態を対象化して、なるべく正確に把握しようという論理志向が立派にはたらいている。それは、「この生物は、モリアオガエルによく似ているが、赤い斑が入っているので新種かもしれない」という陳述と構造的に何ら変わるものではない。「悲しみ」という自己措定において「私」は客観的に照らし出され染め上げられているのだし、「やりきれない」という表現によって、さらにその様態が、未来への展望(のなさ)という行動(不)可能性を持つことが精確につかまえられているのである。だからこの場合には、先の場合とは逆に、論理が沈黙の様態を取って感情を支えているのである
 
(第Ⅱ章・了)


*今回で、「日本語を哲学する」の「第一部 総論」を終わります。この後、「第二部 各論」に進み、そこでいよいよ日本語の具体的なあり方を哲学的に論じていく予定ですが、現在まだ準備不足のため、しばらくこのシリーズは休載いたします。どうぞご容赦ください。


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3 コメント

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Unknown (HIROMITI)
2015-10-10 21:37:30
この論考は、吉本隆明氏の『言語にとって美とはなにか』を意識されているのでしょうか。
吉本氏も、言語の本質は「沈黙」にある、と死ぬまでいっておられましたね。
そこでなのですが、
>そもそも言語とは、関係の創造や維持や破壊を目指した自己投企なのである<
このことが、どうしても腑に落ちません。
人間は、関係を創造しようとしたり維持しようとしたり破壊しようとしたりする存在なのですか。人間とは、そんな作為的な存在なのですか。
 人は、好きになろうとして好きになるのですか。嫌いになろうとして嫌いになるのですか。そんな関係を「目指して」いるわけではないのに、そんな関係の中に置かれてしまうだけでしょう。そんな関係が「発生」した「結果」として思わず音声を発してしまい、その音声=言語によってそんな関係の中に置かれていることに気づかされるのでしょう。
 関係を「目指して」言葉が生まれてきたのではない。関係が発生したことの結果=反応として、思わず音声がこぼれ出た。関係を壊すために「コノヤロー」というのではない、壊れた関係が発生した結果として「コノヤロー」という。「コノヤロー」といってから関係が壊れていることに気づく。根源的には、言葉を発しようとする目的=投企などない。関係が発生したことの結果=反応として人類は、思わずある感慨をともなった音声を「発してしまった」のであり、それが言語の起源でしょう。
「言語の本質」は「言語の起源」の問題でもあるはずです。
「目指した」ということは、そういう「目的」を持って言葉が生まれてきたということですか。
 ということは、人類は言葉が存在しない歴史段階ですでに頭の中に言葉を持っていたということになり、その「沈黙」から言葉が生まれてきたというわけですか。
言語とは、人の頭の中において生成しているものですか。
そうじゃなく、この社会で生成しているのでしょう。だから、社会によって言語が違う。人間の脳なんか、日本人もアメリカ人も同じようなものでしょう。それでも社会によって言葉が違ってしまうのは、もともと言葉が社会で生成しているものであって人間の脳がつくり出したものではなく、人間の脳は、その、社会で生成している言葉に気づいていっただけではないのか。
言葉は、社会がつくり出した。
 あなたは、日本語=やまとことばがどのように生まれ育ってきたかという歴史段階を考えたことがおありですか。それは、中国や朝鮮から伝播してきたものではない。数万年前か数十万年前から日本列島に住み着いてきた人々の社会的な関係から生まれてきたはずです。
言葉を持っていない段階で言葉を輸入することなんか不可能です。すでに言葉を持っているからこそ、輸入することができる。言葉を持っている人間が言葉のない社会に入っていっても、自分も言葉を使わないようになるだけでしょう。通じないのだから使わないようになってゆくだけであり、使わない流儀に従わなければその社会では生きられない。
日本列島の住民が中国や朝鮮の言葉と出会ったときは、すでに日本語=やまとことばが存在していたはずです。
中国人や朝鮮人は日本人よりも先に言葉を持ったという歴史の証拠なんかあるのですか。日本列島には日本列島ならではの社会のかたちがあり、そこから言葉が生まれてきた。だから、こんなにも異質な言葉になっている。単語が伝播してくるなら、文法も伝播してくる。人間なんか集団性の生きものであり、人間の集団があれば、その集団のかたちに沿って言葉が生まれてくる。アーとかウーというような人間的なさまざまなニュアンスを持った発声音としての原始言語なんか人間が二本の足で立ち上がったところからはじまっていたのかもしれないのであり、もしかしたらそれは、どの地域でもほとんど違わなかったのかもしれない。そうして、それぞれの地域の社会のかたちの分岐とともに言葉も分岐してきた。
大野晋がいうように日本語とタミール語が似ているとしたら、それは日本語がタミールから伝播したものだということではなく、どちらの地域も共同体文明に染まる歴史段階が遅れ、そのあいだに原始言語をそのまま洗練発達させる歴史を歩んできた、ということを意味するのかもしれない。日本語は、原始言語の痕跡を今なお残している。そこが問題であり、そこに言語の起源と本質を解くカギが潜んでいる。
まあ人類の言語は、共同体文明とともに原始言語からあなたのいわれるようなかたちに変質してきた、ということです。日本列島でいえば、それが万葉集の前期と後期の表現方法の違いとなって表れており、その端境期に柿本人麻呂という天才が登場してきた。

