小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

いま、日本の公教育で何が問題か

2018年11月04日 00時40分40秒 | 社会評論


いま日本の公教育で、真っ先に為すべきことは二つあります。
一つは、教師の過重負担をなくすこと、もう一つは、全国の小中学校にエアコンを設置することです。

日本の小、中学校の先生の労働時間は世界でも突出して長く、小学校教諭の33%、中学校教諭の57%が残業時間80時間を超えています
これは「過労死ライン」を上回っています
先生の多忙というと、平教員の忙しさをイメージしがちですが(それももちろんあるのですが)、なかでも多忙を極めるのは、副校長、教頭で、調査報告書の作成、休んだ教諭のフォロー、会計業務などあまりの激務に疲れ果て、教諭への降格を願い出るケースが跡を絶ちません。

小中学校教師の忙しさは今に始まったことではなく、昔から部活の顧問として土日・夏休み返上で駆り出されるとか、テストの採点は家に持ち帰って深夜までとか、年間いくつもある学校行事の指導とか、たいして意味のない研修会への参加強制とか、問題生徒の管理監督やいじめ防止への配慮などなど、とにかく息つく暇もないようです。
ところが、世間の視線は意外とこうした実態に対して冷ややかで無関心です。それはなぜでしょうか。

第一に、教師は公務員で、給与もそこそこ高く安定しているという点が挙げられます。
世の中にはもっと貧しい人やきつい仕事に耐えている人がいる、贅沢な悩みだといったルサンチマンに根差すまなざしを受けやすいのですね。
ことにデフレ下の今日では、こうした声が高まっていると思われます。
しかしある職業が所得面や雇用面で安定しているという事実と、その職に固有のきつさがあるという問題とは別です。
教師のきつさとは、授業をこなすという本業のほかに、生活指導や文書作成などの一般事務や部活動顧問など、本来の職務ではない仕事で埋め尽くされることからくるストレスなのです。
いわば多種の肉体労働と神経労働がどっと重なってきて、それを毎日捌かなくてはならないところに、このストレスの原因があります。

第二に、教師という職業に対する世間の期待過剰があります。
どの親にとってもかけがえのない子どもの教育と生活をあずかるのですから、教師が大切な仕事であることは確かです。
しかし教師も能力や包容力に限界のあるただの人間です。
何もかも教師に背負わせて、ちょっと学校で問題が起きると、担任の責任、校長の責任と大げさに騒ぎ立てる風潮を改めなくてはなりません。

大事なことは、今の学校に何ができて何ができないか、一人の教師の職分と管轄範囲はどれくらいかということをはっきりさせて、その認識をみんなができるだけ共有することです。
ちなみに、教員志望者は年々減少の一途をたどっています。
また教員志望者の中でさえ、こんなに忙しい日本の教員にはなりたくないと思う人が6割を超えているというデータもあります。

小中学校の教師の残業時間が他の職業に比べて一番多いというのも、統計上明らかになっています。
しかも、1971年に決められた給特法という悪法がいまだに改正されていません。
これは、教師の場合は地方方公務員の基本給に4%を上積みするというものです。
月給25万円の教師なら、プラス1万円ということですね。
過労死ラインを超えるほど残業しても、残業手当はまったくつかず、1万円もらえるだけです。
もう半世紀近くもこの状態で、事態は悪化するばかりなのです。

これでは教員志望者が激減するのも当然ですね。
すると教員の質も低下します。
これも当然です。
この事実を差し置いて、日本の教育がどうのこうのと高みに立った議論するのは、意味がありません。

ではどうして日本の小中学校教師はこんなに忙しいのでしょうか。
最大の理由は、国が教育にお金をかけていないからです。
日本の公教育支出は、GDPの3.5%で、OECD諸国の中で、6年連続で最低なのです。
日本人の多くは、教育が大事だ、教育が大事だと口癖のように言います。
でも、もし本当に教育が大事だと考えているなら、まずはこの恐ろしく貧困な教育投資の実態を何とかしなければなりません。
そして投資をどこに差し向けるか。
もちろん、まずは人材投資です。
教師の数を増やすだけではなく、前述のような教師本来の仕事ではない部分を担える人材を雇用して、先生が余裕をもって本業に専念できるような環境を整備すること。

物理的な意味での環境整備も非常に大切です。
前にも書きましたが、公立小中学校のエアコン設置率はようやく五割弱です。
それも地域間格差が激しく、首都東京は100%ですが、暑いはずの九州では二割に満たない自治体もたくさんあります。
今年の猛暑は夏休み前からやってきました。
来年もその次も、近年の気候変動を考えれば、ずっと続くでしょう。
大人たちが冷暖房の効いたオフィスで仕事をしているのに、子どもたちに毎日こんなかわいそうな目に遭わせてよいのでしょうか。

文科省は二流官庁ですから、予算が十分に取れない苦しさもあるでしょう。
緊縮財政にひたすら固執している財務官僚は、日本の将来を担う世代のことなどに関心がなく、文科省の管轄事項を、それが火急の課題ではないという理由で、無意識に蔑んでいるのだと思います。
いま公立の小中学校教育に投資するとしたらどこにお金を使うべきか。
小3から英語教育を、など、百害あって一利なしの施策にではありません。
基礎学力を徹底させるために、ゆとりある人的物的環境を整えることに集中させるべきなのです。