言語の起源は「音声」として発せられたところにあるのであって、頭の中に言語をイメージする「沈黙」などという段階はない。ある人間的な感慨とともに思わず音声を発してしまったところが言語の起源でしょう。そしてそのあとから、それが言語であることに気づいていった。
 思わず発せられた音声、それが言葉の起源であり、本質ではないでしょうか。
吉本氏は、『初期歌謡論』の中で、「言語は最初に物事の意味の伝達の道具として生まれ、そのあと感慨の表出の機能へと発展していった」というようなことをいっておられたが、これは順序が逆なのではないでないでしょうか。言葉は、思わず発してしまう音声、すなわち「感慨の表出」の機能として生まれてきたのであり、物事の意味の伝達の機能として生まれてきただなんて、社会に言葉が存在する前からすでに人の頭の中に言葉が存在していたといっているのと同じです。そういう「沈黙」こそ言葉の本質だというわけですか。ばかばかしい。ナルシズムの強い人は、すぐにそういう発想をしたがる。
吉本氏は、古事記の、嵐の海に飛び込んでヤマトタケルの軍団の危機を救ったオトタチバナヒメの歌に出てくる「さねさし」という枕詞は「相模」がアイヌ語で「さねさし」といったからではないか、というようなことを語っています。日本語(やまとことば)の原型はアイヌ語にある、という俗説に依拠したくだらない仮説です。その歌がもとになって後世には「さねさし」が「相模」の枕詞になっていっただけで、その歌そのものの「さねさし」は相模の別名として使ったのではない。細かい説明は省くが、それは「私は(海に飛び込むことを)決断しました」という宣言だったのであり、そういう「主題」となる「感慨」を歌の最初に置くのがもともとの「枕詞」の作法だったのです。「さねさし」とは「決断する」という感慨の表出の言葉だった。「私は決断しました、私が生贄になって海の神の怒りを鎮めますから、あなたも堂々と相模を平定してみせてください」と歌っているのであり、それは原始言語がそのまま洗練発達した言葉だったから、共同体文明とともに言葉が変質してしまった今となってはもう、その言葉がもともと持っていた「感慨」のニュアンスがわからなくなってしまっている。

人類が言葉を生み出したのは、思わず声が出てしまうさまざまなニュアンスの感慨「感慨」があったからであって、言葉を生み出そうとする思考や知能を持ったからではない。そんな「沈黙」から言葉が生まれてくることなど、すなわち言葉が存在しない段階で言葉を頭の中に想起するなどということは論理的にありえない。
言葉の起源においては、言葉など存在しないのに言葉を発してしまったのです。
世界や他者との関係において、思わず音声を発してしまう「感慨」のニュアンスが豊かになってくることによって言葉が生まれ育ってきた。言葉の起源は世界や他者に対する「反応」としての「感慨の表出」にあるのであって、「関係の創造や維持や破壊を目指した自己投企」であったのではない。それは体ごとの世界や他者に対する「反応」だったのであって、あなたのいわれるような「目的」を持った「投企」だったのではない。
言葉の起源においては、いかなる「目的」もなかった。まあ対象が世界であれ他者であれ、それは「関係が<発生>したことに対する反応」としての驚きやときめきや怒りやかなしみ等々の人間的なさまざまな「感慨の表出」だったのであって、そのときいかなる関係を「創造」しようとしたのでも「維持」しようとしたのでも「破壊」しようとしたのでもない。言葉は、そういう「目的」を持って生まれてきたのではない。そういう作為的な自意識から生まれてきたのではない。