*参考:由紀草一の一読三陳
https://blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011


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4 コメント

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肱雲 (紳士ハム太郎)
2019-05-16 02:28:34
いじめや学校があれているのはおそらく異民族が多いからです。
日本名かどうかを問わず。
日本に何人異民族がいるか調べてみてください。
返信する
Unknown (紳士ハム太郎)
2019-05-16 02:24:34
そもそも、日本の公教育は憲法違反状態です。。憲法を読んでみてください。
返信する
【学校教育に於ける齟齬に危機感】 (肱雲)
2018-11-20 16:15:29
ブラジルのトランプの異名を持つ極右ボルソナロ氏が、ブラジル大統領選に勝利した。世界中、何処も彼処も過激な言辞で大衆をリードする、排外的アジテーターが待望されている。第一次大戦後のアノミー状態だったドイツで、強力なリーダーシップを発揮し得る時代ヒーローとして、ヒトラーが登場した。人はどうしようもない無力感に苛まれた時、そうした状況を克服してくれる全能者的存在を要望する。また、追い込まれた状況が、その存在の善し悪しを見極める判断力や余裕すら奪ってしまうのも、過去の歴史が教示している。だが如何せん、この様な時代風潮が蔓延しているのが現在であり、学校教育現場も例外ではないだろう。森友問題で渦中の人となった籠池氏も、教育勅語を幼稚園児に奉読させ、軍隊調の学園運営に経営打開策を図ろうとしたのも、頷けなくはない。さて、この様な中で、嘗て三島由紀夫が率いた「楯の会」の如く、確信犯的教育組織が学校の名を借りて形成されて行ったとしたら、これ又、厄介な事になるだろう。只、「女王の教室」の主人公の様に、現在の学校組織に抗い乍ら、分断化された単独者として過激主義を演じるしかないのが、今の学校現場の哀しい現実なのであるのだが。
教育勅語や軍人勅諭を大切だと公言して憚らぬ、文科相や防衛相の登場に危機感を抱く。安倍首相の予てからの復古主義的教育観が、第四次改造内閣の閣僚メンバーの意識にも色濃く反映された証左だ。自己責任論やボランティアのオンパレードの中、個人より全体を優先重視する社会的風潮も顕著で、文科相が就任当初の発言に於いて、教育勅語の良いところは今後の道徳教育に生かすべきだと述べ、物議を醸した。さて、幼少期から個性重視の私的志向に馴染んで来た子供達は、近年、強まる復古調の教育観とは、真逆の相容れぬ存在でもある。そうした中、宮城県の工業高校1年の男子生徒(15)が、担任教諭からの厳しい指導に耐え切れず、今年8月、自宅で自殺した。父親は、「入学当初から軍隊のようなクラスだと感じていた。」と言う。このケースも、生徒の生育環境文化と昨今の学校教育に求められている公的なるものへの恭順涵養が、齟齬を来している現れとも取れよう。安田純平氏の人質救出解放後、氏への自己責任論を背景としたバッシングが喧しい。政府も安田氏の執った行為などには、都合良く勝手に為した私的問題として解釈し、無碍に扱おうとしている。こうした政府の御都合主義が、ブレ捲る学校教育の混乱を惹起する背景にある。
返信する
教育現場の「痛み」が分からぬ官僚の巣窟「文科省」に物申す! (肱雲)
2018-11-18 15:19:24
2003年の経済協力開発機構(OECD)の国際学力調査で、日本は「読解力」が前回の8位から14位、「数学的応用力」は1位から6位に下がるなど、低迷する日本教育の実態が浮き彫りとなった。子どもの学力不足がクローズアップされ、文科省は「ゆとり教育」の見直しを余儀なくされた。昭和50年代半ばにゆとり教育が導入されて以来、授業時間と授業内容が一貫して削減されてきた。ゆとり教育は、子供の中にある怠惰を黙認・許容し、知識偏重の偏差値教育を揶揄する「勉強否定論」にまで至り、学習意欲のない生徒を甘やかせる結果となった。ゆとり教育も総合学習も、日教組が昭和40年代後半から唱えてきたもので、文部省(現文科省)がその後30年間にわたって日教組の主張を結果的には実現してきたわけである。ゆとり教育で学力低下した世代が、今、子の親となり、家庭における教育力低下に拍車を掛けている。校内暴力やいじめ、不登校などが激増した時期は、ゆとり教育を開始した時期に概ね符合している。小学校低学年にまで及ぶ学級崩壊は、幼児期の育てられ方に関係し、学力不足で大人に成り切れていない親たちの問題でもある。核家族化の進行のなかで、老人を疎外する社会が、結果的にはしっぺ返しを受けていると言ってもいい。生活の知恵や生きる術に長けた老人を家族から切り離し、臭いものには蓋をせよとばかりに隔離していくことが、未熟な夫婦による家庭における教育力の低下を促し、躾などで問題を有する近年の青少年を輩出する社会的な土壌となっているのではないか。また、そうしたバカ親に限って、昨今のモンスター=ペアレントになり得るのである。『国家の品格』の著者で数学者の藤原正彦氏は、「日本の子どもはバカだ」と指摘する。なぜこうなったのか。藤原氏は、個性の尊重ばかりを唱え、子どもに苦しい思いをさせてはいけないという、子ども中心主義が信奉されてきたことを第一の理由に挙げる。インターネットの普及などの文明化と逆行する人々が増えている。大国の読み書き算術能力が退化すると何が起こるか。一部のエリートが、単純な言葉で大衆の人気取りに専念し、権力に居座る。ワンフレーズ首相と言われたパフォーマーが、劇場国家の中で一世を風靡したのはどの国のことであったろう。
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