「投企」などという言葉を使われると、僕なんかはどうしてもサルトルを思い浮かべてしまうのですが、まああなたと僕の思考の違いは、サルトルとカミユの立場の違いのようなものだろうかと考えたりします。
 あなたにしても吉本氏にしても、そういう自意識過剰でナルシスティックで作為的でどうしようもなく短絡的で俗っぽいその考え方に対して僕は、正直言ってものすごくむかつくのです。癇に障るというか、神経を逆なでされているような心地になる。だったら読まなければいい、といわれるかもしれないが、そんなことを指図されるいわれはない。あなたたちだって、広い世間にむかって発信している限り、そういう読者が存在することは勘定の内でしょう。だからこちらだって「くだらないから発表するな」などとはいわない。
 おたがいたった一つの「真実」を問うているのだし、こちらだって「真実」がゆがめられることには耐えられない。「ことばの闘い」なのでしょう?そのスローガンには同意します。だからこそこちらだって、僕があなたたちに負けることはこの世の真実が滅びることだと思っていますよ。
もちろん僕が負ければ、僕の思考が真実に向いていなかったということなのだから、遠慮なく「公開処刑」してくださって結構ですよ。
僕は今、生き延びるよりも「真実」に殉じたい。あなたのいうことが真実なら負けてもいいし、そんなくだらない屁理屈に僕が負けたら真実が滅びる、とも思う。
そりゃあねえ、世の中はどうしてあなたや吉本氏のような自意識(ナルシズム)を正当化するだけの薄っぺらな論理を支持するのだろう、と日々思いますよ。そうやってどうしていたずらに「真実」をゆがめてしまうのだろう。みんな自分を正当化して生き延びたい世の中ですからね。
なにが「関係の創造や維持や破壊を目指した自己投企」か。笑わせてくれるよ。あほじゃないか、と思う。あなたたちには、言葉の起源や本質を問うだけの思考力も想像力もまるでない。あなたにしても吉本氏にしても、そんなただカッコつけているだけの空疎な論理で、言葉の起源や本質に迫れるはずがないじゃないか。それが真実だなんて、まったく厚かましいにもほどがある。吉本氏の『言語にとって美とはなにか』もここでの『日本語を哲学する』も、少なくとも言語の起源や本質に関しての論述に関しては、既成の言説のおこぼれを拾い集めてチョイト言い換え、オリジナルぶっているだけじゃないか。そのようにカッコつけて人をたぶらかすことだけはいっちょまえなんだからいやになる。
僕の『ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか』という古人類学のレポートのブログは、ほとんどというかまったくといっていいほど「引用」をしていないのだけれど、だからといってそういう関係の本をまったく読んでいないわけではないのですよ。どれもこれもくだらないし、勝手に自分の思考が動き出してそれどころじゃないだけです。
やまとことばの起源と本質に関しても、2000枚分くらいブログに書いてきたけど、「引用」なんかほとんどしていない。
まあ裸一貫の立場で考え、裸一貫の立場であなたたちなんかただのアホだといっているだけなのだから、きっちり論駁して公開処刑していただきたいものだと思っています。現実生活の場では公開処刑されても慰めてくれる仲間などひとりもいない身ではあるが、こちらもカッコつけて言わせていただくなら、『異邦人』の主人公のように、死は案の内、です。
 ここは「ことばの闘い」の場なのでしょう?
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うらなりのロマン主義 (maiastra)
2015-12-13 22:13:17
 反知性主義というのは、おそらく近代と共にはじまっている。文化でいえばロマン派あたりから。もっとも芸術家というのは、どの時代も、たいがい反知性的だが。
 ロマンとは距離のことだ。あるものが手に届きそうな、期待できる隔たりのことだ。蒸気機関がその距離を縮め、自然を恐怖の対象から遊び場へと変えた。近代化なくして反知性主義はない。サドの弱点とされる、神(新約)あっての背徳の官能のように。その逆はない。
 官能もしくは感慨とはなんぞや? それは無頭症の肉体的ゾンビの持つ感覚のことか。知を宿す大脳を除去した、脊髄反射をいうのか。そもそも官能とは、すでにフェティッシュなものではないだろうか。プリミティブな感慨から言葉が生まれるなら、いつになったらネコはしゃべりはじめるのか。複雑な関係のネットワークを作った後に話すとは? 宇宙が生まれるのだって、進化だって語りえぬ飛躍を伴う。我々は事後に推理し、語るか黙るしかないのだ。情動から抽象を産む飛躍、それ(it)こそ、事後の共感では語れない神秘だ。そして事前では、語る言葉を持っていない。
 いったいリルケはどうやって、動物を追体験したのだろう。水の中の水として全体を生きる(らしい)彼らのことを。さらにそれを言葉に綴るという、ねじくれた矛盾。
 どうやって、ルソーは彼にとって理想的な自然人である、原始人同士の没コミュニュケーションを知ったのであろう。他者との間をまばらに空け、各自が一定の距離を保ち、都合に合わせて、むすんでひらく。他人と比較することを知らず、健全な自己愛を育むその習性を。独りよがりな空想なしに、いったいどうやって。
 人間の心は言葉(イデア)に汚染されて、はじめて心になる。犬でさえ、仏性(世界を無分節で捉え執着しない心)はないらしい。いわんや人間に於いておやだ。裂け目と同時に時間も生じ、光(ロゴス)と共に世界が始まる。心とは言葉である。それが共感共有された、西側世界の実感なんだろう。
 心と言葉、二つは浸透し合っていて分離不可能なのだ。コトバとはなにか。それは生成の流れに逆らい且つ加担して、分割しえぬ現象を固定化し、自を原理として他を対象として、存在の非対称性を保持する力。存在(個別)への意志の現われではないのか。
 唯識は言葉(イメージ)のもつ、その執拗性を知っていた。人は言葉から逃れられない。それを毀損するのは、人間の存在の根幹に係るからだ。もし逃げれられたとしても動物にはなれず、動物と人との間に落ちるだけだ。凡人は種子(意味の可能体)の働きを止め阿頼耶識を払底し、悟ることはできない。その場を健康に保つ、努力ならざる努力を維持するのが、いっぱいいっぱいだろう。自分には、とうていそれも叶わぬ相談だが。
 時に、中沢新一は官能ならぬ、無意識という言葉を連呼していた時代があったそうな。今もしているかもしれない。彼はオウムに期待したとか擁護したとか何とか。よく知らないし、知りたくもないが。
 人は分からぬことを前にして、二種類の方法をとると仮定する。一つは物体と相談しながら知的に延長(空想)し、暫定的に答えを出す。もう一つは、語りえぬことを前に口をつぐむ。まだ一つあった、それは無邪気に空想、願望する。想像の中でも共感に根ざすものは、はなはだ迷惑だ。安易な共感というミラーイメージは、つながり志向のアリバイがあるせいで、その排他性に気づかない。
 はたして官能が純粋で、言葉に汚染されていないと誰がいえよう。まず私は空想する、官能はすでに、言葉に意味に汚染されているはずだと。
 音楽は汚染されている。有音と無音、直前と直後とそれらを含む全体の差異の連関として、立派に構成されているように。意味とは、差異と差異の関係のことらしい。わかったような、わからないような。いったい誰が、構成なき鳥のさえずりを、一時間も聞いていられよう。
 絵は汚染されている。ラスコーのそれが象形文字と変わらない記号的表現のように。遠近法は目の働きによる現象世界を再現しようと努める。それはロマネスクの大風呂敷の観念ではなく、微細な観念(技法)を駆使し、構造的に作られたものだ。写真(アナログ)の方こそ感覚に訴える。それは光で直に触れた対象の抜け殻だから。子供の頃に飼っていた犬の写真は切ないものだ。古代人にとって鏡(リアリズム)は魔術だった。その希少さ(距離、へだたり)がロマンだった。今では百金ショップで売られているが、それもまた技術(リアリズム)の結果だ。
 詩もまた汚染されている。アンドレ・ブルトンが自動筆記と称して、こっそり推敲していたように。詩人というのは本来、言葉を信頼していなければ成り立たない。日常的な言葉使いで誘い出し、その機能を一旦麻痺させ、彼の現実(心象風景)の見え方へ、そのとば口まで導かねばならない。後はそれぞれ異なった出口へ向かう。なによりチンプンカンプンでは、食いっぱぐれてしまう。食える詩人なんていたっけか。
 人がより遊べるのは、意味に汚染されている度合いが、動物より濃いからではないか。すえおきゲームとオンラインゲーム、どちらがより面白いのだろう。お遊びにならぬトラブルの多さは、無心や本気度の強さだろうか。
 はたして、狂人のコドクを誰が知ろう。ハイデッガーは精神分裂病、統合失調症の患者は頽落していると語った。木村敏はその時、異を唱えたかったそうだが、
 ダラダラ言ってきたが、無意識であれ、官能であれ、感慨であれ、そして沈黙であれ、これだけは断言してもいい。我々は後から始原に逆行できないのだ。いくらその気になっても子供には返れず、子供じみたふるまいをして恥をかくだけだ。
 彼方の星々を知るためには、現実認識可能感覚(コギト)を信頼し、認識(データ)を月まで積み重ね、その知識をもとに延長、推理するしかない。それがつまらない、無味乾燥だといっても、それに耐える以外何があるのか。
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いや〜、分を弁えたほうがよいのでは (青柳)
2018-09-08 09:52:53
たくさんいいたいことありますが、ひとことだけ
上でコメントなさっている方、あまりに長すぎます
今後は、リンクだけで良いかと
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